goo blog サービス終了のお知らせ 

多摩丘陵林住記

徒然なるままに山歩き、散歩、読書、仏教などを書いています

大念住経(大念処経)12

2010年11月03日 16時14分23秒 | 大念住経

大念住経の続き(第12回)


目次の赤の部分が今日の範囲です。

 
大念住経、又は大念処経(マハーサティーパッターナ・スッタ)
                    

                       目次
                                               文番   
略説       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1~3(第1回) 
一、身に関する瞑想       
 1 出息、入息の部 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4~6(第1回)
 2 行住坐臥の部・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 7   (第2回)
  3 正しい意識の部・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   8
   (第2回)
 
 4 不浄観察の部 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・    9   (第3回)
  5 要素の観察の部 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   10  (第3回) 
 6 九段階の死体の部  ・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・11~19 (第4回) 
二、受(感覚)に関する瞑想・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・      20~21 (第5回)  
三、心に関する瞑想   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・      22~23 (第5回)  
四、法に関する瞑想     
   1 五蓋(五つの障害)の部  (貪欲、瞋恚、こん眠、掉悔、疑)・24~29   (第6回)  
  2 五蘊(五つのの固執される集まり)の部 (色、受、想、行、識)     30   (第6回) 
  3 六つの内・外処の部 (眼耳鼻舌身意、色声香味触法)・・・・31~34   (第7回) 
  4 悟りの七条件の部(念、択法、精進、喜、軽安、定、捨) ・・・35~41   (第7回)
  5 真理の部   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   42   (第8回) 
    a. 苦の真理の部   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   43~59   (第8回)  
        b. 苦の因の真理の部 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  60~72   (第9回)
        c. 苦の滅の真理の部   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・    73~85 (第10回)  
        d. 道の真理の部    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・     86~95 (第11回)  
効果の言葉  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…・・・・・・・・・・・・・・・      96~100 (第12回) 
結びの言葉
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…・・・・・・・・・・・・・・・・         101 (第12回)

効果の言葉



96.実に、比丘たちよ、誰でもこの四つの念住を、このように七年間修行すれば、二つの結果のうち一つが期待されるであろう。
それは、この世における阿羅漢果、または、まだ執着の痕跡があるならば、不還果である。

97.七年は置くとして、比丘たちよ、誰でもこの四つの念住を、このように六年、五年、四年、三年、二年、一年と修行すれば、

98.一年は置くとして、比丘たちよ、誰でもこの四つの念住を、このように七ケ月修行すれば、二つの結果のうち一つが期待されるであろう。
それは、この世における阿羅漢果、または、まだ執着の痕跡があるならば、不還果である。

99.七ケ月は置くとして、比丘たちよ、誰でもこの四つの念住を、このように六ケ月、五ケ月、四ケ月、三ケ月、二ケ月、一ケ月、半月と修行すれば、
 
100.半月は置くとして、比丘たちよ、誰でもこの四つの念住を、このように七日間修行すれば、二つの結果のうち一つが期待されるであろう。
それは、この世における阿羅漢果、または、まだ執着の痕跡があるならば、不還果である。

結びの言葉

101.以上が「比丘たちよ、ここに一つの道がある。それは、人々を清め、悲しみと悲泣を乗り越え、肉体と精神の痛みを滅し、聖なる道を得、涅槃を観るための唯一の道である。それは「四つの念住」である。」と私が最初に言った意味である。
 
ブッダがこれを説かれると、比丘たちはブッダの言葉に大いに歓喜した。

大念住経終わり


(訳者注):

以上が私流に大念住経を翻訳した内容です。

以下の文献を参考にしました。
 ・南方仏教基本聖典  ウ・ウェーブッラ著 
 ・Mahasatipatthana Sutta  Translated by U Jotika & U Dhamminda
 ・Maha-satipatthana Sutta: The Great Frames of Reference translated from the Pali by Thanissaro Bhikku

最後に私が好きで、毎朝読誦している遺教経の中のブッダの言葉から

「汝等比丘、諸の功徳に於いて、常に当に一心に諸の放逸を捨つること、怨賊を離るるが如くすべし。

大悲世尊所説の利益(りやく)は皆すで究竟す。汝等ただ当に勤めて之を行ずべし。
若しは山間、若しは空沢の中に在っても、若しは樹下、閑処、静室に在っても、所受の法を念じて忘失せしむること勿れ。
常に当に自ら勉めて精進して之を修すべし。為すこと無くして、空しくして死せば、後に悔いあること致さん。
我は良医の病を知って薬を説くが如し。服すと服せざるとは医の咎(とが)に非ず。
又、善く導くものの、人を善導に導くが如し。之を聞いて行かざるは、導くものの過(とが)に非ず。」
                                                 三拝九拝

大念住経(大念処経)1http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/5dfd915e6ed70b389d597c53a110d757

大念住経(大念処経)2http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/8cc63f1f741c2b1844ae282645ec9bbc

大念住経(大念処経)3http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/135d45345210d9384075a6349cf75349

大念住経(大念処経)4http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/02304c1863d0c9276b6d8e6cd4f6f06b

大念住経(大念処経)5http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/139239bcd9a0fef59914a6e407c83529

大念住経(大念処経)6http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/2c1b80ffd0303ecdee4b595aca7967ab

大念住経(大念処経)7http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/547b121f11da3f4248d0307c2344b881

大念住経(大念処経)8http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/b5a816b864502f42a6e227a294e81cd8

大念住経(大念処経)9http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/d72c038a4e90090e6fff790553bba295

大念住経(大念処経)10http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/0aef2fbbc0a22a4446e93bca16d47ed1

大念住経(大念処経)11http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/f473c78a9b87f2d36e9a135301332cd1

大念住経(大念処経)12http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/abd4feeb4861a783cb20f1458805aa59

 


大念住経(大念処経)11

2010年11月03日 09時21分23秒 | 大念住経

大念住経の続き(第11回)



目次の赤の部分が今日の範囲です。

 
大念住経、又は大念処経(マハーサティーパッターナ・スッタ)
                    

                       目次
                                               文番   
略説       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1~3(第1回) 
一、身に関する瞑想       
 1 出息、入息の部 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4~6(第1回)
 2 行住坐臥の部・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 7   (第2回)
  3 正しい意識の部・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   8
   (第2回)
 
 4 不浄観察の部 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・    9   (第3回)
  5 要素の観察の部 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   10  (第3回) 
 6 九段階の死体の部  ・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・11~19 (第4回) 
二、受(感覚)に関する瞑想・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・      20~21 (第5回)  
三、心に関する瞑想   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・      22~23 (第5回)  
四、法に関する瞑想     
   1 五蓋(五つの障害)の部  (貪欲、瞋恚、こん眠、掉悔、疑)・24~29   (第6回)  
  2 五蘊(五つのの固執される集まり)の部 (色、受、想、行、識)     30   (第6回) 
  3 六つの内・外処の部 (眼耳鼻舌身意、色声香味触法)・・・・31~34   (第7回) 
  4 悟りの七条件の部(念、択法、精進、喜、軽安、定、捨) ・・・35~41   (第7回)
  5 真理の部   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   42   (第8回) 
    a. 苦の真理の部   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   43~59   (第8回)  
        b. 苦の因の真理の部 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  60~72   (第9回)
        c. 苦の滅の真理の部   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・    73~85 (第10回)  
        d. 道の真理の部    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・     86~95 (第11回)  
効果の言葉  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…・・・・・・・・・・・・・・・      96~100 (第12回) 
結びの言葉  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…・・・・・・・・・・・・・・・・         101 (第12回)



5-d.道の真理の説明

86.比丘たちよ、苦の滅に到る道の聖なる真理とは何か?
それは、聖なる八つの道である。即ち、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。

87.比丘たちよ、正見とは何か? 
比丘たちよ、実に苦に対する智慧(理解)、苦の原因に対する智慧、苦の滅に対する智慧、苦の滅に到る道に対する智慧、
比丘たちよ、これが正見と言われる。
 
88.比丘たちよ、正思惟とは何か? 
貪欲のない思惟、怒りのない思惟、危害のない思惟、比丘たちよ、これが正思惟と言われる。

89.比丘たちよ、正語とは何か? 
うそ、告げ口、悪口、無駄口から離れること、比丘たちよ、これが正語と言われる。

90.比丘たちよ、正業とは何か?
生き物を殺さないこと、与えられないものを取らないこと、邪淫から離れること、比丘たちよ、これが正業と言われる。

91.比丘たちよ、正命とは何か? 
ここに比丘たちよ、聖なる弟子が邪悪な生計を捨てて、正しい生計で生きていくこと、比丘たちよ、これが正命と言われる。
 
92.比丘たちよ、正精進とは何か?
比丘たちよ、比丘は未だ生じていない邪悪で不善な心の状態が生じないように、意欲を起こし、努力を継続し、心をむちうちはげみ、決意する。
すでに生じた邪悪で不善な心の状態を捨断するように、意欲を起こし、努力を継続し、心をむちうちはげみ、決意する。
未だ生じてない心の健全な状態が生じるように、意欲を起こし、努力を継続し、心をむちうちはげみ、決意する。
すでに生じた心の健全な状態を維持し、失わず、増大させ、さらに拡大させ、修行が成就するように、意欲を起こし、努力を継続し、心をむちうちはげみ、決意する。
比丘たちよ、これが正精進と言われる。

 

93.比丘たちよ、正念とは何か? 
比丘たちよ、比丘は 努力して、正しく知り、気づきをもって、そして世間の貪欲と憂いから離れて、「身」をただ(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)身であると絶え間なく知覚して住む。
努力して、正しく知り、気づきをもって、そして世間の貪欲と憂いから離れて、「受(感覚)」をただ受であると絶え間なく知覚して住む。
努力して、正しく知り、気づきをもって、そして世間の貪欲と憂いから離れて、「心」をただ心であると絶え間なく知覚して住む。
努力して、正しく知り、気づきをもって、そして世間の貪欲と憂いから離れて、「法(ダンマ)」をただ法であると絶え間なく知覚して住む。
比丘たちよ、これが正念と言われる。
 
94.比丘たちよ、正定とは何か? 
比丘たちよ、比丘は、五欲を離れ、心の不善の状態から離れ、尋(思考)と伺(熟考)があり、五蓋(五つの障害;貪欲、瞋恚、怠惰と無気力(こん眠)、掉悔、疑)から離れて喜楽のある初禅に達して住する。

尋(思考)と伺(熟考)が無くなり、内面の静けさと心の集中があり、集中から来る喜楽がある第二禅に達して住する。

喜を離れ、気づきと正知があり、心身の楽を経験し、捨(平静さ)のある第三禅に達して住する。それは、聖者たちが彼を「念(気づき)があり、捨(平静さ)があって、楽に住する人」と賞賛するものである。
 
楽と苦を離れ、喜と憂いとがすでに滅し、純粋な念(気づき)と捨(平静さ)に満ちた第四禅に達して住する。
比丘たちよ、これが正定と言われる。

比丘たちよ、これが苦の滅に到る道の、聖なる真理と言われる。
 
95. このように、「法」を自己における、(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)「法」であると絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「法」を他己における法であると絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「法」を自他における法であると絶え間なく知覚して住む。

あるいは、「法」の発生とその原因を絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「法」の消滅とその原因を絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「法」の発生と消滅の両方とそれらの原因を絶え間なく知覚して住む。

要するに、比丘は、自分でもない、自我でもない、魂でもない「法」のみが存在するということに確実に気づいている。この気づいている事こそが正にヴィパッサナーを得るためであり、その進歩を得るためである。

愛着と誤った考えから離れ、世間の何ものにも執着しない。このように、比丘たちよ、比丘は「法」を(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)法であると絶え間なく知覚して住むのである。

真理の部終わり
 
法に関する瞑想終わり



次回に続きます。

大念住経(大念処経)1http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/5dfd915e6ed70b389d597c53a110d757

大念住経(大念処経)2http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/8cc63f1f741c2b1844ae282645ec9bbc

大念住経(大念処経)3http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/135d45345210d9384075a6349cf75349

大念住経(大念処経)4http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/02304c1863d0c9276b6d8e6cd4f6f06b

大念住経(大念処経)5http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/139239bcd9a0fef59914a6e407c83529

大念住経(大念処経)6http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/2c1b80ffd0303ecdee4b595aca7967ab

大念住経(大念処経)7http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/547b121f11da3f4248d0307c2344b881

大念住経(大念処経)8http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/b5a816b864502f42a6e227a294e81cd8

大念住経(大念処経)9http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/d72c038a4e90090e6fff790553bba295

大念住経(大念処経)10http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/0aef2fbbc0a22a4446e93bca16d47ed1

大念住経(大念処経)11http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/f473c78a9b87f2d36e9a135301332cd1

大念住経(大念処経)12http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/abd4feeb4861a783cb20f1458805aa59

 

 


大念住経(大念処経)10

2010年11月02日 15時47分07秒 | 大念住経

大念住経の続き(第10回)



目次の赤の部分が今日の範囲です。

 
大念住経、又は大念処経(マハーサティーパッターナ・スッタ)
                    

                       目次
                                               文番   
略説       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1~3      
一、身に関する瞑想       
 1 出息、入息の部 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4~6 
 2 行住坐臥の部・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 7
  3 正しい意識の部・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  8
 
     
 4 不浄観察の部 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   9 
  5 要素の観察の部 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 10 
 6 九段階の死体の部  ・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・11~19  
二、受(感覚)に関する瞑想・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・ 20~21  
三、心に関する瞑想   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 22~23  
四、法に関する瞑想     
   1 五蓋(五つの障害)の部  (貪欲、瞋恚、こん眠、掉悔、疑)・・・24~29  
  2 五蘊(五つのの固執される集まり)の部 (色、受、想、行、識)        30  
  3 六つの内・外処の部 (眼耳鼻舌身意、色声香味触法)・・・・・  31~34  
  4 悟りの七条件の部(念、択法、精進、喜、軽安、定、捨) ・・・・  35~41  
  5 真理の部   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・      42  
    a. 苦の真理の部   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 43~59  
        b. 苦の因の真理の部 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 60~72 
        c. 苦の滅の真理の部   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  73~85  
        d. 道の真理の部    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 86~95  
効果の言葉  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…・・・・・・・・・・・・・・・・・・96~100  
結びの言葉  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…・・・・・・・・・・・・・・・・・・・    101



5-c.苦の滅の真理の部
73.比丘たちよ、苦の滅の聖なる真理とは何か?
それは、この渇愛の完全な消滅と停止、そして渇愛からの解放と無執着である。
 
74.では比丘たちよ、その渇愛が停止する場合、どこで停止し、消滅する場合、どこで消滅するのか?
世の中の愛らしいもの、喜ばしいものがある。渇愛が停止する場合ここで停止し、消滅する場合ここで消滅するのである。
 
75また、世の中の愛らしいもの、喜ばしいものとは何か?
眼は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである。
渇愛が停止する場合ここで停止し、消滅する場合ここで消滅するのである。
 
76.耳は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである。鼻は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、舌は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、身は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、意は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである。
渇愛が停止する場合ここで停止し、消滅する場合ここで消滅するのである。
 
77.色は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、声は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、香は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、味は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、触は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、法は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである。
渇愛が停止する場合ここで停止し、消滅する場合ここで消滅するのである。


 
78.眼による識(意識)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、耳による識(意識)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、鼻による識(意識)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、舌による識(意識)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、身による識(意識)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、意による識(意識)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである。
渇愛が停止する場合ここで停止し、消滅する場合ここで消滅するのである。
 
79.眼の接触は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、耳の接触は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、鼻の接触は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、舌の接触は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、身の接触は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、意の接触は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである。
渇愛が停止する場合ここで停止し、消滅する場合ここで消滅するのである。
 
80.眼の接触より生じる受(感覚)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、耳の接触より生じる受(感覚)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、鼻の接触より生じる受(感覚)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、舌の接触より生じる受(感覚)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、身の接触より生じる受(感覚)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、意の感触より生じる受(感覚)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである。
渇愛が停止する場合ここで停止し、消滅する場合ここで消滅するのである。
 
81.色への想(認識)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、声への想(認識)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、香への想(認識)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、味への想(認識)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、触への想(認識)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、法への想(認識)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである。
渇愛が停止する場合ここで停止し、消滅する場合ここで消滅するのである。


 
82.色への思(意欲)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、声への思(意欲)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、香への思(意欲)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、味への思は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、触への思(意欲)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、法への思(意欲)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである。
渇愛が停止する場合ここで停止し、消滅する場合ここで消滅するのである。

83.色への渇愛は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、声への渇愛は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、香への渇愛は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、味への渇愛は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、触への渇愛は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、法への渇愛は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである。
渇愛が停止する場合ここで停止し、消滅する場合ここで消滅するのである。
 
84.色への尋(思考)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、声への尋(思考)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、香への尋(思考)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、味への尋(思考)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、
触への尋(思考)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、法への尋(思考)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである。
渇愛が停止する場合ここで停止し、消滅する場合ここで消滅するのである。
 
85.色への伺(熟慮)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、声への伺(熟慮)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、香への伺(熟慮)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、味への伺(熟慮)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、触への伺(熟慮)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、法への伺(熟慮)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである。
渇愛が停止する場合ここで停止し、消滅する場合ここで消滅するのである。
 
比丘たちよ、これが苦の滅の聖なる真理と言われる。

訳者注:
 (漢語)想=(日本語)認識=(英語)perception=(pali語)sanna
 (漢語)識=(日本語)意識=(英語)consciousness=(pali語)vinnana
 として訳しました。



次回に続きます。

大念住経(大念処経)1http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/5dfd915e6ed70b389d597c53a110d757

大念住経(大念処経)2http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/8cc63f1f741c2b1844ae282645ec9bbc

大念住経(大念処経)3http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/135d45345210d9384075a6349cf75349

大念住経(大念処経)4http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/02304c1863d0c9276b6d8e6cd4f6f06b

大念住経(大念処経)5http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/139239bcd9a0fef59914a6e407c83529

大念住経(大念処経)6http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/2c1b80ffd0303ecdee4b595aca7967ab

大念住経(大念処経)7http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/547b121f11da3f4248d0307c2344b881

大念住経(大念処経)8http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/b5a816b864502f42a6e227a294e81cd8

大念住経(大念処経)9http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/d72c038a4e90090e6fff790553bba295

大念住経(大念処経)10http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/0aef2fbbc0a22a4446e93bca16d47ed1

大念住経(大念処経)11http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/f473c78a9b87f2d36e9a135301332cd1

大念住経(大念処経)12http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/abd4feeb4861a783cb20f1458805aa59

 






大念住経(大念処経)9

2010年11月01日 09時39分31秒 | 大念住経
大念住経の続きです(第9回)


目次の赤の部分が今日の範囲です。

 
大念住経、又は大念処経(マハーサティーパッターナ・スッタ)
                 

                       目次
                                               文番   
略説       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1~3      
一、身に関する瞑想       
 1 出息、入息の部 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4~6 
 2 行住坐臥の部・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 7
  3 正しい意識の部・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  8
 
     
 4 不浄観察の部 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   9 
  5 要素の観察の部 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 10 
 6 九段階の死体の部  ・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・11~19  
二、受(感覚)に関する瞑想・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・ 20~21  
三、心に関する瞑想   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 22~23  
四、法に関する瞑想     
   1 五蓋(五つの障害)の部  (貪欲、瞋恚、こん眠、掉悔、疑)・・・24~29  
  2 五蘊(五つのの固執される集まり)の部 (色、受、想、行、識)        30  
  3 六つの内・外処の部 (眼耳鼻舌身意、色声香味触法)・・・・・  31~34  
  4 悟りの七条件の部(念、択法、精進、喜、軽安、定、捨) ・・・・  35~41  
  5 真理の部   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・      42  
    a. 苦の真理の部   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 43~59  
        b. 苦の因の真理の部 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 60~72 
        c. 苦の滅の真理の部   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  73~85  
        d. 道の真理の部    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 86~95  
効果の言葉  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…・・・・・・・・・・・・・・・・・・96~100  
結びの言葉  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…・・・・・・・・・・・・・・・・・・・    101



5-b.苦の因の真理の部

60.比丘たちよ ,苦の因の聖なる真理とは何か? 
それは再生を与え、喜びと執着をともない、いたるところで歓喜する渇愛である。即ち、感覚の喜びへの渇愛、永遠の存在への渇愛、虚無・無因果への渇愛である。

61.では比丘たちよ、その渇愛が生じる場合、どこに生じるのか、留まる場合、どこに留まるのか?
世の中の愛らしいもの、喜ばしいものがある、渇愛が生じる場合、ここに生じる、留まる場合、ここに留まるのである。
 
62.世の中の愛らしいもの、喜ばしいものとは何か?
眼は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである。
渇愛が生じる場合、ここに生じる、留まる場合、ここに留まるのである。
 
63.耳は世の中の愛らしいもの、喜ばしいものである。鼻は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである。舌は世の中の愛らしいもの、喜ばしいものである。身は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである。意は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである。
渇愛が生じる場合、ここに生じる、留まる場合ここに留まるのである。


 
64.色は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、声は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、香は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、味は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、触は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、法は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである。
渇愛が生じる場合、ここに生じる、留まる場合、ここに留まるのである。
 
65.眼による識(意識)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、耳による識(意識)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、鼻による識(意識)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、舌による識(意識)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、身による識(意識)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、意による識(意識)は世の中の愛らしいもの、喜ばしいものである。
渇愛が生じる場合、ここに生じる、留まる場合、ここに留まるのである。
 
66.眼の接触は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、耳の接触は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、鼻の接触は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、舌の接触は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、身の接触は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、意の接触は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである。
渇愛が生じる場合、ここに生じる、留まる場合、ここに留まるのである。
 
67.眼の接触より生じる受(感覚)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、耳の接触より生じる受(感覚)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、鼻の接触より生じる受(感覚)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、舌の接触より生じる受(感覚)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、身の接触より生じる受(感覚)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、意の接触より生じる受(感覚)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである。
渇愛が生じる場合、ここに生じる、留まる場合、ここに留まるのである。


 
68.色への想(認識)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、声への想(認識)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、香への想(認識)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、味への想(認識)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、触への想(認識)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、法への想(認識)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである。
渇愛が生じる場合、ここに生じる、留まる場合、ここに留まるのである。

69.色への思(意欲)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、声への思(意欲)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、香への思(意欲)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、味への思(意欲)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、触への思(意欲)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、法への思(意欲)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである。
渇愛が生じる場合、ここに生じる、留まる場合、ここに留まるのである。

70.色への渇愛は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、声への渇愛は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、香への渇愛は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、味への渇愛は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、触への渇愛は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、法への渇愛は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである。
渇愛が生じる場合、ここに生じる、留まる場合、ここに留まるのである。

71.色への尋(思考)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、声への尋(思考)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、香への尋(思考)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、味への尋(思考)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、触への尋(思考)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、法への尋(思考)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである。
渇愛が生じる場合、ここに生じる、留まる場合、ここに留まるのである。
 
72.色への伺(熟慮)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、声への伺(熟慮)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、香への伺(熟慮)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、味への伺(熟慮)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、触への伺(熟慮)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである、法への伺(熟慮)は世の中の愛らしいもの喜ばしいものである。
渇愛が生じる場合、ここに生じる、留まる場合、ここに留まるのである。

比丘たちよ、これが苦の因の聖なる真理と言われる。 



訳者注:
 (漢語)想=(日本語)認識=(英語)perception=(pali語)sanna
 (漢語)識=(日本語)意識=(英語)consciousness=(pali語)vinnana
 として訳しました。

次回に続きます。

大念住経(大念処経)1http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/5dfd915e6ed70b389d597c53a110d757

大念住経(大念処経)2http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/8cc63f1f741c2b1844ae282645ec9bbc

大念住経(大念処経)3http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/135d45345210d9384075a6349cf75349

大念住経(大念処経)4http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/02304c1863d0c9276b6d8e6cd4f6f06b

大念住経(大念処経)5http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/139239bcd9a0fef59914a6e407c83529

大念住経(大念処経)6http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/2c1b80ffd0303ecdee4b595aca7967ab

大念住経(大念処経)7http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/547b121f11da3f4248d0307c2344b881

大念住経(大念処経)8http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/b5a816b864502f42a6e227a294e81cd8

大念住経(大念処経)9http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/d72c038a4e90090e6fff790553bba295

大念住経(大念処経)10http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/0aef2fbbc0a22a4446e93bca16d47ed1

大念住経(大念処経)11http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/f473c78a9b87f2d36e9a135301332cd1

大念住経(大念処経)12http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/abd4feeb4861a783cb20f1458805aa59

 





大念住経(大念処経)7

2010年10月30日 11時05分16秒 | 大念住経

大念住経の続きです。



目次の赤の部分が今日の範囲です。

 
大念住経、又は大念処経(マハーサティーパッターナ・スッタ)
                    

                       目次
                                               文番   
略説       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1~3      
一、身に関する瞑想       
 1 出息、入息の部 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4~6 
 2 行住坐臥の部・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 7
  3 正しい意識の部・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  8
 
     
 4 不浄観察の部 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   9 
  5 要素の観察の部 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 10 
 6 九段階の死体の部  ・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・11~19  
二、受(感覚)に関する瞑想・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・ 20~21  
三、心に関する瞑想   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 22~23  
四、法に関する瞑想     
   1 五蓋(五つの障害)の部  (貪欲、瞋恚、こん眠、掉悔、疑)・・・24~29  
  2 五蘊(五つのの固執される集まり)の部 (色、受、想、行、識)        30  
  3 六つの内・外処の部 (眼耳鼻舌身意、色声香味触法)・・・・・  31~34  
  4 悟りの七条件の部(念、択法、精進、喜、軽安、定、捨) ・・・・  35~41  
  5 真理の部   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・      42  
    a. 苦の真理の部   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 43~59  
        b. 苦の因の真理の部 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 60~72 
        c. 苦の滅の真理の部   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  73~85  
        d. 道の真理の部    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 86~95  
効果の言葉  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…・・・・・・・・・・・・・・・・・・96~100  
結びの言葉  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…・・・・・・・・・・・・・・・・・・・    101



3.六つの内・外処の部 (眼耳鼻舌身意、色声香味触法)

31.比丘(びく、修行者、パーリ語bhikkhu)たちよ、次にまた比丘は「六つの内・外処」を、ただ(自分のものでもなく、自分でもなく、自我でもなく、ただ現象に過ぎない)六つの内・外処あると絶え間なく知覚して住む。
 
比丘たちよ、では、比丘は、どのようにして、「六つの内・外処」をただ六つの内・外処であると絶え間なく知覚して住むのか?

32.ここに、比丘たちよ、比丘は眼を知り、色を知り、またこの二つによって束縛が生じることを知る。
まだ生じない束縛がどのようにして生じるかも知り、すでに生じた束縛がどのようにして消えさるかも知り、消え去った束縛が将来どのようにして生じないかも知る。
 
33.比丘は、耳を知り、声を知り、またこの二つによって束縛が生じることを知る。
まだ生じていない束縛がどのように生じるかも知り、すでに生じた束縛がどのように消え去るかも知り、消え去った束縛が将来どのようにして生じないかも知る。
 
鼻を知り、香を知り、またこの二つによって束縛が生じることを知る。
まだ生じていない束縛がどのように生じないかも知り、すでに生じた束縛がどのように消え去るかも知り、消え去った束縛が将来どのように生じないかも知る。

舌を知り、味を知り、またこの二つによって束縛が生じることを知る。 
まだ生じない束縛がどのようにして生じるかも知り、すでに生じた束縛がどのように消え去るかも知り、消え去った束縛が将来どのようにして生じないかも知る。
 
身を知り、触を知り、またこの二つによって束縛が生じることを知る。
まだ生じない束縛がどのようにして生じるかも知り、すでに生じた束縛がどのように消え去るかも知り、消え去った束縛が将来どのようにして生じないかも知る。
 
34.意を知り、法を知り、この二つによって束縛が生じることを知る。
まだ生じない束縛がどのようにして生じるかを知り、すでに生じた束縛がどのように消え去るかも知り、消え去った束縛が将来どのようにして生じないかも知る。

このように、「法」を自己における、(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)「法」であると絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「法」を他己における法であると絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「法」を自他における法であると絶え間なく知覚して住む。

あるいは、「法」の発生とその原因を絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「法」の消滅とその原因を絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「法」の発生と消滅の両方とそれらの原因を絶え間なく知覚して住む。

要するに、比丘は、自分でもない、自我でもない、魂でもない「法」のみが存在するということに確実に気づいている。この気づいている事こそが正にヴィパッサナーを得るためであり、その進歩を得るためである。

愛着と誤った考えから離れ、世間の何ものにも執着しない。このように、比丘たちよ、比丘は「六つの内・外処」を、ただ(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)六つの内・外処であるとと絶え間なく知覚して住むのである。

六つの内・外処の部終わり



4.悟りの七条件の部(念、択法、精進、喜、軽安、定、捨)

35.比丘たちよ、次にまた比丘は「悟りの七条件」を、ただ(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)悟りの七条件であると絶え間なく知覚して住む。
 
比丘たちよ、では、比丘は、どのようにして、「悟りの七条件」をただ悟りの七条件であると絶え間なく知覚して住むのか?

比丘たちよ、比丘は内に念(気づき)というすぐれた悟りの条件があれば、「私の内に念というすぐれた悟りの条件がある」と知り、あるいは内に念というすぐれた悟りの条件がなければ、「私の内に念というすぐれた悟りの条件がない」と知る。

まだ生じていない念というすぐれた悟りの条件がどのように生じるかを知り、すでに生じた念というすぐれた悟りの条件がどのように発展し完成するかも知る。
 
36.あるいは内に択法(気づきの分類)というすぐれた悟りの条件があれば「私の内に択法というすぐれた悟りの条件があると知り、あるいは内に択法というすぐれた悟りの条件がなければ、「私の内に択法というすぐれた悟りの条件がない」と知る。

まだ生じていない択法というすぐれた悟りの条件がどのように生じるかも知り、すでに生じた択法というすぐれた悟りの条件がどのように発展し完成するかも知る。
 
37.あるいは内に精進(努力の継続)というすぐれた悟りの条件があれば、「私の内に精進というすぐれた悟りの条件があると知り、あるいは内に精進というすぐれた悟りの条件がなければ、「私の内に精進というすぐれた悟りの条件がない」と知る。

まだ生じていない精進というすぐれた悟りの条件がどのように生じるかも知り、すでに生じた精進というすぐれた悟りの条件がどのように発展し完成するかも知る。
 
38.あるいは内に喜というすぐれた悟りの条件があれば「私の内に喜というすぐれた悟りの条件がある」と知り、あるいは内に喜というすぐれた悟りの条件がなければ、「私の内に喜というすぐれた悟りの条件がない」と知る。

まだ生じていない喜というすぐれた悟りの条件がどのように生じるかも知り、あるいはすでに生じた喜というすぐれた悟りの条件がどのように発展し完成するかも知る。

39.あるいは心の中に軽安(落着き)というすぐれた悟りの条件があれば、「私の心の中に軽安というすぐれた悟りの条件がある」と知り、あるいは心の中に軽安というすぐれた悟りの条件がなければ、「私の心の中に軽安というすぐれた悟りの条件がない」と知る。

まだ生じていない軽安というすぐれた悟りの条件がどのように生じるかも知り、すでに生じた軽安というすぐれた悟りの条件がどのように発展し完成するかも知る。
 
40.あるいは内に定(集中)というすぐれた悟りの条件があれば、「私の内に定というすぐれた悟りの条件がある」と知り、あるいは内に定というすぐれた悟りの条件がなければ「私の内に定というすぐれた悟りの条件がない」と知る。

まだ生じていない定というすぐれた悟りの条件がどのように生じるかも知り、すでに生じた定というすぐれた悟りの条件がどのように発展し完成するかも知る。

41.あるいは内に捨(平静)というすぐれた悟りの条件があれば、「私の内に捨というすぐれた悟りの条件がある」と知り、あるいは内に捨というすぐれた悟りの条件がなければ、「私の内に捨というすぐれた悟りの条件がない」と知る。
 
まだ生じていない捨というすぐれた悟りの条件がどのように生じるかも知り、すでに生じた捨というすぐれた悟りの条件がどのように発展し完成するかも知る。

このように、「法」を自己における、(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)「法」であると絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「法」を他己における法であると絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「法」を自他における法であると絶え間なく知覚して住む。

あるいは、「法」の発生とその原因を絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「法」の消滅とその原因を絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「法」の発生と消滅の両方とそれらの原因を絶え間なく知覚して住む。

要するに、比丘は、自分でもない、自我でもない、魂でもない「法」のみが存在するということに確実に気づいている。この気づいている事こそが正にヴィパッサナーを得るためであり、その進歩を得るためである。

愛着と誤った考えから離れ、世間の何ものにも執着しない。このように、比丘たちよ、比丘は「悟りの七条件」を、ただ(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)悟りの七条件と絶え間なく知覚して住むのである。

悟りの七条件の部終わり



次回に続きます。

大念住経(大念処経)1http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/5dfd915e6ed70b389d597c53a110d757

大念住経(大念処経)2http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/8cc63f1f741c2b1844ae282645ec9bbc

大念住経(大念処経)3http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/135d45345210d9384075a6349cf75349

大念住経(大念処経)4http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/02304c1863d0c9276b6d8e6cd4f6f06b

大念住経(大念処経)5http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/139239bcd9a0fef59914a6e407c83529

大念住経(大念処経)6http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/2c1b80ffd0303ecdee4b595aca7967ab

大念住経(大念処経)7http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/547b121f11da3f4248d0307c2344b881

大念住経(大念処経)8http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/b5a816b864502f42a6e227a294e81cd8

大念住経(大念処経)9http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/d72c038a4e90090e6fff790553bba295

大念住経(大念処経)10http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/0aef2fbbc0a22a4446e93bca16d47ed1

大念住経(大念処経)11http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/f473c78a9b87f2d36e9a135301332cd1

大念住経(大念処経)12http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/abd4feeb4861a783cb20f1458805aa59

 

 


大念住経(大念処経)6

2010年10月29日 09時25分21秒 | 大念住経

大念住経の続き。



目次の赤の部分が今日の範囲です。

 
大念住経、又は大念処経(マハーサティーパッターナ・スッタ)
                    

                       目次
                                               文番   
略説       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1~3      
一、身に関する瞑想       
 1 出息、入息の部 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4~6 
 2 行住坐臥の部・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 7
  3 正しい意識の部・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  8
 
     
 4 不浄観察の部 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   9 
  5 要素の観察の部 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 10 
 6 九段階の死体の部  ・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・11~19  
二、受(感覚)に関する瞑想・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・ 20~21  
三、心に関する瞑想   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 22~23  
四、法に関する瞑想     
   1 五蓋(五つの障害)の部  (貪欲、瞋恚、こん眠、掉悔、疑)・・・24~29  
  2 五蘊(五つのの固執される集まり)の部 (色、受、想、行、識)        30  
  3 六つの内・外処の部 (眼耳鼻舌身意、色声香味触法)・・・・・  31~34  
  4 悟りの七条件の部(念、択法、精進、喜、軽安、定、捨) ・・・・  35~41  
  5 真理の部   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・      42  
    a. 苦の真理の部   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 43~59  
        b. 苦の因の真理の部 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 60~72 
        c. 苦の滅の真理の部   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  73~85  
        d. 道の真理の部    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 86~95  
効果の言葉  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…・・・・・・・・・・・・・・・・・・96~100  
結びの言葉  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…・・・・・・・・・・・・・・・・・・・    101



四.法に関する瞑想


1.五蓋(五つの障害)の部 (貪欲、瞋恚、こん眠、掉悔、疑)

24. 比丘(びく、修行者、パーリ語bhikkhu)たちよ、また比丘はどのようにして、「法」をただ(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)法であると絶え間なく知覚して住むのか?

比丘たちよ、比丘は「五つの障害」を、ただ(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)五つの障害であると絶え間なく知覚し住むのである。
 
比丘たちよ、では、比丘は、どのようにして、「五つの障害」を、ただ五つの障害であると絶え間なく知覚して住むのか?



ここに、比丘たちよ、内に貪欲があれば、「私の内に貪欲がある」と知り、あるいは内に貪欲がなければ、「私の内に貪欲がない」と知る。

また、いまだ生じていない貪欲がいかに生じるかを知り、すでに生じた貪欲がいかに消え去るかを知り、そして、消え去った貪欲が未来に於いていかに生じないかを知る。

25.内に怒り(瞋恚)があれば、「私の内に怒りがある」と知り、あるいは内に怒りがなければ、「私の内に怒りがない」と知る。

また、いまだ生じていない怒りがいかに生じるかを知り、すでに生じた怒りがいかに消え去るかを知り、そして、消え去った怒りが未来に於いていかに生じないかを知る。

26.内に怠惰と無気力(こん眠)があれば、「私の内に怠惰と無気力がある」と知り、あるいは内に怠惰と無気力がなければ、「私の内に怠惰と無気力がない」と知る。

また、いまだ生じていない怠惰と無気力がいかに生じるかを知り、すでに生じた怠惰と無気力がいかに消え去るかを知る。そして、消え去った怠惰と無気力が未来に於いていかに生じないかを知る。

27.内に落ち着きのなさと後悔(掉悔;じょうけ)があれば、「私の内に落ち着きのなさと後悔がある」と知り、あるいは内に落ち着きのなさと後悔がなければ、「私の内に落ち着きのなさと後悔がない」と知る。

また、いまだ生じていない落ち着きのなさと後悔がいかに生じるかを知り、すでに生じた落ち着きのなさと後悔がいかに消え去るかを知る。
そして、消え去った落ち着きのなさと後悔が未来に於いていかに生じないかを知る。

28.内に疑いがあれば、「私の内に疑いがある」と知り、あるいは内に疑いがなければ、「私の内に疑いがない」と知る。

また、いまだ生じていない疑いがいかに生じるかを知り、すでに生じた疑いがいかに消え去るかを知る。そして、消え去った疑いが未来に於いていかに生じないかを知る。

29.このように、「法」を自己における、(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)法であると絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「法」を他己における法であると絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「法」を自他における法であると絶え間なく知覚して住む。

あるいは、「法」の発生とその原因を絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「法」の消滅とその原因を絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「法」の発生と消滅の両方とそれらの原因を絶え間なく知覚して住む。

要するに、比丘は、自分でもない、自我でもない、魂でもない「法」のみが存在するということに確実に気づいている。この気づいている事こそが正にヴィパッサナーを得るためであり、その進歩を得るためである。

愛着と誤った考えから離れ、世間の何ものにも執着しない。このように、比丘たちよ、比丘は「五つの障害」を、ただ(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)五つの障害と絶え間なく知覚して住むのである。

五蓋(五つの障害)の部終わり

2.五蘊(五つの固執される集まり)の部 (色、受、想、行、識)

30.比丘たちよ、次にまた比丘は「五つの固執される集まり」を、ただ(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)五つの固執される集まりであると絶え間なく知覚して住む。

比丘たちよ、では、比丘は、どのようにして、「五つの固執される集まり」を、ただ五つの固執される集まりであると絶え間なく知覚して住むのか?

ここに、比丘たちよ、比丘は

「これが色(身、ルーパ)であり、これが色の発生であり、これが色の消滅である。

これが受(感覚、ヴェーダナー)であり、これが受の発生であり、これが受の消滅である。

これが想(認識、サンニャ)であり、これが想の発生であり、これが想の消滅である。

これが行(反応、サンカーラ)であり、これが行の発生であり、これが行の消滅である。

これが識(意識、ヴィインニャーナ)であり、これが識の発生であり、これが識の消滅である」

と絶え間なく知覚して住むのである。

このように、「法」を自己における、(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)法であると絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「法」を他己における法であると絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「法」を自他における法であると絶え間なく知覚して住む。

あるいは、「法」の発生とその原因を絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「法」の消滅とその原因を絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「法」の発生と消滅の両方とそれらの原因を絶え間なく知覚して住む。

要するに、比丘は、自分でもない、自我でもない、魂でもない「法」のみが存在するということに確実に気づいている。この気づいている事こそが正にヴィパッサナーを得るためであり、その進歩を得るためである。

愛着と誤った考えから離れ、世間の何ものにも執着しない。このように、比丘たちよ、比丘は「五つの固執される集まり」を、ただ(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)五つの固執される集まりと絶え間なく知覚して住むのである。

五蘊(五つの固執される集まり)の部終わり



次回に続きます。

大念住経(大念処経)1http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/5dfd915e6ed70b389d597c53a110d757

大念住経(大念処経)2http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/8cc63f1f741c2b1844ae282645ec9bbc

大念住経(大念処経)3http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/135d45345210d9384075a6349cf75349

大念住経(大念処経)4http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/02304c1863d0c9276b6d8e6cd4f6f06b

大念住経(大念処経)5http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/139239bcd9a0fef59914a6e407c83529

大念住経(大念処経)6http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/2c1b80ffd0303ecdee4b595aca7967ab

大念住経(大念処経)7http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/547b121f11da3f4248d0307c2344b881

大念住経(大念処経)8http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/b5a816b864502f42a6e227a294e81cd8

大念住経(大念処経)9http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/d72c038a4e90090e6fff790553bba295

大念住経(大念処経)10http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/0aef2fbbc0a22a4446e93bca16d47ed1

大念住経(大念処経)11http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/f473c78a9b87f2d36e9a135301332cd1

大念住経(大念処経)12http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/abd4feeb4861a783cb20f1458805aa59

 




 


大念住経(大念処経)5

2010年10月28日 10時35分07秒 | 大念住経

大念住経の続き。



目次の赤の部分が今日の範囲です。

  
大念住経、又は大念処経(マハーサティーパッターナ・スッタ)

               目次                       
                                               文番   
略説       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1~3      
一、身に関する瞑想       
 1 出息、入息の部 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4~6 
 2 行住坐臥の部・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 7
  3 正しい意識の部・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  8
 
     
 4 不浄観察の部 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   9 
  5 要素の観察の部 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 10 
 6 九段階の死体の部  ・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・11~19  
二、受(感覚)に関する瞑想・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・ 20~21  
三、心に関する瞑想
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 22~23  
四、法に関する瞑想     
   1 五蓋(五つの障害)の部  (貪欲、瞋恚、こん眠、掉悔、疑)・・・24~29  
  2 五蘊(五つのの固執される集まり)の部 (色、受、想、行、識)        30  
  3 六つの内・外処の部 (眼耳鼻舌身意、色声香味触法)・・・・・  31~34  
  4 悟りの七条件の部(念、択法、精進、喜、軽安、定、捨) ・・・・  35~41  
  5 真理の部   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・      42  
    a. 苦の真理の部   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 43~59  
        b. 苦の因の真理の部 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 60~72 
        c. 苦の滅の真理の部   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  73~85  
        d. 道の真理の部    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 86~95  
効果の言葉  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…・・・・・・・・・・・・・・・・・・96~100  
結びの言葉  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…・・・・・・・・・・・・・・・・・・・    101 



二.受(感覚)に関する瞑想

20.比丘(びく、修行者、パーリ語bhikkhu)たちよ、また比丘はどのようにして、「感覚」をただ(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)感覚であると絶え間なく知覚して住むのか?

比丘たちよ、比丘は、心地よい感覚を感じる場合、「私は心地よい感覚を感じている」と知り、あるいは不快な感覚を感じる場合、「私は不快な感覚を感じている」と知り、
あるいは心地よくもない、不快でもない感覚を感じる場合、「私は心地よくもなく、不快でもない感覚を感じている」と知る。

又、肉体的な心地よい感覚を感じる場合、「私は肉体的な心地よい感覚を感じている」と知り、あるいは精神的な心地よい感覚を感じる場合、「私は精神的な心地よい感覚を感じている」と知る。

又、肉体的な不快な感覚を感じる場合、「私は肉体的な不快な感覚を感じている 」と知り、
あるいは精神的な不快な感覚を感じる場合、「私は精神的な不快な感覚を感じている 」と知る。

又、肉体的な心地よい感覚でもなく、不快な感覚でもない感覚を感じる場合、「私は肉体的な心地よい感覚でもなく、不快な感覚でもない感覚を感じている」と知り、
あるいは精神的な心地よい感覚でもなく、不快な感覚でもない感覚を感じる場合、「私は精神的な心地よい感覚でもなく、不快な感覚でもない感覚を感じている」と知る。

21.このように、「感覚」を自己における、(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)感覚であると絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「感覚」を他己における感覚であると絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「感覚」を自他における感覚であると絶え間なく知覚して住む。

あるいは、「感覚」の発生とその原因を絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「感覚」の消滅とその原因を絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「感覚」の発生と消滅の両方とそれらの原因を絶え間なく知覚して住む。

要するに、比丘は、自分でもない、自我でもない、魂でもない「感覚」のみが存在するということに確実に気づいている。この気づいている事こそが正にヴィパッサナーを得るためであり、その進歩を得るためである。

愛着と誤った考えから離れ、世間の何ものにも執着しない。このように、比丘たちよ、比丘は「感覚」を(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)感覚であると絶え間なく知覚して住むのである。

感覚に関する瞑想終わり

 

三、心に関する瞑想

22.比丘たちよ、また比丘はどのようにして「心」をただ(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)心であると絶え間なく知覚して住むのか?
 
比丘たちよ、比丘は貪欲のある心を「貪欲のある心」と知り、あるいは貪欲のない心を「貪欲のない心」と知る。

あるいは怒りのある心を「怒りのある心」と知り、あるいは怒りのない心を「怒りのない心」と知る。

あるいは愚鈍な心を「愚鈍な心」と知り、あるいは愚鈍でない心を「愚鈍でない心」と知る。 
又、薄弱な心を「薄弱な心」と知り、あるいは取り乱した心を「取り乱した心」と知る。

又、大心を「大心」と知り、あるいは小心を「小心」と知る。
 
又、有上心を「有上心」としり、あるいは無上心を「無上心」と知る。
 
叉、定心を「定心」としり、あるいは無定心を「無定心」と知る。
 
叉、解脱心を「解脱心」と知り、あるいは不解脱心を「不解脱心」と知る。
 
23. このように、「心」を自己における、(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)心であると絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「心」を他己における心であると絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「心」を自他における心であると絶え間なく知覚して住む。

あるいは、「心」の発生とその原因を絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「心」の消滅とその原因を絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「心」の発生と消滅の両方とそれらの原因を絶え間なく知覚して住む。

要するに、比丘は、自分でもない、自我でもない、魂でもない「心」のみが存在するということに確実に気づいている。この気づいている事こそが正にヴィパッサナーを得るためであり、その進歩を得るためである。

愛着と誤った考えから離れ、世間の何ものにも執着しない。このように、比丘たちよ、比丘は「心」を(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)心であると絶え間なく知覚して住むのである。

心に関する瞑想終わり



次回に続きます。

大念住経(大念処経)1http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/5dfd915e6ed70b389d597c53a110d757

大念住経(大念処経)2http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/8cc63f1f741c2b1844ae282645ec9bbc

大念住経(大念処経)3http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/135d45345210d9384075a6349cf75349

大念住経(大念処経)4http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/02304c1863d0c9276b6d8e6cd4f6f06b

大念住経(大念処経)5http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/139239bcd9a0fef59914a6e407c83529

大念住経(大念処経)6http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/2c1b80ffd0303ecdee4b595aca7967ab

大念住経(大念処経)7http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/547b121f11da3f4248d0307c2344b881

大念住経(大念処経)8http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/b5a816b864502f42a6e227a294e81cd8

大念住経(大念処経)9http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/d72c038a4e90090e6fff790553bba295

大念住経(大念処経)10http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/0aef2fbbc0a22a4446e93bca16d47ed1

大念住経(大念処経)11http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/f473c78a9b87f2d36e9a135301332cd1

大念住経(大念処経)12http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/abd4feeb4861a783cb20f1458805aa59

 

 

 

 


大念住経(大念処経)4

2010年10月27日 04時40分04秒 | 大念住経

大念住経の続き。



目次の赤の部分が今日の範囲です。

 
大念住経、又は大念処経(マハーサティーパッターナ・スッタ)
                       目次
                                               文番   
略説       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1~3      
一、身に関する瞑想       
 1 出息、入息の部 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4~6 
 2 行住坐臥の部・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 7
  3 正しい意識の部・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  8      
 4 不浄観察の部 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   9 
  5 要素の観察の部 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 10 
 6 九段階の死体の部  ・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・11~19  
二、受(感覚)に関する瞑想・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・ 20~21  
三、心に関する瞑想   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 22~23  
四、法に関する瞑想     
   1 五蓋(五つの障害)の部  (貪欲、瞋恚、こん眠、掉悔、疑)・・・24~29  
  2 五蘊(五つのの固執される集まり)の部 (色、受、想、行、識)        30  
  3 六つの内・外処の部 (眼耳鼻舌身意、色声香味触法)・・・・・  31~34  
  4 悟りの七条件の部(念、択法、精進、喜、軽安、定、捨) ・・・・  35~41  
  5 真理の部   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・      42  
    a. 苦の真理の部   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 43~59  
        b. 苦の因の真理の部 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 60~72 
        c. 苦の滅の真理の部   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  73~85  
        d. 道の真理の部    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 86~95  
効果の言葉  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…・・・・・・・・・・・・・・・・・・96~100  
結びの言葉  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…・・・・・・・・・・・・・・・・・・・    101 



6.九段階の死体の部
11.比丘たちよ、次に比丘は、ちょうど墓地に捨てられ、死後一日、あるいは二日、あるいは三日経ち、膨れ上がり青黒く変色して、膿の流れている死体を見るように、

この身を、「この身もまたこのようなもの、このようになるもの、このようなものに過ぎないもの」と見るのである。

このように、「身」を自己における、(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)身であると絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「身」を他己における身であると絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「身」を自他における身であると絶え間なく知覚して住む。

あるいは、「身」の発生とその原因を絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「身」の消滅とその原因を絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「身」の発生と消滅の両方とそれらの原因を絶え間なく知覚して住む。

要するに、比丘は、自分でもない、自我でもない、魂でもない「身」のみが存在するということに確実に気づいている。この気づいている事こそが正にヴィパッサナーを得るためであり、その進歩を得るためである。

 愛着と誤った考えから離れ、世間の何ものにも執着しない。このように、比丘たちよ、比丘は「身」を(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)身であると絶え間なく知覚して住むのである。



12.比丘たちよ、次に比丘は、ちょうど墓地に捨てられ、烏につつかれ、鷹に食べられ、禿鷹に食べられ、あるいは蒼鷺に食べられ、あるいは野良犬に食べられ、あるいは虎に食べられ、あるいはジャッカルに食べられ、あるいは狼に食べられ、あるいはいろいろな生き物に食べられている死体の変化を観察するように、

この身を「この身もまたこのようなもの、このようになるもの、このようなものに過ぎないもの」と見るのである。

このように、「身」を自己における、(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)身であると絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「身」を他己における身であると絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「身」を自他における身であると絶え間なく知覚して住む。

あるいは、「身」の発生とその原因を絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「身」の消滅とその原因を絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「身」の発生と消滅の両方とそれらの原因を絶え間なく知覚して住む。

要するに、比丘は、自分でもない、自我でもない、魂でもない「身」のみが存在するということに確実に気づいている。この気づいている事こそが正にヴィパッサナーを得るためであり、その進歩を得るためである。

 愛着と誤った考えから離れ、世間の何ものにも執着しない。このように、比丘たちよ、比丘は「身」を(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)身であると絶え間なく知覚して住むのである。



13.比丘たちよ、次に比丘は、ちょうど墓地に捨てられた死体が、骨が連鎖し、肉があり、血があり、筋がつながっているその死体を観察するように、

この身を、「この身もまたこのようなもの、このようになるもの、このようなものに過ぎないもの」と見るのである。

このように、「身」を自己における、(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)身であると絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「身」を他己における身であると絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「身」を自他における身であると絶え間なく知覚して住む。

あるいは、「身」の発生とその原因を絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「身」の消滅とその原因を絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「身」の発生と消滅の両方とそれらの原因を絶え間なく知覚して住む。

要するに、比丘は、自分でもない、自我でもない、魂でもない「身」のみが存在するということに確実に気づいている。この気づいている事こそが正にヴィパッサナーを得るためであり、その進歩を得るためである。

愛着と誤った考えから離れ、世間の何ものにも執着しない。このように、比丘たちよ、比丘は「身」を(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)身であると絶え間なく知覚して住むのである。



14.比丘たちよ、次に比丘は、ちょうど墓地に捨てられた死体が、骨が連鎖し、肉はなく、血にまみれ、筋がつながっている死体を観察するように、
 
この身を、「この身もまたこのようなもの、このようになるもの、このようなものに過ぎないもの」と見るのである。

このように、「身」を自己における、(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)身であると絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「身」を他己における身であると絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「身」を自他における身であると絶え間なく知覚して住む。

あるいは、「身」の発生とその原因を絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「身」の消滅とその原因を絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「身」の発生と消滅の両方とそれらの原因を絶え間なく知覚して住む。

要するに、比丘は、自分でもない、自我でもない、魂でもない「身」のみが存在するということに確実に気づいている。この気づいている事こそが正にヴィパッサナーを得るためであり、その進歩を得るためである。

 愛着と誤った考えから離れ、世間の何ものにも執着しない。このように、比丘たちよ、比丘は「身」を(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)身であると絶え間なく知覚して住むのである。



15.比丘たちよ、次に比丘は、ちょうど墓地に捨てられた死体が、骨が連鎖し、肉もなく、血もなく、筋がつながっているその死体を観察するように、

この身を、「この身もまたこのようなもの、このようになるもの、このようなものに過ぎないもの」と見るのである。

このように、「身」を自己における、(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)身であると絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「身」を他己における身であると絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「身」を自他における身であると絶え間なく知覚して住む。

あるいは、「身」の発生とその原因を絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「身」の消滅とその原因を絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「身」の発生と消滅の両方とそれらの原因を絶え間なく知覚して住む。

要するに、比丘は、自分でもない、自我でもない、魂でもない「身」のみが存在するということに確実に気づいている。この気づいている事こそが正にヴィパッサナーを得るためであり、その進歩を得るためである。

 愛着と誤った考えから離れ、世間の何ものにも執着しない。このように、比丘たちよ、比丘は「身」を(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)身であると絶え間なく知覚して住むのである。



16.比丘たちよ、次に比丘は、ちょうど墓地に捨てられた死体が、骨の連鎖を失い、そこに手の骨、そこに足の骨、そこに踝(くるぶし)の骨、そこに脛(すね)の骨、そこに腿(もも)の骨、そこに腰の骨、そこに肋骨、そこに背骨、そこに肩の骨、そこに頚骨、そこに顎骨、そこに歯、そこに頭蓋骨とあちらこちらに散らばった骨の状態を観察するように、

この身を、「この身もまたこのようなもの、このようになるもの、このようなものに過ぎないもの」と見るのである。

このように、「身」を自己における、(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)身であると絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「身」を他己における身であると絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「身」を自他における身であると絶え間なく知覚して住む。

あるいは、「身」の発生とその原因を絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「身」の消滅とその原因を絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「身」の発生と消滅の両方とそれらの原因を絶え間なく知覚して住む。

要するに、比丘は、自分でもない、自我でもない、魂でもない「身」のみが存在するということに確実に気づいている。この気づいている事こそが正にヴィパッサナーを得るためであり、その進歩を得るためである。

愛着と誤った考えから離れ、世間の何ものにも執着しない。このように、比丘たちよ、比丘は「身」を(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)身であると絶え間なく知覚して住むのである。



17.比丘たちよ、次に比丘は、ちょうど墓地に捨てられた死体が、白い貝殻のような骨になっているのを観察するように、

この身を、「この身もまたこのようなもの、このようになるもの、このようなものに過ぎないもの」と見るのである。

このように、「身」を自己における、(自分のものでもない、自分でもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)身であると絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「身」を他己における身であると絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「身」を自他における身であると絶え間なく知覚して住む。

あるいは、「身」の発生とその原因を絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「身」の消滅とその原因を絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「身」の発生と消滅の両方とそれらの原因を絶え間なく知覚して住む。

要するに、比丘は、自分でもない、自我でもない、魂でもない「身」のみが存在するということに確実に気づいている。この気づいている事こそが正にヴィパッサナーを得るためであり、その進歩を得るためである。

愛着と誤った考えから離れ、世間の何ものにも執着しない。このように、比丘たちよ、比丘は「身」を(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)身であると絶え間なく知覚して住むのである。



18.比丘たちよ、次に比丘は、ちょうど墓地に捨てられた死体が、その骨が一年以上も経ち山になっているのを観察するように、

この身を、「この身もまたこのようなもの、このようになるもの、このようなものに過ぎないもの」と見るのである。

このように、「身」を自己における、(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)身であると絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「身」を他己における身であると絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「身」を自他における身であると絶え間なく知覚して住む。

あるいは、「身」の発生とその原因を絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「身」の消滅とその原因を絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「身」の発生と消滅の両方とそれらの原因を絶え間なく知覚して住む。

要するに、比丘は、自分でもない、自我でもない、魂でもない「身」のみが存在するということに確実に気づいている。この気づいている事こそが正にヴィパッサナーを得るためであり、その進歩を得るためである。

愛着と誤った考えから離れ、世間の何ものにも執着しない。このように、比丘たちよ、比丘は「身」を(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)身であると絶え間なく知覚して住むのである。



19.比丘たちよ、次に比丘は、ちょうど墓地に捨てられた死体が、その骨が朽ちて粉々なっているのを観察するように、

この身を、「この身もまたこのようなもの、このようになるもの、このようなものに過ぎないもの」と見るのである。

このように、「身」を自己における、(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)身であると絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「身」を他己における身であると絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「身」を自他における身であると絶え間なく知覚して住む。

あるいは、「身」の発生とその原因を絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「身」の消滅とその原因を絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「身」の発生と消滅の両方とそれらの原因を絶え間なく知覚して住む。

要するに、比丘は、自分でもない、自我でもない、魂でもない「身」のみが存在するということに確実に気づいている。この気づいている事こそが正にヴィパッサナーを得るためであり、その進歩を得るためである。

愛着と誤った考えから離れ、世間の何ものにも執着しない。このように、比丘たちよ、比丘は「身」を(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)身であると絶え間なく知覚して住むのである。

九段階の死体の部終わり

身に関する瞑想終わり



次回に続きます。

大念住経(大念処経)1http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/5dfd915e6ed70b389d597c53a110d757

大念住経(大念処経)2http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/8cc63f1f741c2b1844ae282645ec9bbc

大念住経(大念処経)3http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/135d45345210d9384075a6349cf75349

大念住経(大念処経)4http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/02304c1863d0c9276b6d8e6cd4f6f06b

大念住経(大念処経)5http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/139239bcd9a0fef59914a6e407c83529

大念住経(大念処経)6http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/2c1b80ffd0303ecdee4b595aca7967ab

大念住経(大念処経)7http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/547b121f11da3f4248d0307c2344b881

大念住経(大念処経)8http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/b5a816b864502f42a6e227a294e81cd8

大念住経(大念処経)9http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/d72c038a4e90090e6fff790553bba295

大念住経(大念処経)10http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/0aef2fbbc0a22a4446e93bca16d47ed1

大念住経(大念処経)11http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/f473c78a9b87f2d36e9a135301332cd1

大念住経(大念処経)12http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/abd4feeb4861a783cb20f1458805aa59

 

 


大念住経(大念処経)3

2010年10月26日 17時25分19秒 | 大念住経



大念住経の続き。
目次の赤の部分が今日の範囲です。

 
大念住経、又は大念処経(マハーサティーパッターナ・スッタ)
                       目次
                                               文番   
略説       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1~3      
一、身に関する瞑想       
 1 出息、入息の部 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4~6 
 2 行住坐臥の部・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 7
  3 正しい意識の部・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  8      
 4 不浄観察の部 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   9 
  5 要素の観察の部 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 10 
 6 九段階の死体の部  ・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・11~19  
二、受(感覚)に関する瞑想・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・ 20~21  
三、心に関する瞑想   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 22~23  
四、法に関する瞑想     
   1 五蓋(五つの障害)の部  (貪欲、瞋恚、こん眠、掉悔、疑)・・・24~29  
  2 五蘊(五つのの固執される集まり)の部 (色、受、想、行、識)        30  
  3 六つの内・外処の部 (眼耳鼻舌身意、色声香味触法)・・・・・  31~34  
  4 悟りの七条件の部(念、択法、精進、喜、軽安、定、捨) ・・・・  35~41  
  5 真理の部   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・      42  
    a. 苦の真理の部   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 43~59  
        b. 苦の因の真理の部 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 60~72 
        c. 苦の滅の真理の部   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  73~85  
        d. 道の真理の部    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 86~95  
効果の言葉  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…・・・・・・・・・・・・・・・・・・96~100  
結びの言葉  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…・・・・・・・・・・・・・・・・・・・    101
 


4.不浄観察の部
9.比丘たちよ、次に比丘は、足の裏から上へ、頭髪の先から下へ、皮膚に覆われ多くの不純なもので満たされているこの身体について観察する。

「この身体には、髪、毛、爪、歯、皮、肉、筋、骨、髄、腎臓、心臓、肝臓、肋膜、脾臓、肺臓、胃、腸、胃の中の食べ物、大便、胆汁、啖、膿汁、血、汗、脂肪、涙、血精、唾、鼻汁、関節滑液、脳漿、小便がある」と。

比丘たちよ、それは、ちょうど両方に口がある袋の中が、いろいろな穀物、即ち、サーリ籾米、ヴィーヒ籾米、緑豆、そら豆、胡麻、米などで一杯になっているようなものである。

良い目の者は、それを開けて「これらはサーリ籾米、これらはヴィーヒ籾米、これらは緑豆、これらはそら豆、これらは胡麻、これらは米である」と観察するであろう。

比丘たちよ、このように比丘は、足の裏から上へ、頭髪の先から下へ、皮膚に覆われ多くの不純なもので満たされているこの身体について観察する。

「この身体には、髪、毛、爪、歯、皮、肉、筋、骨、髄、腎臓、心臓、肝臓、肋膜、脾臓、肺臓、胃、腸、胃の中の食べ物、大便、胆汁、啖、膿汁、血、汗、脂肪、涙、血精、唾、鼻汁、関節滑液、脳漿、小便がある」と。

このように、「身」を自己における、(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)身であると絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「身」を他己における身であると絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「身」を自他における身であると絶え間なく知覚して住む。

あるいは、「身」の発生とその原因を絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「身」の消滅とその原因を絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「身」の発生と消滅の両方とそれらの原因を絶え間なく知覚して住む。

要するに、比丘は、自分でもない、自我でもない、魂でもない「身」のみが存在するということに確実に気づいている。この気づいている事こそが正にヴィパッサナーを得るためであり、その進歩を得るためである。

 愛着と誤った考えから離れ、世間の何ものにも執着しない。このように、比丘たちよ、比丘は「身」を(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)身であると絶え間なく知覚して住むのである。

不浄観察の部終わり

5.要素の観察の部
10.比丘たちよ、次にまた比丘は、この身をあるがままに、その状態のままに、ただ四つの要素に従って観察する。「この身には地の要素 、水の要素、火の要素、風の要素がある」と。

比丘たちよ、ちょうど熟練した屠牛者又はその弟子が、牛を殺し、町の大きな四辻で 肉を四方に分配して座っているかの如くである。

比丘たちよ、実にそのように、比丘は、この身をあるがままに、その状態のままに、ただ四つの要素にしたがって観察する。「この身に地の要素、水の要素、火の要素、風の要素がある」と。
 
このように、「身」を自己における、(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)身であると絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「身」を他己における身であると絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「身」を自他における身であると絶え間なく知覚して住む。

あるいは、「身」の発生とその原因を絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「身」の消滅とその原因を絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「身」の発生と消滅の両方とそれらの原因を絶え間なく知覚して住む。

要するに、比丘は、自分でもない、自我でもない、魂でもない「身」のみが存在するということに確実に気づいている。この気づいている事こそが正にヴィパッサナーを得るためであり、その進歩を得るためである。

 愛着と誤った考えから離れ、世間の何ものにも執着しない。このように、比丘たちよ、比丘は「身」を(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)身であると絶え間なく知覚して住むのである。

要素観察の部終わり



次回に続きます。

大念住経(大念処経)1http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/5dfd915e6ed70b389d597c53a110d757

大念住経(大念処経)2http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/8cc63f1f741c2b1844ae282645ec9bbc

大念住経(大念処経)3http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/135d45345210d9384075a6349cf75349

大念住経(大念処経)4http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/02304c1863d0c9276b6d8e6cd4f6f06b

大念住経(大念処経)5http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/139239bcd9a0fef59914a6e407c83529

大念住経(大念処経)6http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/2c1b80ffd0303ecdee4b595aca7967ab

大念住経(大念処経)7http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/547b121f11da3f4248d0307c2344b881

大念住経(大念処経)8http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/b5a816b864502f42a6e227a294e81cd8

大念住経(大念処経)9http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/d72c038a4e90090e6fff790553bba295

大念住経(大念処経)10http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/0aef2fbbc0a22a4446e93bca16d47ed1

大念住経(大念処経)11http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/f473c78a9b87f2d36e9a135301332cd1

大念住経(大念処経)12http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/abd4feeb4861a783cb20f1458805aa59

 

 


大念住経(大念処経)2

2010年10月25日 09時36分36秒 | 大念住経



大念住経の続き。
目次の赤の部分が今日の範囲です。

  
大念住経、又は大念処経(マハーサティーパッターナ・スッタ)
                       目次
                                               文番   
略説       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1~3      
一、身に関する瞑想       
 1 出息、入息の部 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4~6 
 2 行住坐臥の部・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 7
  3 正しい意識の部・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  8 
     
 4 不浄観察の部 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   9 
  5 要素の観察の部 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 10 
 6 九段階の死体の部  ・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・11~19  
二、受(感覚)に関する瞑想・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・ 20~21  
三、心に関する瞑想   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 22~23  
四、法に関する瞑想     
   1 五蓋(五つの障害)の部  (貪欲、瞋恚、こん眠、掉悔、疑)・・・24~29  
  2 五蘊(五つのの固執される集まり)の部 (色、受、想、行、識)        30  
  3 六つの内・外処の部 (眼耳鼻舌身意、色声香味触法)・・・・・  31~34  
  4 悟りの七条件の部(念、択法、精進、喜、軽安、定、捨) ・・・・  35~41  
  5 真理の部   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・      42  
    a. 苦の真理の部   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 43~59  
        b. 苦の因の真理の部 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 60~72 
        c. 苦の滅の真理の部   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  73~85  
        d. 道の真理の部    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 86~95  
効果の言葉  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…・・・・・・・・・・・・・・・・・・96~100  
結びの言葉  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…・・・・・・・・・・・・・・・・・・・    101 


2.行住坐臥の部

7.比丘たちよ、次に比丘は、

歩いている時、「私は歩いている」と知る。
あるいは立っている時、「私は立っている」と知る。
あるいは座っている時、「私は座っている」と知る。
あるいは横に寝ている時、「私は横に寝ている」と知る。

要するに、その身体がどのように動いていようが止まっていようが、その状態を知る。

 
このように、「身」を自己における、(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)身であると絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「身」を他己における、身であると絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「身」を自他における、身であると絶え間なく知覚して住む。

あるいは、「身」の発生とその原因を絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「身」の消滅とその原因を絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「身」の発生と消滅の両方とそれらの原因を絶え間なく知覚して住む。

要するに、比丘は、自分でもない、自我でもない、魂でもない「身」のみが存在するということに確実に気づいている。この気づいている事こそが正にヴィパッサナーを得るためであり、その進歩を得るためである。

 愛着と誤った考えから離れ、世間の何ものにも執着しない。
このように、比丘たちよ、比丘は「身」を(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)身であると絶え間なく知覚して住むのである。

行住坐臥の部終わり


3.正しい意識の部
8.比丘たちよ、次に比丘は、

進むにも、戻るにも、正しく意識し、
前を見るにも、観察するにも、正しく意識し、
曲げるにも、伸ばすにも、正しく意識し、

鉢、重衣、上下衣を扱うにも、正しく意識し、
食べるにも、飲むにも、噛むにも、なめるにも、正しく意識し、

大小便をするにも、正しく意識し、
行き、立ち、座り、眠り、覚め、語り、黙るにも正しく意識する。


このように、「身」を自己における、(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)身であると絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「身」を他己における身であると絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「身」を自他における身であると絶え間なく知覚して住む。

あるいは、「身」の発生とその原因を絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「身」の消滅とその原因を絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「身」の発生と消滅の両方とそれらの原因を絶え間なく知覚して住む。

要するに、比丘は、自分でもない、自我でもない、魂でもない「身」のみが存在するということに確実に気づいている。この気づいている事こそが正にヴィパッサナーを得るためであり、その進歩を得るためである。

 愛着と誤った考えから離れ、世間の何ものにも執着しない。このように、比丘たちよ、比丘は「身」を(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)身であると絶え間なく知覚して住むのである。

正しい意識の部終わり


次回に続きます

大念住経(大念処経)1http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/5dfd915e6ed70b389d597c53a110d757

大念住経(大念処経)2http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/8cc63f1f741c2b1844ae282645ec9bbc

大念住経(大念処経)3http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/135d45345210d9384075a6349cf75349

大念住経(大念処経)4http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/02304c1863d0c9276b6d8e6cd4f6f06b

大念住経(大念処経)5http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/139239bcd9a0fef59914a6e407c83529

大念住経(大念処経)6http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/2c1b80ffd0303ecdee4b595aca7967ab

大念住経(大念処経)7http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/547b121f11da3f4248d0307c2344b881

大念住経(大念処経)8http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/b5a816b864502f42a6e227a294e81cd8

大念住経(大念処経)9http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/d72c038a4e90090e6fff790553bba295

大念住経(大念処経)10http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/0aef2fbbc0a22a4446e93bca16d47ed1

大念住経(大念処経)11http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/f473c78a9b87f2d36e9a135301332cd1

大念住経(大念処経)12http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/abd4feeb4861a783cb20f1458805aa59