HAZAMAN'S WORLD WEBLOG

自分が描く絵のことや、日々の暮らしの中でふと気付いたことなど・・・・

歴史を見るということ

2006年07月17日 | Weblog
先日友人と話していたら、彼はどこかで葛飾北斎の展覧会を見たらしく、何故だかずいぶんとがっかりしていました。

どうしてだろうと思ったら、彼いわく、浮世絵の技術力の高さというものは有名だし、どれほどすごいものかと期待して見に行ったのだが、今の印刷技術に慣れた現代人にはずいぶん貧相なものに見えるとのことでした。

例えば色数も少ないし、版の彫り損ねた部分も目に付くし、細部が素晴らしいという割にはそんなに細かい仕事をしているわけではない。そういった内容のことをことを延々話してくれるわけです。

ぼくが北斎を初めてまともに見たときとは随分異なる感想だなと、ちょっと驚いたのですが、彼は印刷技術としての浮世絵を見に行ったわけで、それは仕方がないことかもしれません。

彼の話を聞きながら感じた違和感があって、それをその場で言葉にできなかったのですが、多分、過去のものを見る時にぼく達はそれが過去のものであるということをはっきり自覚して見なければいけないのだと思うのです。

例えばT型フォードという歴史上有名な車があります。あの車と、その生産方式の登場によって、自動車の大衆化が始まったという話を聞いたことがあります。

T型フォードは言ってみれば現在の車社会の原点のような存在だと思うのですが、じゃあその車の性能だけを取り上げて、時速300キロで走る物が当たり前のようにある現代の車と比較してしまったら、どんな名車だってゴミにしか見えないでしょう。

過去の歴史の中で当時どうだったのか、その視点を持たずに過去を眺めると多くのものを見逃してしまうように思うのです。歴史を学ぶということは、偏狭な今の判断基準だけで即断してしまわないよう、考えるためのヒントを得るために学ぶという側面があるように思うのです。それに、過去の積み重ねがあって今があるのだから、その積み重ねを検証する作業は、むしろなされて当然というべきでしょう。

例えば日本では印象派が異常なまでに人気があります。そこまで人気があるのは、何かしら日本人の感性にフィットする部分があるのでしょうし、印象派から得られるものが何かあるからなのだと信じています。しかし印象派が現役だった当時の主流が何だったかといえば、それはいわゆるアカデミーで作り出された作品群であったし、単に作画技術だけ取り上げてみても、アカデミー出身の作家たちは印象派の素人作家に比べれば遥かに真っ当な絵の造り方を知っていたはずです。

では、何故アカデミー出身の作家たちは忘れ去られ、印象派ばかりが語られるのか。ここではぼくの友人が北斎に対して抱いた感想と逆の現象が起こっていますね。

勝手な想像ですが、当時の主人公になり始めていた大衆出身の作家たちが、自分たちにとってリアルなことをリアルな方法で形にしようとしたときに、技術や伝統を二の次にしたような表現をどうしても必要としたのではないかと思うのです。貴族や王族といった階級が歴史の背景に引っ込んでしまった以上、それと共にあったアカデミーが衰えるのもまた必然といえるのではないでしょうか。

そして北斎は、単なる個人的な思い入れで恐縮ですが、本当に死ぬまで描き続けたそのエネルギーに感服します。そしてその作家の意思をきちんと印刷物に置き換えた無数の職人の技術。これは驚嘆に値すると思います。

今の時代の、例えばダイレクトメール印刷などで、こちらの思っている色と出来上がりがまったく違って当たり前という感覚。江戸時代の印刷技術のどこが貧相だというのでしょう。現代の技術のほうが遥かに劣っているようにしか見えません。なんといっても、技術が人間の感性をまったく反映できていないのですから。