旅慣れた二人のお気に入り

北から南から有名な場所を巡り 旅行した中でのすばらしき大きな感動を得られたお気に入りの場所です。

稽照殿入口

2009-11-27 11:25:32 | 日記
稽照殿入口

 上杉神社の宝物殿。

 上杉謙信公の遺品を主として二代景勝公・直江廉続公・中興の名君鷹山公の
 
 遺品・遺墨等がほとんどで、平安より江戸期の絵画・書跡・刀剣・甲冑・武具
 仏器、陶漆器、服飾類等多種多様であります。
 
 重要文化財、重要美術品、県文化財を含む。上杉神社再建に当たり、その宝仏殿として
 創設されたものです。文化財約1000点を収蔵、「愛の兜」もここにあります。
 直江兼続が所有していた「金小札浅葱糸縅二枚胴具足」つまり「愛」の前立の甲冑も
 みることが出来る。
 直江兼続といえば誰しもがピッカピッカに輝く「愛の兜」と前立てを思い出します。
 
 この前立ての「愛」の意味として一般的には仏教の「煩悩即菩薩」を表す愛染明王          という説と火の神や軍神である「愛宕権現」の象徴という説が伝わっている。
 どちらにしても、愛と義を重んじた直江兼続らしい兜といえる。








上杉神社楼門・家訓16ヶ条

2009-11-27 11:05:20 | 日記
上杉神社




 上杉神社

 米沢市街の中心、米沢城の本丸跡地である松ヶ崎公園にあります。
 藩祖上杉謙信を祭る現在の建物は、大正12年(1923)に再建された。

 上杉神社への参道は入口を入ってすぐに上杉軍の旗「毘」と「龍」が見えて
 一つ目の鳥居の先に二つ目の鳥居が見え、その先に黄色く紅葉した木が美しい
 更に進んで行くと大鳥居が見えてきます。

 上杉神社楼門

 手前に拝殿・本殿に入る楼門があり、門を入った先に上杉神社
 米沢市の中心、米沢城の本丸跡に建てられた神社で藩祖上杉謙信を祭る。
 
 現在の建物は質実剛健を掲げる上杉家らしく威風堂々とした建物は大火を受けて
 大正12年(1923)に再建されたもの

 上杉家の家紋は「竹に2雀」

 お手水はどこでもよく見られるのは「竜神」の口ですが、上杉神社のは「虎」の口である。
 上杉謙信公の俗名は、幼名虎千代・元服して景虎・1561年上杉憲政の養子に迎えられ
 上杉政虎に改名して、同年冬、将軍足利義輝の一字を賜わって、上杉輝虎に改名する。
 上杉謙信と称するのは1570年41歳の時からである。

 境内には宝在心(上杉謙信公が残した上杉家 家訓16ヶ条)の石碑があります。



 1:心に物なき時は心広く体泰(やすらか)なり2:心に我儘なき時は愛敬失はず

 3:心に欲なき時は義理を行う        4:心に私なき時は疑うことなし

 5:心に驕りなき時は人を教う        6:心に誤りなき時は人を畏れず  (へつら)

 7:心に邪気なき時は人を育つる       8:心に貧(むさぼり)りなき時は人に諂うことなし

 9:心に怒りなき時は言葉和らかなり    10:心に堪忍ある時は事を調(ととの)う

11:心に曇りなき時は心静かなり      12:心に勇みある時は悔やむことなし

13:心いやしからざる時は願い好まず    14:心に孝行ある時は忠節厚し

15:心に自慢なき時は人の善を知り     16:心に迷いなき時は人を咎めず






対面石・宝珠橋

2009-11-23 13:55:44 | 日記
対面石

 山寺の宝珠橋のたもとに巨石がある。

 磐司磐三郎はこの周辺の猟師の頭で、磐司岩(二口峠を越えて宮城県に入った処)を
 本拠地にして、日々猟をして暮らしていた。

 慈覚大師が立石寺を開創するにあたって、磐司磐三郎に交渉して宝珠山の一帯の山地を借り
 なお慈覚大師は殺生を戒めこの地に仏道を広める、根拠地を求めたと伝えられる。
 磐司磐三郎は得心して猟をやめ、快く山地を譲り、いろいろ奔走して慈覚大師の事業を助けた
 という伝説が伝えられている。

 狩人をやめたことを喜んだ動物たちが、磐司磐三郎に感謝して踊ったというシシ踊りが
 この地に伝えられる。
 毎年旧暦の7月7日(今の8月8日)の祭礼には山寺および近村の人々によって「シシ踊り」が
 奉納されている。
 山寺の「シシ踊り」の「シシ頭」は獅子や鹿ではなく、「あおしし(かもしか)」の頭部を
 模した特異なものであるという。

 慈覚大師と磐三郎が対面して交渉したのが川原町にある巨大な2個の大岩の上でこの岩を
 対面石と呼んでいる。




宝珠橋

 赤い橋は立谷川に架かる宝珠橋、宝珠山を望んだ写真。
 赤い橋の左の方に大きな石があり、立谷川の対面石と言われている石である。

抜苦門・立石寺本坊・立石寺登山口

2009-11-22 14:19:50 | 日記
抜苦門

 下山道を行くとある門です、「参拝者の全ての苦悩を抜ける」との事です。

 この門はお山を登らなくても「山門」までくれば通れるから、体の弱い人や足の悪い人

 お年寄りでもその恩恵を受けられる。
 




立石寺本坊

 一連の登山道の最終的な出口にあたる、本坊には池や日本庭園が整備されている。
 来賓を通す客殿、現在はお山全体の管理事務所。

 立石寺の登山口

 階段は続くぞ どこまでも、出羽三山の階段とは違って本当に石の階段そのもので
 もう少し足を鍛えなくてはと反省しています。
 やすみなく、この傾斜の階段が続くとは思っていませんでした。

左側が大仏殿・右側が奥の院(如法堂)・金灯篭

2009-11-22 11:31:39 | 日記
奥の院の左側の大仏殿

 石段終着点の左側にあるのが大仏殿である、左側の大仏殿にはピカピカの像。
 
 高さ5mの金色の阿弥陀如来像が安置されており、毎日、卒塔婆供養が行われています。
 
 また、大仏殿の奥には沢山の絵馬が奉納されている。左側の写真です。

奥の院の右側の如法堂

 石段の終着地点、右の建物が奥の院
 
 参道の終着点にあることからそう呼ばれ、正式名称を「如法堂」と言う

 明治5年(1872)の再建

 慈覚大師が中国で修行中に持ち歩いた釈迦如来と多宝如来を本尊とする写経道場。

奥の院(如法堂)の写経

「奥の院(如法堂)」には今も残る4寺院から交互に僧侶がお務めにきて

「一字三礼の法」の写経をしています。

 これは一文字書くたびに、五体を地に投げて三度礼拝する、このやり方で一日に

 七行半づつ4年かけてつとめる。

 この折「石墨草筆」と言って石器時代の堅い石の墨で磨る、少しも減らないそうで

 たまに血のような色も出ると言う、こうして行われた写教が百丈岩の赤い「納経堂」に奉納される





金灯篭

 写真右の建物奥の院(如法堂)の階段下、手前に見えるのが大きな金灯篭です。

 宮城県の金華山・香川県の金毘羅山のものと、ともに日本三大灯篭に数えられる。