旅慣れた二人のお気に入り

北から南から有名な場所を巡り 旅行した中でのすばらしき大きな感動を得られたお気に入りの場所です。

直江兼続・「直江状」・暮らしぶり

2009-11-29 20:12:36 | 日記






直江廉続

 永禄3年(1560)  現在の新潟県南魚沼市で生まれる。
 執政として上杉家を取り仕切り、景勝を支えた。

 豊臣秀吉の命を受けた景勝と共に慶長3年(1598)越後から会津へ移封。
 後に米沢城主となり治水、植林をはじめ城下町建設を積極的に行った。
「利」を求める戦国時代において「義」を貫いた。直江兼続のトレードマークとして有名な「愛の兜」

 豊臣秀吉の特命により米沢30万石領し、諸候としての待遇を受けた直江廉続、
 秀吉の引き抜きを幾度も断るなど忠節に厚い人物で秀吉から「直江廉続は天下の仕置きを任せ
 られる男なり」と評された。

 直江状

 上杉家に対して徳川家康は謀反の疑いをかけました、それに対して直江廉続が16ヶ条にわたり
 釈明したものが「直江状」です。

 慶長5年(1600)4月14日付きで会津の直江廉続から京都の僧・西笑承兌(さいしょう
 じょうたい)に宛てた書状です。
 家康の意向を受けた承兌が謀反の嫌疑をかけられた景勝に起請文の提出と上洛を促していること
 に対し直江廉続が真っ向から反論する内容になっています。原本は現存していません。

 しかし、直江廉続の返書「直江状」に家康激怒し、上杉征伐を決意、
 同年9月15日「関ヶ原の合戦」

 慶長6年(1601)景勝、家康への降伏を決意し、直江廉続と共に上洛、家康に謝罪し
 上杉家の存続を許されるが会津120万石から米沢30万石に減封される。

 直江廉続の「直江状」は民の上に立つ者として謙信以来の「義」を中心に置いて戦いは
 極力避けるが避けられない戦いは「愛民」の精神によって決断すると言う、
 智勇兼備の武将・直江廉続の出陣哲学が窺える。

 直江廉続の暮らしぶりは非常に質素なものであったと言われています。
「朝食のおかずは山椒三粒でよい」身につける衣服も質素なもので最も上等な羽織の裏は細かい
 継ぎ布を縫い合わせたものでした。
 このように日常の暮らしは質素なものでしたが有益な事業には多額の私財を惜しげもなく
 投じています。

 直江廉続の遺品は武具と書籍だけであったと言われています。
 



上杉謙信 祠堂跡

2009-11-29 16:37:04 | 日記
上杉謙信 祠堂跡

 江戸時代は藩祖・上杉謙信の霊骸を安置した祠堂がここにあり、中央正面に上杉謙信の遺骸を
 安置し、その左右に善光寺如来と毘沙門天像を奉置していた。
 
 その後は歴代藩主の位牌も祀り最も神聖な場所であった、厳重な掟が定められ、二の丸に
 置かれた。法音寺・大乗寺などの真言宗寺院21ヵ寺が交代で奉仕した。
 また上杉謙信の命日には歴代藩主が参拝し鷹山が3日間の断食をして降雨を祈願した
 所でもある。

 上杉謙信は天正6年(1578)3月13日越後春日山城で逝去、享年49歳であった。
 その遺骸は甲冑を着せ、甕(かめ)に納め漆(うるし)で密閉したと言われている。

 1600年の関ヶ原合戦における西軍の敗退を受けて、西軍に加勢の罪により
 その後謙信の跡を継いだ上杉景勝が会津120万石から米沢30万石に移封されるに伴い
 謙信の遺骸も移され、米沢城南東隅のこの地に御堂を建て安置した。

 上杉家が徳川家康による会津から米沢へ移封された時も禄と領土を削減され苦しい生活を
 迎えたが、ほとんどの人が上杉家を脱藩しょうとせずに付いて来たのも上杉謙信に対する
 根づよい信仰があり、今もなお愛され尊敬され続けている。
 上杉謙信公をとても尊敬しているのが相棒である。ちなみに相棒は他人に厳しく
 己に甘いのである。

 その後は歴代藩主の位牌も祀り、最も神聖な場所として厳重に鄭重に祀られた。
 明治4年の廃藩に際し、仏式を改め神式とし、謙信は上杉神社の祭殿として祭られる。
 謙信の遺骸は同9年に歴代藩主が眠る御廟所(上杉家墓所)に移された。




 

上杉鷹山公・「伝国の辞」・ケネディ大統領

2009-11-28 14:10:17 | 日記
 上杉鷹山公



 宝暦元年(1751)日向国(宮崎県)高鍋藩秋月家の二男として江戸に生まれ
 9歳で上杉家の養子となる。

 鷹山とは隠居後の雅号で幼名は松三郎、元服後は治憲を名乗り、17歳で家督を相続して
 米沢藩10代藩主になった。

 当時、藩財政は著しく貧窮していたため鷹山公は大規模な緊縮財政と漆(うるし)・桑等の
 大量植樹や製紙・織物等の産業開発による殖産興業政策を実行し、自ら木綿の服に一汁一采の
 食事という倹約を実践、自ら田に鍬を入れ「籍田の礼」を行う

「成せば成る 為さねば成らぬ 何事も成らぬは人の為さぬなりけり」の和歌は鷹山公が
 残した教訓として有名。

 今や置賜地域の特産品として名高い米沢織や笹野一刀彫、成島焼、コイの養殖等を
 奨励し、発展させたのも鷹山公である。行政改革の先駆者として名高い。
 鷹山の袴・・いつも身に着けていた鷹山の袴を直江袴と言うんだそうです、直江廉続が考案
 したものを鷹山は仕事着として常に着用しており、後の女性のモンペと形を変えてゆくことに
 なったとか言われています。

 また「してみせて 言って聞かせて させてみる」 この言葉も残している。

  私はとっても気に入っているので相棒にも伝えていますが反応なし?

「受次ぎて国の司の身となれば、忘れるまじきは民の父母」

 上杉鷹山が17歳で米沢藩主となった時の決意を込めた言葉である。
 わずか17歳の鷹山がそこまで自分を律し、米沢藩のため愛情をもってつくす決意には
 感動します。相棒にも少し自分を律して欲しいものです?

「伝国の辞」

 上杉鷹山が家督を譲るに当たり、藩主の心得として伝授したのが「伝国の辞」
 境内に「伝国の辞」の石碑があります。

 一、国家は先祖より子孫へ伝え候
 一、国家にして我私すべき物には無之候
 一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物には無之候
 一、国家人民の為に立たる君にして君の為の立てたる国家人民には無之候

 右三条御遺念有るまじく候事

 「伝国の辞」は上杉家の明治版籍奉還に至るまで代る家督相続者に家訓として伝承された。
 35歳で隠居した後も藩の財政復興に携わり、晩年には軍用金の備えも出来るほどに
 財政は改善したという。
 鷹山公は文政5年(1822)72歳でこの世を去ったが、その人柄や画期的な改革や政治姿勢が
 今日でも称賛されている。

 その名君としての評価は、日本国内にとどまらず、ケネディ米国大統領をして
「最も尊敬する日本人」と言わしめたという。



松岬神社・春日山林泉寺について

2009-11-28 13:05:24 | 日記





松岬神社

 祭神は上杉景勝・上杉鷹山・直江兼続・細井平洲・竹俣当綱・荏戸善政の6柱

 もとの直江屋敷、その後景勝屋敷となった場所です。

 上杉神社の参道、眼鏡橋をすぎて、境内に伝国の辞の石碑があります。

 米沢藩主初代景勝と上杉家謙信を師と仰ぐ直江廉続とは強い信頼で結ばれた

 主従関係にあった、米沢城の基礎を築いた二人。

 越後守護代であった長尾能景公(上杉謙信公の祖父)がその父である重景公の勲業を
 子孫に残そうとの願いから建立されたのが林泉寺。

 上杉謙信公の祖父の法名「林泉寺殿賽渓正眞大居士」から長尾景虎公(後の上杉謙信)
 が上杉家を相続された時に上杉家の氏神である奈良の春日明神を観請し、山号を
 「春日山」とした、そのようなことで林泉寺はずっと長尾家の菩提寺であり、その
 法縁により、上杉謙信公は7歳から14歳までの7年間をこの林泉寺で過ごした。

 長尾家・上杉家の菩提寺であり、直江廉続の菩提寺でもある。

上杉謙信公の像・「敵に塩を送る」

2009-11-27 13:13:46 | 日記
上杉謙信公の像

 上杉謙信は享禄3年(1530)1月21日に生まれる。
 長尾為景の四男として寅年に生まれたことから幼名は虎千代、7歳の景虎の時
 春日山林泉寺に預けられ、当時の六代目名僧天室和尚から教えを受ける。

 謙信の生涯を貫く深い信仰心はこの時培われたものと言われる。
 長じてからの謙信公は七代目の益翁和尚より厳しくも慈愛に満ちた「禅の奥儀」を
 学ばれ和尚様の謙の一字を頂戴して「謙信」と名乗られたのです。

 和尚様と謙信公は血のつながりより強い師弟の「絆」が感じられます。
 謙信公の戦乱の世にありながら清明な思考を持ち、それを貫き通した生き方はこの時
 形づくられたと言われている。

「敵に塩を送る」と言う上杉謙信の有名な話があります。

 太平洋側からの「塩」の道を北条に断たれて苦しんでいた甲斐の人々に日本海側から
 援助の手を差しのべたのである。

 侵略ではなく“平定”のために生涯戦ったのが聖将上杉謙信である。
 戦いに勝利しても上杉謙信は決して、その領土を奪ったり、自分の領土にしなかったという
 また自ら戦いを仕掛けることもなかった。

 27歳の時には出家を志して、高野山に登るが臣下に思いとどまらせられ
 40歳にして法号「謙信」を称し、45歳で剃髪の、後49歳で病に倒れるまで
 生涯その仏道を離れることはなかった。
 
 上杉謙信公は毘沙門天を深く信仰し、軍旗に「毘」の一字を用いた。
「龍」の旗は上杉家が総攻撃を仕掛ける時に本陣に掲げられたと伝わる。

 出陣に際しては神仏の加護を願い、天に代わって、世の邪悪を払う「武禘式」を執り行った。
 生涯女性を近づけなかったのも信仰上の信念によるものであったとも言われる。
 上杉謙信は詩歌・連歌の道にも堪能で、書は近衛流の名手と称された。
 天正5年七尾城外で詠んだ「九月十三夜」は今も人々に親しまれている。

 天正6年(1578)3月9日
 関東平定の出陣を前にして病に倒れ、同じ月の13日突然として逝った。
 享年49歳である。
 遺体は甲冑を着て納められ、上杉家廟所の中央に眠る。