旅慣れた二人のお気に入り

北から南から有名な場所を巡り 旅行した中でのすばらしき大きな感動を得られたお気に入りの場所です。

総門

2010-01-29 16:11:13 | 日記





 総門

 明治17年4月10日改築
 総木欅造り、 銅板 コケラ葺き、門扉は如輪目の欅一枚板の逸品

 この総門は当時の創立から二百十四年後の明歴2年(1656年)に一度改築された。
 現在の門は明治17年(1884年)4月18日
 当寺29世黙童禅師によって上棟改築されたものである。

 門扉及び両袖の扉は一千有余年の樹齢を重ねた 高さ4,5メートル・巾 1,8
 メートル・厚さ 15センチの欅(けやき)の一枚板で欅独特の如鱗(うろこ)の
 ような木目は類い稀な木材として、専門家にしられている。

 屋根は銅板鱗葺きで、又、諸処に使用されている唐金手彫りの金具は優れた
 技法を示している。

 頭上に祀られている十六羅漢は名匠で諏訪の和四郎、その他名工の合作と言われ
 参詣の諸人はこの仏様に見守られながらこの門をくぐるのである。



景雲門・三大稲荷について

2010-01-29 14:50:21 | 日記




 景雲門

 安政5年創建
 もとは奥の院拝殿であったが、昭和5年に移転、彫刻は諏訪和四朗の作。


 三大稲荷にも諸説ありますが

 一般的には伏見稲荷大社(京都市)笠間稲荷神社(茨城県)祐徳稲荷神社(佐賀県)
 とされます。

 三大稲荷の一つともされる
 愛知県の豊川稲荷は神社ではなく、正式には円福山妙嚴寺という寺院です。

 本尊である千手観音菩薩の鎮守として祀られたもので

 祭神は宇迦之御魂神ではなく仏教の吨枳尼眞天、です。

 𡧃迦之御魂神とは
 この神は御鐉津神ともいわれるように食物の神、特に稲作を中心とした五穀豊穣の神で
 稲荷は「稲生(いななり)」が転化したものだが、徐々に商売繁盛の神に変わってきた。

 豊川稲荷というのは一般的呼称で、正式には妙嚴寺といい神社ではありません。

 ところが境内には多数の稲荷のキツネや林立する幟が見られ
 建物の様式以外は稲荷神社の風情です。

 ただし、伏見稲荷の系統でないので、
 鳥居は赤ではありません。決定的な違いだと思います。

奥の院・禅堂(万燈堂)・千本幟(のぼり)

2010-01-29 14:23:08 | 日記







 奥の院

 文化11年(1814)建立で、旧本殿の内陣の建物を奥の院の本殿とし

 もと、旧本殿の拝殿であったのを昭和5年の改築に際してを奥の院の拝殿にし、

 大本殿の新築にともなって、この場所に移築された。

 この建物は祭典の行事が行われる霊殿で、信者の諸人が至心を凝らして
 参拝し読経礼拝される。

 拝殿の諸処に見られる種々の彫刻は名匠 諏訪の和四朗の一代の傑作と言われている。

 







 禅堂(万燈堂)

 文久3年(1863)9月に建立された、間口13間(19,9メートル)奥行き7間
 (14,5メートル)の構造でその名の如く参拝の諸人が信仰の心を分に応じて或いは
 一灯を或いは万燈に具現して献じ供養する霊堂である。

 正面には豊臣秀吉の念仏仏と伝えられる、不動明王及び文殊菩薩の像が奉祀されている。
 又、禅堂として座禅修行の道場である。

 千本幟(のぼり)

 奥の院に通じる参道は両側に人々の願いを込めた、千本幟(のぼり)が立ち並んでいます。
 たくさんの数です。










 



 

山門の鎮守の木(お金の成る木)

2010-01-29 13:03:23 | 日記






 吨枳尼眞天のその霊験は顕著で、
 今川義元公、織田信長公、豊臣秀吉公、徳川家康公等
 広く一般信者の帰依、信仰を集めた。

 写真は山門の鎮守・豊川吨枳尼眞天が祀られたお堂です。

 お堂の前の木は知る人ぞ知る木です、お金の成る木と言われているそうです。
 左側の木の葉っぱをお財布にいれて失くさないように、するとよい事があるそうです。

 前回来た時のバスガイドさんがとても詳しく、ちゃかりと
 (相棒と二人の個人旅行だったので)拝聴いたしました。

 葉っぱが欲しいからと枝を折ってはいけないそうです。あくまでも 落ちてる葉っぱだ
 そうです、今回の添乗員の方は知らないようでした。

 前回もこの葉を戴き財布に相棒と挟んでいたのでしたが、本当に良い一年でした。
 相棒と二人で一番に門をはいって、探しました。

 今度も手に入ったので、ツアー御一緒した若い御夫婦に一番綺麗で大きな葉を
 差し上げました。
 若いお二人に良い事がありますようにと願って渡しました。

平八郎稲荷の伝説・神の使い(眷属)

2010-01-22 15:06:05 | 日記




 平八郎稲荷の伝説

 豊川吨尼眞天は世に「平八郎稲荷」とも称せられています。

 この寺の開祖東海義易和尚が妙嚴寺開創の時、一人の老翁があらわれ「お手伝いを
 いたします」と禅師の左右に侍してよく働き、自ら平八郎と称していた。

 老翁は一つの小さな釜を持っているだけで、ある時は飯を炊き、ある時は采を煮て
 またある時は湯茶を沸かし、幾十人、幾百人を展侍するにも この不思議な釜で間に合い
 ましたので、その神通に驚かないものはありませんでした。

 一体どのような術を使っているのかと尋ねると、平八郎は
「私には三百一の眷属があります、どんな事でも出来ないということは
 ありません、またどんな願いも叶うのです。」と申しました。

 この不思議な老翁は開山東海義易禅師が遷化されてから、忽然と姿を消してしまい
 あとには翁が使っていた釜だけが残されていました。

 この因縁により妙嚴寺は、世に平八郎稲荷と称されるようになりました。

 この平八郎稲荷と三百一の眷属に対しては、年に二度の大祭の時、儀式中に
 眷属供養の厳粛な秘法加行を伝承的に執行しています。

 神の使い(眷属)
 
 稲荷のキツネはあくまで神の使いであって、神そのものではありません。
 日本の神々はその姿が見えない「幽体」に特徴があります。
 その神が姿が見える形で遣わしたのが、神の使い、すなわち眷属と言われています。