上杉謙信公の像
上杉謙信は享禄3年(1530)1月21日に生まれる。
長尾為景の四男として寅年に生まれたことから幼名は虎千代、7歳の景虎の時
春日山林泉寺に預けられ、当時の六代目名僧天室和尚から教えを受ける。
謙信の生涯を貫く深い信仰心はこの時培われたものと言われる。
長じてからの謙信公は七代目の益翁和尚より厳しくも慈愛に満ちた「禅の奥儀」を
学ばれ和尚様の謙の一字を頂戴して「謙信」と名乗られたのです。
和尚様と謙信公は血のつながりより強い師弟の「絆」が感じられます。
謙信公の戦乱の世にありながら清明な思考を持ち、それを貫き通した生き方はこの時
形づくられたと言われている。
「敵に塩を送る」と言う上杉謙信の有名な話があります。
太平洋側からの「塩」の道を北条に断たれて苦しんでいた甲斐の人々に日本海側から
援助の手を差しのべたのである。
侵略ではなく“平定”のために生涯戦ったのが聖将上杉謙信である。
戦いに勝利しても上杉謙信は決して、その領土を奪ったり、自分の領土にしなかったという
また自ら戦いを仕掛けることもなかった。
27歳の時には出家を志して、高野山に登るが臣下に思いとどまらせられ
40歳にして法号「謙信」を称し、45歳で剃髪の、後49歳で病に倒れるまで
生涯その仏道を離れることはなかった。
上杉謙信公は毘沙門天を深く信仰し、軍旗に「毘」の一字を用いた。
「龍」の旗は上杉家が総攻撃を仕掛ける時に本陣に掲げられたと伝わる。
出陣に際しては神仏の加護を願い、天に代わって、世の邪悪を払う「武禘式」を執り行った。
生涯女性を近づけなかったのも信仰上の信念によるものであったとも言われる。
上杉謙信は詩歌・連歌の道にも堪能で、書は近衛流の名手と称された。
天正5年七尾城外で詠んだ「九月十三夜」は今も人々に親しまれている。
天正6年(1578)3月9日
関東平定の出陣を前にして病に倒れ、同じ月の13日突然として逝った。
享年49歳である。
遺体は甲冑を着て納められ、上杉家廟所の中央に眠る。
上杉謙信は享禄3年(1530)1月21日に生まれる。
長尾為景の四男として寅年に生まれたことから幼名は虎千代、7歳の景虎の時
春日山林泉寺に預けられ、当時の六代目名僧天室和尚から教えを受ける。
謙信の生涯を貫く深い信仰心はこの時培われたものと言われる。
長じてからの謙信公は七代目の益翁和尚より厳しくも慈愛に満ちた「禅の奥儀」を
学ばれ和尚様の謙の一字を頂戴して「謙信」と名乗られたのです。
和尚様と謙信公は血のつながりより強い師弟の「絆」が感じられます。
謙信公の戦乱の世にありながら清明な思考を持ち、それを貫き通した生き方はこの時
形づくられたと言われている。
「敵に塩を送る」と言う上杉謙信の有名な話があります。
太平洋側からの「塩」の道を北条に断たれて苦しんでいた甲斐の人々に日本海側から
援助の手を差しのべたのである。
侵略ではなく“平定”のために生涯戦ったのが聖将上杉謙信である。
戦いに勝利しても上杉謙信は決して、その領土を奪ったり、自分の領土にしなかったという
また自ら戦いを仕掛けることもなかった。
27歳の時には出家を志して、高野山に登るが臣下に思いとどまらせられ
40歳にして法号「謙信」を称し、45歳で剃髪の、後49歳で病に倒れるまで
生涯その仏道を離れることはなかった。
上杉謙信公は毘沙門天を深く信仰し、軍旗に「毘」の一字を用いた。
「龍」の旗は上杉家が総攻撃を仕掛ける時に本陣に掲げられたと伝わる。
出陣に際しては神仏の加護を願い、天に代わって、世の邪悪を払う「武禘式」を執り行った。
生涯女性を近づけなかったのも信仰上の信念によるものであったとも言われる。
上杉謙信は詩歌・連歌の道にも堪能で、書は近衛流の名手と称された。
天正5年七尾城外で詠んだ「九月十三夜」は今も人々に親しまれている。
天正6年(1578)3月9日
関東平定の出陣を前にして病に倒れ、同じ月の13日突然として逝った。
享年49歳である。
遺体は甲冑を着て納められ、上杉家廟所の中央に眠る。