旅慣れた二人のお気に入り

北から南から有名な場所を巡り 旅行した中でのすばらしき大きな感動を得られたお気に入りの場所です。

お観音様・阿弥陀如来様

2010-02-26 16:11:32 | 日記
観音信仰は何宗何派にかかわらず広く信仰されています。

 天台宗、真言宗、禅宗、浄土宗もそれぞれ観音様を祀っています。
 日蓮宗でも「法華経」の中に観音様がいますし
 浄土真宗は弥陀一仏といって阿弥陀信仰ですが、聖徳太子を観音の化身と信じて祀っています。
 禅宗はお釈迦様が主尊ですが、禅宗の初祖の達磨大師を観音の化身と信じて祀っています。
   達磨大師はインドの人ですが少林寺で九年間壁に向かって座禅を組み面壁九年の行をする。
       そのため両足を失ったそうです。

 お観音様は如来でなく菩薩です、仏の格で一番高いのが如来で次が菩薩です

 菩薩は如来と衆生の間に位置していて、如来がそのままでは威厳がありすぎるので、親しみ
 やすいように、人間の姿になって救いに来てくれる仏様だと考えられています。

 だから私たちをいつでも救けて下さろうという形、たいてい立ったお姿をして
 いらっしゃいます。

 また、私たち人間はどんなに頑張っても如来には なれないけれど、仏の教えを守り
 菩薩行を積めば菩薩になれると信じてきました、手を伸ばせば届くと言う親しさ

 比叡山(天台宗)千日回峰行は菩薩行・出家・在家を問わない修験道(山伏)の
 即身即仏を実修する菩薩道(明治5年修験道廃止令)。

 また、お釈迦さまが人間なのになぜ釈迦如来になれたかと言うと、お釈迦様はもともと
 仏様だったのが、衆生済度のため人間の姿でこの世にあらわれていたからです。

 写真は狗留孫山の杉と山道です。

石鎚山(いしづちさん)鎖場

2010-02-26 12:41:22 | 日記
 石鎚山(いしづちさん)

 愛媛県中部に位置する西日本の最高峰

 頂上にあたる天狗岳や弥山などは独特の大巌峯で、信仰の歴史は古く、奈良期の霊験譚を
 記載した「日本霊異記」には浄行の人でなければ、登れない神山とされ「梁塵秘抄」には
 大峯・葛城と並ぶ聖の住む浄所とされ山岳修験の霊場として知られている。

 空海(弘法大師)や比叡山第三世光定の入山も伝わり、「諸山縁起」では芳元が大峯山の
 修行後、石鎚山に熊野権現を勧請したと伝わり、熊野修験と密接な関係があった。

 明治の神仏分離で石鎚山は石鎚神社、石鎚神社は新たに石鎚本教を設立した、前神寺は
 真言宗石鉄派を組織した。

 山頂下にある天柱石周辺には空海(弘法大師)修行の伝承があり、独特の宇宙観が
 あるとの事でした。

 この山は亡き父が何度も頂上めざしてお参りした山でとても険しく、写真の鎖を
 しっかり握りしめ、足元も大変危険である。現在も女入禁制です。

 当時二十歳までしか生きられないと言われたのがきっかけで、山の宗教を信じ
 狗留孫山、石鎚山、に登ったそうです。

 さらに長生きできたからと富士登山をして当時最高齢として、山小屋新聞に最高齢として
 年が載ったそうで、すぐに更新されましたが、それでも嬉しそうに話していました。

 滝にうたれ、座禅を組み、お籠りをして経を読み、お祓いの九字を切れました。また他の
 人が真似出来ないほどの子煩悩な父親でしたので相棒は私に羨ましいと言っていました。

 相棒の父親はとても厳しくて、近寄りがたく恐かったそうです。
 厳格な父親に育てられた相棒は寡黙で、思慮深くと私は受けとめたのですが
 まったく違っていました、なーんにも考えてなかったということが分かり
 そのことを相棒に話すとニャリとしています。ああ、私の大いなる勘違い・・・
 
 写真は石鎚山の鎖場です。




朝題目に夕念仏(ことわざ)・恐山(日本三大霊場)

2010-02-26 10:38:23 | 日記


 朝 題目に 夕 念仏のことわざ

 朝方に日蓮宗のお題目を唱え、夕方には浄土(真)宗の念仏を称える。
 無節操のたとえで、しっかりした自分の意見や考えのないこと、けれども朝に題目を
 唱え、夕方に念仏を称えるのも、もともとは仏教の総合大学である天台宗比叡山の
 伝統で、天台宗の日課勤行でした。

 日蓮宗の日蓮上人も浄土宗の法然上人も、ともに比叡山に学び、それぞれ題目、念仏
 を選びとったものです。

 平安仏教は・・・真言宗と天台宗
 鎌倉新仏教は・・浄土宗・浄土真宗・臨済宗・曹洞宗・日蓮宗が立教開宗している。
         各宗祖とも比叡山に学び、独立しました。

 最後に出た日蓮上人は「念仏無間(むげん)・禅天魔・真言亡国・律国賊」と
            厳しく他宗を論難しました、特に念仏に対する批判はすさまじく
           「題目」と「念仏」はまさに犬猿の仲だったのです。
            その相容れるはずのない「題目」を朝に唱え夕に「念仏」するなど
            ありえないものだった。

 法然・・・「念仏」を掲げて人間救済のシンボルにした。
 親鸞・・・「念仏」を掲げて人間救済のシンボルにした。
 道元・・・唯一「座禅」の効用のみ説いて、他の一切には目もくれなかった。
 日蓮・・・「題目」の傘下には参ずべきことを唱えて、一歩も譲らなかった。
 空海・・・「即身成仏」生身の人間のまま、仏になると言う実践課題を言った。
      心の領域と魂の世界、即身にして仏に成る、空海(弘法大師)は唐の長安で
      青龍寺の恵果に師事して、その師から「遍照金剛」の密号も授かっている。
      恵果との出会いは半年後に恵果がこの世を去ったので短い出会いだった。
 恐山
 日本三大霊場とは比叡山・高野山・恐山を言います。

 恐山は元は地元の人々の祖霊が住む山とされていたが、中国から帰られた慈覚大師が
 838年地蔵菩薩を彫刻したのが、恐山信仰の始まりとされます。

 中世には 天台宗・真言宗・浄土宗・禅宗の修行者が集まり、複雑な歴史をたどって
 きました、今は曹洞宗円通寺の管理下にあります。

 現在でも死者霊を呼ぶ「イタコの口寄せ」が行われています。
 相棒とお盆に恐山に出掛けたのですが、行きも帰りもスゴイ渋滞に巻き込まれ
 大変な思いをし、また、「イタコの口寄せ」も長蛇の列で諦めました。
 二度と行けない場所だとわかりました。



英彦山(ひこさん)九州北部の最高峰・行者の教え

2010-02-21 16:40:51 | 日記
 英彦山(ひこさん)

 福岡・大分の県境にまたがる、九州北部の最高峰

 羽黒山・大峯山と並ぶ 三大修験の霊山とされる。

 天照大神の御子 天忍穂耳命(あめのおしほみみみこと)が、来山し鎮座したという
 神話から、最初、日子山と呼ばれていた。

 開山の歴史は古く、701年に役行者(役小角・神変大菩薩)が老母を背負って、彦山に登り
 宝満山を経て入唐した伝承や僧・善正による仏像伝来などの開基など数多く残っている。

 山中の窟に身をおき、山を駈け、滝に打たれる、山の神霊と一体になり験力を得る英彦山を       四十九窟をはじめ、窟は修験道では要(かなめ)の場となった。

 また峯入りの道沿いに掟で生きたまま葬られたと伝わる、山伏塚が約10か所知られている。
 明治の神仏分離令などで山内の仏像や坊舎は壊滅状態になり、明治5年修験道廃止令で
 英彦山修験道は途絶えた、今は英彦山神社となっている。

 この山には相棒が若かりし頃、一度登ったことがあるそうで、もちろん他人に厳しく自分に
 甘い相棒のことですから修行ではなく、青春時代の男女混合の山登りとのことでした。
 どんなに険しい山か尋ねても、誰を見ていたのか?何にも記憶ないとの答えでした。

 大峰山系峯り・・・大峰山では今も「奥駈け」と呼ばれる厳しい修行が受け継がれている。
 羽黒山修験の峯り・・毎日の「奥駈け」とは異なり、籠り型の修行といえる
           食事は鏡汁と呼ばれる具のない味噌汁と三切れの漬物に麦飯
 行者の教え

 カキやクワの若葉・・・切りあいにして味噌にあえたり、天ぷらにすると美味しい。
           (血圧を下げ、便通をよくする)
 ドクダミの葉・・・・陰干しにして煎じると、嫌な臭いはまったくなくなる。
          (血液をきれいにする)
           採りたてのドクダミの葉を火にあぶって腫れ物のうえに貼ると
           きれいに膿を吸い出し、あとも残らない。
 タケの葉・・・・黒焼きにしたものを飯粒で練り、それに食酢を加えて和紙や布に
         伸ばし 突き指・脱臼・打ち身・やけどに効能がある。

 行者が伝えた、これら教えは現在も知っておいたほうがよさそうですね。

 写真は細川忠興公寄進といわれる国宝・奉幣殿(英彦山)



曹洞宗永平寺開山 道元・臨済宗開祖 建仁院 栄西

2010-02-21 15:13:26 | 日記




 写真は永平寺です、

大本山永平寺開山 道元

 鎌倉時代の初め頃、道元は内大臣を父、摂政関白の娘を母として、名門の家に生まれた。
 十三歳で比叡山に入り、天台宗の教えを受けますが、悟りに疑問を持ち下山、より深く
 禅を学ぶために宋へ渡り、中国曹洞宗の天童山の如浄(にょじょう)に師事。
 印可を受けて帰国。
 印可=師が自分の教えを弟子に授け、その悟りの状態を見極め、
   悟りを開いたことを証明すること。その証明書が印可状。

 京都に曹洞宗最初の寺 興聖寺(こうしょうじ)を開き「正法眼蔵」を著して
 教えを説きましたが、比叡山(天台宗)からの弾圧を受けて越前に移住し
 大本山永平寺開山する。

 道元の教えの中心は「只管打座」(しかんたざ)
 座禅自体が修行であり、悟りであると説き、日常生活すべてが修行とした。

 道元は読経、念仏、焼香、礼拝などの座禅以外の一切の修行は必要ないと説き
 無条件に座禅に打ち込む「只管打座」を貫いた。

 その理由は座禅こそが正しい仏法だという信念を持つ、座禅による悟りを生活の
 なかで確かめるために、日常生活のすべての作法まで細かく教え、現在の
 日本の生活文化はこの作法から大きな影響を受けている。

 臨済宗が武家や公家に受け入れられたのに対して曹洞宗は地方の大衆に広まって行った。

 臨済宗開祖 栄西(狗留孫山修禅寺中興の祖)

 比叡山において天台の教えを学んだが27歳で宋へ留学し天台密教を深め帰国

 47歳の時再び宋へ渡り、臨済宗の禅僧と巡り合い、天童山景徳寺でも禅の修行
 をして印可を受ける、帰国後は九州で活動した後、京都へ、しかし比叡山からの
 激しい弾圧で九州へ戻らなければなりませんでした。

 弾圧に応えるために禅の正当性を主張した「興禅護国論」を著し、幕府の支援で
 京都に建仁寺を建立、比叡山に配慮して、純粋な禅でなく 天台・真言・禅の
 三宗を兼ねる寺とした。

 栄西は天台僧の立場を隠れ蓑にしながら、禅の発展に努めた。
 「公案」と呼ばれる禅問答が悟りへの道。
 狗留孫山修禅寺では中興の祖と仰いでお祀りされています。