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HARIKYU'S CAMERA CLUB 「BLOG 」

「HARIKYU'S CAMERA CLUB」の別室写真館です。
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吉田町立吉田小学校太田部分校

2006年09月29日 | 廃校をたずねて
 
廃校をたずねて ⑭

  ~ 旧秩父郡吉田町立吉田小学校太田部分校・ほか ~







① 先ずは前回の続き、旧・群馬県多野郡鬼石町立(現藤岡市)美原小学校坂原分校跡である。

開校年月日や閉校年月日などは記念碑などがないのでわからない。
ここは旧鬼石町法久(ほっく)地区という神流湖沿いの山上部落にある。





② 写真でおわかりの通り、いかにもささやかな山の分教場といった感じである。

児童数が一人だけの状態が2~3年続き、その後廃校になったと土地のお年寄りが話してくれた。
現在は地区の集会場として使われているそうであるが、この部落も高齢者ばかりであった。





③ 本校である美原小学校。

もとは神流川沿いにあったそうだが、昭和43年の下久保ダムの建設に伴って高台の上に移転した。
県費や国費が多額に落ちたのか、デラックスで瀟洒な鉄筋建築で、これはこれで良い。
だがここも廃校になっている。  





④ 本題の旧秩父郡吉田町立(現秩父市)吉田小学校太田部分校跡。

ご覧のように大変瀟洒な小規模校舎である。





⑤ 定礎が昭和63年とあったから、まだ建築後10数年しか経ていない。

以前は古い木造2階建ての校舎だったそうで、部落民の永年の陳情の末、校舎の新築がなったのであるが、その頃には既に児童数が激減し、太田部部落は町当局から「詐欺」よばわりされたそうだ。





⑤ 赤錆びたスクールゾーンの看板。





⑥ 無人の学校にブランコが寂しい。





⑦ 畑の手入れをする老人。

新校舎建築に関する顛末はこの老人から伺ったものである。





⑧ 神流川を挟んで、遙か遠くに法久部落が見える。

太田部地区は吉田本町に出るには山越えをしなければならず、地形的には神流川沿いの多野郡市に下る方が早い。
僅かにいる高校生などは群馬県神流町に越境通学しているという。


 ★ 西上州の廃校 ㊦ を略式更新しています。
下記のリンクからお入り下さい。


 ★★★ 下仁田町立青倉小学校土谷沢分校跡(New!) ★★★

 ★★★ 南牧村立尾澤中学校跡(New!) ★★★

 ★★★ 甘楽町立秋畑小学校那須分校跡(New!) ★★★




西上州の廃校 ㊤

2005年11月27日 | 廃校をたずねて

廃校をたずねて ⑬

~ 西上州地方の廃校 ㊤ ~


 秩父の山村と廃校を取材がてら、群馬県の「西上州」地方にも足を伸ばしてみた。



 「西上州」地方というのは、秩父に隣接する群馬県南西部の鬼石、万場(現・神流)、中里(現・神流)、上野、南牧、下仁田あたりの町村を指す。
秩父と群馬、両方の文化の特徴を併せ持ったような地域だ。
この地域では北側にある御荷母山系にカヴァーされて、上州名物の「からっ風」や「浅間おろし」はあまり吹かない。
しかし山峡の地ゆえ日照時間は短く、冬季の冷え込みは厳しい。

 鬼石町は、神流川流域の西上州の町村では、最下流の町である。(神流川のさらに下流には藤岡市があるが、ここは狭義の意味では西上州には含まれない。)
庭石として用いられる三波石の産地として知られているほか、首都圏の水がめとしての「下久保ダム」も有名である。(写真は美原小学校跡より望む下久保ダム)

 しかしこの鬼石の町名も平成17年一杯を以て、隣の藤岡市に吸収合併される故に消えてしまうことになる。

 ここには意外なほどに廃校の数が多い。



① 鬼石町立 譲原(ゆずりはら)小学校跡




① 最初に教室の「壁教材」の写真をご紹介しよう。

昭和30~40年代のものと思われるが、こんなものが残っていた。
四季の移り変わりを「ピカピカの」1年生に教えるものだ。








②③④ 譲原小学校の校舎を見る。

木造平屋建ての小規模校だが、分校ではなく、1~6年まで揃った通常の小学校だったそうだ。
複式授業でもなかったという。

学校の敷地跡は現在、「道の駅・上州おにし」として利用されている。(後の建物)
もともとは玄関から左右対称の校舎だったのだが、道の駅建設のために削られてしまったという。
残存校舎は土地のお年寄りたちの寄り合いに使用されているようである。

校庭跡はゲートボール場になっていた。
ここでも幼き日の学び舎に、年を経て老人となって還ってくる・・・という図式が見られる。




⑤ 廃校の記念碑。

・・・昭和50年、鬼石小学校へ統合により廃校となるが(当時の児童数74人)、3年生以下を当分の間置くと定め、その後2年間続いた(児童16人)・・・とある。






⑥⑦ 「道の駅」の職員の方にお願いをして、教室の内部を撮らせてもらった。

当然、新建材などは全然使われておらず、とてもなつかしい感じがする。




⑧ 校長室の内部。

戦後、新学制が敷かれてからの歴代校長の肖像と卒業写真が、ズラリと並べてあった。




⑨ 初代校長の写真はなぜか存在しなかった。

右端から2代目、3代目校長・・・と続く。
2代目の校長先生は優しそうだけど、4代目の校長先生は何だか浮サうですね。

卒業生が1枚の額に収まってしまうのも、小さな学校らしい。




⑩ 山あいの学校には珍しい「プール」の跡。

わずか3コースの小さなものだが、それでも子供達には大きな喜びだったことだろう。




⑪ 職員室の看板。




⑫ なつかしい黒電話が。

ここにも卒業生の写真があった。



② 鬼石町立 三波川(さんばがわ)西小学校跡






①② 鬼石町立三波川西小学校跡。 

周辺の川床からは鬼石特産の三波石が採れるが、長い不景気で巨大な庭石を買う人はいない。
平成11年3月末を以て廃校になり、辺りには人気もなくひっそりしている。




③ 廃校記念碑。

さすがに総理大臣を何人も輩出した土地柄のせいか、記念碑の書体は故
小渕恵三元首相の手になるものである。




④ 三波川西小学校開校100年記念の卒業モニュメント。
「昭和50年度卒業生」とあるから、この子達もよい母親になっていることだろう。






⑤⑥ 微笑ましい壁面アートに心おだやかな気持ちになる。
最終年度には児童はわずか10人を数えるばかりになってしまったようだ。




⑦ 校地内には町立の三波川幼稚園も併設されていた。
鉄筋の立派な幼稚園だが、ここも廃園になっていた。




⑧ 体育館への「渡り廊下」。




⑨ 卒業制作?のほほえましい工作。
ペンギン?か何かかな。




⑩ 教育目標である「親切で思いやりのある子」「進んで勉強する子」「ねばり強くじょうぶな子」の標語が校舎に大きく書かれていた。

・・・我々人間は、年を重ねるつれて、擦れてずる賢くなっていくのが宿命だが、此処の子達には、いつまでもこの気持ちを忘れないでいて欲しいと願う。






両神村立「茶m平」分校と「大谷」分校跡

2005年05月30日 | 廃校をたずねて

 廃校をたずねて ⑫ 

 ~ 両神村の廃校・続編 ~


 今回も前頁に引き続き、両神村の廃校2校をご紹介する。
この2校もふくめ、両神村の廃校はネット上ではほとんど紹介がなく、画像上はめずらしいものかも知れない。


 ① 両神村立両神小学校「茶m平」分校跡

この分校の存在は村役場で聞いて知ったものである。
前頁「出原分校」同様、薄川流域の分校だが、もっと下流の里に近い場所にある。

開校年月や廃校年月など、詳しいことはよくわからないが、役場の方の話によると、廃校後しばらくは「工場に貸していた」とのことで、もとの建物に作業場や資材置き場が継ぎ足されており、いささか学校らしさが失われているのは残念な事である。

工場撤退後は何に使うこともされずに放置されている。




① 重厚な瓦葺きの屋根を戴いた立派な玄関だが・・・。




② 無粋な鉄骨スレートの作業場が継ぎ接ぎされている。




③ 反対側には資材置き場が・・・。
貸していた工場はすでに撤退しているとのことだが、なぜか建材が置かれていた。




④ 裏手に回って屋根を撮る。
歪みが生じ、瓦も崩落し始めていた。




⑤ 扉の隙間から廊下が見える。
写真ではわかり難いが埃がうず高く積もっていた。




⑥ 校舎の裏側に回る。
蔓草が絡まり、草木が生い茂っていた。




⑦ 穴のあいた軒。




⑧ 朽ち方が加速している。
改修して再利用・・・というのはちょっと無理そうな話である。




⑨ この村の廃校にはどこも記念碑がある。
いづれここは壊されるだろうが、卒業生の心の中に学校は生き続ける。




⑩ 敷地の片隅に残る「リス」のモニュメント。
この学校跡で、「無邪気」とか「童心」を思い起こさせてくれる唯一のものだった。




★ ちょっと廃校からは話題がそれるが、この写真の人物は両神村の前の「村長」、山中常次郎翁である。
自宅のお庭にちょっとお邪魔して撮らせて頂いた。

日中友好施設の誘致や温泉付国民宿舎の建設など、その半生を村の近代化に尽くされた方で、埼玉県村長会の会長なども歴任された。

現在は引退生活をされているようであるが、もう間もなく両神村は小鹿野町に合併され、「両神」の村名は消える。
どんな気持ちで合併の日を迎えるのであろうか。








② 両神村立両神小学校「大谷」分校跡

大谷は「おおがや」と読むのだそうである。

この学校は民宿「両神山荘」のご主人の「川塩(小森川中流の地域)の採石場よりも下に昔の学校跡がある。」という話をもとに訪れてみたものである。(ご主人自身は煤川分校のご出身だそうだ。)

ここも「茶m平分校」同様、小森川沿いの「滝前」「煤川」などの分校よりも、もっとずっと下流域にある。




① 「両神林間学校」の看板が以前から「学校の跡では?」気になっていたが、これが大谷分校の入り口だった。
車道から学校は見えない。




② トタン葺きの素朴な学校だが、瓦葺きに比べると矢張りちょっと情緒に欠ける感じがする。




③ 学校の玄関。
大きな檜が対でお出迎えだが、左の方は枯死した直後のようだった。




④ お定まりの閉校記念碑だが、学校により形が違う。 




⑤ 現在では「両神林間学校」として利用されている。




⑥ 玄関前はちょっと雑然とした感じだ。




⑦ 軒下に錆びた「ベル」があった。




⑧ 学校の裏側。
こちらの方がより学校らしい。




⑨ 物置に古い足踏みオルガンがあった。




⑩ 2階の出窓。
流し場かなにかだったのだろう。




⑪ 学校近くにあった古い地蔵堂。
トタン張りの小屋に木彫りの地蔵がまつられた質素なものだが、お参りする人も居ないように見うけられた。




⑫ 赤錆びたうんてい。
キャンプ場や山の家に衣替えしたこうした廃校も、少子化と高級化指向から顧客が減り、運営がとても難しいと聞く。
この「林間学校」もあまり手入れが行き届いているとはいえず、やはり先のことがちょっと心配になった。




両神村の廃校と煤川集落

2005年04月21日 | 廃校をたずねて

 廃校をたずねて ⑪ 

 ~ 両神村の廃校3(2)校と煤川集落 ~


「両神村」は ~秩父の山村①~ で紹介した、秩父市西方の村である。

今年4月の町村合併によって、(秩父郡)大滝村・荒川村・吉田町の1町2村は秩父市に吸収合併されたが、唯一両神村は合併を拒んだ。

地方自治・分権を守り抜く同村の姿勢は立派なものと云えよう。

当村は、村全体が 南の「小森川」と北の「薄川」という2本の川によって「コ」の字形に区切られており、かつては小森川沿いに2校、薄川沿いに1校の分校が存在していた。

しかし、林業の凋落とそれに伴う過疎化により、昭和40年代にどの分校も閉鎖になっている。





① 両神村立両神小学校「滝前」分校跡



① 小森川の上流、「丸神の滝」近くの鬱蒼たる森の中に「滝前分校」の跡が現れた。
小規模だが、石垣に囲まれて歴史を感じさせる学校だ。





② 大正十三年に建てられた最初の開校記念碑。

不鮮明な文字の解読に非常な苦労を要したので、みなさんも是非読んでみて頂きたいと思う。

***「両神村ハ山間ノ部落ナレバ地勢上小学校教育ノ如キモ本校外四箇所ニ分教場ヲ設ケ児童ヲ教育セリ

特ニ煤川分教場ノ如キハ村ノ西端ニ位シ通学区域約二里ニ亘リ羊腸ノ小径ヲ辿ルナレバ児童ノ××一方ナラズ従テ雨ノ日雪ノ時ハ出席僅少ナルノ状態ニアリ

偶関東木材ノ当地ニ××ヲ開始スルヤ従業員ノ子弟入学スルモノ多ク同分教場ハ狭溢ニシテ到底此レヲ収容スルニ余地ナシニ至レリ

従テ大正十年十月時ノ本村要路者並ニ同分教場区域内ノ父兄及同会社両神出材部ト相計リ児童通学ノ便ヲモ考慮シ其ノ通学部落ノ負担ヲ以テ別ニ字滝前ニ教室ヲ建設スルコトヲ決シ大正十年十一月滝前区域内ノ父兄ハ同会社両神出材部ト合同シ委員五名ヲ選挙シ之ガ事業に着手ス

或ハ設計或ハ寄付ノ募集ニ将タ校地ノ地並シ及校舎建設ニ昼夜営々トシテ奮励努力シ僅々八箇月経費五千五百七十一円人夫一千六十七人ニシテ校地三百坪校舎三十一坪二合五勺ヲ竣成××

十一年五月郡長警察署長ヲ始メトシ村要路ノ方々来列シ会スルモノ無慮五百名盛大ナル開校式ヲ挙行セリ

前ハ小森川ノ清流ニ臨ミ後ハ蒼然タル森林ヲ負ヒ通気採光ニ注意シクレバ山間稀ニ××校舎ナリ
此ノ挙ヲ永ク記念センガ為メ有志相図リテ之ヲ石ニ録ス

大正十三年三月十一月五日

両神尋常小学校長」***

(注 ××は解読不能箇所 )

この記念碑にいう「新築校舎」とは写真の校舎とは別のものと思われるが、今も昔も、子供たちに良い教育を、と願う親心は変わらないものである。





③ 学校跡は現在、「村営のふるさとキャンプ場」として再利用されている。
夏の一時期だけは、昔日と同じような子供達の歓声がこだまする。
しかし撮影時は冬で、谷間を吹きぬける風は冷たく、身にしみわたる感じであった。





④ 校舎の向こうに見えるのはキャンプの炊事場。





⑤ 今はひっそりと・・・・・、





⑥ ・・・・・夏の訪れを待っているようだ。




② 両神村立両神小学校「煤川」分校跡と煤川集落




① 煤川は「すすかわ」と読む。

「滝前分校」よりやや下流に拓けた、小森川流域では比較的大きな集落で「川煤川」と「山煤川」の上下2集落に分かれている。

「滝前分校」の記念碑にも記述のある「煤川分校」跡だが、この記念碑以外に学校であったという面影は見当たらない。
碑の前には部落の集会場が建ち、周囲は共有のモータープールになっていた。
道路建築の際に造成し直されてしまったようである。

代わりに「山煤川」の集落を紹介してみることにする。




② 部落のメイン・ストリート。
集落の入口にはモータープールがあり、そこから各個人の家には、このような荷車道を通ってゆく。
消火栓が見えるが、消防自動車も入れない地域なので、火事には細心の注意が払われているようだ。





③ 急な斜面にへばりつくように人家が建つ。
瀬戸内沿岸の景色に似ているような感がしないでもない。





④ 集落にはもう子供はいないという。
その、すでに成人した子供達がかつて使っていたであろう自転車が、軒下に積み重ねられていた。





⑤ 巨岩を積み重ねた、立派な石垣。
この作業がすべて人の手によって為されたという先人の偉業に、ふと畏敬の念がよぎる。





⑥ 日だまりの道。
昼下がりで人影はない。
かつて、こうした山村ではよく、お年寄りどうしが「日向ぼっこ」をしながら語り合う光景を目にしたものだが、最近は見かけなくなった。



③ 両神村立両神小学校「出原」分校跡


「出原」は「山村をたずねて①」で紹介した集落で「いでがはら」と読む。
「薄川」上流部に拓けた比較的戸数の多い集落である。




① この学校は何かの情報を頼りに行ったものではなく、偶然に探し当てたものである。
出原部落を撮影中、石垣と建物を見てピンときた。
最近はこうした「廃校」にとても敏感になってしまったようである。(笑)





② 高台の日当りの良い場所に学校はある。
森の中の滝前分校とは対照的だ。





③ 窓からは一年中「両神山」が望める。
こんな風光明媚な学校も珍しい。
「両神山」は日本百名山のうちのひとつだ。





④ 軒板の丸い模様は啄木鳥のあけた穴である。
「餌はない筈なんだがな、何だかつつくんだよなぁ~」とは土地の人の弁。





⑤ 午後の日差しを浴びて。





⑥ どこの学校にも同じような記念碑があった。
時がたっても、村の人々の記憶から忘れ去られてはいない、というのは幸いなことである。




東秩父村立西小学校白石分校

2005年04月01日 | 廃校をたずねて

廃校をたずねて ⑩

~ 東秩父村立西小学校白石分校 ~


「東秩父村」というのは、埼玉県の中西部に位置する小さな村で、今でも「製紙業」が村の主要な産業である。
第2次世界大戦中にはここの和紙が日本軍の「風船爆弾」に使われたということだ。

村名に「秩父」の名があるが、厳密には秩父の文化圏ではなく、「比企」文化圏に属する。

村の中心部に東秩父小学校、西部山間部に西小学校があるが、広い通学範囲を擁する西小学校は、大内沢分校と「白石分校」を持っていた。

しかし、より山間僻地に建つ「白石分校」は平成14年度を以って休校になってしまっている。





① 学校入口。
昔ながらの校門などはなく、通行車には入口はわかりにくい。





② 校庭の片隅に休校記念樹があった。
閉校ではなく、「休校」としてあるところに、村の将来への一縷の望みが託されているように感じる。





③ 鉄筋、平屋建て。メルヘンチックで瀟洒な校舎だ。
地区の子供達が大切にされていたことがうかがえる。

こうした素敵な学校というのは、村の人口流出・過疎化の歯止めへの最後の砦だったのだろう。
その望みも絶たれてしまった。





④ 人気のない玄関。





⑤ 校舎の中も綺麗なままだった。
よく見るとクラスの表示が2≠R年生の複式学級になっている。
本当に子供の数が少なかったようだ。





⑥ 低学年の花壇に虚しくクロッカスが咲いている。
見渡したところ、3年生の花壇までしかなかったので、低~中学年のための分校だったようである。





⑦ ベランダに置かれたままの平均台。
タイルの継ぎ目からタンャが芽を出していた。





⑧ もう、子供達の歓声のあがらないブランコ。




青梅市立第九・第十小学校

2005年03月09日 | 廃校をたずねて

廃校をたずねて ⑨

~ 青梅市立第九小学校跡 と 第十小学校跡 ~


今回は東京都下、青梅市の廃校を2校紹介する。

「第九小学校」が同市・成木地区、「第十小学校」が同市・小曽木地区に建つものだが、両地区とも埼玉県・名栗村(平成17年4月飯能市に吸収合併)に隣接する山村地帯で、秩父地方と同様の少子高齢化・過疎の集落でもある。

高度経済成長期、子供たちの将来を嘱望して建てられた鉄筋3階建ての近代的な学校も、時代の変遷と共に、廃校も止む無しといったところだったのであろう。




① 閉校記念碑。

校章は青梅の梅をデザインしたものらしい。 
第九小学校跡。

なお、ここ「青梅市」の殆どの小・中学校は数字系列化された素っ気無い校名が付けられている。

東京都では昭和40年代のはじめに美濃部亮吉氏による革新都政が誕生して以来、都内の各所でも革新市制が続出した時期があった。

その革新行政のスローガンの代表的なものは「差別の撤廃・公平・合理化」というもので、各地で従来からあった地域的な校名を、学校の新設・統合の際に数字系列の学校名に変えてしまったのである。

私は政治評論家ではないので、このことの是非について語る気は毛頭ない。
しかし、「差別の撤廃・公平・合理化」と「学校名の数字系列化」という脈絡はあまりにも無機的な行政措置ではなかったのか・・・と考えている。 




② 校舎の全景。 

敷地が細長く、正面からは写真が撮れない。

九小跡。 




③ 近寄ると朽ちたバスケットボールのャXトが。

九小跡。 




④ ラガーマンの像らしい。 卒業製作か?

九小跡。 




⑤ 二宮尊徳の像だが、どうも鉄筋校舎に尊徳像は釣り合わないような気がする。

九小跡。 




⑥ 尊徳像のまわりには無雑作に木材が立て鰍ッられている。
学校跡は現在、「青梅森林組合」の事務所になっている。

九小跡。 






⑦ こちらは第十小学校跡。

学校は現在、小曽木地区の「ふれあいセンター」として使用されているようだが、まったく人気はなく、管理人も不在のようだった。 




⑧ どなたか偉い先生の胸像なのだろうが、よくわからない。

しかし、どんな功績があったのかは存じ上げないが、公立の小学校に一個人の胸像を残すということは如何なものか。

十小跡。 




⑨ 周辺には石灰岩の採石場があり、校舎裏の道路をひっきりなしにダンプカーが疾走しているので環境はあまりよろしくない。
砂塵で建物も汚れている。

十小跡。 




⑩ ブランコの上部がたぐられて使用不能の状態になっていた。

万が一の事故に備えての措置かもしれないが、これまたぬくもりの感じられる行為ではない。

十小跡。 




⑪ 交通安全教育のための「止まれ」の目印。
もう子供達が渡ることもないだろう。

十小跡。 

なお、鉄筋校舎の廃校というのは、木造校舎の廃校とは違って温もりやなつかしさがなく、妙な寒々しさが残るだけだった。

今回の写真でそれを感じ取って頂けたらば、と思う。


なお、2011/6/27付でKUKIMOHU様より

「差別の撤廃・公平・合理化」と「学校名の数字系列化」という脈絡はあまりにも無機的な行政措置ではなかったのか???????
美濃部さんの前の昭和30年代に既に青梅の小学校は一小から十小までありましたよ。
一小、二小、四小が昭和28年、五小、七小が昭和30年に数字系列に名称変更、三、六、八、九、十はいつ変更したかよく分からないが、私は昭和31年に六小に入学した。そのときには既に三、八、九、十小もあったので、美濃部さん以降の革新市制とは関係ないと思う。第一、青梅市で革新市制になったことがあったのかな。

というコメントを頂きました。
有り難うございます。

小川町立小川小学校下里分校

2005年03月06日 | 廃校をたずねて

 廃校をたずねて ⑧


~ 小川町立小川小学校下里分校跡 ~

 「比企の小京都」と呼ばれる比企郡小川町にある廃校を訪れました。
町中よりはそう遠くない田園地帯に位置しているので「えっ、何でこんな所に分校が?」と逆の意味で思ってしまう学校です。










① 学校の入り口。
農村地帯のかなりわかりづらい場所にあります。





② 桑畑の向こうに校舎が見えました。

桑の葉は養蚕の貴重な飼料ですが、現在では養蚕業自体が凋落してしまい、荒れ放題の桑畑が多のです。
でも、ここの畑はよく手入れされていました。





③ 小さな学校の玄関。
古い木造学校というのは「厳格な教育現場」という感じがするのですが、ここにはそんなイメージはありません。





④ 校舎の全景。
平屋建てシンメトリーの素朴な校舎です。
狭い校庭に所狭しと遊具が並んでいます。1~4年生までがこの分校で学び、5年生から本校に通ったそうです。
  




⑤ 管理人さんのご厚意で内部を撮らせて頂きました。
ここは職員室と放送室の廊下。

  



⑥ 教室の入り口。
学校名と同じ名のクラスです。





⑦ 当時のままに机が並んでいました。
私達はこんなに小さかったかなぁ・・・。





⑧ みなみ、にし、ひがし・・・。
天井にあった方位板。





⑨ 壁には古い子供達の写真が。





⑩ 学校は現在、生涯学習施設として、母親学級や老人クラブなどに使用されています。
幼い子供達と母親が校庭で遊んでいました。





⑪ 施設の使用中はシルバー人材センターの人が詰めています。
この日は黙々とグランドの整備をされていました。





⑫ 日が落ちて、子供達もセンターの管理人さんも帰った後の下里分校。
廃校は・・・やはり寂しいです。
桜の咲く頃にまた訪れてみたいと思いました。



秩父郡吉田町立上吉田小学校

2004年12月24日 | 廃校をたずねて

廃校をたずねて⑦

 秩父郡吉田町立上吉田小学校跡

~ どこかなつかしい木造校舎 ~


 今回は~ 廃校をたずねて② ~でご紹介した「皆野町立日野沢小学校」同様、「秩父事件」因みの里の廃校をご案内します。

「秩父事件」というのは明治時代の初頭、生糸価格の暴落で生活に困窮した秩父地方の農民達が、自由と解放を求めて立ち上がった民権運動で、この廃校のある秩父郡吉田町が主たる舞台になっています。

光岩小学校のようなメルヘンさはないけれど、どこかなつかしさがただよう・・・そんな学校をたずねました。





① 広い校庭に木造校舎。
いまの日本からこんな空間がどんどん消えつつあります。




② 山の分校ではないけれど、どこかなつかしさがただよう校舎です。




③ 平成16年3月をもって閉校になってしまいました。




④ ガラス戸ごしに廊下を撮影。
中央にセンターラインが引かれています。
そういえば交通法規を学校の廊下で教えこまれましたっけ。




⑤ 生徒の通用口。
もう子供達の姿はなく、ひっそりと静まりかえっています。




⑥ 3~4年生の教室。
窓がサッシでないので味わいがありますね。
複式学級だったようです。




⑦ いわし雲 東西五キロ 子ら帰る の句碑が。




⑧ 教室から直接、外への出られるドアもありました。
デザインもレトロ。




⑨ 図書室の片隅にて。




⑩ 木の机。
午後のあたたかい光が差しこんでいます。




⑪ さて、そろそろ帰ろうかと、もう一回りしていると、




⑫ すぐに、日が陰ってきてしまいました。
山里の日暮れは非常に早いのです。


★補遺 ①



○ 明治17年11月1日、秩父困民党の集結した吉田町椋(むく)神社本殿。

「畏れ多くもお天道様に敵対するから加勢しろ」の呼びかけに応じて集まった農民達は近隣町村も含め3,000人だといいます。


★補遺 ②



○ 上吉田小学校のやや上手にある県営合角(かっかく)ダム。

埼玉県の前知事はこのダムに、自分の長女「桃子」と同一呼称の「桃湖」と命名。
この知事は長女の収賄絡みの事件で失職したが、公私混同も甚だしい。
静かな山の湖に生臭いものを持ちこまないでほしい。






横瀬町立芦ヶ久保小学校入山分校

2004年12月19日 | 廃校をたずねて

廃校をたずねて ⑥


横瀬町立芦ヶ久保小学校入山分校跡

~ トンネル用地に消えた学校 ~


 国道299号線というのは国道140号線とならんで、東京から秩父地方へ抜ける交通の大動脈である。
この大動脈にもかつては交通上の難所があった。
「正丸峠」がそれで、数多くの急坂、急カーブを経て、標高1,000メートル近い峠を越えなければ双方の往来ができなかったのである。
昭和50年代の初めに「正丸トンネル」の開通により、この不便さは解消されたのであるが、その陰にひっそりと消えていった学校跡もあった。




① 廃校記念碑。

記念碑の裏面・「入山分校に憶う」の文面

「江戸街道とは言え上り下りの曲がり道本校を隔てること遠きは八千米に及び辺地に在る入山地域住民は分教場の設置を願望し歴代村会議員並びに区長を中心に回を重ねて村当局に請願するもその機熟さず幼い児童は風雪にもめげず徒歩による通学を余儀なくされた。

正丸峠の開通により交通状況は好転したが地域住民永年の懸案と執念は動ぜず新制中学校舎新築を機に猛運動を展開し敷地の造成提供労力奉仕等多大の協力によって遂に昭和二十七年四月十二日三年生までの複複式学級の小規模校として芦ヶ久保小学校入山分校の開校を見た。

将来稀有と思われる多年に亘る弛まざる熱意と強固なる団結の果報に地域住民の歓喜は一入であった。

爾来十五年の間に百名に及ばんとする学童が巣立った。然し乍ら時代の推移と児童数の減少により止むなく昭和四十一年度限りで廃校され入山公会堂としてその面影を留めていたが此の度国道改良に伴う正丸トンネル開削工事による新時代の交通用地と化し敷地建物総てその姿を残さず壊滅する。

比処に学んだ学童の母校並びに地域住民の熱意と団結の象徴を失うに忍びずこの碑を建設し後世に伝えんとす」

昭和五十四年三月吉日

地域住民の熱意と団結により開校された入山分校も実働年月は僅か15年、100名程度の学童教育に携わったのみだったようである。




② 記念碑裏面。上の文面が刻んである。




③ 正丸トンネル掘削工事のため造成されて、学校跡という面影はない。
無線の中継施設のようなものが建っていた。




④ 校門のような門柱が残る。
移設されたものかも知れない。




⑤ 東京と秩父を結ぶ大動脈「正丸トンネル」。
このトンネルの開削によって入山分校跡は消滅したのであるが、トンネルの恩恵は計り知れない。




都幾川村の廃校3校

2004年11月23日 | 廃校をたずねて

廃校をたずねて ⑤

~ 都幾川村の廃校3校 ~


 埼玉県比企郡都幾川村というのは、決して山深い山村という訳ではないのですが、
秩父山地が関東平野に落ちこむ複雑な山のヒダの上に位置することと、
長らく道路網が不備だった関係上、処々に隔離された村落があり、その村落の子供達対象の小規模な学校が数ヶ所、点在していました。

しかし最近の過疎化の波と、スクールバス等による交通網の発達で、これらの学校は次々に統廃合の波に呑まれていってしまったのでした。


~① 都幾川村立大椚第一小学校跡 ~





① 大野集落よりのぞむ学校全景。





② 私がこうした写真をみなさんにご紹介するのは、廃校や木造校舎の持つ「懐かしさ」や「暖かみ」を感じ取って頂けたら、という気持ちからなのですが、この学校だけは、その表出が非常に難しかったです。
校舎の一部が鉄筋に改造されているのもその理由のひとつかも知れません。





③ 廃校記念碑。
詳しいことはよくわかりませんが、記念碑の裏を読むと、この大椚第一小学校は次に紹介する大椚第ニ小学校と同様、文部省の「へき地教育研究校」だったようです。





④ 近代的な鉄筋造りの管理棟と体育館。
山あいの学校にはちょっと不釣合いな規模です。
閉校持には10数人の生徒しかいなくなってしまったそうです。





⑤ ここは小学校なのですが、どうもこの換気孔のデザインは「中」に見えてしまう・・・。





⑥ 梅雨どきに取材したときのもの。
現在では校庭の遊具等はすべて取り払われてしまいました。





⑦ このアングルがいちばん学校らしいかな≠ニも思います。





~② 都幾川村立大椚第二小学校跡 ~










① 廃校記念の壁面メモリアルのようですが、ちょっとペンキが剥げてきてしまいましたね。
絵を見る限りでは全校生徒が14人、先生が3人の小さな学校だったようです。
左端は校長先生かな。みんな仲が良さそうですね。
このまま数年もすると、この絵も朽ちてしまうのでしょうか。





② これが学校の全景。

校庭はとても狭く、1周100メートルがやっとというところです。
それでも「運動会の時は校庭ぎりぎりに、一生懸命走った。」と土地の人が話してくれました。





③ 屋外掲示板にあった古い写真。

昭和22~3年頃の写真のように見えます。「まずしくとも、希望に満ちていた子供たち。」





④ 上の子供達の背にする樹木は成長し、すでに大木になって周りを見回しています。
 




⑤ これも掲示板にあった写真。

昭和22年に裏山が崩れ、校舎を新築した時の学校関係者の記念写真のようです。
写真を良く見ると、私が中学や高校の頃に教わった先生方に、何となく似ている方がいなくもありません。
農村の教育者の家というのは家督的な世襲制の強いところですので、ここに写っているのは、そういった先生方のお父さんや、お祖父さんなのかも知れませんね。





⑥ 体育小屋にそのまま残る縄跳びのナワ。

またいつか主人が使ってくれるのを待っているのでしょうか。





⑦ これも壁面アートです。みな大騒ぎでこの絵を描いたのでしょう。

スネオ君に似た子もいますね。





⑧ ドアミラーより振り返る大椚第2小学校跡。





⑨ すでに何枚かご覧のように、村内のそこかしこに子供達の手作りによる学校案内の看板が残っています。
かなりの力作揃いです。
休校期間を含めると、もう子供達が姿を消してから5~6年はたっているのですが、誰も撤去しようとしません。
学校はなくなっても、村の人々の心の中に学校は生き続けているのでしょう。





~③ 都幾川村立明覚小学校「大附」分校跡 ~





① ゆずの香る山村部落の都幾川村「大附」地区。 
正面の建物が大附分校跡ですが、建物は新しく建て替えられています。

 



② 学校跡は村の特産物直売所となっています。





③ 直売所の横に坂道があり、





④ 何やら学校くさい雰囲気が。 坂道を登りきると・・・。





⑤ 桜の木にブランコ。 そこはまさしく学校の校庭でした。





⑥ 校庭跡はゲートボール場になり、お年寄りたちがゲームに興じていました。





⑦ 閉校記念碑。
「社会の進歩とこれに対応する教育の変革は小規模校の統合に及び・・・」との記述が。





⑧ さすがにお年寄りはブランコには乗りませんので、ブランコも所在なさそう。





⑨ この地区のゲートボールチームは結構強いチームだそうで「今度、県の体育大会に出るんだ。」といってさかんに練習にはげんでいました。

幼き日の学び舎に、歳月をへて老人となって還ってくる。
これもまたひとつの「輪廻転生」なのかな、とも感じました。





⑩ ここにも学校であった頃の名残がありました。



大滝村立光岩小学校

2004年11月22日 | 廃校をたずねて

廃校をたずねて ④

~意匠の素敵な木造校舎~

       



~ ① 大滝村立光岩小学校跡をたずねて ~






①② レンガ造りの校舎正門。

<彩甲斐街道>国道140号線の傍らに「光岩小学校跡」はあります。
往来は車の行き来が激しいのですが、ここは高台の上にあり環境はとてもよろしいです。







③④ ご覧のように、とても優美なデザインの校舎です。

校庭に残る「閉校記念碑」を読むと、昭和39年校舎新築とありますから、木造校舎としてはいちばん最後の頃の建築ということになるのでしょうか。
(昭和40年代からの新築校舎はほとんどが鉄筋建てとなります。)

昭和の始めころに建てられた質実剛健一点張りの校舎とは異なり、西洋建築のデザインも十分に取り入れられた、優れた意匠だと思います。

特に一対のトンガリ屋根、1階と2階との間の換気孔、左右の児童通用口のデザインが卓越しているのでは。





⑤ 閉校を知らせる貼り紙。 平成13年3月31日をもって閉校。





⑥ メモリーズ・カプセル。

最後に残った子供たちは全校で28人だったのですね。
「2020年11月23日にまた会おう」とあります。
しかし、廃校に残されたタイムカプセルはその後の造成などで破壊されてしまうことも多いそうです。





⑦ 小学校のシンボルといえば、古くは「二宮尊徳像」なのですが、この学校では「小便小僧くん」でした。
当然のことながらもう放尿はしていません。





⑧ 春に訪れた時にはチューリップが咲いていた「学校花壇」でしたが、今は草ボーボーでした。

「児童通用口」のデザインも洒落ています。
この学校の建つ「大滝村」というのは埼玉県最奥の山村ですが、こんな山奥の学校を、誰がこんなにモダンな校舎に設計をしたのでしょうか?
設計者がご存命なら、是非当時のお話を伺いたいものです。





⑨ 校庭の片隅にあった岩石標本。

ここ大滝村は「日窒鉱山」の控える鉱業の村でもあったのです。
現在は廃鉱同然らしいのですが。

 



⑩ 奥の岩峰が校名由来の「光岩」。

熊倉山へ続く尾根の末端にあります。 朝日が当たると美しく輝くはずです。





⑪ 玄関正面の意匠。

本当はもっとカメラを引いて、玄関全体を入れたかったのですが、③の写真にあるようにサッカーのゴールャXトが邪魔をしており、このような写角になってしまいました。
このゴールャXト、以前は別の場所にあったのに、なぜかいつの間にか玄関前に移動されてありました。
怒れる立場ではないのですが、「誰かね、こんな場所に移動させたのは!」・・・。





⑫ レンズの内面反射で、画面に美しい「虹」がでました。

光岩小学校を巣立っていった子供たちに素敵な「虹のかけ橋」があらわれますように。




飯能市の廃校4校

2004年10月31日 | 廃校をたずねて

 廃校をたずねて ③

~ 飯能市の廃校4校 ~


~ ① 飯能市立南川小学校跡 ~

国道299号線が谷あいの道を「正丸トンネル」にさしかかる少し手前、「子の権現」入口に飯能市立「南川」小学校跡があります。

かつてはこの辺りの村々は、「西川材」林業によって大いに栄えましたが。周辺集落の過疎化に伴い、平成5年「吾野小学校」に吸収併合され廃校となりました。

市議会の反対で廃校が1年延びたという経緯も残る学校です。





① 二宮尊徳像のある校庭と閉校記念碑。
これまでに、色々な廃校を巡りましたが、二宮尊徳像のある学校は今のところここだけです。




② 校舎全景。
八重桜の咲く頃におとずれました。
サッシでない窓ガラスが、木造校舎と程よく調和しています。




③ 西洋風な「漆喰」造りの正面玄関。
玄関の2階は大概、応接室や校長室になっているんですよね。




④ 卒業製作でしょう。
鮭をくわえる「熊らしき」動物の石像です。




⑤ 釘で鉄板に打ちこんだ「製作プレート」がありました。




⑥ おしりがカワイイ「熊さん」ですが、誰もいない校庭を見つめる姿は、とっても淋しそう。




⑦ 卒業製作の自画像の彫像。
昭和48年度卒業記念とありますが、この時点でも1学年12人しか居なかったようです。




⑧ 色褪せた校舎に西日が美しく映えていました。

ちなみに③、⑧の写真の玄関上の部屋は今で言う「VIPルーム」なのですが、ここは5~6年生になって清蒼又ヤにでもならない限り、通常は立ち入ることのできない「聖域」でしたね。
余談。



~ ② 飯能市立北川小学校跡 ~


 南川小学校と深い谷(高麗川)を挟んで対峙する位置にある学校です。
平成5年に南川小と時を同じくして廃校になりました。

大正か昭和の始め頃に建てられたという、木造平屋建て校舎は何か厳めしい感じもします。

「自校式の給食は、この学校が市内でいちばん早かったんだ・・。」と土地のお年寄りが自慢げに話してくれました。

校庭の片隅には、卒業製作と思われるラクダの像があり、これがこの学校の隠れたシンボル?になっています。





① コスモス咲く小学校全景。
袴姿の先生と、藁草履の子供達が出てきそうな雰囲気です。




② 校庭の片隅にはこの学校のシンボル?「ふたこぶラクダ」の像があります。




③ 子供達の歓声が消えて、早や10年経ちました。
朽ちつつある「ラクダ」君はひとり遊具を見つめ、何を思っているのでしょうか。




④ 校庭はもう、ボールが弾むことはありません。



~ 番外③ 飯能市坂石尋常小学校跡 ~




① 吾野駅に程近い高台の上にある飯能市立「坂石尋常小学校」跡。
地元の人に場所を伺って行ってみた。
通称、町分(まちぶん)の小学校といったそうだ。
「坂石桜」というのは学校のシンボルだったのだろうか。
白い門柱が学校の名残を伝えている。




② 国旗の掲揚塔のようなものが残っていた。




③ 向こうに見える鉄筋の建物は飯能市立吾野中学校。




④ 校舎の跡には西武建設(株)の古い社宅が並んでいる。
空き家が多く、実際に居住しているのは2~3世帯のようだった。



~ 番外④ 飯能市立長沢小学校跡 ~


 記念碑等はまったくなく、詳しい廃校年月日は不明ですが、古い地図には明らかに「風影」部落に小学校の記載があります。

徒歩でしか辿りつけないその場所に、数年前、悼。前の校舎を目撃しましたが、残念ながらその時は、写真には記録できませんでした。

先日、ひさしぶりに訪れてみますと、すでに校舎は取り壊され、生い茂る窒ニ夏草に覆われて「廃校」のイメージとは程遠いものになっていました。

「廃校めぐり」にも期限があることを知った次第。
いづれ、土地の古老にでも当時の話を聞いてみたいものです。



① 門柱は残存するも、墓石のようにも見えます。
ここには徒歩でしか辿りつくことができません。




② 草生す土台石。 




③ 敷地跡は夏草に覆われて・・・。




④ わずかに基礎石が残るのみです。




⑤ 手洗い場か水飲み場でしょう。
左に何枚も積まれてあるのは校舎の窓ですね。




⑥ 苧ムの中に残る便器と廃材。

こうなると、「廃校」だか「廃屋」だかわからなくなりますし、当時の子供達の歓声を想像することも困難。
「廃校めぐり」にも期限があることを知った次第です。




・・・なお、つい最近の聞き取り調査により、この学校は昭和20年代のはじめ、戦後まもなく廃校になったことがわかりました。
新しい学校制度によってこのような「山の分教場」は淘汰されてしまったのでしょう。



~ 番外⑤ 飯能市立高山小学校跡 ~


この学校も「風影小学校」同様、記念碑等はなく、詳しい廃校年月日はわかりません。
面白いのは、関東三大名刹といわれる「高山不動」の敷地内にあることでしょうか。


① りっぱな門柱は残っています。




② 校舎のごく一部が残されています。
中を覗くと地元の集会場のような感じになっていました。
ハイキングコースが目の前を通ります。





~ 番外の番外編 風影部落の公会堂 ~

風影の廃校跡に通う道すがら、こんな建物を見つけました。
「オヤ、これも廃校か?」と思いましたが、どうもそうではなく、部落の公会堂のようです。
なかなか味わいのある建物なので追加紹介いたします。










皆野町立日野沢小学校

2004年09月26日 | 廃校をたずねて

廃校をたずねて ②

「秩父事件」の里の廃校


~ ① 秩父郡皆野町立日野沢小学校跡 ~

 
 この小学校のある皆野町日野沢地区というのは、隣の秩父郡吉田町と並んで 秩父事件 勃発の地として知られています。

つい最近までは歴史上から黙殺され、地元でも話題にすることをタブー視されてきた事件ですが、その民主性と正義性から近年再びクローズアップされ、郷土の誇りとして語り継がれ始めました。

子供達の祖先の殆どがこの事件に携わった・・・そんな因みの廃校を訪ねてみることにします。




① 清流が目の前を流れる美しい環境にある。




② 校舎全景。
手前の青い橋をわたって学校に入ります。
まだ子供達の歓声が聞こえてきそう。




③ 閉校記念碑。
平成14年3月閉校とありますので、廃校後まだ2年半しか経っていません。
100有余年の歴史を持つ古い学校だったようです。




④ 窓越しに寄せ書きが見えました。
「先生方へ いつまでも忘れないでね。」などと書き残されています。
泣けますね。 私だったらこの黒板の字は消せません。




⑤ 物置小屋が開いていたので、中を覗くと、盾やトロフィーなどが放置されていました。

この学校の内部を窓から覗いてみると、廃校後、慌ただしく教員たちが移動していった形跡が見られ、校具や備品などはそのまま放置された状態で荒れています。

こういった記念の品々などは、今後一体どうなってしまうのでしょう?
このまま廃品回収などに出されてしまってはあまりにもかわいそう。
関係各局の考慮を望みたいところです。




⑥ 花壇は誰も手入れしないので雑草で一杯。
でもなぜかホウセンカと巨大なヒマワリが1輪咲いていました。




⑦ 学級花壇用のプランターがまとめて置かれていました。
苗はまだ生きていますが、いずれ雑草に負けてしまうことでしょうね。

余談ですが、左上に小さく見えるのは、つい最近、エンジンより煙をはいて廃車になってしまった旧愛車の「キャロル号」です。
「廃校めぐり」にはずいぶん活躍してくれましたが、まさか自分が「廃車」になってしまうとは・・・。




⑧ 校庭に生す雑草が「廃校」という事実を物語っています。




⑨ 撮影を終えても、未だ立ち去りがたい郷愁があるのは何故でしょうか。




② ~ 秩父郡皆野町立立沢分校跡 ~

 
 上述の日野沢小学校跡から、車で林道を溯ること10数分で、突然明るい山上部落が現れます。
皆野町「門平地区」という場所ですが、ここに日野沢小学校の分校である「立沢分校跡」があります。

詳しい閉校年月などは、②の写真に出てくるオバチャンの記憶にも曖昧で、よくわからないのですが、かなり以前に廃校になってしまったのは確かなようでした。




① 廃校後は一部改築され、「日野沢山の家」として第2の余生を送っています。
中央の焚き木はキャンプファイヤーの跡でしょう。
夏期のみの開設、自炊が原則ですが、最近は林間学校などの利用はあまりないそうです。




② ひとり「山の家」用のシーツを畳んでいた管理人のオバチャンです。
もう60代になる息子さんが4年生までこの学校に通っていたそうで、
(5年生からは本校に通う。)

「折角編んだワラジをねェ、1日でダメにして帰ってくるんだよー。」と話してくれました。

当時、この学校の「小使いさん」は、子供達の給食(味噌汁とご飯)を運ぶため、毎日何時間もかけて下の母校(日野沢小学校)との間を往復したのだそうです。

徒歩以外に交通手段のなかった昔は大変な労働だったことでしょう。




③ 分校の玄関。

  立沢の子ども
 
 ・ よくはたらく子
 ・ いつもやさしくおもいやりのある子
 ・ これだれはだれにもまけないぼくのもの
 ・・・・・
などの標語が読み取れます。
山間部では子供といえども貴重な労働力だったのでしょうね。




④ 初めて訪れた時は桜がもう終わる頃でした。




⑤ スレートの屋根は山の家用として新しく架けられたもののようです。

オバチャンの話によると、この山の家も年々赤字が累積し、開設期間も短くなっているとのこと、

「町村合併になったらねぇ、きっとここも無くなっちゃうだろうねぇー。」とは淋しいかぎりです。




秩父市立浦山中学校跡とその周辺

2004年08月10日 | 廃校をたずねて

廃校をたずねて ①


~ ① 秩父市立浦山中学校跡とその周辺 ~

 秩父市浦山地区というのは、かつては関東三大秘境に数えられたそうですが、現在は「浦山ダム」建設に伴って、秩父地区有数の観光地となり、昔日の面影はありません。
ここにも開発の陰にひっそりと消えていった中学校と、新道開通のために役目を終えた旧道がありました。


① 廃校記念碑。

校舎自体は散文的な面白くない校舎なので、写真的にはこのような逃げ道を使うしか方法がありませんでした。
現在は企業の研修施設に使われているようです。




② 玄関脇に置かれた考える人? 
卒業制作でしょうけど、ひとりぼっちで淋しそうですね。




③ 朽ちた百葉箱。
「理科班」の子たちの姿が見えてきそうです。




④ タイムカプセルの埋没票。
 



⑤ 学校の前を通る旧道(一応、県道だった)はすでにこのような廃道になっている。




⑥ 新しい道路から④の道へ通じる橋も入口を塞がれ、廃橋になっていた。




⑦ 廃橋の向こうにはダムの建設に伴って新しい橋が作られ、車が疾走している。