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HARIKYU'S CAMERA CLUB 「BLOG 」

「HARIKYU'S CAMERA CLUB」の別室写真館です。
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廃校をたずねて⑦ 秩父郡吉田町立上吉田小学校

2011年05月10日 | 廃校をたずねて

廃校をたずねて⑦

 秩父郡吉田町立上吉田小学校跡

~ どこかなつかしい木造校舎 ~


 今回は~ 廃校をたずねて② ~でご紹介した「皆野町立日野沢小学校」同様、「秩父事件」因みの里の廃校をご案内します。

「秩父事件」というのは明治時代の初頭、生糸価格の暴落で生活に困窮した秩父地方の農民達が、自由と解放を求めて立ち上がった民権運動で、この廃校のある秩父郡吉田町が主たる舞台になっています。

光岩小学校のようなメルヘンさはないけれど、どこかなつかしさがただよう・・・そんな学校をたずねました。





① 広い校庭に木造校舎。
いまの日本からこんな空間がどんどん消えつつあります。




② 山の分校ではないけれど、どこかなつかしさがただよう校舎です。




③ 平成16年3月をもって閉校になってしまいました。




④ ガラス戸ごしに廊下を撮影。
中央にセンターラインが引かれています。
そういえば交通法規を学校の廊下で教えこまれましたっけ。




⑤ 生徒の通用口。
もう子供達の姿はなく、ひっそりと静まりかえっています。




⑥ 3~4年生の教室。
窓がサッシでないので味わいがありますね。
複式学級だったようです。




⑦ いわし雲 東西五キロ 子ら帰る の句碑が。




⑧ 教室から直接、外への出られるドアもありました。
デザインもレトロ。




⑨ 図書室の片隅にて。




⑩ 木の机。
午後のあたたかい光が差しこんでいます。




⑪ さて、そろそろ帰ろうかと、もう一回りしていると、




⑫ すぐに、日が陰ってきてしまいました。
山里の日暮れは非常に早いのです。


★補遺 ①



○ 明治17年11月1日、秩父困民党の集結した吉田町椋(むく)神社本殿。

「畏れ多くもお天道様に敵対するから加勢しろ」の呼びかけに応じて集まった農民達は近隣町村も含め3,000人だといいます。


★補遺 ②



○ 上吉田小学校のやや上手にある県営合角(かっかく)ダム。

埼玉県の前知事はこのダムに、自分の長女「桃子」と同一呼称の「桃湖」と命名。
この知事は長女の収賄絡みの事件で失職したが、公私混同も甚だしい。
静かな山の湖に生臭いものを持ちこまないでほしい。






廃校をたずねて⑥ 横瀬町立芦ヶ久保小学校入山分校跡

2011年05月10日 | 廃校をたずねて

 廃校をたずねて ⑥



 横瀬町立芦ヶ久保小学校入山分校跡

 ~ トンネル用地に消えた学校 ~


国道299号線というのは国道140号線とならんで、東京から秩父地方へ抜ける交通の大動脈である。
この大動脈にもかつては交通上の難所があった。
「正丸峠」がそれで、数多くの急坂、急カーブを経て、標高1,000メートル近い峠を越えなければ双方の往来ができなかったのである。
昭和50年代の初めに「正丸トンネル」の開通により、この不便さは解消されたのであるが、その陰にひっそりと消えていった学校跡もあった。




① 廃校記念碑。

記念碑の裏面・「入山分校に憶う」の文面

「江戸街道とは言え上り下りの曲がり道本校を隔てること遠きは八千米に及び辺地に在る入山地域住民は分教場の設置を願望し歴代村会議員並びに区長を中心に回を重ねて村当局に請願するもその機熟さず幼い児童は風雪にもめげず徒歩による通学を余儀なくされた。

正丸峠の開通により交通状況は好転したが地域住民永年の懸案と執念は動ぜず新制中学校舎新築を機に猛運動を展開し敷地の造成提供労力奉仕等多大の協力によって遂に昭和二十七年四月十二日三年生までの複複式学級の小規模校として芦ヶ久保小学校入山分校の開校を見た。

将来稀有と思われる多年に亘る弛まざる熱意と強固なる団結の果報に地域住民の歓喜は一入であった。

爾来十五年の間に百名に及ばんとする学童が巣立った。然し乍ら時代の推移と児童数の減少により止むなく昭和四十一年度限りで廃校され入山公会堂としてその面影を留めていたが此の度国道改良に伴う正丸トンネル開削工事による新時代の交通用地と化し敷地建物総てその姿を残さず壊滅する。

比処に学んだ学童の母校並びに地域住民の熱意と団結の象徴を失うに忍びずこの碑を建設し後世に伝えんとす」

昭和五十四年三月吉日

地域住民の熱意と団結により開校された入山分校も実働年月は僅か15年、100名程度の学童教育に携わったのみだったようである。




② 記念碑裏面。上の文面が刻んである。




③ 正丸トンネル掘削工事のため造成されて、学校跡という面影はない。
無線の中継施設のようなものが建っていた。




④ 校門のような門柱が残る。
移設されたものかも知れない。




⑤ 東京と秩父を結ぶ大動脈「正丸トンネル」。
このトンネルの開削によって入山分校跡は消滅したのであるが、トンネルの恩恵は計り知れない。




廃校をたずねて⑤ 都幾川村の廃校3校

2011年05月10日 | 廃校をたずねて

廃校をたずねて ⑤

~ 都幾川村の廃校3校 ~


 埼玉県比企郡都幾川村というのは、決して山深い山村という訳ではないのですが、
秩父山地が関東平野に落ちこむ複雑な山のヒダの上に位置することと、
長らく道路網が不備だった関係上、処々に隔離された村落があり、その村落の子供達対象の小規模な学校が数ヶ所、点在していました。

しかし最近の過疎化の波と、スクールバス等による交通網の発達で、これらの学校は次々に統廃合の波に呑まれていってしまったのでした。


~ ① 都幾川村立大椚第一小学校跡 ~




① 大野集落よりのぞむ学校全景。





② 私がこうした写真をみなさんにご紹介するのは、廃校や木造校舎の持つ「懐かしさ」や「暖かみ」を感じ取って頂けたら、という気持ちからなのですが、この学校だけは、その表出が非常に難しかったです。
校舎の一部が鉄筋に改造されているのもその理由のひとつかも知れません。





③ 廃校記念碑。
詳しいことはよくわかりませんが、記念碑の裏を読むと、この大椚第一小学校は次に紹介する大椚第ニ小学校と同様、文部省の「へき地教育研究校」だったようです。





④ 近代的な鉄筋造りの管理棟と体育館。
山あいの学校にはちょっと不釣合いな規模です。
閉校持には10数人の生徒しかいなくなってしまったそうです。





⑤ ここは小学校なのですが、どうもこの換気孔のデザインは「中」に見えてしまう・・・。





⑥ 梅雨どきに取材したときのもの。
現在では校庭の遊具等はすべて取り払われてしまいました。





⑦ このアングルがいちばん学校らしいかな≠ニも思います。





~ ② 都幾川村立大椚第二小学校跡 ~










① 廃校記念の壁面メモリアルのようですが、ちょっとペンキが剥げてきてしまいましたね。
絵を見る限りでは全校生徒が14人、先生が3人の小さな学校だったようです。
左端は校長先生かな。みんな仲が良さそうですね。
このまま数年もすると、この絵も朽ちてしまうのでしょうか。





② これが学校の全景。

校庭はとても狭く、1周100メートルがやっとというところです。
それでも「運動会の時は校庭ぎりぎりに、一生懸命走った。」と土地の人が話してくれました。





③ 屋外掲示板にあった古い写真。

昭和22~3年頃の写真のように見えます。「まずしくとも、希望に満ちていた子供たち。」





④ 上の子供達の背にする樹木は成長し、すでに大木になって周りを見回しています。
 




⑤ これも掲示板にあった写真。

昭和22年に裏山が崩れ、校舎を新築した時の学校関係者の記念写真のようです。
写真を良く見ると、私が中学や高校の頃に教わった先生方に、何となく似ている方がいなくもありません。
農村の教育者の家というのは家督的な世襲制の強いところですので、ここに写っているのは、そういった先生方のお父さんや、お祖父さんなのかも知れませんね。





⑥ 体育小屋にそのまま残る縄跳びのナワ。

またいつか主人が使ってくれるのを待っているのでしょうか。





⑦ これも壁面アートです。みな大騒ぎでこの絵を描いたのでしょう。

スネオ君に似た子もいますね。





⑧ ドアミラーより振り返る大椚第2小学校跡。





⑨ すでに何枚かご覧のように、村内のそこかしこに子供達の手作りによる学校案内の看板が残っています。
かなりの力作揃いです。
休校期間を含めると、もう子供達が姿を消してから5~6年はたっているのですが、誰も撤去しようとしません。
学校はなくなっても、村の人々の心の中に学校は生き続けているのでしょう。





~ ③ 都幾川村立明覚小学校「大附」分校跡 ~




① ゆずの香る山村部落の都幾川村「大附」地区。 
正面の建物が大附分校跡ですが、建物は新しく建て替えられています。

 



② 学校跡は村の特産物直売所となっています。





③ 直売所の横に坂道があり、





④ 何やら学校くさい雰囲気が。 坂道を登りきると・・・。





⑤ 桜の木にブランコ。 そこはまさしく学校の校庭でした。





⑥ 校庭跡はゲートボール場になり、お年寄りたちがゲームに興じていました。





⑦ 閉校記念碑。
「社会の進歩とこれに対応する教育の変革は小規模校の統合に及び・・・」との記述が。





⑧ さすがにお年寄りはブランコには乗りませんので、ブランコも所在なさそう。





⑨ この地区のゲートボールチームは結構強いチームだそうで「今度、県の体育大会に出るんだ。」といってさかんに練習にはげんでいました。

幼き日の学び舎に、歳月をへて老人となって還ってくる。
これもまたひとつの「輪廻転生」なのかな、とも感じました。





⑩ ここにも学校であった頃の名残がありました。



廃校をたずねて④ 大滝村立光岩小学校

2011年05月10日 | 廃校をたずねて
 
廃校をたずねて ④

~ 意匠の素敵な木造校舎 ~

       



~ ① 大滝村立光岩小学校跡 ~






①② レンガ造りの校舎正門。

<彩甲斐街道>国道140号線の傍らに「光岩小学校跡」はあります。
往来は車の行き来が激しいのですが、ここは高台の上にあり環境はとてもよろしいです。







③④ ご覧のように、とても優美なデザインの校舎です。

校庭に残る「閉校記念碑」を読むと、昭和39年校舎新築とありますから、木造校舎としてはいちばん最後の頃の建築ということになるのでしょうか。
(昭和40年代からの新築校舎はほとんどが鉄筋建てとなります。)

昭和の始めころに建てられた質実剛健一点張りの校舎とは異なり、西洋建築のデザインも十分に取り入れられた、優れた意匠だと思います。

特に一対のトンガリ屋根、1階と2階との間の換気孔、左右の児童通用口のデザインが卓越しているのでは。





⑤ 閉校を知らせる貼り紙。 平成13年3月31日をもって閉校。





⑥ メモリーズ・カプセル。

最後に残った子供たちは全校で28人だったのですね。
「2020年11月23日にまた会おう」とあります。
しかし、廃校に残されたタイムカプセルはその後の造成などで破壊されてしまうことも多いそうです。





⑦ 小学校のシンボルといえば、古くは「二宮尊徳像」なのですが、この学校では「小便小僧くん」でした。
当然のことながらもう放尿はしていません。





⑧ 春に訪れた時にはチューリップが咲いていた「学校花壇」でしたが、今は草ボーボーでした。

「児童通用口」のデザインも洒落ています。
この学校の建つ「大滝村」というのは埼玉県最奥の山村ですが、こんな山奥の学校を、誰がこんなにモダンな校舎に設計をしたのでしょうか?
設計者がご存命なら、是非当時のお話を伺いたいものです。





⑨ 校庭の片隅にあった岩石標本。

ここ大滝村は「日窒鉱山」の控える鉱業の村でもあったのです。
現在は廃鉱同然らしいのですが。

 



⑩ 奥の岩峰が校名由来の「光岩」。

熊倉山へ続く尾根の末端にあります。 朝日が当たると美しく輝くはずです。





⑪ 玄関正面の意匠。

本当はもっとカメラを引いて、玄関全体を入れたかったのですが、③の写真にあるようにサッカーのゴールャXトが邪魔をしており、このような写角になってしまいました。
このゴールャXト、以前は別の場所にあったのに、なぜかいつの間にか玄関前に移動されてありました。
怒れる立場ではないのですが、「誰かね、こんな場所に移動させたのは!」・・・。





⑫ レンズの内面反射で、画面に美しい「虹」がでました。

光岩小学校を巣立っていった子供たちに素敵な「虹のかけ橋」があらわれますように。




廃校をたずねて③ 飯能市の廃校4校

2011年05月10日 | 廃校をたずねて

 廃校をたずねて ③

~ 飯能市の廃校4校 ~


~ ① 飯能市立南川小学校跡 ~

国道299号線が谷あいの道を「正丸トンネル」にさしかかる少し手前、「子の権現」入口に飯能市立「南川」小学校跡があります。

かつてはこの辺りの村々は、「西川材」林業によって大いに栄えましたが。周辺集落の過疎化に伴い、平成5年「吾野小学校」に吸収併合され廃校となりました。

市議会の反対で廃校が1年延びたという経緯も残る学校です。





① 二宮尊徳像のある校庭と閉校記念碑。
これまでに、色々な廃校を巡りましたが、二宮尊徳像のある学校は今のところここだけです。




② 校舎全景。
八重桜の咲く頃におとずれました。
サッシでない窓ガラスが、木造校舎と程よく調和しています。




③ 西洋風な「漆喰」造りの正面玄関。
玄関の2階は大概、応接室や校長室になっているんですよね。




④ 卒業製作でしょう。
鮭をくわえる「熊らしき」動物の石像です。




⑤ 釘で鉄板に打ちこんだ「製作プレート」がありました。




⑥ おしりがカワイイ「熊さん」ですが、誰もいない校庭を見つめる姿は、とっても淋しそう。




⑦ 卒業製作の自画像の彫像。
昭和48年度卒業記念とありますが、この時点でも1学年12人しか居なかったようです。




⑧ 色褪せた校舎に西日が美しく映えていました。

ちなみに③、⑧の写真の玄関上の部屋は今で言う「VIPルーム」なのですが、ここは5~6年生になって清蒼又ヤにでもならない限り、通常は立ち入ることのできない「聖域」でしたね。
余談。



~ ② 飯能市立北川小学校跡 ~


 南川小学校と深い谷(高麗川)を挟んで対峙する位置にある学校です。
平成5年に南川小と時を同じくして廃校になりました。

大正か昭和の始め頃に建てられたという、木造平屋建て校舎は何か厳めしい感じもします。

「自校式の給食は、この学校が市内でいちばん早かったんだ・・。」と土地のお年寄りが自慢げに話してくれました。

校庭の片隅には、卒業製作と思われるラクダの像があり、これがこの学校の隠れたシンボル?になっています。





① コスモス咲く小学校全景。
袴姿の先生と、藁草履の子供達が出てきそうな雰囲気です。




② 校庭の片隅にはこの学校のシンボル?「ふたこぶラクダ」の像があります。




③ 子供達の歓声が消えて、早や10年経ちました。
朽ちつつある「ラクダ」君はひとり遊具を見つめ、何を思っているのでしょうか。




④ 校庭はもう、ボールが弾むことはありません。



~ 番外③ 飯能市坂石尋常小学校跡 ~




① 吾野駅に程近い高台の上にある飯能市立「坂石尋常小学校」跡。
地元の人に場所を伺って行ってみた。
通称、町分(まちぶん)の小学校といったそうだ。
「坂石桜」というのは学校のシンボルだったのだろうか。
白い門柱が学校の名残を伝えている。




② 国旗の掲揚塔のようなものが残っていた。




③ 向こうに見える鉄筋の建物は飯能市立吾野中学校。




④ 校舎の跡には西武建設(株)の古い社宅が並んでいる。
空き家が多く、実際に居住しているのは2~3世帯のようだった。



~ 番外④ 飯能市立長沢小学校跡 ~


 記念碑等はまったくなく、詳しい廃校年月日は不明ですが、古い地図には明らかに「風影」部落に小学校の記載があります。

徒歩でしか辿りつけないその場所に、数年前、悼。前の校舎を目撃しましたが、残念ながらその時は、写真には記録できませんでした。

先日、ひさしぶりに訪れてみますと、すでに校舎は取り壊され、生い茂る窒ニ夏草に覆われて「廃校」のイメージとは程遠いものになっていました。

「廃校めぐり」にも期限があることを知った次第。
いづれ、土地の古老にでも当時の話を聞いてみたいものです。



① 門柱は残存するも、墓石のようにも見えます。
ここには徒歩でしか辿りつくことができません。




② 草生す土台石。 




③ 敷地跡は夏草に覆われて・・・。




④ わずかに基礎石が残るのみです。




⑤ 手洗い場か水飲み場でしょう。
左に何枚も積まれてあるのは校舎の窓ですね。




⑥ 苧ムの中に残る便器と廃材。

こうなると、「廃校」だか「廃屋」だかわからなくなりますし、当時の子供達の歓声を想像することも困難。
「廃校めぐり」にも期限があることを知った次第です。




・・・なお、つい最近の聞き取り調査により、この学校は昭和20年代のはじめ、戦後まもなく廃校になったことがわかりました。
新しい学校制度によってこのような「山の分教場」は淘汰されてしまったのでしょう。



~ 番外⑤ 飯能市立高山小学校跡 ~


この学校も「風影小学校」同様、記念碑等はなく、詳しい廃校年月日はわかりません。
面白いのは、関東三大名刹といわれる「高山不動」の敷地内にあることでしょうか。


① りっぱな門柱は残っています。




② 校舎のごく一部が残されています。
中を覗くと地元の集会場のような感じになっていました。
ハイキングコースが目の前を通ります。





~ 番外の番外編 風影部落の公会堂 ~

風影の廃校跡に通う道すがら、こんな建物を見つけました。
「オヤ、これも廃校か?」と思いましたが、どうもそうではなく、部落の公会堂のようです。
なかなか味わいのある建物なので追加紹介いたします。










廃校をたずねて② 「秩父事件」の里の廃校 

2011年05月10日 | 廃校をたずねて

廃校をたずねて ②

「秩父事件」の里の廃校


~ ① 秩父郡皆野町立日野沢小学校跡 ~

 
 この小学校のある皆野町日野沢地区というのは、隣の秩父郡吉田町と並んで 秩父事件 勃発の地として知られています。

つい最近までは歴史上から黙殺され、地元でも話題にすることをタブー視されてきた事件ですが、その民主性と正義性から近年再びクローズアップされ、郷土の誇りとして語り継がれ始めました。

子供達の祖先の殆どがこの事件に携わった・・・そんな因みの廃校を訪ねてみることにします。




① 清流が目の前を流れる美しい環境にある。




② 校舎全景。
手前の青い橋をわたって学校に入ります。
まだ子供達の歓声が聞こえてきそう。




③ 閉校記念碑。
平成14年3月閉校とありますので、廃校後まだ2年半しか経っていません。
100有余年の歴史を持つ古い学校だったようです。




④ 窓越しに寄せ書きが見えました。
「先生方へ いつまでも忘れないでね。」などと書き残されています。
泣けますね。 私だったらこの黒板の字は消せません。




⑤ 物置小屋が開いていたので、中を覗くと、盾やトロフィーなどが放置されていました。

この学校の内部を窓から覗いてみると、廃校後、慌ただしく教員たちが移動していった形跡が見られ、校具や備品などはそのまま放置された状態で荒れています。

こういった記念の品々などは、今後一体どうなってしまうのでしょう?
このまま廃品回収などに出されてしまってはあまりにもかわいそう。
関係各局の考慮を望みたいところです。




⑥ 花壇は誰も手入れしないので雑草で一杯。
でもなぜかホウセンカと巨大なヒマワリが1輪咲いていました。




⑦ 学級花壇用のプランターがまとめて置かれていました。
苗はまだ生きていますが、いずれ雑草に負けてしまうことでしょうね。

余談ですが、左上に小さく見えるのは、つい最近、エンジンより煙をはいて廃車になってしまった旧愛車の「キャロル号」です。
「廃校めぐり」にはずいぶん活躍してくれましたが、まさか自分が「廃車」になってしまうとは・・・。




⑧ 校庭に生す雑草が「廃校」という事実を物語っています。




⑨ 撮影を終えても、未だ立ち去りがたい郷愁があるのは何故でしょうか。




② ~ 秩父郡皆野町立立沢分校跡 ~

 
 上述の日野沢小学校跡から、車で林道を溯ること10数分で、突然明るい山上部落が現れます。
皆野町「門平地区」という場所ですが、ここに日野沢小学校の分校である「立沢分校跡」があります。

詳しい閉校年月などは、②の写真に出てくるオバチャンの記憶にも曖昧で、よくわからないのですが、かなり以前に廃校になってしまったのは確かなようでした。




① 廃校後は一部改築され、「日野沢山の家」として第2の余生を送っています。
中央の焚き木はキャンプファイヤーの跡でしょう。
夏期のみの開設、自炊が原則ですが、最近は林間学校などの利用はあまりないそうです。




② ひとり「山の家」用のシーツを畳んでいた管理人のオバチャンです。
もう60代になる息子さんが4年生までこの学校に通っていたそうで、
(5年生からは本校に通う。)

「折角編んだワラジをねェ、1日でダメにして帰ってくるんだよー。」と話してくれました。

当時、この学校の「小使いさん」は、子供達の給食(味噌汁とご飯)を運ぶため、毎日何時間もかけて下の母校(日野沢小学校)との間を往復したのだそうです。

徒歩以外に交通手段のなかった昔は大変な労働だったことでしょう。




③ 分校の玄関。

  立沢の子ども
 
 ・ よくはたらく子
 ・ いつもやさしくおもいやりのある子
 ・ これだれはだれにもまけないぼくのもの
 ・・・・・
などの標語が読み取れます。
山間部では子供といえども貴重な労働力だったのでしょうね。




④ 初めて訪れた時は桜がもう終わる頃でした。




⑤ スレートの屋根は山の家用として新しく架けられたもののようです。

オバチャンの話によると、この山の家も年々赤字が累積し、開設期間も短くなっているとのこと、

「町村合併になったらねぇ、きっとここも無くなっちゃうだろうねぇー。」とは淋しいかぎりです。




廃校をたずねて① 秩父市立浦山中学校跡とその周辺 

2011年05月10日 | 廃校をたずねて

廃校をたずねて ①


~ ① 秩父市立浦山中学校跡とその周辺 ~

 秩父市浦山地区というのは、かつては関東三大秘境に数えられたそうですが、現在は「浦山ダム」建設に伴って、秩父地区有数の観光地となり、昔日の面影はありません。
ここにも開発の陰にひっそりと消えていった中学校と、新道開通のために役目を終えた旧道がありました。


① 廃校記念碑。

校舎自体は散文的な面白くない校舎なので、写真的にはこのような逃げ道を使うしか方法がありませんでした。
現在は企業の研修施設に使われているようです。




② 玄関脇に置かれた考える人? 
卒業制作でしょうけど、ひとりぼっちで淋しそうですね。




③ 朽ちた百葉箱。
「理科班」の子たちの姿が見えてきそうです。




④ タイムカプセルの埋没票。
 



⑤ 学校の前を通る旧道(一応、県道だった)はすでにこのような廃道になっている。




⑥ 新しい道路から④の道へ通じる橋も入口を塞がれ、廃橋になっていた。




⑦ 廃橋の向こうにはダムの建設に伴って新しい橋が作られ、車が疾走している。








「Dororonえん魔くん メ~ラめら」 第4話

2011年05月01日 | 廃校をたずねて

<pink>「Dororonえん魔くん メ~ラめら」 第4話</pink>

 
 仔猫に化けて相手を眠らせ、その夢の中に入り込んで悪さをするという「猫夢」の魔力にかかって眠らされてしまった「ハルミ」と「雪子姫」。
「シャッモカい」曰く、このままでは一生眠り続けることになってしまって危険だからどんな手を使ってでも起こさないとマズイ。

 ・・・・・というあたりからの展開が凄かったですねー。(^_^;)

 乳揉み、乳吸い、等々何でもありの「閻魔くん」の反則技でした。
女性として無視された「ハルミ」の胸中はちょっと複雑?
何でも凍らせる「雪子姫」の機転で、妖怪彫刻の材料にするために茹でた人間を自由に変えられる「百手」も、「猫夢」もろとも「閻魔くん」が撃破。

 息をもつかせぬ展開で今回はちょっと妖怪退治アニメっぽかったかナ?
とはいえ、萌エロー成分も50%以上でしたが。

 今回の昭和ネタは「ドリフターズ」、「コント55号の野球拳」、「11PM」、「ゴーゴー」、「ロバくん」、「ケロヨン」、「太陽の塔」ほか多数にして多彩。
タイトルの「あんたあの子の夢なのさ」はダウンタウンブギウギバンドの「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」の曲中セリフのパロディでした。


第4話 「あんたあの子の夢なのさ」

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「放浪息子」 第11話(最終回)

2011年04月01日 | 廃校をたずねて

<pink>「放浪息子」 第11話(最終回)</pink>

 今回のャCントのひとつは「修一」の「安那」への再告白、それに修一の男の子としての自覚といったところでしょうか。
それ以外にも様々なファクターから構成された最終回でしたね。

 本作は女の子になりたい「二鳥修一」と、男の子になりたい「高槻よしの」を中心に、「さおり」、「誠」、「千鶴」などが絡む、普通とはちょっと違う日常を描いた群像劇でしたが、「流れ」を中心として見せたためにャCントが拡散していて、どこを中心に見れば良いのかとても把握しにくい作品でもありました。

 叙情的な魅力は十二分にあるのだけれど、サボッタというのではなく、録画を2~3回見直してもどうしても感想が書けなかった回もあるし、これは「修一」の思春期の1ページを簡潔に切り取った「ダイジェスト」という感じもしました。

 「修一」達の小学生部分の話が丸々カットされているそうで、確かに想像するだけで話がうまく繋がらない部分もあったし、2クールかけてじっくり見たかったような気もしますね。
「性同一性障害」というファクターについては特に深く考えなくても宜しいのではないかと思います。
全体に雰囲気と流れを重視した、心地よい感じの作品であったと思います。

総合評価(★★★☆☆)良い

主演男優賞が「修一」、主演女優賞が「よしの」、助演男優賞が「誠」は妥当として、「安那」が本作の中では唯一、「灰汁」なく、「癖」なく、ちょっと強気だけれどナイーブなところもある可愛い女の子として描かれていました。
ややツリ目なキャラも好印象です。
助演男優賞は彼女に。



第11話 「放浪息子はどこまでも ~Wandering son's」

文化祭の桃?の脚本を担当することになった修一は、保健室登校を続けながらも、劇の練習に顔を出すようになる。土居は修一の脚本にアドリブを足してアレンジするが、それが意外に好評で、修一は思い切って土居に脚本制作を手伝ってほしいとお願いする。一方さおりは、久しぶりに修一とよしのを自宅に招き、小学生の頃のように女の子の服を着てみないかと誘う。あの頃には戻れないけれど、それでも……。修一はさおりのワンピースを見つめながら、ぼんやりとそんなことを考える。そしていよいよ、文化祭の日がやってくる。







佐久市旧志賀村立志賀小学校跡

2010年09月27日 | 廃校をたずねて

 廃校をたずねて ⑲

 ~ 佐久市旧志賀村立志賀小学校跡 ~





 ① 群馬県西端の下仁田町「神津牧場」に接する長野県側は佐久市の「旧志賀村」である。
佐久市に合併されて数十年経つようであるが、村内のあちこちには旧志賀村の風情が残る。

校門の佇まいがなつかしい旧志賀村立志賀小学校跡。





 ② 廃校記念碑。





 ③ 手前はモルタル造りの雨天集会場のような建物、奥に木造平屋の校舎が2棟ほど並んでいた。
現在は佐久市教育委員会文化財課の管轄建物になっている。





 ④ 近くにはこんなレトロな建物もあった。
土地の人に伺うと旧志賀村の役場だったそうだ。
その後、幼稚園となり、志賀文化会館という地区の集会場になったりする変遷を経て、現在は未使用の建物になっている。

 都会ならば、こんな建物はさまざまなメディアに活用できそうだが、山間僻地ゆえ、放置されているのは非常に勿体ない感じがする。




旧大滝村立中津川小学校跡

2010年09月13日 | 廃校をたずねて

 廃校をたずねて ⑱

 ~ 旧大滝村立中津川小学校跡 ~


 旧大滝村は秩父郡市最奥の村。
そのさらに最奥の集落が中津川集落である。(現在は秩父市に併合されている。)
中津川小学校の廃校は1984年3月28日とあるから、もう26年も前のことである。




① 閉校記念碑。

碑文を読むと地域住民の学校への愛情と惜別の情が伝わってくる。




② タイムカプセル。

閉校100周年の2082年3月15日に開封予定だ。
私も卒業生も多分、この世に存在しない。




③ 体育館のみは存在している。

中を覗くと2段ベッドや寝具などが置いてあるので、閉校後一時期は「山の家」などに流用されたのかもしれない。




④ 浴室なども併設されていた。

ほとんど使われた形跡がなく、わずかの期間で「山の家」も廃止されてしまったのだろうか。




⑤ 記念碑とタイムカプセルのある校庭の片隅。

静かに時間が流れてゆく。




群馬県下仁田町立青倉小学校土谷沢分校跡

2010年09月08日 | 廃校をたずねて

 廃校をたずねて ⑰

 ~ 群馬県下仁田町立青倉小学校土谷沢分校跡 ~



① 群馬県甘楽郡下仁田町は「こんにゃく」と「下仁田ねぎ」で有名な街ではあるが、実態は人口12,000人足らずの過疎の町だ。

西隣の南牧村に隣接した青倉地区に青倉小学校があり、そこから青倉川を遡ること約3キロで、この土谷沢分校がある。





② 写真のように古い木造校舎の面影を残す学校だが、残念ながらやや荒れている。

現在でも町の所有物件だが、「壊すにも直すにも過疎の町にはどうにも予算がないのだろう。」とは後に登場願う隣家のご主人の弁である。

現在は民間の窯元さんの作業場になっているようだ。





③ 廃校の碑。
昭和50年代の初めに廃校になっている。





④ 学校の隣家に住むご主人である。
庭に出ていたところを呼び止めていろいろとお話を伺った。
ご主人もこの学校の卒業生だそうだが、年々学校が痛んで、荒れていくのを非常に残念がっておられた。





⑤ 赤い夕日が校舎を染めて・・・という感じ。







甘楽郡南牧村立尾沢中学校跡 

2010年09月01日 | 廃校をたずねて

 廃校をたずねて ⑱

 ~ 甘楽郡南牧村立尾沢中学校跡 ~




① 秩父地方の廃校探訪も一段落着いたので、西上州地方にも足を伸ばし始めているが、車でも片道3時間かかるのが玉に傷。

 写真は昭和63年に閉校された甘楽郡南牧村立尾沢中学校跡。

 二棟あるうちの特別教室棟と思われる建物だが、山の中の学校にしてはなかなか意匠は秀逸。

「大滝村立光岩小学校」を思わせるものがあった。




② 森の中の素敵な学校・・・という感じだ。

南牧村の学校には次のような歴史がある。

▼ 南牧村の歴史 

南牧村は明治22年、砥沢村・羽沢村・熊倉村・星尾村が合併して尾沢村に、大日向村・大仁田村・六車村が合併して月形村に、小沢村・大塩沢村・千原村・磐戸村・檜沢村が合併して磐戸村になり、昭和30年に尾沢村・月形村・磐戸村が合併して南牧村になった。

 昭和22年六三制義務教育発足時には、当時の三つの村に小中学校があった。

尾沢村に尾沢小・尾沢中、月形村に月形小・月形小六車分校・月形中、磐戸村に磐戸小・磐戸小檜沢分校・磐戸小大塩沢分校・磐戸中があり、昭和30年合併で南牧村になってからもこの9校が昭和56年まで存在した。

 昭和57年六車分校・檜沢分校・大塩沢分校が廃校になり、昭和63年には尾沢中と月形中が統合して南牧中になった。

そして平成6年尾沢小と月形小が統合されて南牧小になり、この南牧小も平成14年磐戸小に統合されている。平成17年には南牧中と磐戸中が統合され、南牧村は小学校1校、中学校1校体制になってる。




③ 奥の方に普通教室棟らしき建物がある。

 こちらは木造校舎の意匠としては平凡なもので、かつ窓枠がサッシ化されているのが残念だ。




④ 立派な門柱が残っている。
この学校には、隣接する臼田町(現・佐久市)馬坂地区の中学生も越県通学していた。




⑤ この立派な鉄筋建築は尾沢小学校跡。

尾沢中学校廃校よりもずっと後の平成6年に月形小学校と合併して廃校になった。

現在では南牧村生涯学習センターとなっている。




⑥ 尾沢小学校の廃校記念碑と尾沢中学校遠景。





甘楽町立秋畑小学校那須分校跡

2010年08月31日 | 廃校をたずねて

  廃校をたずねて ⑰

~ 群馬県・甘楽町立秋畑小学校那須分校跡 ~


 ここ「群馬県甘楽町」は西上州の入り口の町。



① 本町の観光パンフレットに木造校舎の絵があり、「秋畑小学校那須分校」とあったので行ってみたが、数年前に廃校になっていた。
埼玉県の都幾川村立大椚二小を思わせるような小さな学校だ。




② 廃校記念碑の後ろは小さな体育館。




③ 窓からちょっと失礼をして黒板を撮影。




④ とても狭い地形に建つ学校なので、駐車スペースもほんのわずかしかない。




⑤ 甘楽町南端のここ「那須地区」は、日本の原風景のような景色が見られた。
画面右下がここ「那須分校」。




佐久の廃校

2007年11月04日 | 廃校をたずねて
 
 廃校をたずねて ⑯

 ~ 佐久の廃校 ~
 

長野県はその広さと旧国名から、「木曽」「天竜」「諏訪」「筑摩」「信濃」などの細かい地域に分かれるが、ここ「佐久」地方は群馬県の西上州や埼玉県の秩父地域に隣接する、東京からは最も近い「信州」である。
大約、高原列車で有名なJR小海線の沿線地域であると思えば間違いない。
沿線は過疎地域も多く、既に使命を終えた学校跡が点在する。


 ① 小海町立北牧小学校松原分校

「松原湖」といえば登山に詳しい人はすぐにピンとくるかも知れない。
八ヶ岳山麓にある高原の湖だ。
1960年代はスケートで有名だったようである。
ここに小海町立北牧小学校松原分校の跡地があった。




・ 廃校記念碑と二宮尊徳像。
昭和53年本校に統合とある。
土地柄スピードスケートの選手を多く輩出した学校のようだ。






・ 校舎は残っていないが、地区の集会場が建っている。
木造校舎がないのはやはり寂しい。
校庭の遊具はそのまま残されていた。



 ② 八千穂村立八千穂南小学校跡 

 ①の松原小学校で紹介した、南佐久郡小海町と隣接する八千穂村(現在は隣の佐久町と合併して佐久穂町となった。)にも廃校跡を見つけた。
八千穂村立八千穂南小学校という。




・ 残存する校門。
どことなく戦前の小学校の面影がある。




・ 廃校記念碑の裏面にはめこまれている、かつての木造校舎全容写真のプレート。
このようなものが廃校に残っているのは珍しい。




・ 校歌の碑。




・ 学校跡は町営住宅となっていた。
どことなく学校の面影を残す意匠になっているのは、地元民や卒業生達の要望だったのだろうか。




・ 住宅の脇に二宮尊徳像がひっそりと佇んでいる。



 ③ 旧臼田町立臼田小学校狭岩分校跡

 この学校について記す前に旧臼田町(長野県南佐久郡)の「広川原」と「馬坂」という集落について触れておきたい。

この二つの集落がここに載せた狭岩分校の通学区だが、この二つの集落は常識的な県境の概念を逸脱して、長野県が群馬県側に深く食い込んだ場所にある。

  どうしてこんな線引きがされたのか?非常に興味深く思い、馬坂地区の古老に話をうかがってみた。




すると、江戸の昔、このあたり一帯の信濃国と上州国の国境決めがどうしても決まらず、結局双方から役人が出て「陣取り合戦」のようなことが行われて、このような線引きになったという。
信濃の「知恵」が上州人に勝ったいきさつについて 佐久市のホームページ に詳しい記載があった。
興味のある方は開いて読んでみてほしい。

臼田町は平成の大合併によって佐久市に吸収されている。
佐久市はかつては岩村田、中込、野沢などの小さな街を擁する地方の信州の小都市にすぎなかったが、この合併によって望月町、浅科町も併合して信州の中核市に変貌しつつある。




・ こちらが狭岩分校の跡。
相当以前に廃校になった模様で朽ち方が進んでいる。
建物内部も砂防工事などの飯場になっていたようで散らかっていた。

ここは臼田の本町には田口峠を越えて10数キロもかかるが、隣接する群馬県の南牧村へは3~4キロで行ける。

「馬坂」と「広川原」の子供達はここを卒業すると、隣接する南牧村の尾澤中学校(廃校)に越境通学したそうである。




・ こちらが南牧村立の尾澤中学校跡。
意匠のなかなか素敵な校舎だった。



 ④ 佐久市志賀村立志賀小学校跡

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