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HARIKYU'S CAMERA CLUB 「BLOG 」

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ごきチャ!!

2012年09月25日 | 廃校をたずねて

<pink>ごきチャ!!</pink>





 何しろ「 イカ 」までもが少女キャラ化されるご時世だから、ちょっとやそっとのことでは驚かないつもりでいたけど、
これには驚いた。(^_^;)
まさか、あの嫌われ者の「 ゴキブリ 」までもが少女化されるとはねぇ・・・・・。




 お話の方は面白かったし、とっても可愛いことは可愛いと思うんだけれど・・・・・。
このキャラクター造形ははげしく微妙ですね。
触覚もチョコチョコ動くし、黒くて不気味な実物を容易に連想させちゃいます。
少なくともマスコットにはしたくない感じ。
この抱き枕が欲しい ! なんて奴はいるのかね。(笑)




 主人公はクロゴキブリで、脇役にチャバネゴキブリが登場する模様・・・・・。




 1話は楽しかったし、8分間アニメだから視聴も楽なので続けて見てみたいとは思います。

ただ、キャラ化されない「素」のゴキブリ描写もありますので、嫌いな人は見ない方が良いですね。(^_^;)
声の役は能登麻美子さんで無難によく合っていますが、ちょっとEDは聞くに耐えないなぁ・・・・・。


『ごきチャ!!』は、川原礫によるライトノベル。電撃文庫より、2009年から刊行。2012年にTVアニメ化。

【ストーリー】人間とお友達になりたいと願う、心優しい少女“ごきチャ”。
けれど、みんなから嫌われているゴキ○リがゆえに…。
人間の青年との出会い。ゴキ仲間“ちゃば”との友情。健気で可愛い“ごきチャ”目線で描かれるハートフルストーリー。
…あなたはお友達になってくれますか?(wikipedia等参照)


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goki1 投稿者 animeultimatv




「緋色の欠片」 10話までの感想

2012年06月05日 | 廃校をたずねて

<pink>「緋色の欠片」 10話までの感想</pink>


女性が主としてプレイをし、逆ハーレム状態たるゲームを「乙女ゲーム」と言うのだそうだが、本作もそうした「乙女ゲーム」をアニメ化したもの。
一応10話迄見てきたが、何となく惹かれるアニメでもあったので、これまでの回を全話反復視聴してみた。

この作品、当サイトは勿論、ネット上のブログなどでも評判はあまり芳しくないようだが、私は決して「悪くない」アニメだと思う。





 何より作画や色彩がとても綺麗だし、キャラクターデザインがなかなか良い。
未だ覚醒しない「玉依姫」たる「珠紀」の清廉でちょっと儚げな感じのキャラクターも好みだし、「守護者」たる5人のイケメン君達も逆ハーレムアニメにありがちなアクのあるフェイスではなく、癖のないイイ顔をしているのも好感度が高い。
お話の方も飛躍やシャッフルがなくゆったりと進むから置いてけぼり感覚を味わうことも少ない。
また、番組巻末に現れるイケメン君達の意味ありげなセリフも、最初のうちは抵抗があったが、慣れてくるとこれはこれでなかなか不思議な世界に導いてくれる。(笑)

 ただ、「鬼斬丸」の封印を破ろうとする敵対勢力の「ロゴス」が金髪少女「アリア・ローゼンブルグ」をリーダーとする洋風の奇妙な集団というのはいささか抵抗があるし、ここは評価板で他の論客さんが書いていたように和風で統一して欲しかったと思う。
またその「ロゴス」の行動意図や背景が今のところ詳細にはよく分からないのが、本作の難点だ。

現状では「良い」程度の評価だが、ラスト2話が「とても良い」にランクアップするか、それともそれ以下に格下げになるかの分かれ目といったところ。

OP曲がなかなか良い。
My Play List に登録してしまった。





『緋色の欠片』(ひいろのかけら)は、アイディアファクトリーから発売されている恋愛アドベンチャーゲーム。2012年TVアニメ化。


【ストーリー】

両親が海外転勤となったので、祖母と一緒に暮らすことになった春日珠紀(かすが たまき)。
しかし、珠紀が呼ばれた本当の理由は、「玉依姫」として鬼斬丸の封印をすることだった。珠紀は守護者と呼ばれる少年たちに支えられて、玉依姫の使命に目覚めてゆく。(wikipedia等参照)




廃校をたずねて⑲ 佐久市旧志賀村立志賀小学校

2011年05月14日 | 廃校をたずねて

 廃校をたずねて ⑲

 ~ 佐久市旧志賀村立志賀小学校跡 ~





 ① 群馬県西端の下仁田町「神津牧場」に接する長野県側は佐久市の「旧志賀村」である。
佐久市に合併されて数十年経つようであるが、村内のあちこちには旧志賀村の風情が残る。

校門の佇まいがなつかしい旧志賀村立志賀小学校跡。





 ② 廃校記念碑。





 ③ 手前はモルタル造りの雨天集会場のような建物、奥に木造平屋の校舎が2棟ほど並んでいた。
現在は佐久市教育委員会文化財課の管轄建物になっている。





 ④ 近くにはこんなレトロな建物もあった。
土地の人に伺うと旧志賀村の役場だったそうだ。
その後、幼稚園となり、志賀文化会館という地区の集会場になったりする変遷を経て、現在は未使用の建物になっている。

 都会ならば、こんな建物はさまざまなメディアに活用できそうだが、山間僻地ゆえ、放置されているのは非常に勿体ない感じがする。




廃校をたずねて⑱ 大滝村立中津川小学校

2011年05月14日 | 廃校をたずねて

 廃校をたずねて ⑱

 ~ 旧大滝村立中津川小学校跡 ~


 旧大滝村は秩父郡市最奥の村。
そのさらに最奥の集落が中津川集落である。(現在は秩父市に併合されている。)
中津川小学校の廃校は1984年3月28日とあるから、もう26年も前のことである。




① 閉校記念碑。

碑文を読むと地域住民の学校への愛情と惜別の情が伝わってくる。




② タイムカプセル。

閉校100周年の2082年3月15日に開封予定だ。
私も卒業生も多分、この世に存在しない。




③ 体育館のみは存在している。

中を覗くと2段ベッドや寝具などが置いてあるので、閉校後一時期は「山の家」などに流用されたのかもしれない。




④ 浴室なども併設されていた。

ほとんど使われた形跡がなく、わずかの期間で「山の家」も廃止されてしまったのだろうか。




⑤ 記念碑とタイムカプセルのある校庭の片隅。

静かに時間が流れてゆく。




廃校をたずねて⑰ 群馬県下仁田町立青倉小学校土谷沢分校

2011年05月14日 | 廃校をたずねて
 廃校をたずねて ⑰

 ~ 群馬県下仁田町立青倉小学校土谷沢分校跡 ~



① 群馬県甘楽郡下仁田町は「こんにゃく」と「下仁田ねぎ」で有名な街ではあるが、実態は人口12,000人足らずの過疎の町だ。

西隣の南牧村に隣接した青倉地区に青倉小学校があり、そこから青倉川を遡ること約3キロで、この土谷沢分校がある。





② 写真のように古い木造校舎の面影を残す学校だが、残念ながらやや荒れている。

現在でも町の所有物件だが、「壊すにも直すにも過疎の町にはどうにも予算がないのだろう。」とは後に登場願う隣家のご主人の弁である。

現在は民間の窯元さんの作業場になっているようだ。





③ 廃校の碑。
昭和50年代の初めに廃校になっている。





④ 学校の隣家に住むご主人である。
庭に出ていたところを呼び止めていろいろとお話を伺った。
ご主人もこの学校の卒業生だそうだが、年々学校が痛んで、荒れていくのを非常に残念がっておられた。





⑤ 赤い夕日が校舎を染めて・・・という感じ。






廃校をたずねて⑱ 甘楽郡南牧村立尾沢中学校跡

2011年05月14日 | 廃校をたずねて

 廃校をたずねて ⑱

 ~ 甘楽郡南牧村立尾沢中学校跡 ~




① 秩父地方の廃校探訪も一段落着いたので、西上州地方にも足を伸ばし始めているが、車でも片道3時間かかるのが玉に傷。

 写真は昭和63年に閉校された甘楽郡南牧村立尾沢中学校跡。

 二棟あるうちの特別教室棟と思われる建物だが、山の中の学校にしてはなかなか意匠は秀逸。

「大滝村立光岩小学校」を思わせるものがあった。




② 森の中の素敵な学校・・・という感じだ。

南牧村の学校には次のような歴史がある。

▼ 南牧村の歴史 

南牧村は明治22年、砥沢村・羽沢村・熊倉村・星尾村が合併して尾沢村に、大日向村・大仁田村・六車村が合併して月形村に、小沢村・大塩沢村・千原村・磐戸村・檜沢村が合併して磐戸村になり、昭和30年に尾沢村・月形村・磐戸村が合併して南牧村になった。

 昭和22年六三制義務教育発足時には、当時の三つの村に小中学校があった。

尾沢村に尾沢小・尾沢中、月形村に月形小・月形小六車分校・月形中、磐戸村に磐戸小・磐戸小檜沢分校・磐戸小大塩沢分校・磐戸中があり、昭和30年合併で南牧村になってからもこの9校が昭和56年まで存在した。

 昭和57年六車分校・檜沢分校・大塩沢分校が廃校になり、昭和63年には尾沢中と月形中が統合して南牧中になった。

そして平成6年尾沢小と月形小が統合されて南牧小になり、この南牧小も平成14年磐戸小に統合されている。平成17年には南牧中と磐戸中が統合され、南牧村は小学校1校、中学校1校体制になってる。




③ 奥の方に普通教室棟らしき建物がある。

 こちらは木造校舎の意匠としては平凡なもので、かつ窓枠がサッシ化されているのが残念だ。




④ 立派な門柱が残っている。
この学校には、隣接する臼田町(現・佐久市)馬坂地区の中学生も越県通学していた。




⑤ この立派な鉄筋建築は尾沢小学校跡。

尾沢中学校廃校よりもずっと後の平成6年に月形小学校と合併して廃校になった。

現在では南牧村生涯学習センターとなっている。




⑥ 尾沢小学校の廃校記念碑と尾沢中学校遠景。





廃校をたずねて⑰ 甘楽町立秋畑小学校那須分校

2011年05月14日 | 廃校をたずねて
 
 廃校をたずねて ⑰

 ~ 群馬県・甘楽町立秋畑小学校那須分校跡 ~


 ここ「群馬県甘楽町」は西上州の入り口の町。



① 本町の観光パンフレットに木造校舎の絵があり、「秋畑小学校那須分校」とあったので行ってみたが、数年前に廃校になっていた。
埼玉県の都幾川村立大椚二小を思わせるような小さな学校だ。




② 廃校記念碑の後ろは小さな体育館。




③ 窓からちょっと失礼をして黒板を撮影。




④ とても狭い地形に建つ学校なので、駐車スペースもほんのわずかしかない。




⑤ 甘楽町南端のここ「那須地区」は、日本の原風景のような景色が見られた。
画面右下がここ「那須分校」。




廃校をたずねて⑯ 佐久の廃校

2011年05月14日 | 廃校をたずねて
 
 廃校をたずねて ⑯

 ~ 佐久の廃校 ~
 

長野県はその広さと旧国名から、「木曽」「天竜」「諏訪」「筑摩」「信濃」などの細かい地域に分かれるが、ここ「佐久」地方は群馬県の西上州や埼玉県の秩父地域に隣接する、東京からは最も近い「信州」である。
大約、高原列車で有名なJR小海線の沿線地域であると思えば間違いない。
沿線は過疎地域も多く、既に使命を終えた学校跡が点在する。


 ① 小海町立北牧小学校松原分校

「松原湖」といえば登山に詳しい人はすぐにピンとくるかも知れない。
八ヶ岳山麓にある高原の湖だ。
1960年代はスケートで有名だったようである。
ここに小海町立北牧小学校松原分校の跡地があった。




・ 廃校記念碑と二宮尊徳像。
昭和53年本校に統合とある。
土地柄スピードスケートの選手を多く輩出した学校のようだ。






・ 校舎は残っていないが、地区の集会場が建っている。
木造校舎がないのはやはり寂しい。
校庭の遊具はそのまま残されていた。



 ② 八千穂村立八千穂南小学校跡 

 ①の松原小学校で紹介した、南佐久郡小海町と隣接する八千穂村(現在は隣の佐久町と合併して佐久穂町となった。)にも廃校跡を見つけた。
八千穂村立八千穂南小学校という。




・ 残存する校門。
どことなく戦前の小学校の面影がある。




・ 廃校記念碑の裏面にはめこまれている、かつての木造校舎全容写真のプレート。
このようなものが廃校に残っているのは珍しい。




・ 校歌の碑。




・ 学校跡は町営住宅となっていた。
どことなく学校の面影を残す意匠になっているのは、地元民や卒業生達の要望だったのだろうか。




・ 住宅の脇に二宮尊徳像がひっそりと佇んでいる。



 ③ 旧臼田町立臼田小学校狭岩分校跡

 この学校について記す前に旧臼田町(長野県南佐久郡)の「広川原」と「馬坂」という集落について触れておきたい。

この二つの集落がここに載せた狭岩分校の通学区だが、この二つの集落は常識的な県境の概念を逸脱して、長野県が群馬県側に深く食い込んだ場所にある。

  どうしてこんな線引きがされたのか?非常に興味深く思い、馬坂地区の古老に話をうかがってみた。




すると、江戸の昔、このあたり一帯の信濃国と上州国の国境決めがどうしても決まらず、結局双方から役人が出て「陣取り合戦」のようなことが行われて、このような線引きになったという。
信濃の「知恵」が上州人に勝ったいきさつについて 佐久市のホームページ に詳しい記載があった。
興味のある方は開いて読んでみてほしい。

臼田町は平成の大合併によって佐久市に吸収されている。
佐久市はかつては岩村田、中込、野沢などの小さな街を擁する地方の信州の小都市にすぎなかったが、この合併によって望月町、浅科町も併合して信州の中核市に変貌しつつある。




・ こちらが狭岩分校の跡。
相当以前に廃校になった模様で朽ち方が進んでいる。
建物内部も砂防工事などの飯場になっていたようで散らかっていた。

ここは臼田の本町には田口峠を越えて10数キロもかかるが、隣接する群馬県の南牧村へは3~4キロで行ける。

「馬坂」と「広川原」の子供達はここを卒業すると、隣接する南牧村の尾澤中学校(廃校)に越境通学したそうである。




・ こちらが南牧村立の尾澤中学校跡。
意匠のなかなか素敵な校舎だった。



 ④ 佐久市志賀村立志賀小学校跡

ページ数の関係で こちら に収録してあります。
お手数ですがクリックしてご覧下さい。




廃校をたずねて⑭ 旧秩父郡吉田町立吉田小学校太田部分校・ほか

2011年05月14日 | 廃校をたずねて
 
廃校をたずねて ⑭

  ~ 旧秩父郡吉田町立吉田小学校太田部分校・ほか ~







① 先ずは前回の続き、旧・群馬県多野郡鬼石町立(現藤岡市)美原小学校坂原分校跡である。

開校年月日や閉校年月日などは記念碑などがないのでわからない。
ここは旧鬼石町法久(ほっく)地区という神流湖沿いの山上部落にある。





② 写真でおわかりの通り、いかにもささやかな山の分教場といった感じである。

児童数が一人だけの状態が2~3年続き、その後廃校になったと土地のお年寄りが話してくれた。
現在は地区の集会場として使われているそうであるが、この部落も高齢者ばかりであった。





③ 本校である美原小学校。

もとは神流川沿いにあったそうだが、昭和43年の下久保ダムの建設に伴って高台の上に移転した。
県費や国費が多額に落ちたのか、デラックスで瀟洒な鉄筋建築で、これはこれで良い。
だがここも廃校になっている。  





④ 本題の旧秩父郡吉田町立(現秩父市)吉田小学校太田部分校跡。

ご覧のように大変瀟洒な小規模校舎である。





⑤ 定礎が昭和63年とあったから、まだ建築後10数年しか経ていない。

以前は古い木造2階建ての校舎だったそうで、部落民の永年の陳情の末、校舎の新築がなったのであるが、その頃には既に児童数が激減し、太田部部落は町当局から「詐欺」よばわりされたそうだ。





⑤ 赤錆びたスクールゾーンの看板。





⑥ 無人の学校にブランコが寂しい。





⑦ 畑の手入れをする老人。

新校舎建築に関する顛末はこの老人から伺ったものである。





⑧ 神流川を挟んで、遙か遠くに法久部落が見える。

太田部地区は吉田本町に出るには山越えをしなければならず、地形的には神流川沿いの多野郡市に下る方が早い。
僅かにいる高校生などは群馬県神流町に越境通学しているという。


 ★ 西上州の廃校 ㊦ を略式更新しています。
下記のリンクからお入り下さい。


 ★★★ 下仁田町立青倉小学校土谷沢分校跡(New!) ★★★

 ★★★ 南牧村立尾澤中学校跡(New!) ★★★

 ★★★ 甘楽町立秋畑小学校那須分校跡(New!) ★★★




廃校をたずねて⑬ 西上州地方の廃校 ㊤

2011年05月14日 | 廃校をたずねて

 廃校をたずねて ⑬


 ~ 西上州地方の廃校 ㊤ ~


 秩父の山村と廃校を取材がてら、群馬県の「西上州」地方にも足を伸ばしてみた。



 「西上州」地方というのは、秩父に隣接する群馬県南西部の鬼石、万場(現・神流)、中里(現・神流)、上野、南牧、下仁田あたりの町村を指す。
秩父と群馬、両方の文化の特徴を併せ持ったような地域だ。
この地域では北側にある御荷母山系にカヴァーされて、上州名物の「からっ風」や「浅間おろし」はあまり吹かない。
しかし山峡の地ゆえ日照時間は短く、冬季の冷え込みは厳しい。

 鬼石町は、神流川流域の西上州の町村では、最下流の町である。(神流川のさらに下流には藤岡市があるが、ここは狭義の意味では西上州には含まれない。)
庭石として用いられる三波石の産地として知られているほか、首都圏の水がめとしての「下久保ダム」も有名である。(写真は美原小学校跡より望む下久保ダム)

 しかしこの鬼石の町名も平成17年一杯を以て、隣の藤岡市に吸収合併される故に消えてしまうことになる。

 ここには意外なほどに廃校の数が多い。



① 鬼石町立 譲原(ゆずりはら)小学校跡




① 最初に教室の「壁教材」の写真をご紹介しよう。

昭和30~40年代のものと思われるが、こんなものが残っていた。
四季の移り変わりを「ピカピカの」1年生に教えるものだ。








②③④ 譲原小学校の校舎を見る。

木造平屋建ての小規模校だが、分校ではなく、1~6年まで揃った通常の小学校だったそうだ。
複式授業でもなかったという。

学校の敷地跡は現在、「道の駅・上州おにし」として利用されている。(後の建物)
もともとは玄関から左右対称の校舎だったのだが、道の駅建設のために削られてしまったという。
残存校舎は土地のお年寄りたちの寄り合いに使用されているようである。

校庭跡はゲートボール場になっていた。
ここでも幼き日の学び舎に、年を経て老人となって還ってくる・・・という図式が見られる。




⑤ 廃校の記念碑。

・・・昭和50年、鬼石小学校へ統合により廃校となるが(当時の児童数74人)、3年生以下を当分の間置くと定め、その後2年間続いた(児童16人)・・・とある。






⑥⑦ 「道の駅」の職員の方にお願いをして、教室の内部を撮らせてもらった。

当然、新建材などは全然使われておらず、とてもなつかしい感じがする。




⑧ 校長室の内部。

戦後、新学制が敷かれてからの歴代校長の肖像と卒業写真が、ズラリと並べてあった。




⑨ 初代校長の写真はなぜか存在しなかった。

右端から2代目、3代目校長・・・と続く。
2代目の校長先生は優しそうだけど、4代目の校長先生は何だか浮サうですね。

卒業生が1枚の額に収まってしまうのも、小さな学校らしい。




⑩ 山あいの学校には珍しい「プール」の跡。

わずか3コースの小さなものだが、それでも子供達には大きな喜びだったことだろう。




⑪ 職員室の看板。




⑫ なつかしい黒電話が。

ここにも卒業生の写真があった。



② 鬼石町立 三波川(さんばがわ)西小学校跡






①② 鬼石町立三波川西小学校跡。 

周辺の川床からは鬼石特産の三波石が採れるが、長い不景気で巨大な庭石を買う人はいない。
平成11年3月末を以て廃校になり、辺りには人気もなくひっそりしている。




③ 廃校記念碑。

さすがに総理大臣を何人も輩出した土地柄のせいか、記念碑の書体は故
小渕恵三元首相の手になるものである。




④ 三波川西小学校開校100年記念の卒業モニュメント。
「昭和50年度卒業生」とあるから、この子達もよい母親になっていることだろう。






⑤⑥ 微笑ましい壁面アートに心おだやかな気持ちになる。
最終年度には児童はわずか10人を数えるばかりになってしまったようだ。




⑦ 校地内には町立の三波川幼稚園も併設されていた。
鉄筋の立派な幼稚園だが、ここも廃園になっていた。




⑧ 体育館への「渡り廊下」。




⑨ 卒業制作?のほほえましい工作。
ペンギン?か何かかな。




⑩ 教育目標である「親切で思いやりのある子」「進んで勉強する子」「ねばり強くじょうぶな子」の標語が校舎に大きく書かれていた。

・・・我々人間は、年を重ねるつれて、擦れてずる賢くなっていくのが宿命だが、此処の子達には、いつまでもこの気持ちを忘れないでいて欲しいと願う。




廃校をたずねて⑫ 両神村の廃校・続編 

2011年05月11日 | 廃校をたずねて

 廃校をたずねて ⑫ 

 ~ 両神村の廃校・続編 ~


 今回も前頁に引き続き、両神村の廃校2校をご紹介する。
この2校もふくめ、両神村の廃校はネット上ではほとんど紹介がなく、画像上はめずらしいものかも知れない。


 ① 両神村立両神小学校「茶m平」分校跡

この分校の存在は村役場で聞いて知ったものである。
前頁「出原分校」同様、薄川流域の分校だが、もっと下流の里に近い場所にある。

開校年月や廃校年月など、詳しいことはよくわからないが、役場の方の話によると、廃校後しばらくは「工場に貸していた」とのことで、もとの建物に作業場や資材置き場が継ぎ足されており、いささか学校らしさが失われているのは残念な事である。

工場撤退後は何に使うこともされずに放置されている。




① 重厚な瓦葺きの屋根を戴いた立派な玄関だが・・・。




② 無粋な鉄骨スレートの作業場が継ぎ接ぎされている。




③ 反対側には資材置き場が・・・。
貸していた工場はすでに撤退しているとのことだが、なぜか建材が置かれていた。




④ 裏手に回って屋根を撮る。
歪みが生じ、瓦も崩落し始めていた。




⑤ 扉の隙間から廊下が見える。
写真ではわかり難いが埃がうず高く積もっていた。




⑥ 校舎の裏側に回る。
蔓草が絡まり、草木が生い茂っていた。




⑦ 穴のあいた軒。




⑧ 朽ち方が加速している。
改修して再利用・・・というのはちょっと無理そうな話である。




⑨ この村の廃校にはどこも記念碑がある。
いづれここは壊されるだろうが、卒業生の心の中に学校は生き続ける。




⑩ 敷地の片隅に残る「リス」のモニュメント。
この学校跡で、「無邪気」とか「童心」を思い起こさせてくれる唯一のものだった。




★ ちょっと廃校からは話題がそれるが、この写真の人物は両神村の前の「村長」、山中常次郎翁である。
自宅のお庭にちょっとお邪魔して撮らせて頂いた。

日中友好施設の誘致や温泉付国民宿舎の建設など、その半生を村の近代化に尽くされた方で、埼玉県村長会の会長なども歴任された。

現在は引退生活をされているようであるが、もう間もなく両神村は小鹿野町に合併され、「両神」の村名は消える。
どんな気持ちで合併の日を迎えるのであろうか。








② 両神村立両神小学校「大谷」分校跡

大谷は「おおがや」と読むのだそうである。

この学校は民宿「両神山荘」のご主人の「川塩(小森川中流の地域)の採石場よりも下に昔の学校跡がある。」という話をもとに訪れてみたものである。(ご主人自身は煤川分校のご出身だそうだ。)

ここも「茶m平分校」同様、小森川沿いの「滝前」「煤川」などの分校よりも、もっとずっと下流域にある。




① 「両神林間学校」の看板が以前から「学校の跡では?」気になっていたが、これが大谷分校の入り口だった。
車道から学校は見えない。




② トタン葺きの素朴な学校だが、瓦葺きに比べると矢張りちょっと情緒に欠ける感じがする。




③ 学校の玄関。
大きな檜が対でお出迎えだが、左の方は枯死した直後のようだった。




④ お定まりの閉校記念碑だが、学校により形が違う。 




⑤ 現在では「両神林間学校」として利用されている。




⑥ 玄関前はちょっと雑然とした感じだ。




⑦ 軒下に錆びた「ベル」があった。




⑧ 学校の裏側。
こちらの方がより学校らしい。




⑨ 物置に古い足踏みオルガンがあった。




⑩ 2階の出窓。
流し場かなにかだったのだろう。




⑪ 学校近くにあった古い地蔵堂。
トタン張りの小屋に木彫りの地蔵がまつられた質素なものだが、お参りする人も居ないように見うけられた。




⑫ 赤錆びたうんてい。
キャンプ場や山の家に衣替えしたこうした廃校も、少子化と高級化指向から顧客が減り、運営がとても難しいと聞く。
この「林間学校」もあまり手入れが行き届いているとはいえず、やはり先のことがちょっと心配になった。




廃校をたずねて⑪ 両神村の廃校3(2)校と煤川集落 

2011年05月11日 | 廃校をたずねて
 
 廃校をたずねて ⑪ 

 ~ 両神村の廃校3(2)校と煤川集落 ~


「両神村」は ~秩父の山村①~ で紹介した、秩父市西方の村である。

今年4月の町村合併によって、(秩父郡)大滝村・荒川村・吉田町の1町2村は秩父市に吸収合併されたが、唯一両神村は合併を拒んだ。

地方自治・分権を守り抜く同村の姿勢は立派なものと云えよう。

当村は、村全体が 南の「小森川」と北の「薄川」という2本の川によって「コ」の字形に区切られており、かつては小森川沿いに2校、薄川沿いに1校の分校が存在していた。

しかし、林業の凋落とそれに伴う過疎化により、昭和40年代にどの分校も閉鎖になっている。





① 両神村立両神小学校「滝前」分校跡



① 小森川の上流、「丸神の滝」近くの鬱蒼たる森の中に「滝前分校」の跡が現れた。
小規模だが、石垣に囲まれて歴史を感じさせる学校だ。





② 大正十三年に建てられた最初の開校記念碑。

不鮮明な文字の解読に非常な苦労を要したので、みなさんも是非読んでみて頂きたいと思う。

***「両神村ハ山間ノ部落ナレバ地勢上小学校教育ノ如キモ本校外四箇所ニ分教場ヲ設ケ児童ヲ教育セリ

特ニ煤川分教場ノ如キハ村ノ西端ニ位シ通学区域約二里ニ亘リ羊腸ノ小径ヲ辿ルナレバ児童ノ××一方ナラズ従テ雨ノ日雪ノ時ハ出席僅少ナルノ状態ニアリ

偶関東木材ノ当地ニ××ヲ開始スルヤ従業員ノ子弟入学スルモノ多ク同分教場ハ狭溢ニシテ到底此レヲ収容スルニ余地ナシニ至レリ

従テ大正十年十月時ノ本村要路者並ニ同分教場区域内ノ父兄及同会社両神出材部ト相計リ児童通学ノ便ヲモ考慮シ其ノ通学部落ノ負担ヲ以テ別ニ字滝前ニ教室ヲ建設スルコトヲ決シ大正十年十一月滝前区域内ノ父兄ハ同会社両神出材部ト合同シ委員五名ヲ選挙シ之ガ事業に着手ス

或ハ設計或ハ寄付ノ募集ニ将タ校地ノ地並シ及校舎建設ニ昼夜営々トシテ奮励努力シ僅々八箇月経費五千五百七十一円人夫一千六十七人ニシテ校地三百坪校舎三十一坪二合五勺ヲ竣成××

十一年五月郡長警察署長ヲ始メトシ村要路ノ方々来列シ会スルモノ無慮五百名盛大ナル開校式ヲ挙行セリ

前ハ小森川ノ清流ニ臨ミ後ハ蒼然タル森林ヲ負ヒ通気採光ニ注意シクレバ山間稀ニ××校舎ナリ
此ノ挙ヲ永ク記念センガ為メ有志相図リテ之ヲ石ニ録ス

大正十三年三月十一月五日

両神尋常小学校長」***

(注 ××は解読不能箇所 )

この記念碑にいう「新築校舎」とは写真の校舎とは別のものと思われるが、今も昔も、子供たちに良い教育を、と願う親心は変わらないものである。





③ 学校跡は現在、「村営のふるさとキャンプ場」として再利用されている。
夏の一時期だけは、昔日と同じような子供達の歓声がこだまする。
しかし撮影時は冬で、谷間を吹きぬける風は冷たく、身にしみわたる感じであった。





④ 校舎の向こうに見えるのはキャンプの炊事場。





⑤ 今はひっそりと・・・・・、





⑥ ・・・・・夏の訪れを待っているようだ。




② 両神村立両神小学校「煤川」分校跡と煤川集落




① 煤川は「すすかわ」と読む。

「滝前分校」よりやや下流に拓けた、小森川流域では比較的大きな集落で「川煤川」と「山煤川」の上下2集落に分かれている。

「滝前分校」の記念碑にも記述のある「煤川分校」跡だが、この記念碑以外に学校であったという面影は見当たらない。
碑の前には部落の集会場が建ち、周囲は共有のモータープールになっていた。
道路建築の際に造成し直されてしまったようである。

代わりに「山煤川」の集落を紹介してみることにする。




② 部落のメイン・ストリート。
集落の入口にはモータープールがあり、そこから各個人の家には、このような荷車道を通ってゆく。
消火栓が見えるが、消防自動車も入れない地域なので、火事には細心の注意が払われているようだ。





③ 急な斜面にへばりつくように人家が建つ。
瀬戸内沿岸の景色に似ているような感がしないでもない。





④ 集落にはもう子供はいないという。
その、すでに成人した子供達がかつて使っていたであろう自転車が、軒下に積み重ねられていた。





⑤ 巨岩を積み重ねた、立派な石垣。
この作業がすべて人の手によって為されたという先人の偉業に、ふと畏敬の念がよぎる。





⑥ 日だまりの道。
昼下がりで人影はない。
かつて、こうした山村ではよく、お年寄りどうしが「日向ぼっこ」をしながら語り合う光景を目にしたものだが、最近は見かけなくなった。



③ 両神村立両神小学校「出原」分校跡


「出原」は「山村をたずねて①」で紹介した集落で「いでがはら」と読む。
「薄川」上流部に拓けた比較的戸数の多い集落である。




① この学校は何かの情報を頼りに行ったものではなく、偶然に探し当てたものである。
出原部落を撮影中、石垣と建物を見てピンときた。
最近はこうした「廃校」にとても敏感になってしまったようである。(笑)





② 高台の日当りの良い場所に学校はある。
森の中の滝前分校とは対照的だ。





③ 窓からは一年中「両神山」が望める。
こんな風光明媚な学校も珍しい。
「両神山」は日本百名山のうちのひとつだ。





④ 軒板の丸い模様は啄木鳥のあけた穴である。
「餌はない筈なんだがな、何だかつつくんだよなぁ~」とは土地の人の弁。





⑤ 午後の日差しを浴びて。





⑥ どこの学校にも同じような記念碑があった。
時がたっても、村の人々の記憶から忘れ去られてはいない、というのは幸いなことである。




廃校をたずねて⑩ 東秩父村立西小学校白石分校

2011年05月11日 | 廃校をたずねて

廃校をたずねて ⑩

~ 東秩父村立西小学校白石分校 ~


「東秩父村」というのは、埼玉県の中西部に位置する小さな村で、今でも「製紙業」が村の主要な産業である。
第2次世界大戦中にはここの和紙が日本軍の「風船爆弾」に使われたということだ。

村名に「秩父」の名があるが、厳密には秩父の文化圏ではなく、「比企」文化圏に属する。
平成の大合併後は埼玉県に残った唯一の「村」である。

村の中心部に東秩父小学校、西部山間部に西小学校があるが、広い通学範囲を擁する西小学校は、大内沢分校と「白石分校」を持っていた。

しかし、より山間僻地に建つ「白石分校」は平成14年度を以って休校になってしまっている。





① 学校入口。
昔ながらの校門などはなく、通行車には入口はわかりにくい。





② 校庭の片隅に休校記念樹があった。
閉校ではなく、「休校」としてあるところに、村の将来への一縷の望みが託されているように感じる。





③ 鉄筋、平屋建て。メルヘンチックで瀟洒な校舎だ。
地区の子供達が大切にされていたことがうかがえる。

こうした素敵な学校というのは、村の人口流出・過疎化の歯止めへの最後の砦だったのだろう。
その望みも絶たれてしまった。





④ 人気のない玄関。





⑤ 校舎の中も綺麗なままだった。
よく見るとクラスの表示が2≠R年生の複式学級になっている。
本当に子供の数が少なかったようだ。





⑥ 低学年の花壇に虚しくクロッカスが咲いている。
見渡したところ、3年生の花壇までしかなかったので、低~中学年のための分校だったようである。





⑦ ベランダに置かれたままの平均台。
タイルの継ぎ目からタンャが芽を出していた。





⑧ もう、子供達の歓声のあがらないブランコ。





廃校をたずねて⑨ 青梅市立第九小学校跡と第十小学校跡

2011年05月11日 | 廃校をたずねて

廃校をたずねて ⑨

~ 青梅市立第九小学校跡 と 第十小学校跡 ~


今回は東京都下、青梅市の廃校を2校紹介する。

「第九小学校」が同市・成木地区、「第十小学校」が同市・小曽木地区に建つものだが、両地区とも埼玉県・名栗村(平成17年4月飯能市に吸収合併)に隣接する山村地帯で、秩父地方と同様の少子高齢化・過疎の集落でもある。

高度経済成長期、子供たちの将来を嘱望して建てられた鉄筋3階建ての近代的な学校も、時代の変遷と共に、廃校も止む無しといったところだったのであろう。




① 閉校記念碑。

校章は青梅の梅をデザインしたものらしい。 
第九小学校跡。

なお、ここ「青梅市」の殆どの小・中学校は数字系列化された素っ気無い校名が付けられている。

東京都では昭和40年代のはじめに美濃部亮吉氏による革新都政が誕生して以来、都内の各所でも革新市制が続出した時期があった。

その革新行政のスローガンの代表的なものは「差別の撤廃・公平・合理化」というもので、各地で従来からあった地域的な校名を、学校の新設・統合の際に数字系列の学校名に変えてしまったのである。

私は政治評論家ではないので、このことの是非について語る気は毛頭ない。
しかし、「差別の撤廃・公平・合理化」と「学校名の数字系列化」という脈絡はあまりにも無機的な行政措置ではなかったのか・・・と考えている。 




② 校舎の全景。 

敷地が細長く、正面からは写真が撮れない。

九小跡。 




③ 近寄ると朽ちたバスケットボールのャXトが。

九小跡。 




④ ラガーマンの像らしい。 卒業製作か?

九小跡。 




⑤ 二宮尊徳の像だが、どうも鉄筋校舎に尊徳像は釣り合わないような気がする。

九小跡。 




⑥ 尊徳像のまわりには無雑作に木材が立て鰍ッられている。
学校跡は現在、「青梅森林組合」の事務所になっている。

九小跡。 






⑦ こちらは第十小学校跡。

学校は現在、小曽木地区の「ふれあいセンター」として使用されているようだが、まったく人気はなく、管理人も不在のようだった。 




⑧ どなたか偉い先生の胸像なのだろうが、よくわからない。

しかし、どんな功績があったのかは存じ上げないが、公立の小学校に一個人の胸像を残すということは如何なものか。

十小跡。 




⑨ 周辺には石灰岩の採石場があり、校舎裏の道路をひっきりなしにダンプカーが疾走しているので環境はあまりよろしくない。
砂塵で建物も汚れている。

十小跡。 




⑩ ブランコの上部がたぐられて使用不能の状態になっていた。

万が一の事故に備えての措置かもしれないが、これまたぬくもりの感じられる行為ではない。

十小跡。 




⑪ 交通安全教育のための「止まれ」の目印。
もう子供達が渡ることもないだろう。

十小跡。 

なお、鉄筋校舎の廃校というのは、木造校舎の廃校とは違って温もりやなつかしさがなく、妙な寒々しさが残るだけだった。

今回の写真でそれを感じ取って頂けたらば、と思う。



廃校をたずねて⑧ 小川町立小川小学校下里分校

2011年05月11日 | 廃校をたずねて

 廃校をたずねて ⑧


~ 小川町立小川小学校下里分校跡 ~

 「比企の小京都」と呼ばれる比企郡小川町にある廃校を訪れました。
町中よりはそう遠くない田園地帯に位置しているので「えっ、何でこんな所に分校が?」と逆の意味で思ってしまう学校です。










① 学校の入り口。
農村地帯のかなりわかりづらい場所にあります。





② 桑畑の向こうに校舎が見えました。

桑の葉は養蚕の貴重な飼料ですが、現在では養蚕業自体が凋落してしまい、荒れ放題の桑畑が多のです。
でも、ここの畑はよく手入れされていました。





③ 小さな学校の玄関。
古い木造学校というのは「厳格な教育現場」という感じがするのですが、ここにはそんなイメージはありません。





④ 校舎の全景。
平屋建てシンメトリーの素朴な校舎です。
狭い校庭に所狭しと遊具が並んでいます。1~4年生までがこの分校で学び、5年生から本校に通ったそうです。
  




⑤ 管理人さんのご厚意で内部を撮らせて頂きました。
ここは職員室と放送室の廊下。

  



⑥ 教室の入り口。
学校名と同じ名のクラスです。





⑦ 当時のままに机が並んでいました。
私達はこんなに小さかったかなぁ・・・。





⑧ みなみ、にし、ひがし・・・。
天井にあった方位板。





⑨ 壁には古い子供達の写真が。





⑩ 学校は現在、生涯学習施設として、母親学級や老人クラブなどに使用されています。
幼い子供達と母親が校庭で遊んでいました。





⑪ 施設の使用中はシルバー人材センターの人が詰めています。
この日は黙々とグランドの整備をされていました。





⑫ 日が落ちて、子供達もセンターの管理人さんも帰った後の下里分校。
廃校は・・・やはり寂しいです。
桜の咲く頃にまた訪れてみたいと思いました。