心身に障害があるために、将来働ける見込みがなく収入を得ることも期待できない人の命の値段はゼロ。
交通事故の賠償金支払いに際し、損保会社がこのような算定をしていた。
この事故は、札幌市で05年に起こったもので、重度の自閉症であった養護学校生(当時17)が、NPOのヘルパーに付き添われて、初めて路線バスを利用して下車した際、道路に飛び出して乗用車にはねられて死亡した。
ところが、乗用車を運転していた女性が加入していた損保会社は、亡くなった少年が重度障害であったことを理由に逸失利益をゼロと算定し、賠償額を慰謝料など1600万円としたという。
少年の両親はこれを不服とし、事故を起こした女性らを相手取って、総額約7340万円の損害賠償を求める訴訟を札幌地裁に起こした。
この事故については、突然に飛び出してきた人を避けられなかった運転手や付き添っていたヘルパーなどの過失がどの程度であったのか、私は詳しくはわからない。
したがって、ここでは過失や責任の所在ということではなく、『人の命の値段』 という点にだけに話題を絞って話を進める。
以前から非常に疑問に思っていたことであるが、交通事故被害者らの人の命の値段を、その人の収入(または見込み)によって算定するという考え方には、どうしてもなじむことができない。
もちろん、元々、人の命をお金に換算すること自体に無理があるので、どのような計算をしようとも、万人を納得させることができるわけがない。
しかし、誰が考え出したものか、おそらく初めは便宜的に考案されたものであろう算定方法が、今は絶対化し、命の値段が金持ちは高く貧乏人は安く、という不合理な考え方が定着してしまっているかのように見える。
この考えでは、今の賃金実態からいえば、不当なことではあるが、女性の命は安く算定されることも当然だ、ということにもなろう。
また、将来国民に害を及ぼす恐れのある高級官僚が、交通事故で死亡した場合は、生きていれば国民が損したはずの金額を、加害者が受け取っていいということにもなる。(・・・これは冗談です)
裁判所も自ら考えることをせず、便宜上の算定方法を踏襲し、安易に人の命の値段を決めて判決を下している、としか思えないケースが多い。
今回提訴された裁判においても、損保会社の主張と殆ど変らないような判決になってしまうのではないか、という懸念は十分にある。
どうしても人の命をお金に換算するのであれば、収入の多寡ではなく、その人が 『人並みに幸せな生活をし、幸せに生涯を終えるまでに必要とする金額』 とすればどうであろうか?
人の命に対する損害賠償とは、将来得られるはずの収入などではなく、その人が幸せに暮らすはずだったであろう人生を断ち切られたことに対する代償である。
<関連ニュース記事>
・
逸失利益ゼロは不当と提訴=交通事故死障害者の両親-札幌地裁(時事通信)
<トラックバック先ブログ>
・
障害者は逸失利益「ゼロ」?(オタヌキ日記)
・
障害者のいのち(みんなだいじなこどもたちだよ)
・
北海道新聞にて(自閉症×2人)