鬱陶しかった梅雨も明け、初夏の訪れらしく風薫り空もカラット晴れた土曜日の昼下がり。
この時期、親睦と健康志向を兼ねた、町内青年会有志による毎年恒例の登山には絶好の日和となった。
肉店を経営する健太(愛称健ちゃん)の店先に集合していた大助達一同の前に、永井君が会社の大型ジープを運転してやって来たので、健ちゃんの指示で助手席に遠慮する珠子が乗せられ、皆は、ゆとりのある後部座席に乗り込んだ。
誰に言われるともなく、大助と奈緒が前方に並んで座り、六助とフイリッピン出身の看護師のマリーの二人が大助に向かい合って席をとり、後部に町内青年部のソフトボール練習に積極的に参加している、小学校教師の直子と健ちゃんが並んで座った。
この様な席順になったのも、健ちゃんと直子のペアを除き、お互いに心の中で相手に惹かれているものがあり自然の成り行きかもしれない。
永井君は運転前に、健ちゃん達に
「今朝、ネットで天気予報を調べたら、九州方面は前線があり荒れ模様だが、関東甲信越は晴れで、よかったですね」
と言いながら、几帳面な彼らしく事前に調べたておいた通過時間の予定表を出して、皆に対し大き目の地図を広げて途中での休憩場所と到着時間を、挨拶代わりに説明していた。
一行の目的地は上信越の苗場山で、健ちゃんは、これまでに、この山には何度も登山しており、その経験から事前の打ち合わせ会のとき、全員に
「そんなに難しい山ではないが、暑い盛りなので、服装は運動しやすいジーパンに長袖シャツを用意する以外、各人がそれぞれ好きなものを適当に選んでよいが、帽子と手袋を用意し登山靴だけは必ず履いて来ること」
と、言っておいたので、皆は軽装で登山帽子をかぶりリュックを背負っていた。
登山口である三国街道の貝掛温泉に向かう途中、予定通り最初の休憩場所である、利根川上流の人造湖である奥利根湖周辺に到着した。
藍色に染まった静寂な湖と、遥か遠くに聳える谷川岳の残雪や周辺の森を眺めているだけで、涼しさを感じる景観に一同は感嘆し、日頃の都会の騒々しさを忘れさせた。
暫く休んだあと、今度は道慣れた健ちゃんが運転して予定時刻通りに、彼の顔馴染みの宿に到着した。
旅館は最近改築したらしく、3階立ての屋根が除雪のため急斜面になっており、都会では見慣れない建物で、皆は降車するなり宿のお上さんの説明を聞きながら見とれていた。
宿に入ると、健ちゃんは顔馴染みのお女将さんに簡単に挨拶し、お茶をご馳走になったあと2階の部屋に案内された。
部屋は広く男女別々に用意され、女性達は荷物を置いたあとテーブルを囲んで窓越しに見える山並みを見ながら、各人が持参したお菓子をテーブルに並べお茶を飲みながら雑談していたが、やがて廊下越しに響く健ちゃんの太い声で、男性群が先に露天風呂に行き、そのあと女性群が揃って入れ替わりに入った。
健ちゃんは、彼女等とすれ違い様にニヤッと悪戯ぽく笑って誰に言うともなく
「あぁ~と、以前読んだ石坂洋二郎の青春小説の受け売りだが、上がり湯の無いころの温泉場では、女性達は必ずビール瓶に真水を用意して行き、湯から上がったとき下腹部を洗い温泉成分を洗い流したらしいが、これは医学的に根拠のあることで、まぁ、君達の将来のために、参考までに・・」
「詳しいことは看護師のマリーちゃんに聞けばいいさ」
と言って、彼女達を煙に巻いて部屋に向かってしまった。彼女達は、健ちゃんのきついジョークを半信半疑に聞き流し互いに顔を見合わせて軽く笑いあっていた。
夕食は二階の板敷きの広間に用意されており、テーブルには岩魚の塩焼きと刺身に山菜の天麩羅と、キノコと豆腐に山鳥等の鍋料理が用意されていた。
食堂に入ると長テーブルに男女が向かい合って座り、永井君が到着後小川で冷やしておいた缶ビールやジュースを並べると、健ちゃんは
「おいっ! なかなか気が廻るな。やはり一流の営業マンは神経の使いどころを心得ているわ」
と上機嫌で褒めて笑って言うと、彼は
「いや、実は六助君に前もって教えられていたんですよ」
と言いながら、今度は、階下から冷えた地元特産の葡萄酒の瓶を持ってきて、女性達に
「これ、僕のささやかなおごりですが・・。仲間に入れてもらったお印に・・」
と言って、彼女等のコップについで廻ったので、女性達は一斉に拍手して、夕食の雰囲気を盛り上げた。
六助は、彼女等に
「岩魚の塩焼きは頭からかぶりつくと、焼き塩が甘く感じて本当にうまいんだよ」
と食べ方を教え、ついでに汁碗の蓋を開けるや
「これは、岩魚のガラのダシで珍味だ。オヤッ!魚卵も入っているよ」
と、魚屋らしく、ビールからワンカップの酒に換えて呑みながら、機嫌よく解説していた。
皆が、久し振りの旅行に心を弾ませて笑いを交えて楽しく食事をしているとき、健ちゃんは自衛隊出身で、普段、街の夜間道場で青少年に護身術を指導しているだけに
「明日の朝は、3時出発で日帰りとするが、険しくない山とはいえ、標高2.000mはあるので、心を引き締めて転倒などしないように互いに注意し合って登ること。特に団体行動は規律が大事で、親しいからと言ってふざけることの無いように心して欲しい」
と予定と注意を話したところ、マリーが、いたずらっぽく笑いながら
「健太さん、そんなに厳しいことを言わないでょ」
「わたし、女のお友達もいいけれど、やっぱり男のお友達と一緒のほうがずっと楽しいゎ」
「下界を離れた高い山の霊界の中では、若い男女が多少気を緩めてハシャグのは生物の本能でしょう。神様もお許しくださると思うけれど・・。皆さんは、どう思いますか」
「六ちゃん(六助の愛称)。わたしを、どんなときでも、親切にヘルプしてょ」
「登山は初めてで、脚力には自信があるけど、君を頼りについて来たのだから」
「わたしの母国は、永らくアメリカに統治されていたため、その習慣で日本よりずうっと、レデーフアーストだゎ」
と言ったので、珠子は弟の大助と奈緒のことを思い浮かべ、二人がこれを機会に歳相応の交際を深めて欲しいと願い
「マリーさんのおっしゃる通り、私もその御意見に賛成だゎ。常識の範囲内ならいいことだ思いますけど・・」
と発言すると、大助は久し振りに顔を合わせ、朝から言葉少なくやや緊張気味の奈緒の感情をほぐしてやろうと、彼女の脛の辺りを足先で軽く蹴飛ばしてニコットしたら、奈緒は突然のことに驚き「ナニヨッ!」と声を上げたので、皆が、気まずそうな大助達を見て笑い出してしまった。
健ちゃんは、豆鉄砲を食った様に目をパチクリさせて、六助や大助の顔を覗いてチラット苦笑した。
珠子の思いが、健ちゃんのかねてからの目的の一つでもあったので、彼は下手な注意よりは、マリーの言い方のほうが、そのものズバリで的を射てると思い、彼女の、その場の空気を読むのが巧みで、明るいユーモアのある子だと微笑ましく思った。
何しろ、奈緒と直子を登山に連れて来るのは初めてで、二人を皆の輪に入れるのに気配りしていただけに、マリーの率直な言葉に助けられホットした。
それにしても、こんな時、豊富な話題で周りの人達を自然に和ませることが巧みな昭二がいてくれたらなぁ~。と、彼が永井君に遠慮してか参加していないことに寂しさを感じた。
夕食を終える頃、直子が窓際に行き、虫除けの網戸越しに空を見上げて
「奈緒さん、お星様がとっても綺麗に輝いて見えるわぁ~。お月様は十三夜かしら、早く来て見なさいょ」
と誘い
「山の天候は変化が激しいようだわ。お月様が浮雲に隠れると途端にお星様がキラキラと瞬き美しい天空となるが、雲が流れて顔を出すと今度はお星様が見えなくなり、当たり前のことだが普段気付かない、その隠れん坊が童話の世界に誘いこまれたようで面白いわ」
「空気が澄んでいて、峰を渡る風の流れが速いために、街では見られない光景だゎ」
と話しかけると、奈緒も
「眺めているとロマンックな気分になれるわねぇ~」
「けれども、お月様が隠れると、わたし、深く考えずに連れて来てもらって皆さんに御迷惑だったかなぁ。と、フット思うとなぜか寂しい思いが心を掠めてしまうゎ」
「わたしって浅はかで駄目な女だわねぇ・・」
と煌めく星空を見上げて独り言の様に呟いた。
直子は、夕食時、大助が奈緒をからかったことを思い浮かべて、彼女の耳元で囁く様に
「大助君のこと・・?。思い過ごしは良くないゎ」「何時ものように元気をだしなさいょ」
と、教師らしく雰囲気から察して彼女の気持ちを見透かしたかのように励げましていた。
窓から入る、ひんやりと肌に感じる涼風が、彼女等の髪を微かに揺らしていた。
健ちゃんは、アルコールがほどよく利いて口も滑らかになり上機嫌で女性達に
「明日が早いし、男女別々に部屋を用意してあるので、各自床を敷いて休むことにしよう」
「女性群は少し早く起きて、宿の小母さんが朝と昼のお握りを作ってくれるので手伝ってやってくれないかなぁ~」
と言い残すと、残りの缶ビールとワンカップを持って、六助達男性群を連れ部屋に行ってしまった。