今冬は、東北地方の山沿いが豪雪で交通が混乱している様だが、越後の平地は近年にない積雪の少ない珍しい正月である。
けれども、俗に言う爆弾低気圧のせいか、奥羽山脈に連なる飯豊山や大日岳の麓にある診療所の町は、例年通り雪が深く寒風もつよい。
診療所の老医師は、若き日に経験した軍隊生活の習慣と、老人特有の性癖から、早寝のため朝寝ているのに飽きて薄暗いうちにコッソリ起き出し、玄関前の除雪を黙々としていたら、近所の顔馴染みの老人達3人が夫々に白い息混じりに「ヤァー」と元気な声を弾ませて近寄って来て、子供達の通学路を踏み固めたあと、除雪の手を休めてタバコを燻らせながら雑談に花を咲かせていた。
「近頃、紅白歌合戦も、歌っているのか騒いでいるのか、俺等にはチットも面白くなく、北島三郎が愚痴を零していたいた様に、日本人の心が失われて来た様だな」
「やはり、一昔前の様に時代を映し出す、西条八十の心に残る歌詞や、それに相応しい服部一郎や古関メロデーがなくなり、我々には寂しい歳の暮れの世の中になったもんだなぁ」
と、老医師達が夫々にボソット呟くように大晦日の夜の感想を話しだしたら、ほかの老人も合いずちを打って共感していた。
老医師は誰に向って言うわけでもなく
「本当になぁ~、時代の移り変わりが早いとはいえ、ワシも何事につけ近頃つくずくそう思えてならんわ」
「全てが失われた戦後、その後の経済成長一本やりで一億総中流と各人が思ってたころ、それがどうじゃ、今は、無縁社会とやらで、人々いや家族の絆も薄れて、なんともやりきれない世の中になったもんじゃな」
「ほれ、考えてみろ。昭和40年頃までは、葬式も家庭でとり行われていたが、10年位前からは、近隣の各町にセレモニーが雨後の竹の子の様に林立し、葬儀が商業化されて、大事な戒名も故人を偲ばせるようなものもなく、正に葬式佛経になってしまい情けないシャバになったもんだ」
「最近、都会では直葬と言って誰にも世話にならずに、先祖の墓を捨てて寺とも縁を切り、この世を静かに去るといった様に、価値観が20年単位で変遷している様に思えるよ」
「まぁ~、考えようによっては、合理的かも知れんが、ワシは戦後教員が赤旗を振ったり国旗に背を向けたりする、教育の欠陥が齎し出した当然の帰結だと思うな」
「政治の劣化。そのため、欧米をはじめ世界各地で保護主義や.自国優先の専制主義の台頭。 我が国も二極化して国の進むべき方向が不透明で、この先どうなるのかなぁ」
「昔、歴史は60年位で戦争があり、それに伴い先端技術の発達、人口減等で、価値観も自然の摂理で変化すると言われていたが、近代はグローバル的に大きな外部要因を受けて、日本もこの先大きく変化すると思えるなぁ。 此の儘では、老人国家で生産人口が減り、国力が衰退の道を辿る以外になく、必然的に移民を受け入れざるを得ないだろうなぁ~」
「最近、テレビで放送していたが、中国等は一人っ子政策の結果、今ではオナゴが少なく嫁さんのなりてが3000万人も足りないそうだ。最も大都市に住む教養の高いオナゴは相手の資産状態を結婚の条件にするらしいが・・」
「戦前に流行した、蘇州夜曲の”君が手折し桃の花・・♪”と言う心に響く名曲とか、”月落ちて烏啼き霜天に満つ・・”。なんてゆう有名な漢詩も忘れ去られ、それらはみんな遠い昔のことになったが、統制の厳しい軍国主義下とわいえ、人間の温かみを感じた李香蘭の全盛時代が一番よかったようだなぁ」
と喋ったあと急に表情を和ませて
「でも、横手駅では列車が到着するたびに、構内に”青い山脈”のメロデーを流しているが、あれを聞くと往時を懐かしく想い出され心が明るくなってしまうなぁ」「この地方はまだまだ捨てたもんではないわ」
と、外国生活を経験した軍人上がりの厳しい世想感と郷土愛を話していた。
朝の雪かきを終わり、一風呂浴びて汗を流した老医師は、毎朝欠かさず勤行を務める、二階の大広間に設けられた仏壇と神棚それに向かい合ってマリア像を祀った小さな神殿がある、なんとも荘厳で静寂の漂う和室で、家族を従えて、毎年恒例の元旦のお祈りを厳かにはじめた。
老医師は、団扇太鼓と鐘を叩きながら、寒気を突き裂く様な威勢の良い声で”南無妙法蓮華経”と、お題目とお経を朗々とした張りのある声で唱え、続いて”般若心経”の経本を各自に与えて読経したが、その間に叩く鐘の音が部屋中に余韻をもって響き渡り、このときだけ、美代子は幽玄の世界に導かれる様に不思議な雰囲気に包まれた。
美代子は、お爺さんが熱心に唱える、訳の判らぬ長いお経に聞き飽きて、お爺さんの後ろで見られないことをいいことに、合掌して頭を垂れている両親の脇で、痺れてきた足を横崩しにして、何気なく開いて見た般若心経の最初の部分に”色即是空”の4文字熟語に目を奪われた。
彼女は、これって一体何の意味なのかしら、”色”って、”艶”の意味で女の色気のことなのかしら、そして、すなわち”空”ってあるが、恋や色気なんて空っぽなものかしら。
これはもしかして昔の若いお坊さんが、何か勘違いして書き残したものではないのかしら。と、彼女なりに考えて解釈し、昔のお坊さんも憎めない人間的な愛嬌があったもんだなぁ~。と、可笑しくなり、こみ上げる笑いを必死に堪えた。
一通りの勤行が終って家族が部屋を出て行ったあと、母親のキャサリンと美代子は毎朝晩祈祷しているマリア様の像の前で祈りを捧げたが、美代子は大助君との恋が叶います様にと胸に十字を切り祈った。
元旦の朝の行事が終わり、待望の朝食を今朝は何時ものキッチンでなく座敷で頂くことになったが、お爺さんと父の正雄は、お屠蘇を酌み交わしながら、春から隔日おきに大学病院から診療所に来ることになった医師のことで、それを実現させた正雄の尽力に、お爺さんも礼を言って褒めていた。
一方、母親のキャサリンは清々しいお化粧をして珍しく和服姿で、時々、二人にお酌をしながら、美代子には「赤ワインは頭と胃腸に良いらしいヮ」と言って、彼女にもついでやり、自分も少し飲んでいたが、お屠蘇で気分全快のお爺さんが、満面に笑みをたたえて
「美代子は、今年はどんなことをお祈りしたのかな」「高校合格の祈願かな」
と機嫌よく聞いたので、彼女はお爺さんの少し振るえる手首を軽く押さえて、お屠蘇の酒をついでやりながら
「わたしは、決まってるじゃない!」「高校入試なんて当たり前のことでしょう。それより、もっと努力して、人生で一番難しいことを乗り越えて、心が豊かになれることョ」
と至極当然のことだと言わんばかりに、澄ました顔で答えたので、両親達三人が互いに顔を見合わせて笑みを零したが、お爺さんは
「その通り、人間は何事も目的意識をきちんともって努力するることだな」
「ところで、大助君とは、今、どの様になっているんだね」
と尋ねると、美代子はそんな大人達に対し真面目くさった顔で、座布団から降りて正座し畳みに両手をついて姿勢をただすと
「仲良くお付き合いしているゎ」 「お爺さんも、彼のこと、わたし以上に可愛いんでしょう」
と言って、口に手を当ててフフッと微笑んだあと、続けて
「お気遣い下さいまして本当に嬉しいゎ。わたしからも、改めてお礼致しますゎ」
「わたしは、春から、なんとしても東京のミッションスクールに入り家を留守に致しますが、そこで、わたしからのお願いですが」
「今年は、お爺さんもお医者様ですので、患者さん同様に、お酒とタバコを控えめにしていただくこと。
お父さんは、病院の冷たい手術室の空気を家庭に持ち込まず、お帰りになられたらお母さんに暖かく接して欲しいこと。
お母さんは、節子小母さんのように、もっと、積極的に御自分の意見を主張して家庭の主婦として振舞って下さい。
以上、至らない娘の拙いお願いを是非聞き入れて下さい」
と、日頃、感じていることを、この際と思って話終えると、畳に両手をついて丁寧に頭を下げた。
大助は、ケーキを食べるのを止め無言で腕組みをして、奈緒の身の上話を神妙な顔をして聞いていたが、話が途切れたところで
「奈緒ちゃん、判ったよ」
「これまでに、そんなことを少しも顔にも出さずにいたので、まさかと思い驚いてしまったが、奈緒ちゃんの我慢強さの秘密が判り、女の子なのに凄い精神力の持ち主だなぁ。と、今更ながら感心してしまったよ」
と呟くように言って慰めた。
彼女が頬に流れる涙を拭いて語り終え、少し落ち着きを取り戻したところで、彼は
「さっきも、一寸、話したけれども、どおりで僕のお袋が<お前が、奈緒ちゃんと仲良く交際してくれるなら母親として安心して見ていられるわ>と言っていたが・・」
「勿論、ほかの女友達については、レット・カードだってヨッ!」
と苦笑して話したあと、何時も姉に厳しく言われているためか、余計なこととは思ったが、遂、口を滑らせて
「姉は日頃口癖で、お前みたいに精神がフニャフニャしていて、つかみどころのない子は、奈緒ちゃんとは精神的に開きがありすぎて頼り甲斐も無く、彼女の方で嫌がるかもョ」
「わたしなら、面倒見切れず、悪いけど御免だヮ」
と言われていると、姉が美代子との交際に賛成でないこともあり、皮肉を付け加えた姉の言葉を披露することを忘れなかった。
彼女はフフッと笑ってなにも答えなかった。
奈緒は、大助の話を聞き終わると、幾分気持ちが落ち着いたらしく気分が和らいだのか
「お姉さんは、日頃、お母さんの代わりで家事をしているので、大ちゃんに対して厳しいことは理解出来るヮ」
「貴方のお母さんは、わたしのことを実際以上に褒めて下さっているんだヮ」
「わたし、皆がイブの晩で陽気に楽しんでいるときに、こんな面白くもない話を嫌な顔もしないで真剣に聞いてくれる、大ちゃんの心の広いところが好きなの」
「お逢いしたことも無いが、金髪の娘さんや、同級生の和子さんとは、どの程度のお付き合いをしているの?」
「どちらも、わたしより恵まれた家庭に育ち頭も優れているので、わたし、大ちゃんの心を一人占め仕様なんて思ってもいないが、今迄通り、普通のお友達でいられれば、それで充分幸せだヮ」
と言ってくれたので、大助は
「和子さんとは、授業のこと以外、全然、付き合いはないよ。大体、和子さんの様な自己主張の強い子は、僕苦手だょ」
「それに、奈緒ちゃんも、和子さんに深入りするなと注意してくれたじゃないか」
と答え、美代子のことについては
「夏休みに、理恵子姉さんの田舎に姉と遊びに行ったときに知り合い、川で一緒に水泳をして遊んだのが付き合いの始まりで、ブルーの瞳がすごく陽気で魅力的な子だよ」
「けれども、姉の話だと今年は不景気らしく、母さんのボーナスも少ないらしいので、当然、僕も小遣いを倹約しなければならず、新潟までの旅費も高いので、会うことも出来ないや」
と、少し寂しそうな顔をして正直に答えた。
奈緒は、大助に同情する様に
「そ~ぅなの、大ちゃんの気持ち判るゎ」「でも、夢はあきらめては駄目だゎ」
「遠く離れていても、お互いに信じあっていれば、いつかは、思いが稔るときが訪れると思うヮ」
と、逆に大助を励ますみたいになってしまったが、大助は彼女もいろんな悩みや寂しさを抱えて生きているんだなと思い、気を取り直して,奈緒ちゃんが予め店の小母さんに頼んでいた、カツ丼を階下から運んでくると早速二人が向きあって箸をとると、彼女は自分の丼からカツを二切れ彼の丼に移しニコット笑って、何時ものの表情に戻っていた。大助はその笑顔に安堵しお茶を飲みながら、食事中に精一杯考えていたことを言葉を選びながら率直に
「死別、離別の違いがあっても、お互いに片親同士だが、両親の揃った人には判らない悩みもあり、耐えなければならないこともあるが、無い物ねだりしても解決できる問題ではなく、親の期待に応える様に、今の自分を大切にして、前向きの思考で、二人で協力して頑張ろうや」
「取り敢えずの目標は、高校入試突破だな」「何時でも、遊びにきてくれよ」
「旨いお菓子はないけれど、カップ麺くらいは作ってあげるからさ」
と言って励まし、奈緒に笑顔が戻ったところで、帰ることを告げて立ち上がると
彼女は、途中まで送ると言い出して、彼の断りも聞き入れず立ち上がって身支度を始め彼を困らせた。
大助は、夜更けに近所の人達に二人でいるところを見られては困るなぁ。と、思案した挙句
「今晩は風も冷たいし、そんなに遠くもないのに、大袈裟に見送るなんて言うなよ」
と言っても、奈緒は首を小さく振って彼の袖口を掴んで離さず引き止め、さっさと首に毛糸の襟巻きをして外出の準備をしてしまったので、彼は仕方なく
「それじゃ、お宮様の前までだよ」
「顔見知りの人に遭遇して、デートしていたと、あとで陰口を言われるのも嫌なので・・」
と言ったら、彼女も渋々ながら納得して、うなずいてくれたので、彼は
「あのぅ~ バイバイしたあと、お互いに振り向いて、後ろ姿を見ないことを約束しようよ」
と言い含めて外に出た。
幸い、薄暗い街灯の灯る舗道は、冷たく響く電車の音しか聞こえず、人通りも無かったが、二人は手を繋ぐこともなく並んで黙って歩いた。
彼にしてみれば、彼女が別れたあと少しでも寂しさを引きずらない様にとの、せめてもの気遣いであった。
神社の前に来たとき、大助は奈緒を軽く抱きしめて彼女の背中を叩き、頬を合わせることもなく離れ、どちらからともなく両手を出して握りあったが、大助が
「アッ! やっぱり、奈緒ちゃんの手は暖かく、ふっくらした感じで、赤ちゃんのときと同じ感じだわ」
と、彼らしくユーモアたっぷりに話すと、彼女は久し振りに二人だけで逢えたのが余程嬉かったのか、或いは彼のユーモアが可笑しかったのか、声を出さずにクスッと笑い握った手に力を込めたが、彼女は<今度、何時、二人だけで逢ってくれるの>と、口に出そうになったが、言ってはいけないとグッと胸に押し留めて
「久し振りに楽しくすごしたゎ」 「オヤスミナサイ」
と小声で言って、そっと手を離し名残惜しそうに目には哀愁を漂わせて彼を見詰めて別れた。
二人は、約束通り、互いに振り向くことなく、街灯が薄暗くともる、静かな闇の中に消えていった。
大助は歩きながら、それまで互いの家庭を自由に行き来している幼馴染の同級生で普通のオンナノコとしか思っていなかった奈緒が、今宵、自分の心の奥に潜んでいた理想的な女性像を現実に目覚めさせるオンナノコだなぁ。と、自問自答し、周囲に気配りしながら足早に家に向かった。
姉の珠子が彼女との交際を積極的に勧める気持ちが何となく判ったようで心が揺らいだ。
大助は、姉達が出かけるとすぐに、奈緒に電話をして「これから遊びに行くよ」と一方的に告げるや、愛用の黒革ジャンバーを着てジーパンのポケットに手をれ、周囲に気配りしながら小走り気味に彼女の家に向かった。
自宅から近い、池上線の久が原駅前にある、居酒屋の二階にある裏口の階段を上がって、彼女の部屋の入り口戸を軽くノックし、勝手に「ワァ~ 今晩は寒いっ!」と挨拶代わりに言って、暖められた部屋に入ると、X”ツリーを作っていた彼女は少し慌て気味に
「アラッ!早いのネ。 こんな時間にどうしたとゆうの。珠子さんと喧嘩でもしたの?」
「それとも、遠くの青い瞳の恋人を思い出して、逢えない寂しさで気持ちが落ち着かないの?」
と、突然訪ねて来た大助を見てビックリした顔で尋ねたので、彼は座るなり
「ヤダナァ~ 奈緒ちゃんまで。 人の噂で勝手に恋人なんて決め付けて・・。僕に恋人なんている訳ないだろう」
「田舎の美代子さんも、奈緒ちゃんや和子も同じように、皆、友達として普通に付き合っているんだけどなぁ」
「折角だから、ついでに聞くが、どの辺から友達が恋人になるんだい」
と聞き返すと、奈緒は彼の問い掛けに答えようともせ立ち上がり
「ソンナコト ワカラナイヮ」 「大ちゃんこそ、友達が沢山おり逆に教えて欲しいわ」
と言ったあと
「でも、本当を言うと、わたしも退屈していたので、今晩辺り遊びに来てくれないかなぁ。と、思っていたのよ」
「これって テレパシー とゆうのかしら・・」
「それでも大ちゃんはクラスのイケメンだけに、或いは和子さんに呼ばれてコッソリ行っているのかしら。と、チョッピリ心配もしていたヮ」
と、皮肉を込めて笑い顔で言いながら、鏡台の前にゆき髪に櫛を入れ薄く口紅を塗って真似ごとの様にチョッピリお化粧したあと、振り返って嬉そうな笑顔をした。
奈緒は、白い丸首のセーターに黒い暖かそうな感じのスカートで装い、赤いソックスを履いていた。
大助はテーブルの脇に勝手に座り片肘をついてその様子を見ていて、いたずらっぽく
「奈緒ちゃん、少し早いがサンタが白黒のツートンカラーのパトカーに乗って来たみたいだよ」
「化粧した奈緒ちゃんを真近で見るなんて初めてで、何だか普段より大人ぽく見えるなぁ~」
「お世辞でないが、口元がいやに艶かしく見え綺麗だわ」
と、彼、特有のジョークで直感的に感想を話すと、彼女は
「そんなに、冷やかさないでェ~」
「たまに退屈なときには気分を紛らわすために、悪戯をするときもあるゎ」
「でも、化粧水くらいは何時も使っているのょ」
と答えて、座敷の中央に置かれた、丸いテーブルを囲んで向かい合って座った。
大助が、蜜柑の皮をむきながらテーブルの中央に飾られている小さなツリーを眺めていて
「これ、初めから奈緒ちゃんが作ったのかい。小さいけど、可愛くて綺麗だなぁ~」
「見る人によって感想はそれぞれだが、僕にはチカチカ光るイルミネーションの明かりが、奈緒ちゃんのユラユラ揺れる蒼い恋心を表現している様にも思えるなぁ~」
「違がったかなぁ~。外れたらゴメンよ」
とニヤニヤしながら一人ごとの様に呟き、ツリーをいじっている彼女の柔かそうな手の甲を指先で突っくと、彼女は
「そ~ 見える。 誰に対してかしらネェ~」「その様な人がいればいいんだけれど・・」
「ネェ~ わたしがそんな時、何を考えているか判る?」
と聞いたので、彼は
「入試の勉強で、疲れた頭を休めていたんでないのか」
と当たり障りの無い返事をすると、彼女は
「チガウ チガウノョ、アコガレノ オトモダチヲ シノンデ イルノョ」
と、小声ながらも愛嬌のある笑顔で答えて、彼の顔をチラット覗き見しながら、時折、小首をかしげながらツリーの小枝に飾られたテープを、器用そうな指先でしきりにいじっていた。大助は
「ヘェ~。 奈緒ちゃんが好きな男の子って、どんな子かなぁ。まさか同級生じゃないだろうな」
と思わぬことを聞かされて気落ちしてボソボソと呟いていた。
階下の店は土曜日のためか、大勢の若い客で賑やかでカラオケのボリュウムが大きく、健ちゃんの声らしき歌声が彼らの部屋にも聞こえてきた。
実際、店内では常連客の健ちゃんと昭ちゃんの二人が中心になって、若い女性客を巧みにリードして、愉快そうに遊んでいた。わけても、健ちゃんの声は大きく響いて聞こえた。
この日は、店でもママさん一人では手が回らず、パートの中年の小母さん達を三人頼んで忙しそうであった。
奈緒は、賑やかな店の様子を感じとって、大助に対して
「大人の人達は、アルコールのせいかも知れないが、どうして、あんなに愉快になれるんかしらネ」
と話すと、大助は横に寝転んで雑誌を見ながらボソットした声で
「僕にも、あの大人の心理はわからんよ」
と興味なさそうに答えた。
奈緒は、大助が何時もと違い陽気さがないことが気になり
「ネェ~ わたしの作ったケーキ食べてくれる。味は保証できないわョ」
と言って、茶箪笥かからケーキを取り出して皿に乗せ、ジュース瓶とコップを一緒に運んできた。
大助は、彼女が小皿に乗せてくれたケーキを口に入れるや
「ウ~ン 美味しいよ。これ、本当に奈緒ちゃんが作ったのか、凄く旨いや」
と感心して呟くと、彼女は箪笥から包装紙で作られた封筒を持って来て、中から毛糸のネクタイを取り出して、
「わたし、母さんに教わって練習中なので、編み目が不揃いだが、大ちゃん、もし良かったら遊びのときにでも付けてくれない?」
と言って彼の前に差出し、はにかんで笑ったので彼は奈緒の心遣いにやっと心がほぐれ
「今日は、凄くサービスがいいんだな。奈緒ちゃんが、優しいサンタさんに見えるよ」「やっぱり来てよかったわ」
と笑いながら軽く頭を下げて早速首に巻いて嬉しそうに「どうだい、似合うかなぁ」と言って、しきりにネクタイの先をいじっていた。
大助は、そんな話の最中にリップサービスのつもりで
「この間、お袋から聞いたんだけれども、奈緒ちゃんと僕は赤ん坊のとき、僕の亡くなった父親の懐に、二人して仲良く抱かれていたらしいよ」
「そんなとき、僕と奈緒ちゃんは手を握り合い、頬を寄せ合って喜んでいたらしいよ」
と、ネクタイを編んでくれた、お礼の意味を込めて、彼らしくユーモアを交えて大袈裟に話すと、奈緒は
「ウソ~ そんなこと聞いたことないヮ」「まして、赤ちゃんが手を握り合うなんて・・」
と、恥ずかしげにフフッと笑みを零して、全然、彼の話を信用しなかったので、彼は
「後のほうは、僕の想像だが、抱かれていたのは本当らしいよ」「今度、お母さんに聞いてごらんよ」
と、真面目腐って強調した。
奈緒は、父親の話が会話の中で自然に出た途端に、急に寂しそうな表情をして俯き、テーブルの上を指先で何か文字をなぞるようにしながら
「大ちゃん、わたしの家庭の事情を、本当に知らないの?」
「わたし、父親の顔を見たこともなく、面影も記憶も、全然、ないヮ」
と言ったあと途切れ途切れに思いだすように、今まで話したことのない身の上ばなしを語り始めた。
彼女が記憶を辿りながら言うには
小学校2年生のころ、運動会のときに、母さんに父さんが何故来てくれないの?。と、聞いた日の晩方。 お父さんは遠いところに行ってしまったの。と、母さんが涙顔で教えてくれたことがあったわ。
わたし、その後は詳しいことを聞かないことにしていたが、中学生になったとき、どうしても知りたくて、思い切って聞いてみたの。
その時、初めて両親が離婚していたことを知り、兄の男の子は父が引き取り、女のわたしは、男手では育てるのに難しいとゆうことで、親戚の人達の反対を押し切り、母さんが無理矢理引き取ったらしいの。
そのため、母さんは、わたしを一人前の人間に育ててみせると覚悟して、それ以後、私の教育には喧しい位に気を使い、だから、大学はともかく、高校だけは卒業して欲しいと意地になっているところがあるのよ。
わたしも、母さんのことを思うと、すごくプレッシャーを感じるヮ。
と、零れ落ちる涙を必死に堪えながら、身の上話を語り、続けて
孝子小母さんや珠子さんは、わたしの身の上を知っているらしく、大ちゃんが留守の時遊びに行くと、珠子さんは、わたしを庇ってくれ、お手伝いすると決まって、わたしに対し暇なとき何時でも来て好きな様に家事をしてくれれば助かるし嬉しいわ。母も奈緒ちゃんがわたしと一緒に家事をしてくれることが嬉しく喜んでいるゎ。と言ってくれるので、わたしもその言葉が嬉しく、例えお世辞であっても甘えて、時折お邪魔させても貰っているの。
と、大助の知らない内輪のことを話してくれた。
大助は、奈緒の話を聞いていて、母親や姉の真意が理解できず
「フ~ン そうなのかぁ」「あの神経質で五月蝿い姉がなぁ。奈緒ちゃんを余程気に入っているんだょ」
「母さんと姉は、僕が役立たずなので当てにせず、それに、キット 今でも僕と奈緒ちゃんを双子の様に思っているんだろうなぁ」
「僕は全然気にしないので、奈緒ちゃんなら安心できるので、何時でも来て奈緒ちゃんの好きな様にやってくれればいいさ」
と冗談とも本気ともつかない顔をして答えていた。
美代子は、鏡の中の母の顔を見ていて、特別な意識もなく相似性を直感的に話したことが、キャサリンの心の奥深に存在する襞に触れてしまったのかしら。と、瞬間的に思い、今迄に見たこともない険しい表情の変化にビックリして、その場から何も言わず静かに自室に戻った。
キャサリンは化粧を終えると、彼女の部屋に来て、鏡の中の顔つきとはうって変わって、優しい声で
「これから、お父様の大学病院の研究会に一緒に出掛けてきますが、先程、口した様なことは、貴女のためにもならないので、軽はずみとは言え、人様の前では絶対に話してはいけませんョ」
と話すと、彼女の両肩を軽く叩き、判ったわね。と、言う様に目を光らせて諭す様に言ったあと
「慰労会の準備を貴女もお手伝いして、山上先生御夫妻やお爺様のご機嫌を損ねない様にして下さいネ」
と告げると部屋を出て行った。
美代子は、階段を降りて行くキャサリンの後姿を見ていて、父や祖父に対し自分の存在を気遣い、こんなにまで自己の意志を殺してまで従順にしているのかしら・・・。と、母の後ろ姿が寂しく見え、やるせない気持ちになった。
夕方、街で唯一の居酒屋兼割烹のマスターが料理を運んできたので、皆で、大急ぎで居間を片付けて急ごしらえの会場を作り、ご馳走を並べて各自が適当な席についたが、美代子は日頃から話し易い看護師の朋子さんに頼んでおいて、山上健太郎と妻の節子さんの隣に席を用意してもらった。
彼女にしてみれば節子さんが、やはり何でも気軽に話せて、ご馳走よりも東京の大助君の話を聞ける方が楽しみで、彼の近況を聞くことで先程来の心のモヤモヤを晴したかった。
会食が始まる前に老医師の祖父が普段より穏やかな声で
「毎年のことだが、初雪が降るころになると、オナゴ達は何かと忙しくなるので、若手夫婦は大学の研究会で顔を出せないが、今晩は皆さんの日頃のご苦労に報いるために慰労会とでも名付けて、これから気楽にやりましょうや」
「幸い、山上先生御夫妻にも御都合していただき、また、久し振りにマスターのカラオケでも聞きましょう」
「わしも、歳をとり、来年からは診察を止めることにしますが、患者さんの話相手や相談には乗りますので・・」
「今まで通り、なんなりと遠慮なく話してください」
と前置きしたあと老医師の音頭で乾杯で会食に移ったが、老医師はお酒を飲みながら、おもむろに看護師さん達の顔を見廻して
「ところで、当診療所の独身看護師さん四人のうち一人位は今年結婚して、わしも目出度い席に呼ばれると期待しておったが、当世流行の晩婚化のためか、それも叶わず誠に残念じゃった」
「来年こそは、美酒に恵まれると期待しております」
「どうか、わしの目が黒いうちに、どなたか一人くらい、綺麗な花嫁姿を見せて下さいよ」
「山上先生の様に、若い奥さんと永い恋路を経て結ばれるとゆうことは、奇跡的と言うか、例外中の例外で、誠に羨ましく思うが・・」
「あぁ~っと、余計なことを話して、山上先生御夫婦には誠に失礼しましたが、これは皆さんには参考にならないが・・」
「人の運命は判らんもんじゃノゥ~」
「まぁ~、わしの人生経験から思うに、線香花火の様な恋愛結婚よりも、やはり、家柄や性格を知り尽くした身近なお歳よりのお世話した見合い結婚の方が、先人の知恵が働き、将来は幸せになれると思うがどうじゃろうかノゥ~」
と、歳相応の話をしたあと、各自が会話をしながら会食が賑やかにはじまり、途中から皆の希望でマスターの得意なカラオケが会の雰囲気を一層賑やかに盛り上げた。
美代子は、隣の朋子さんと幼そうな恋愛論を話あっていたが、そのうちに節子さんに顔を近付けて
「大助君、近頃、お手紙をくれないが、どうしているんでしょうね」
「男の子って、皆、そうなのかしら?」
と周囲をはばかるように小さい声で聞いたら、節子さんは笑いながら夫の健太郎の目を盗むように
「あなた達位の歳ごろの男の子は、案外、内心は恥ずかしがりで、心配しなくても大丈夫ョ」
「理恵子が、毎日、大助君と顔を合わせているんだし・・」
と答えると、彼女は甘える様に
「小母さん、理恵ちゃんに電話したとき聞いてみてェ~」
「わたし、近頃、何だか寂しくて、時々、夢の中で彼の寂しそうな顔を見るの」
と頼んでいた。
老医師は、そんな美代子を横目で見ながら、健太郎と酒を酌み交わしながら、カラオケの声に紛れて健太郎に
「キャサリンは、わしの亡妻の妹の子であるだけに、美代子も祖母に似て気性が勝っていて、近頃は急に成長しよって、扱いが難しくてかなわんわ」
「今時の女学生は皆そうなのかね?。時代も変わったもんですね」
「男の子ならともかく、思春期のオナゴだし、正雄も忙しくて足元に気が回らず、キャサリンは、時折、彼女の意表を突いた質問にオタオタして返事に迷い、誠に困ったものだわ」
と苦笑混じりに話していたが、急に声を落として寂しそうな顔つきになり、愚痴を零すように
「キャサリンも、複雑な運命を辿って、わしが周囲の事情を考えて日本に連れて来たが、若い時に悲しい運命を背負い込み、薬剤師になると正雄と一緒になったが、自分の過去を自覚してか、素直で真面目に仕事と家事に励み、正雄に精一杯尽くしているが、果たして本当に幸せかどうか、わしにも、よく判らんわ」
「君。いずれゆっくりと説明するが、わしの見るところ、最近、美代子もその母親の悲しい運命を引きずっている様に感じられて、可愛そうなでならないんだ」
「わしは、あの子には責任の一端を感じているだけに・・」
と、今迄にない、しんみりとした口調で話しかけた。
健太郎としては、薄々耳にはしていたが、改まって言はれると、まともな返事も出来ず、ただ、妻の節子の顔を見ながら、一語一語にうなずき、黙って聞いていた。それでも、話を聞きながらも内心では
これが海軍軍医上がりで、戦後、俘虜となり、収容所長に見込まれてロンドンに渡り、苦難の末、外科医として亡妻のイギリス人と結婚して故郷に帰り、診療所を開設し、地域の人々から親しまれ、持ち前の強い気性と統率力で、街の人達を引張ってきた人かと思うと、それだけに、複雑な悩みを抱えた弱々しい一介の老人に思えて、寂しい気持ちにかられた。
二人の様子を垣間見ていた節子も、夫の冴えない表情から察して、詳しいことは判らぬまでも、言いようのない寂寞感が胸をよぎった。
そんなころ。
大助は姉の珠子が母親と渋谷に買い物に出かけて来ると言うので
「僕、試験も終わり退屈だから、これから奈緒ちゃんの家に遊びにいってくるよ」
「苦手な家庭科の栄養素のことや、体操部を退部した後のクラスの噂話を教えてもらいたいし・・」
「そうだ、夕飯も店の小母さんに作ってもらい食べてくるから、お金を後から払っておいてくれよ」
と告げたところ、珠子は機嫌よく
「普段、パクパク食べてないで、少しは習ったことを考えながら食べれば、自然と頭に入るものょ」
「でも、奈緒ちゃんに教えて貰うなんて、お前にしては珍しく、本心は別のところにあるんでしょう?」
「是非そうしなさい。奈緒ちゃんの母さんに電話しておくヮ」
「奈緒ちゃんと二人での夕食も楽しく美味しいかもよ。 (フフッ)」
と意味ありげに笑って返事をしてくれた。
大助は、夕闇が迫り薄暗くなって人影もまばらになったころを見計らい、革ジャンとジーパンにサンダル履きの気軽な姿で、寒風を避ける様に背中を丸めて、以前、彼女に言われていた店の裏口の階段をソット忍び足で上がり、辺りに人影がないことを確認して、彼女の部屋を訪れた。
大助は、なかなか寝付かれないので、皆が寝ついたと思って忍び足で風呂場に行き、お湯を温めて身を沈め手足を思い切り伸ばし、窓から見える庭の松に掛かる冷気を放つ様な満月を気分よく眺めていたら、突然入り口戸から珠子が顔を覗かせて、迷惑そうな顔つきで
「こんな時間に・・」「夕方入ったでしょうに。ガス代が無駄だゎ」
と小声で言ったので、彼は慌てて咄嗟の思いつきで
「姉ちゃんも一緒に入ればいいさ」
「筋骨逞しい男性の肉体を、月明かりで拝めば、精神的にもリラックスしていいんじゃない」
と駄洒落を飛ばしたら、彼女は
「コノ バカッ! 頭がお可笑しくなったみたいだわネ」
と戸を閉めながら怒った声で
「明日、精神科に行ってきナッ!」「少し位勉強したからといって・・」
と言い放って戸を勢いよく閉めてしまった。
彼は姉の小言などいつものことと意に介せず、湯船の中から
「姉ちゃ~ん、腹もへったので食パンとチョコレートそれに暖めた牛乳を用意してくれよなぁ~」
と大声で叫んで頼んだあと、汗をビッショリかいて気分が清々しくなったところで風呂から上がり、キッチンに行くと注文通りパン等を用意しておいてくれたので、それを食べながら、姉も、ことあるごとに五月蝿く文句を言うけれど、案外優しい思いやりがあるわ。と思い嬉かった。
、
彼は、夜食を食べながら美代子達三人のことをあれこれ考え部屋に戻ると、取り敢えず、美代子と奈緒にはクリスマスカードに”信頼”入試突破”と書き、美代子には確かな当てもないのに 『正月休みにスキーに行くことを楽しみにしております』 と小さい字で書き添えた。
姉に美代子の手紙を見せたあと、美代子との交際について、母親や珠子に交際することは難しいと言われたことは、文章で表現することは誤解の元になると思い、逢った時に話をしようと考え、わざと書かなかった。
例年にない酷暑が過ぎたあとだけに、多摩川堤防や河川敷のススキやコスモスが咲き乱れた秋日和は体感的に足早に過ぎ去り、期末試験が終わったころには、時折、木枯らしが吹く初冬の音が聞こえて来た。
美代子の住む街も、周囲を取り巻く高い山脈の峰々も、すっかり冠雪に覆われ、学校や公園のある丘陵も、たまに霜柱が立ち薄い氷結が白く彩られる日が訪れていた。
冷たい風の吹く日の午後。美代子は白い毛糸の襟巻きを首に巻きつけ緑色のオーバーの襟を立て帰宅する道すがら、期末試験を終えて気分が楽になった同級の女生徒達が、仲の良い男子生徒の腕にすがってハシャギながら楽しそうに歩いている姿を見るにつけ、彼女には親しい男子生徒もおらずチョッピリ羨ましく思ったが、その様なときは”自分には大助君がいるヮ”と心の中で呟き自からを励まして寒い道を急いで家路についた。
帰宅して、診療所の受付のカウンターの前に差し掛かると、病院では一番若い受付担当の朋子さんが
「アッ 美代ちゃん、お帰りなさい」
「キャサリン先生は、これから若先生の会合のお供でお泊りで新潟にお出かけょ」
「老先生の発案で少し早いが慰労会をやろうとゆうことで、お料理は仕出し屋さんから取り寄せ、節子小母さん御夫婦も来られるのョ」
「クリスマスには早いが、皆さんでご馳走を頂くなんて久し振りなので嬉しいヮ」
と笑顔で教えてくれた。
彼女は朝登校時キャサリンから何も聞いていなかったので、突然何かあったのかと思い、母親のキャサリンの部屋に行き声をかけてソット忍び足で部屋に入った。
キャサリンは鏡台の前で振り向きもせず
「アラッ お帰りなさい。試験はどうだったの」
と返事をしながら、鏡台に向かい入念にお化粧をしていた。
鏡に映る美代子を見たキャサリンは
「美代子。貴女、もう背丈がそれ以上に伸びない方がいいヮ」
「貴女の背丈につりあう男の人は少なく、将来、お嫁入りの邪魔になるし・・」
と、化粧しながら背後の彼女を鏡の中に見て呟やいたので、彼女は
「いいわよ。私、もっと伸びてやるわ。別にバレーボールの選手になるつもりも能力もないが、もう、私と一緒になってくれると堅く心に決めた人がいるので・・」
「彼も背が高くてスマートな、頼り甲斐のある男の子で、心配なんか全然していないヮ」
と自信満々に答えて、甘える様にキャサリンの背後で中腰になり、両手をキャサリンの肩に置いて鏡を覗きこみ、化粧中のキャサリンの顔を覗き込んで、鏡に映る顔をジーット凝視して自分の顔と見比べていたが
「お母さんの顔と私の顔、面長の輪郭や切れ長の目に淡いブルーの瞳、それに薄くて冷たい感じのする唇の形など、全てがよく似ているので、幾ら親子でも、わたし不思議な感じがするヮ」
「わたし、お父さんに似ているところが、全然、無いみたいだヮ」「どうしてなのかしら?」
と何気なく言ったところう、キャサリンが
「わたしに似ていて嫌なのかネ。親子なら当たり前でしょ。」
と、少し険しい顔をして返事をして、そのあと
「神様のなさったことで、母さんには判らないわ。神様に聞きなさいょ。おかしなことを言う子ね」
と返事をし、続けて
「きっと、貴女を身ごもったとき、母さんの女としての命の火が、一番烈しく燃えさかっていたからでしょう」
と付け加えた。 美代子はキャサリンの耳もとで囁く様に小声で
「それって具体的にどんなことなの?。 わたしを生んだあと、兄弟がないとゆうことは、情熱が冷めてしまったとゆうことなの?」
「わたし、兄弟が欲しかったヮ」
と、普段思っていることを思いつくままに率直に話したあと、続けて
「何時も思うのだが、お母さんて、余りにもお父さんに対して遠慮気味で自主性がないことが、わたしには物凄く不満だし、お母さんが可愛そうに思えるときがあるわ」
「何故、もっと主婦として積極的に自分の意見を話さないの?」
と、彼女にしてみれば、大助君の手紙のことで家族が大激論となり、お酒の酔いもあり、お爺さんが仕舞いには癇癪を起こして
「こんな診療所なんていらんわ」
「医師として人様の健康管理も大切だが、自分の足元を見つめることも、老いた身には、それ以上に大事だわ」
「老人は精神的に目的を失うことが一番老け込むんだよ」
と怒ってしまったことがあったが、その時以来、父親の態度や自分に対する考え方が気になっていたので、それ以後、心の中に抱いていたモヤモヤを一気に吐き出す様に話してしまった。
母親の化粧した白い顔が少し薄赤味を帯びて、表情が強張っていくのが美代子にはハッキリと見てとれ、自分では普通のことと思っていたことも、何か母の心を傷つけてしまったのかと心配になってしまった。
大助は、田舎で過ごした夏休みに偶然知りあって交際をしていた、英国系の同じ歳の美代子から貰った手紙を、姉の珠子に巧みに散歩に誘いだされて、初冬の多摩川べりで渋々ながらも見せてしまった。
その日の夕食後。 姉から内容を聞いていたらしい母親の孝子が
「母さんは、病院で一度しかお逢いしていないが、別に外国人だからとゆう訳ではないが、美代子さんは裕福なお医者さんの娘さんであることだし、これから珠子やお前の高校・大学への進学を考えると、情けないことだが母さん一人の稼ぎでは経済的にも楽でもなく、それに彼女と満足に交際するお小遣いも渡せないし、お前達二人が寂しい思いをしてもと思うと、心配にもなるわ」
と、布巾をいじりながら静かに話すと、珠子も母親に同調するかの様に、話の内容が自分にも触れる微妙な問題だけに、俯き加減に目を伏せて遠慮気味に小さい声で
「大ちゃんも、まだ、この先の進路がはっきり判っていないし、美代ちゃんとお友達でいられるうちは良いとしても、もしもよ、その先に進んだらネェ~、一寸、わたしも、心配になるわ」
と、彼が美代子さんと交際することに積極的に賛成できない気持ちを話した。
孝子は、母親らしく現実的な話をしたあと、鴨居に掛かっている亡夫の写真を見つめて、二人に言い聞かせる風でもなく、一人で昔日を懐かしむかの様に
「珠子が、保育園に入った頃だったかしら、その頃、近所でもあり、お父さんと妙にウマも合って親しくしていた、駅前の居酒屋さんの御夫婦が2歳位の奈緒ちゃんを連れて遊びにきては、お酒を飲んでご機嫌なお父さんが炬燵に入りながら、自分のドテラの懐に大助と奈緒ちゃんを胡坐の上に一緒に抱え込んで、まるで双子の赤ちゃんの様に楽しそうにあやしていたところ、珠子が<ワァ~ パパ、カンガルー ミタイダァ~>と面白がっていたことがあったが・・」
「それがねェ~。年が過ぎるのは、早いものだネ」
「その奈緒ちゃんも、来年はお前と一緒に高校に進むんだろう」
「母さんは、あの子の我慢強さと控えめな態度が好きで、立派な娘さんに成長したもんだと、見るたびに感心しているよ」
「少しのんびりしているお前には、あの子の様な辛抱強い性格の子が似合い、お友達としては母親として安心して見ていられるんだがネェ~・・」
と、彼に対して日頃抱いている思いを呟いたあと
「珠子は、どう思うかネ」「若い者同志、母さんとは違った考え方もあるだろうし・・」
と、か細い声で言ったので、珠子は
「それは、母さんの意見として、私や大助には貴重なお話と思いますが、美代子さんのお手紙を拝見するかぎり、彼女は中学生のわりに、しっかりとした自分の考えを持っており、大助のことも信頼している様だし、難しい問題だわネ」
「大体、大助は奈緒ちゃんと美代子さんの、どちらが好きなの?。正直に話してくれない」
と大助に率直に聞くと、彼は澄ました顔つきで
「どっちだと聞かれても返事のしようがないわ」「○×試験じゃあるまいし」
「美代子さんは、スクリーンから抜け出してきたような、金髪と力の篭った青く澄んだブルーの瞳が魅力的で、時々、意志を押し通す頼もしさを示すが、何故か僕を信頼してくれ、話をしていると遠い宇宙の彼方に誘いこまれるように、僕を未知の世界に連れて行ってくれる様な不思議な魅力がある人だよなぁ」
「それとは反対に奈緒さんは、何時もコッソリと僕に対する校内の噂話や町内の行事を教えてくれ、この前なんか、病院へ見舞いの人達がいないことを確かめてから花を持ってきたり、クリスマスには小さいツリーで部屋を飾るから遊びに来てね。と、ソット告げてくれたり、兎に角、目立つことは嫌がる人だが、たまに先輩達の健ちゃん達から自分を庇ってくれる気遣いのあるところもあり・・」
「今、どっちと言われても、二人とも僕にはない良いところがあり、どっちも◎だよ」
「ついでに言うと、靴屋のタマコちゃんも、あの人なっこいオチャメなところがとっても可愛いし遊んでいても退屈しないし・・」
と、思いつくままに答えたら、珠子が、あきれ返ったように
「母さん、大助にはタマコちゃんが一番お似合いと思うわ」
「美代子さんや奈緒さんとは、精神的に差がありすぎて、何だか話を聞いているとコンニャクみたいにフニャフニャしていて、とらえどころがないわ」
「わたし、今晩のところ、大助のことを真面目に考えることが嫌になってしまったわ」
とシャジを投げた様に言って、大助の額を指で突つき
「コラッ!いい気になって、彼女達の心を傷つけないようにしてョ。それだけが心配だわ」
と、彼を睨みつけるように不機嫌な顔をして言い捨て自室に行ってしまった。
母親の孝子も、珠子につられてか、初めて聞く大助の話に深く溜め息をついていたが、人ごとの様に答えて茶菓子を食べることに余念がない大助に対し、きつい口調で
「嫁入り前の、珠子がいるんだし、調子に乗ってとんでもないことをしでかさないでよ」
と、一言注意したあと、物足りなさそうな顔をして台所に行ってしまった。
大助は、部屋に戻ると、やっぱり手紙を見せたことが失敗だったかなと思い、机に肘を突いて顎を乗せ、壁に貼ったプロ野球選手や氷上のスケート選手のグラビア写真を見ながら、女の子との付き合いは周りが五月蠅く面倒なもんだ。自分にはタマコちゃんが気楽でいいやと、自分なりに納得しながらも、美代子と奈緒の顔が脳裏にチラツキ勉強する気にもなれず、布団に潜り込んでしまった。
母子家庭の城家では、母親の孝子が看護師として勤めているので、朝晩の家事等は高校生の珠子が殆ど取り仕切っており、剽軽で明るい性格の大助は日頃小言を言われながらも、そんな姉の珠子には頭が上らず素直に従っている。
珠子は、大助から渋々渡された美代子さんからの手紙を一通り読み終えると、彼女らしく
「これからは、外国の人と、お友達になることも視野が開けて素晴らしい経験になるわネ」
「夏休みに河で遊んでいる様子を見ていて、いずれこうなるかもと薄々想像していたわ」
と言いながら手紙を封筒に丁寧にしまって彼に返してくれたが、大助にしてみれば予想に反し穏便に済んだことに、ホットした安堵感から気持ちもほぐれ、珠子の話しかけにも上の空で、彼女の立膝の黒いフレアスカートから品良く伸びている脛をチラッと見ていて、直感でひらめいた艶かしい印象を、彼らしくユーモアたっぷりに
「姉ちゃんのナマアシも、色が白く太からず細からずで、健康的でミリキテキだなぁ~」
「但し、裏表の区別がつかない上半身を別だよ」
と軽口をたたいたところ、彼女は途端に険しい目で彼を睨みつけ
「ナニヨッ! その言葉遣い イヤラシイ」
「そんなことでは、美代子さんとのお付き合いは、トッテモ無理だわ」
と、彼の頬を叩く素振りをしたところ、彼が「ウエ~ッ! 危ない」と顔をそむけて彼女の手をよけたたために、抱いていたシャム猫のタマの頭に軽く手が当たってしまった。
驚いたタマがギャア~と呻いて、彼の横で気持ちよさそうに仰向けに寝そべって飴を口に含んでいた、タマコの胸の上に飛び乗ったので、タマコもビックリしてタマを抱いて起き上がり、目を丸くして
「また 大ちゃん悪戯を言って叱られたの・・」
と呟いた。
珠子は慌てて
「タマコちゃん御免なさいネ」「大助がエッチなこと言うから注意したのョ」
と弁解しながら立ち上がり「さぁ~帰りましょう」と言って先になつて歩き出してしまった。
草むらを踏み分けて堤防に上ると、珠子のうしろから小声で、大助が不満そうに
「お昼奢ってくれる約束だろう」
と催促すると、珠子は振り向きもせず
「この次にしましょう。家でラーメンを作ってあげるヮ」
「混んでいるお昼どきに、猫をつれて入れるお店はないゎ」
と、つれない返事をしたので、タマコちゃんが俯いて小声で
「わたし タマと一緒に外でまっているヮ」
と言ったが、珠子は
「いいのョ、わたしの家に来なさい」
「大ちゃんは、肉屋の健ちゃんのところで、チャーシュウーを買って来てェ~。 それと八百屋さんの昭ちゃんのところで、ネギとシナチクにホウレン草を買ってきてネ」
と言いながら早足で先に行くので、彼は後ろから
「チエッ ウソツキ! 人を騙すなんて悪いわ~、手紙を見せるんじゃなかった」
「昭ちゃんのところには、姉ちゃんが行くとサービスしてくれるよ」
と皮肉交じりに返事して、タマコちゃんを連れて肉屋の健ちゃんの店に向かった。
彼にしてみれば、昭ちゃんが姉に普段から好意を抱いていることを、これまでに何度も健ちゃんから聞かされ、ことあるごとに二人の間の提灯持ちをさせられているので、気を利かせたつもりで言い返した。
健ちゃんのお店に行くと、鉢巻姿の威勢の良い健ちゃんが
「お~ぉ! 今日は昼間からお揃いでデートか」「お前達は、気楽で羨ましいよ」
と声を掛けてきたので、オシャマなタマコが
「お兄ちゃん違うのョ。珠子姉ちゃんが、大ちゃんを食堂でお昼を奢ると言って散歩に連れ出したのに、大ちゃんが、つまらぬことを言ったばかりに、猫にかずけて、お家でラーメンを作るから・・・と」
と不満そうに告げ口をしたところ、健ちゃんは
「そうか、そうか、珠子さんには逆らわぬことだな。なにしろ城家の神様だからなぁ」
「ホラッ さわらぬ神に祟りなしと言うだろう」
「それよりも、大助! お前、入院している時に、金髪の綺麗な女優さんから面倒をみてもらったそうだナ。 町内に話しがパ~ット広がって評判になっているぞ」
「いい気になって、外人さんに深入りすると、あとで泣き面に蜂だぞ」
と、日頃、町内では兄貴分らしく振る舞っているので大声で注意していると、そこに、健ちゃんの行きつけの居酒屋の娘さんで、大助とは同級生の奈緒ちゃんが、夕方の仕入れの註文にやって来て、健ちゃんの話を聞きつけて
「アラッ 外国の女性でもいいじゃない」「大ちゃん、素敵なことョ」
と、大助の肩を持ち、健ちゃんには
「健ちゃんは、彼女がいないから、大ちゃんにヤキモチを焼いているのよ」
と口添えして返事に窮している大助を助けてくれた。
けれども、その顔は心なしか何時もと違い心なしか寂しそうに大助には見えたので、自分を庇ってくれた彼女が何時もよりいとおしく思えた。
健ちゃんが、タマコに同情して揚げたてのコロッケを彼女に差し出すと、彼女が抱いていたタマが油のにおいを嫌ったのかタマコちゃんの首筋に顔をすりつけてまとわりついたので、健ちゃんは「オイ オイ 俺まで嫌うなよ」と言って苦笑いしていた。
健ちゃんは、仕事を終えると、時折、お気に入りの居酒屋に行き、娘の奈緒ちゃんのことは知り尽くしており、おとなしく自分の気持ちを必要以上に押さえ込む性格で、何かにつけ彼女が密かに大助に思いを抱いていることを承知しているので、大助と奈緒が仲良く交際してくれれば良いがと、ことあるごとに思っており、奈緒のけなげな大助思いの言葉に、彼も一瞬返す言葉を失ってしまった。
健ちゃんにしてみれば、自分としては一生懸命に、珠子と昭ちゃん、それに、大助と奈緒を上手く結びつけてやろうと、機会を見つけては励んでいるが、どうも考え通りに事が運ばないので、居酒屋のママさんからも「自分のこともできないで・・」と、常に冷やかされて酒のツマミニされているが、彼にはそんなことを全然気にしない剛毅なところがある。
けれども、真面目で世話好きなところが町内や商店街で人気をはくしている。
庭の銀杏の葉が黄色に色ずんだ初冬の日曜日の昼前。
大助は暖かい陽の差し込む部屋で期末試験の準備に追われていたところ、姉の珠子が廊下に続く物干場で洗濯物を干しながら機嫌よく独り言で
「大ちゃん 朝から勉強するなんて珍しいわネ。何時もその調子で勉強してくれればいいんだけれども・・」
「折角、洗濯物を干したのに、大ちゃんの気紛れで、お天気が崩れなければよいが・・」
と廊下の窓越しに空を見上げて心配そうにブツブツ言っていたが干し物を終わると、いきなり彼の部屋の襖戸をあけたので、彼は不機嫌そうな顔つきで
「姉ちゃん 勝手に部屋に入らないでくれよ」「僕、入院中に遅れた勉強をしているんだから」
「試験の成績が落ちたら姉ちゃんのせいだぞ。後で、僕を怒らないでくれよ」
と不機嫌そうに答えて教科書とノートを閉じてしまった。
珠子は彼の傍らに座り
「大ちゃん そんなにムキになって反抗しないでョ」
と言って、彼に
「アノネ~ わたし、母さんから頼まれたのだけれども、この間、美代子さんから来たお手紙、どんなことが書いてあったの?。あとで教えてくれると約束したでしよう」
と、珠子にしてみれば普段話しかけるよりも優しく聞いたところ、彼は
「普通の内容で殊更教えることもないさぁ~」
と、素っ気無い返事をしたが、珠子はなおも執拗に
「そんなに、機嫌を悪くしなでョ」
「母さんは、この前、病院でお見舞いに来られた美代子さんの母親にお逢いしたとき、以前から聞いていたことでもあり当たり前のことかもしれないが、彼女の母親が外人さんで容姿といい話し方などに気品を漂わせいたことにビックリしてしまい、あなた達の関係がどの程度なのかよく聞いておいて。と、頼まれたので・・」
「わたしが、ヤキモチで聞くのではないヮ。誤解しないでョ」
「母さんにしてみれば、親として子供に対する観護責任の手前、当然のことと思うゎ」
「お天気も良いし、近くの多摩川に散歩に行きながら教えてョ」
と誘い出そうとすると、彼は
「また、母さんにかずけて、観護責任なんて・・、そんな難しい言葉を使って」
「なんか、僕達の付き合いを疑っている様で気が進まないなぁ~」
と、欠伸をしながら返事をしたが、珠子も粘り強く説得して
「お昼に、大ちゃんの好きなカツ丼をおごるヮ」
と口説いて、なんとか散歩に出かけることを承知させたが、彼は手紙のことが気になり、珠子に対し
「姉ちゃん 条件があるんだ。若し、内容が気に食わぬといって、僕に当たり散らさないでくれよ」
「ケチをつけて拳骨で殴られては嫌だからなぁ」
「一応、平和的に話す証人として、タマコちゃんを連れて行ってもいいだろう」
と注文をつけて、遊び仲間のミツワ靴店の娘で小学生のタマコちゃんを誘い出して揃って出かけた。
電話で誘いを受けて退屈していたタマコちゃんは意味もわからず、久し振りに大ちゃん達と揃って散歩に行けるのが嬉しく、愛用の布袋にお菓子を入れて終始機嫌よく付いてきた。
ご丁寧にも彼女になついている隣家の黒猫のタマを抱えて・・
初冬の河原には、柔らかい日差しが一杯に漲っていた。
水涸れのした流れは川底の地形に従って、或るところでは流れが幾筋にも別れ、ある所ではそれが一つになって溶け合って、太く細く銀色の帯を曳きながら、はてしもなく流れくだっていった。
冬一番の吹き去ったあとの、温もりを感じる晴れた日とはいえ、浅瀬の砂利は日差しがほの白く怪しげに淡く照り映えており、ススキの穂も色あせて、やがて寒風が肌をさす厳しい冬の訪れることを暗示しているかの様であった。
三人は草原を見つけると腰を降ろし、互いに気持ちを推し量って少しの間語ることもなく景色に見とれれていた。
一直線にはしってる堤の歩道上には人がまばらに通っており、河を隔てた対岸の堤防越しには、遠く濃い緑の樹木に包まれた中に川崎市郊外の住宅街の屋根が黒や赤色に眺望でき、風も感じられない、のどかで静かな風景であった。
ころあいをみはからって、珠子が「お手紙見せてぇ」と手を差し伸べたので、大助はおもむろに
「美代子さんが内緒にしておいてと書き添えてあるのに、幾ら姉でも見せるのは少し罪悪感を感じるなぁ~」
と呟きながらポケットから渋々と封書を出して渡すと、彼女は気持ちがはやって素早く便箋をだして読み始め
「綺麗な文字で文章も凄く上手だヮ」
と感心しながら読んでいたが、一通り読み終えると
「大ちゃんのことで、美代子さんの家では大騒ぎになったみたいだわネ」
「それと、”クライマックス” と言う場面は具体的にどんなことなの?」
と目を合わせることもなく聞いたので、彼は
「美代ちゃんは、性格的に忍耐強く、それに外人特有の少しオーバーに話したり表現するところがあるので、改めて説明することもないさ」
「それに、相部屋の患者さんもいたことだし、変に頭を回さないでくれよ」
と、タマコちゃんからシャムネコを抱き寄せて頭をなでて遊びながら答えたが、珠子が
「ウ~ン 大ちゃんの言うことも信用できるが、わたしの勘から、一寸、信じられないところもあるヮ」
「本当は、隣の患者さんの隙を盗んで、キス くらいしたのではないの?」
「キスしたからと言って、姉ちゃんは悪いとは言わないけれど、あの子を本当に好きなの」
と、疑い深い目で彼の顔を覗き見して、なおもしつこく聞くので、彼は
「ほれ!始まった。姉ちゃんじゃあるまいし、自分の体験に照らして同じように考えないでくれよ」
と反論すると、珠子は少し顔を赤らめて
「わたしを、巻き込んだ話をしないでョ。いまの大ちゃんの様子から、私の勘が外れているとは思えないヮ」
「母さんには言はないが、わたしや母さんが心配するのは、仲良くすることはお互いに良いことだと思うが、もしもよ、仮に恋愛にすすんだとき、あなた達はどちらも跡継ぎの長男長女だし、それと、どう考えても経済的にも釣り合いが取れないし、いずれは将来お互いに心に深い傷を残して泣いて別れる破目になることが判りきっているので・・」
と言いながら
「それに、文章も文字も上手で、お前より頭がよほどいいし・・。なんか釣り合いが取れないと思うが・・。まぁ、今のうちはいいかも」
と呟いて再度読みなおしていたが、彼にしてみれば姉としては物分りのよいことを言ってくれたので、一難去った思ってホット深く溜め息をついた。
彼等の会話を聞いていたタマコちゃんが、興味深々と小声で
「ラブレターって、どの様に書くのかなぁ?」
と言って、手提げ袋からチョコレートを出して大助に渡し、眩しそうに彼の顔を見て呟いていた。
大助は、タマコちゃんに
「お姉ちゃんが昼飯を奢ってくれるので、お前何が食べたい?」
と、姉と平穏に会話が出来た証人になってくれたこと。と、何時も遊びに来るとお菓子を持って来て呉れるので、そのお礼をかねて機嫌よく話掛けて彼女を嬉しがらせていた。
大助が、初めて異性に思慕を抱いた美代子に対し、お見舞いに対する返礼の手紙を出してから数日後、母親等と夕食後の寛いだ和やかな雰囲気でお茶を飲みながら、とりとめもない雑談をしていたとき、姉の珠子が
「ア~ッ! そうだわ、大ちゃんにラブレターが来ていたヮ」
と言って、茶箪笥の引き出しから白い封書を取り出して笑いながら渡してくれた。
彼が、どうせ遊び仲間のミツワ靴店のタマコちゃんからの悪戯の手紙かと思い、フーンとたいして気も無い返事をしながら、手紙の裏面を見ると美代子からであったので、彼も母親の前だけに少しきまり悪そうな顔をして、内心、なにもわざわざこんな時に出さなくてもと、姉も意地が悪いなぁ~。と、思いつつも言い訳がましく
「美代ちゃん 僕が出した手紙の返事を随分早く出してくれたもんだなぁ~」
と、照れ隠しにわざと平然を装い開封することもなく脇に置いたが、母親の孝子が
「お前も成長したもんだネ~」「お前は勿論のこと我が家にとっては、あのお嬢様とは全てにおいて釣り合いの取れない人と思うけれど・・」
「これから先どうなるんだねぇ。心配になるゎ」
と呟いて溜め息混じりにお茶を一口飲むと、珠子が
「アラッ お母さん、そんな言い方は大ちゃんが可愛想だヮ」
と、何時もとは逆に庇ってくれたので、大助も普段は自分に対し文句ばかり言っている姉にも、優しい思いやりの心があるんだなぁ~。とチョッピリ嬉しく思った。
孝子や姉が口を揃えて
「大ちゃん 此処で読んでくれない」
と催促したが、彼は
「そんなことは美代ちゃんに対して悪いよ。プライベートなことに口を挟まないでくれょ」
と返事をすると、二人は案外素直に
「それもそうネ もう子供でもないんだし」
と渋々ながら承知してくれたが、そこは責任感の強い珠子らしく
「あとでいいから、必ず教えてョ」
と念を押すことを忘れなかった。
彼女にしてみれば、大助と美代子の年齢からして、誰れもが経験する一過性の淡い恋愛かと考えながらも、それでも感情的にのめり込まない様にとの、姉としての姉弟愛からであった。
大助も、自分と同年代である美代子の少しませた様な、それでいて控えめながらも自己主張の強い性格を知っているだけに、美代子の心の中を覗き見る様な興味心と、なにか知れないが少しばかりの畏怖心で、部屋に入ると寝床に横たわり、早速、薄い桃色の便箋に丁寧な文字で書かれた手紙を、心が吸い込まれるように読み始めた。
『大助君、お便り嬉しく読ませて戴きました。
例年の様に、寒くなるこの季節になると、近くの湖沼に訪ねて来る北の旅人である白鳥の様に、いや、それ以上に首を長くして待ちかねていた君のお手紙を、やっと手にすることが出来て、心が舞い上がるほど嬉しさで胸が一杯になりました。
突然のお見舞い、それも肌色の違う私がお訪ねしたことで、病室がとんだハプニングになった様ですが、相部屋の小父さんも気さくな応対をしてくれたとのことで、初対面の人とわいえ情けの深さに感謝しながらも、あまりにも滑稽な様子が目に浮かび、思わず笑ってしまいました。
それにしても、君から信頼されていることを確信したクライマックスの場面を、君のお友達に対し、英会話のジョークで巧みに伏せてくれた小父さんの機知に救われた思いです。
この嬉しさを、私一人の胸に収めておくのは勿体無いと思い、夕食時に、お爺様や両親に見せてあげたところ、お爺様は
「ウ~ン 美代子を信頼してユーモラスに書いてあるところは上手いもんだ」
「夏の盆踊りの時も、素直で人なっこい子だと思ったが、確かに、あの子は人に好かれる才能を有しており、わしの孫であったらなぁ~。と、思うことが屡々あるよ」
と、眉毛を八の字にして珍しく非常に喜んでおりました。
ところが、父が晩酌のお酒のせいもあったのか
「お爺さん、思うことは御自由だが、若しですよ、将来、恋愛から結婚へと発展した場合、実際にこの診療所を継ぐとなると、幾ら美代子が好きだ。と、ゆうだけでは、この先どうでしょうかね」
と口を挟んだところ、これが原因でお爺さんと父との話がエスカレートしてしまい、終いには、頑固一徹なお爺さんは癇癪を起こして
「美代子が好きで幸せになれるなら、こんな診療所は廃業しても構わないわ!」
と言いだし、二人の口論をなんとか静めようと、母のキャサリンが一生懸命に
「私が男の子を生まなかったことがいけなかったので申し訳ありません」
と泣いて謝っていましたが、私の将来が原因とはいえ、まるで冬の嵐が突然リビングに襲来した様に大荒れとなり、しまいには、話題が私から離れて診療所の問題にエスカレートしてしまい、怖くなって自分の部屋に逃げ出してしまいました。
椅子に座り、窓越しに見える丘の下にチラチラと灯る静かな街明かりを眺めていて、女に生まれた私が、この家にとって、そんなにいけないことなのかしら。と、思うと無性に寂しくなり、こんな時こそ、君に傍にいて欲しいと思い涙が零れてとまりませんでした。
けれども、窓越し見える夕闇に霞んだ山々の遠い彼方には、きっと私達の幸せがあると思い直し、それならば尚一層勉強をして、将来、医学部に入って父を見返してやるわ。と、自分に言い聞かせ、それにつけても、凄いプレッシャーが覆いかぶさり、君の心の支えなくしては、私の願望も挫けてしまいそうですので、私達に芽生えた”蒼い恋”が必ず実ります様にと、今、祭壇のマリア様の前に、やっとの思いで書き上げた、このお手紙と君から頂いたお手紙を揃えて供えマリア様のお力添えを願い、お祈り致しました。
恥ずかしい愚痴話になり、お返事にもなりませんが、今の私には君にしかこの苦悩を訴える人もおらず、君だけを頼りに学習に励み、差別による嫌がらせをはじめあらゆる困難に挫けずに頑張っていることを、決して忘れないでくださいネ。
冬休みに、君と二人だけで、スキーで白い山野を自由に滑りまくり、君に思いっきり甘えたいと、今からその日の来るのを楽しみにしております。
お母様と珠子姉さんにも宜しくお伝えください。
”中身は絶対に内緒ョ”
今度は明るいお便りを出させていただきます。 美代子 』
大助は、繰り返して読んだあと、まだまだ古い生活習慣の残る田舎の町で、差別や偏見それに家庭的なプレッシャーの中で、彼女なりに生活目標を貫く精神の強さに感心しながらも、自分の存在が話題の中心になっていることに心が揺らぎながらも、美代子の寂しそうな顔が頭をよぎって寝付かれない夜を迎えた。 (完)
続編 「雪に戯れて」
『 美代子さん、この前は遠路お見舞いに来てくださいまして、大変有難う御座いました。
貴女のことについては、夏休みに山や川で楽しく過ごしたことを、日頃、走馬灯の様に懐かしく想いだしていただけに、予想もしてなかった突然の訪れに、テレパシーと言うのか、或いは、君が日頃熱心に信仰しているマリア様の姿絵を思い浮かべて、心の中で秘かに祈れば夢や願望も叶うもんだなぁ。と思い、心が舞い上がるように嬉しかったです。
東京も、最近は朝晩冷え込み、校庭や神社の境内等も落ち葉が重なり、晩秋を実感します。 お陰様で全快では有りませんが、なんとか退院できて通学しております。
貴女の街を取り囲む飯豊山脈の高い峰々も冠雪をいただいていることと思います。
得意のスキーの季節も近ずいて来て、準備に余念が無いことでしょうね。
僕も、スキーは好きですが、街場にいると人工的なゲレンデでのスキーですので、どうしても人混みになりますが、自然の山野を自由に滑るスキーのほうが、本能的に自由に行動できるので、どんなに素晴らしいことかと羨ましく思います。
貴女が帰られたあと、僕の野球仲間や同級生達が入れ替わるように尋ねて来て、看護師から聞いたらしく、金髪の若い美人が見舞いに来ていたと聞いてビックリして、代わる代わる細かいことを聞いてくるので、僕も、詳しいことを説明することは、貴女に御迷惑かけると思い適当に返事をしておきましたが、彼等は僕の話に納得せず、僕も彼等の興味混じりとはいえ鋭い問いかけに返答に窮してしまいました。
そんな時、相部屋の患者の小父さんが、笑いながらも遠慮気味に話し出したので、僕も、本当のことを言われては嫌だなぁ~。と、心配していたところ、小父さんは、想像以上に思いやりとウイットに富んでおり、退屈紛れもあり、笑いながら大袈裟に
「何でも映画のロケの合間に、お見舞いに訪れたらしいですが、彼と同じ位の年頃の、細身で背の高い金髪の美人で、勿論、青く澄んだ瞳の中にも意志の強さを象徴するかの様にテキパキとお世話しており、ワシも、近くで見る外国人の女優は初めてで、スクリーンで見るのとは全然美しさが違うもんだなぁ。と、ビックリして会話を聞いていたよ」
「だけど、反対側を向いていたので、何をしていたかは判んないなぁ」
と、皆に説明していましたが、貴女も顔見知りの健ちゃんが皆の制止も聞かずに真剣な顔つきで
「大助と、どんな話をしていたか?」
と、小父さんに執拗に聞いていましたが、小父さんは
「そんな私的なことを無理に聞くもんでないよ」
「彼等二人は、小声でニコヤカに話していたが、勿論、英語で話していたので、教養のないワシには内容なんてまるっきり判らんよ」
と、恍けて返事をすると、彼等は
「それもそうだなぁ~」「けれども、大助に英会話ができるんか?」
と、半ば呆れかえったよな顔をして、その後は、僕にも詳しいことを聞くこともなく、適当に冷やかして帰って行きましたが、一時は部屋中が賑やかになり看護師さんが心配して覗きに来た程でした。
来春の受験勉強を頑張ってください。 僕は、未だに進学校を決めておりませんが、家庭的なことも考えて、なんとか公立高校に合格すべく、部活も止めてねじり鉢巻で今までの遅れを挽回すべく頑張ります。
指先がまだ完全に治癒しておりませんので、見苦しい文字になりましたが、お礼を兼ねて近況をお知らせ致しました。
御家族の人達にも宜しくお伝えください。』
美代子は、ミッションスクールの見学を終えて、大助君のお見舞いから帰ると、見違えるほど表情が明るくなり、母親のキャサリンの手伝いも積極的にやり、お爺さんの老医師も元気な孫娘の様子を見て我が意を得たりと笑顔をこぼしていた。
彼女の日常生活にも少し変化が生じ、今までに無かったことだが、門前の郵便受けを覗く習慣が身につき、帰郷後一週間位過ぎたころ、郵便受けを覗いて自分宛の郵便がないことに落胆して二階の自室に入ると、キャサリンがあとを追い駆ける様にして美代子の部屋に顔を出して微笑みながら
「美代ちゃん、貴女に嬉しいことがあるヮ」
と言って彼女の表情を見つめたので、彼女が
「お母さん、なによ。 そんなにじらさないで早く教えてョ」
と催促すると、キャサリンは胸元から大事そうに一通の封書を取り出し「ほら 大助君からョ」と、彼女が待ちに待った手紙を渡してくれたので、彼女は
「ワァ~ ヤットお返事をくれたゎ」「わたし、必ずお便りを出してくれると信じていたの」
と言って、窓際の椅子に腰掛け机の上に置くと、少しの間、はやる気持ちを落ち着けるかの様に封書の宛先を眺めていたが、その様子を見ていたキャサリンが「あとでお母さんにも見せてネ」と言うと、彼女は
「ウ~ン 内容にもよるヮ」「お母さん、私が大助君の生理現象を手伝ったことは、お爺さんやお父さんに言って無いでしょうネ」
と、帰りの列車の中で約束したことを念を押して確かめたところ、キャサリンも「勿論だヮ」と返事してくれたので「お母さん、有難う」と笑って答えていた。
美代子も、大助君からの手紙を前にして、窓越しに照り映える飯豊山脈の白い峰を眺め気持ちを落ち着かせ、おもむろに開いて食い入るように繰り返し読み終えると、大助同様に夏の蒼い恋の想いが鮮明に甦り、彼のはにかんだ様な優しい笑顔が脳裏をよぎり、手紙に頬ずりして「大助君 ありがとう」と呟いたあと、高揚した気持ちで何度も頬ずりしていた。