「いじめは、いじめられる側にも問題がある。」
普段は聡明かつ的確な発言で周囲の尊敬を集めている人物の意外な発言に、一瞬、私は耳を疑った。
今これだけ若年層の間で「いじめ」による被害者の自殺や不登校が問題化(顕在化?)しているのに、その問題について真剣に考え、対処すべき大人が、些かでもいじめる側、加害者を擁護するような発言をしては、「いじめ」の問題は永遠に解決どころか減少の方向にさえ進めないだろう。
仮に「いじめられる側」に何らかの落ち度があるケースがあるにしても、幾ばくかも「いじめ」と言う行為を肯定するかのような発言は厳に慎むべきだと思う。
「いじめ」とは、より強い立場の者が単独で、或はボスを中心とした集団で、精神的、または肉体的、或は両方の暴力で、弱い者をいたぶり、追い詰めること。但し、強者・弱者の関係性は必ずしも固定ではなく、かつての「いじめる側」が何かをきっかけに「いじめられる側」になることもあるし、その逆もある。
私が人間の善性に期待し過ぎなのか?
どんなに高度な文明社会を築こうが、人間の本質は他の動物と変わらず「弱肉強食」で、強い者が弱い者をいたぶるのが人間の自然の姿なのか?そして、厳しい生存競争の中、強者とその取り巻き連だけが生き残り、弱者は淘汰される運命なのか?
結局、冒頭の発言の人物は競争社会での勝者であり、その論理で「いじめ」問題を見ている。
勝者がこの社会を動かしている以上、顕在化した「いじめ」問題を建前上無視することはできないので議題には上げるものの、本気で解決しようという方向に、残念ながら社会は向かっていないように見える。
それが証拠に、文科省が学校に対してアンケートを実施しても、「いじめ」の存在を認める学校はそれほど多くない。端から「いじめ」問題に真剣に取り組むつもりのない学校が大多数なのだろう。
それどころか、最近はどの世代でも殊更「階層化」で、狭いコミュニティの中における支配・被支配の関係を構築しようとしている。最近やたらと耳にする「○○カースト」(「スクールカースト」とか「ママ友カースト」とか、ふざけるなあほらしい)と言う何とも耳障りな言葉が今の時代を象徴している。
斯様に社会が「いじめ」の土壌を育てているのだから、「いじめ」がなくなるわけがない。否、昔からずっとそうだったのだ。別に日本に限らず、人間が集い、社会を形成した時点で、強者が弱者を支配し、いたぶる「いじめ」に似た状況が、どの社会の、どの世代にも起きていた。ヨーロッパなんて厳然たる階級社会だしね。
そんな状況の中で、弱者はどう生きたら良いのか?どう生き抜くべきなのか?特に子どもを育てる親や子どもの周囲にいる大人は、子どもが「いじめ」に遭遇した際の対処法を普段から考え、親子で「いじめ」に備えなければならないのだろう。
具体的にはひとりでも味方を作ることを目指す。世界にたったひとりでも味方がいれば、心は折れないはずだ。特に10代になると親より同世代の味方が必要だ。
弱い者同士で助け合うことを目指す。大勢と、誰とでも仲良くする必要などないのだ。
たったひとりの味方の存在が自分を救う。そう信じて、必要最低限のコミュニケーション能力を身につけることが、自分で自分を守る術だと思う。これは大人にも言えること。
それでは、親以外に自分の味方になってくれる人、友達をどうやって見つけるのか?
例えば、まず自分の好きなものを見つける。それについて人に滔々と語れるほどの拘りを持つ。それぐらい何かに夢中になれたら、余計な雑音もあまり気にならなくなり、同じ趣向の仲間を見つけることも、それほど難しいことではないと思う。
そう考えると、「オタク文化」は生まれるべくして生まれたのかもしれないね。
傲慢な強者に「いじめられる方も悪い」と言わせる隙を与えないよう、弱者は弱者なりに知恵を身につけ、誰にも侵されることのない自分の世界を築き、理解しあえる仲間を作ろう
人間社会を、本能のままに「弱肉強食」がのさばる社会にする、しないも、実は「弱者」の"知恵ある暴力を伴わない反撃"にかかっているのだ!
かつての「いじめられっ子」からのエールです
美瑛の丘から遠くの山並みを望む~心が疲れた時は出来るだけ顔を上げて遠くを見よう…
自分の生活圏で「眺めの良い場所」を見つけよう。或は、その場で空を見上げてみよう
普段は聡明かつ的確な発言で周囲の尊敬を集めている人物の意外な発言に、一瞬、私は耳を疑った。
今これだけ若年層の間で「いじめ」による被害者の自殺や不登校が問題化(顕在化?)しているのに、その問題について真剣に考え、対処すべき大人が、些かでもいじめる側、加害者を擁護するような発言をしては、「いじめ」の問題は永遠に解決どころか減少の方向にさえ進めないだろう。
仮に「いじめられる側」に何らかの落ち度があるケースがあるにしても、幾ばくかも「いじめ」と言う行為を肯定するかのような発言は厳に慎むべきだと思う。
「いじめ」とは、より強い立場の者が単独で、或はボスを中心とした集団で、精神的、または肉体的、或は両方の暴力で、弱い者をいたぶり、追い詰めること。但し、強者・弱者の関係性は必ずしも固定ではなく、かつての「いじめる側」が何かをきっかけに「いじめられる側」になることもあるし、その逆もある。
私が人間の善性に期待し過ぎなのか?
どんなに高度な文明社会を築こうが、人間の本質は他の動物と変わらず「弱肉強食」で、強い者が弱い者をいたぶるのが人間の自然の姿なのか?そして、厳しい生存競争の中、強者とその取り巻き連だけが生き残り、弱者は淘汰される運命なのか?
結局、冒頭の発言の人物は競争社会での勝者であり、その論理で「いじめ」問題を見ている。
勝者がこの社会を動かしている以上、顕在化した「いじめ」問題を建前上無視することはできないので議題には上げるものの、本気で解決しようという方向に、残念ながら社会は向かっていないように見える。
それが証拠に、文科省が学校に対してアンケートを実施しても、「いじめ」の存在を認める学校はそれほど多くない。端から「いじめ」問題に真剣に取り組むつもりのない学校が大多数なのだろう。
それどころか、最近はどの世代でも殊更「階層化」で、狭いコミュニティの中における支配・被支配の関係を構築しようとしている。最近やたらと耳にする「○○カースト」(「スクールカースト」とか「ママ友カースト」とか、ふざけるなあほらしい)と言う何とも耳障りな言葉が今の時代を象徴している。
斯様に社会が「いじめ」の土壌を育てているのだから、「いじめ」がなくなるわけがない。否、昔からずっとそうだったのだ。別に日本に限らず、人間が集い、社会を形成した時点で、強者が弱者を支配し、いたぶる「いじめ」に似た状況が、どの社会の、どの世代にも起きていた。ヨーロッパなんて厳然たる階級社会だしね。
そんな状況の中で、弱者はどう生きたら良いのか?どう生き抜くべきなのか?特に子どもを育てる親や子どもの周囲にいる大人は、子どもが「いじめ」に遭遇した際の対処法を普段から考え、親子で「いじめ」に備えなければならないのだろう。
具体的にはひとりでも味方を作ることを目指す。世界にたったひとりでも味方がいれば、心は折れないはずだ。特に10代になると親より同世代の味方が必要だ。
弱い者同士で助け合うことを目指す。大勢と、誰とでも仲良くする必要などないのだ。
たったひとりの味方の存在が自分を救う。そう信じて、必要最低限のコミュニケーション能力を身につけることが、自分で自分を守る術だと思う。これは大人にも言えること。
それでは、親以外に自分の味方になってくれる人、友達をどうやって見つけるのか?
例えば、まず自分の好きなものを見つける。それについて人に滔々と語れるほどの拘りを持つ。それぐらい何かに夢中になれたら、余計な雑音もあまり気にならなくなり、同じ趣向の仲間を見つけることも、それほど難しいことではないと思う。
そう考えると、「オタク文化」は生まれるべくして生まれたのかもしれないね。
傲慢な強者に「いじめられる方も悪い」と言わせる隙を与えないよう、弱者は弱者なりに知恵を身につけ、誰にも侵されることのない自分の世界を築き、理解しあえる仲間を作ろう
人間社会を、本能のままに「弱肉強食」がのさばる社会にする、しないも、実は「弱者」の"知恵ある暴力を伴わない反撃"にかかっているのだ!
かつての「いじめられっ子」からのエールです
美瑛の丘から遠くの山並みを望む~心が疲れた時は出来るだけ顔を上げて遠くを見よう…
自分の生活圏で「眺めの良い場所」を見つけよう。或は、その場で空を見上げてみよう