一度開けてしまったパンドラの箱は、閉じる術がない。
昨日久しぶりにNHKの「あさイチ」を見た。
番組では女優?の山口智子さんの「私は子供を産まない人生を選択した。そのことについて、私は全く後悔していない。」という主旨の発言を端緒に、「女性の生き方」についての忌憚のないトークが、いつもの「あさイチ」らしい和やかさで(←これは有働アナの時折関西弁を交えた、親しみ易く巧みな進行によるところが大きい)、途中定時ニュースを挟んで1時間あまりに渡って展開された。
パネラーは、「既婚で子供のいる女性代表」としてタレントの山口もえさんと作家の川上未映子さんの2人と、これまで非婚を貫き、思うことあってつい最近大手新聞社を辞めたと言う女性(申し訳ない。名前を失念!)がひとり、そしてNHKのアナウンサーとして二十数年のキャリアを重ね、たまたま今日まで結婚に至らず、つい最近出産を諦めたと言う有働由美子アナの4人。この4人にオブザーバー的立場として時々発言を挟む、番組レギュラーの男性陣2人(イノッチと柳澤氏)が加わってのディスカッション。
女性の人生には、思いつくだけでも、実にさまざまな岐路がある。ここでは成人以後に限っても…
まず、結婚するか、否か?
(結婚は「縁」と「タイミング」あってのものなので、
望んでも出来ない可能性がある)
敢えて結婚せずに、職業人としてのキャリアを追及するか?
或は、結婚しても、キャリアを諦めないか?
その何れでもなく、自分にとっての心地よさを第一に、
仕事も結婚も自然の成り行きに任せるのか?
結婚後も仕事を続け、キャリアを追求する為に、
もしくは仕事の有無に関わらず、自分なりの価値観を貫く為に、
子供は敢えて持たないか?
或は結婚も仕事も出産も諦めず、産休や時短勤務を利用して
一時的にペースダウンしつつも仕事を続け、
いずれはキャリアの追及を再び目指すか、
或は、そのまま家庭優先で行くか?
はたまたワークライフバランスを完璧に取って?、
仕事も家庭も完璧?を目指すのか?
結婚後も続けて来た仕事だが、出産を機に思い切って辞めるか?
一旦出産を機に仕事から離れるが、子育てがひと段落したら、、
何らかの形(フルタイムorパート)で仕事(社会)に復帰するか?
さらに子供は授かりものなので、
妊娠を望んでも、誰もが妊娠・出産出来るとは限らない。
不妊治療をするとして、いつまで不妊治療を続けるべきなのか?
やめるとしたら、やめ時はいつなのか?
器質的に問題がなくとも、
どんな女性にも妊娠・出産時期にはリミットがある。
産み時はいつなのか?
個々の選択の組み合わせの数だけ、多様な人生がある。
こうして見ると、現代女性の生き方には、特に「子を産む性」と言う性差により男性以上にさまざまな選択肢があり、それが女性を悩ませる一因ともなっているようだ。しかし、元より教育を受ける機会もなく、ひたすら男性の陰で家庭を支える役割を求められた昔の女性に比べたら、それは贅沢な悩みなのか?
人生の分岐点で、その都度何を選択したかによって、人ひとりの人生の道筋のあらかたは決まって行く。選択にあたっては自分自身の意志だけで決められるものでもなく、選択の時点でその人を取り巻いている環境や、時代の思潮の影響も避けられない。「自らの意志」と思っていることさえ、実は何らかの影響下にあったりする。
また、選択した結果が必ずうまく行くとも限らず、只中にいる時には自分を客観視することも難しいので、人は常に自分の選択が正しかったのか否か、悩み続ける。おそらく「自らの生き方に迷いがない人」なんていないだろう。仮にそんな人がいたとしても、とにかく前に進む為に「私は迷いなく選んだ道を突き進む」と自ら言い聞かせているのだと思う。
このブログでも取り上げた英国の秀作ドラマ「第一容疑者(Prime Suspect)」の主人公ジェーン・テニスン警部(後に警視)は、仕事一筋のキャリア・ウーマンであった。このドラマが作られたのは90年代で、91年にNHKに入局した有働アナも、バリキャリを求める時代の空気に呼応したかのような発言を、当時の雑誌のインタビューで残している。折しも、その数年前に男女雇用機会均等法が施行された。
女性のキャリア観に変化が訪れたのは2005年頃。当時のキャリア志向の女性向け雑誌でも「出産」が大々的に取り上げられるようになった。以降、仕事・結婚・子供のすべてを手に入れることを目指す女性が増えた。
女性の本格的な社会進出に伴い、初婚年齢が遅くなり、キャリアアップと出産の板挟みで悩む女性が増え始める。仕事でのキャリアアップを優先させれば、どうしても出産を先送りせざるを得ない。出産のリミットが迫る中、不妊に悩む女性も増えて行った。
ここで少ないサンプル数ながら、個人的に見聞きした範囲で話すと、日本でも有数の進学校として知られるO学園の卒業生は、その多くがトップレベルの大学を卒業し、有名企業等に就職する。知人のお嬢さんは大手通信会社で働きながら4人の子供を、もう一人のお嬢さんも大手電機メーカーで働きながら3人の子供を産み育てている。
少子化社会と言われる中、彼女達が3人~4人も産み育てながら第一線で働き続けられるのは、ひとえに彼女達を支える彼女達の母親の存在が大きい。聡明ながら世代的に結婚後働き続けることが叶わず、子育てに専念した団塊の世代の母親達は、自身の夢を娘達に託している節がある。孫の世話から家事全般に至るまで、助けを求める声があれば出来る限り娘のもとへ駆けつけ、献身的に支えている。
能力、キャリア、夫、子供の全てを手に入れた彼女達は、彼女達なりの苦労もあるのだろうが、多くの女性が羨むであろう恵まれた存在である。数多いる女性の中で、ほんの一握りの存在である。殆どの女性は望みの全てが叶うことなどなく、何かを得る代わりに何かを諦め、日々自分の現状に悩みながら生きているのだろう。一方で少数ながら、他人の動向など気にせずに、マイペースで我が道を行く女性もいるようだ。
どんな人生であるにせよ、ひとりひとりにとっては一度しかない、かけがえのない人生である。
さて、地上デジタル放送化で、テレビ番組と視聴者間のインタラクティブなやりとりが可能になる等、特に「生放送の双方向性」の流れを受けて、「あさイチ」も視聴者参加型の番組作りを積極的に行っている。今回も出演者の活発な意見交換の間に、リアルタイムで視聴者から寄せられた意見を、適宜、有働アナが読み上げてくれた。
その中で例えば「妊娠出産を望みながら子供が授からなかった自分と、敢えて"子供を産まない"と選択した人とでは、"子供がいない"と言う点では、他人から見れば同じ状況だが、一緒にしないで欲しい」と言ったようなナイーブな意見があった。
これは功罪相半ばするネット社会がもたらした「それまで心で思っていても誰も口にしなかった本音を、匿名性を言いことに誰もがあけすけと語るようになった」弊害だと思うが、情報伝播力の強大なテレビ番組での「一般的には無名の人物の発言」が、「匿名による本音の発露」として、思わぬ形で誰かを傷つけていることの典型であろう。
結局、テレビの前の視聴者にとって、テレビで取り上げられる「素人の本音発言」は、その人物の属性が明らかでないが為に、ネット上の「匿名による発言」と何ら変わりがないのだ。それがもし、たまたまある人のアキレス腱を突こうものなら、冷淡で嫌味と受け取られる可能性が高い。
「ネット以前」の世界ならば目に入らなかったであろう言葉が、今や不特定多数の人の目に容易に入る時代。しかもテレビ界がネット社会の影響を受けて、「匿名性の高い本音」を、速報性を売りにするテレビの性質上、十分な吟味もなしに安易に取り上げるものだから、誰かにとっては目にしたくない言葉、耳にしたくない言葉も、否応なく不特定多数の人々のもとに届く。
こうなると、受け手である視聴者は、「誰かがポロリとこぼす本音に、いちいち傷ついてはいられない」とばかりに精神的な逞しさ、否、鈍感さを身に着けるしかないのではないか?万人にとって心地よい言葉がないように、耳障りのない言葉もないのだから。
冷静に考えれば、単に元々人々の内に存在していたものが、表に露わになっただけのことなのだ。「世の中にはいろいろな考えの人がいて、他人とはどうしても分かり合えない部分もある」と言うことを、改めて突きつけられてしまっただけなのだ。
悲しいかな今の時代、ナイーブでは、心穏やかではいられない。
昨日久しぶりにNHKの「あさイチ」を見た。
番組では女優?の山口智子さんの「私は子供を産まない人生を選択した。そのことについて、私は全く後悔していない。」という主旨の発言を端緒に、「女性の生き方」についての忌憚のないトークが、いつもの「あさイチ」らしい和やかさで(←これは有働アナの時折関西弁を交えた、親しみ易く巧みな進行によるところが大きい)、途中定時ニュースを挟んで1時間あまりに渡って展開された。
パネラーは、「既婚で子供のいる女性代表」としてタレントの山口もえさんと作家の川上未映子さんの2人と、これまで非婚を貫き、思うことあってつい最近大手新聞社を辞めたと言う女性(申し訳ない。名前を失念!)がひとり、そしてNHKのアナウンサーとして二十数年のキャリアを重ね、たまたま今日まで結婚に至らず、つい最近出産を諦めたと言う有働由美子アナの4人。この4人にオブザーバー的立場として時々発言を挟む、番組レギュラーの男性陣2人(イノッチと柳澤氏)が加わってのディスカッション。
女性の人生には、思いつくだけでも、実にさまざまな岐路がある。ここでは成人以後に限っても…
まず、結婚するか、否か?
(結婚は「縁」と「タイミング」あってのものなので、
望んでも出来ない可能性がある)
敢えて結婚せずに、職業人としてのキャリアを追及するか?
或は、結婚しても、キャリアを諦めないか?
その何れでもなく、自分にとっての心地よさを第一に、
仕事も結婚も自然の成り行きに任せるのか?
結婚後も仕事を続け、キャリアを追求する為に、
もしくは仕事の有無に関わらず、自分なりの価値観を貫く為に、
子供は敢えて持たないか?
或は結婚も仕事も出産も諦めず、産休や時短勤務を利用して
一時的にペースダウンしつつも仕事を続け、
いずれはキャリアの追及を再び目指すか、
或は、そのまま家庭優先で行くか?
はたまたワークライフバランスを完璧に取って?、
仕事も家庭も完璧?を目指すのか?
結婚後も続けて来た仕事だが、出産を機に思い切って辞めるか?
一旦出産を機に仕事から離れるが、子育てがひと段落したら、、
何らかの形(フルタイムorパート)で仕事(社会)に復帰するか?
さらに子供は授かりものなので、
妊娠を望んでも、誰もが妊娠・出産出来るとは限らない。
不妊治療をするとして、いつまで不妊治療を続けるべきなのか?
やめるとしたら、やめ時はいつなのか?
器質的に問題がなくとも、
どんな女性にも妊娠・出産時期にはリミットがある。
産み時はいつなのか?
個々の選択の組み合わせの数だけ、多様な人生がある。
こうして見ると、現代女性の生き方には、特に「子を産む性」と言う性差により男性以上にさまざまな選択肢があり、それが女性を悩ませる一因ともなっているようだ。しかし、元より教育を受ける機会もなく、ひたすら男性の陰で家庭を支える役割を求められた昔の女性に比べたら、それは贅沢な悩みなのか?
人生の分岐点で、その都度何を選択したかによって、人ひとりの人生の道筋のあらかたは決まって行く。選択にあたっては自分自身の意志だけで決められるものでもなく、選択の時点でその人を取り巻いている環境や、時代の思潮の影響も避けられない。「自らの意志」と思っていることさえ、実は何らかの影響下にあったりする。
また、選択した結果が必ずうまく行くとも限らず、只中にいる時には自分を客観視することも難しいので、人は常に自分の選択が正しかったのか否か、悩み続ける。おそらく「自らの生き方に迷いがない人」なんていないだろう。仮にそんな人がいたとしても、とにかく前に進む為に「私は迷いなく選んだ道を突き進む」と自ら言い聞かせているのだと思う。
このブログでも取り上げた英国の秀作ドラマ「第一容疑者(Prime Suspect)」の主人公ジェーン・テニスン警部(後に警視)は、仕事一筋のキャリア・ウーマンであった。このドラマが作られたのは90年代で、91年にNHKに入局した有働アナも、バリキャリを求める時代の空気に呼応したかのような発言を、当時の雑誌のインタビューで残している。折しも、その数年前に男女雇用機会均等法が施行された。
女性のキャリア観に変化が訪れたのは2005年頃。当時のキャリア志向の女性向け雑誌でも「出産」が大々的に取り上げられるようになった。以降、仕事・結婚・子供のすべてを手に入れることを目指す女性が増えた。
女性の本格的な社会進出に伴い、初婚年齢が遅くなり、キャリアアップと出産の板挟みで悩む女性が増え始める。仕事でのキャリアアップを優先させれば、どうしても出産を先送りせざるを得ない。出産のリミットが迫る中、不妊に悩む女性も増えて行った。
ここで少ないサンプル数ながら、個人的に見聞きした範囲で話すと、日本でも有数の進学校として知られるO学園の卒業生は、その多くがトップレベルの大学を卒業し、有名企業等に就職する。知人のお嬢さんは大手通信会社で働きながら4人の子供を、もう一人のお嬢さんも大手電機メーカーで働きながら3人の子供を産み育てている。
少子化社会と言われる中、彼女達が3人~4人も産み育てながら第一線で働き続けられるのは、ひとえに彼女達を支える彼女達の母親の存在が大きい。聡明ながら世代的に結婚後働き続けることが叶わず、子育てに専念した団塊の世代の母親達は、自身の夢を娘達に託している節がある。孫の世話から家事全般に至るまで、助けを求める声があれば出来る限り娘のもとへ駆けつけ、献身的に支えている。
能力、キャリア、夫、子供の全てを手に入れた彼女達は、彼女達なりの苦労もあるのだろうが、多くの女性が羨むであろう恵まれた存在である。数多いる女性の中で、ほんの一握りの存在である。殆どの女性は望みの全てが叶うことなどなく、何かを得る代わりに何かを諦め、日々自分の現状に悩みながら生きているのだろう。一方で少数ながら、他人の動向など気にせずに、マイペースで我が道を行く女性もいるようだ。
どんな人生であるにせよ、ひとりひとりにとっては一度しかない、かけがえのない人生である。
さて、地上デジタル放送化で、テレビ番組と視聴者間のインタラクティブなやりとりが可能になる等、特に「生放送の双方向性」の流れを受けて、「あさイチ」も視聴者参加型の番組作りを積極的に行っている。今回も出演者の活発な意見交換の間に、リアルタイムで視聴者から寄せられた意見を、適宜、有働アナが読み上げてくれた。
その中で例えば「妊娠出産を望みながら子供が授からなかった自分と、敢えて"子供を産まない"と選択した人とでは、"子供がいない"と言う点では、他人から見れば同じ状況だが、一緒にしないで欲しい」と言ったようなナイーブな意見があった。
これは功罪相半ばするネット社会がもたらした「それまで心で思っていても誰も口にしなかった本音を、匿名性を言いことに誰もがあけすけと語るようになった」弊害だと思うが、情報伝播力の強大なテレビ番組での「一般的には無名の人物の発言」が、「匿名による本音の発露」として、思わぬ形で誰かを傷つけていることの典型であろう。
結局、テレビの前の視聴者にとって、テレビで取り上げられる「素人の本音発言」は、その人物の属性が明らかでないが為に、ネット上の「匿名による発言」と何ら変わりがないのだ。それがもし、たまたまある人のアキレス腱を突こうものなら、冷淡で嫌味と受け取られる可能性が高い。
「ネット以前」の世界ならば目に入らなかったであろう言葉が、今や不特定多数の人の目に容易に入る時代。しかもテレビ界がネット社会の影響を受けて、「匿名性の高い本音」を、速報性を売りにするテレビの性質上、十分な吟味もなしに安易に取り上げるものだから、誰かにとっては目にしたくない言葉、耳にしたくない言葉も、否応なく不特定多数の人々のもとに届く。
こうなると、受け手である視聴者は、「誰かがポロリとこぼす本音に、いちいち傷ついてはいられない」とばかりに精神的な逞しさ、否、鈍感さを身に着けるしかないのではないか?万人にとって心地よい言葉がないように、耳障りのない言葉もないのだから。
冷静に考えれば、単に元々人々の内に存在していたものが、表に露わになっただけのことなのだ。「世の中にはいろいろな考えの人がいて、他人とはどうしても分かり合えない部分もある」と言うことを、改めて突きつけられてしまっただけなのだ。
悲しいかな今の時代、ナイーブでは、心穏やかではいられない。