
公式HPより。長野の色彩豊かな自然も、
たおやかに流れる音楽も、この映画の魅力。
私は批評家ではなく、あくまでも映画が大好きなだけ。
だから感想は書けても批評はできない。
そういうスタンスで、自分の思うことを、
自分自身の体験に引き寄せて、綴りたいと思う。
だから、必ずしも一般の評価とは同じではない。
たとえ一般の映画評が散々なものであったとしても、
自分の心に何か響くものがあれば、
それは自分にとって素敵な映画。それで良いのですよね。
あくまでも自分自身と映画との関係なのだから。
【感想】
博士は、10年前に起こした交通事故の後遺症で、
新規の記憶が80分しか持たない。
同様の設定は昨年公開された米映画にもあった。*
彼が確実に覚えているのは、その10年前までのこと。
だから博士は毎朝、家政婦である”母”と初対面なのだ。
そしてその息子である√(ルート)少年とも。
頭頂が扁平なことから、博士から√と命名された少年。
博士はルートの頭をやさしくなでながら言う。
「うむ、この頭にはなかなか賢い心が詰まっていそうだ」
会うたびに、博士はその言葉と仕草を繰り返す。
こんな言葉かけを毎日のように受けたら、
そりゃ、賢くなるわな
かくして少年は博士によって数学の森へと誘われたのでした。
昨年度の米アカデミー賞外国語映画賞を受賞した
スペイン映画「海を飛ぶ夢」。
「博士の愛した数式」を見て、
この映画のことが思い出されました。
同じく絶望的な後遺障害を描きながら、
一方は”死”を、そしてもう一方は”生”を描いています。
個人的にはストレートな”生”の賛歌が好き。
それがたとえファンタジーでも、希望が見えるから。
”死”を以て(描いて)、”生”の素晴らしさを訴える、
というのもまた”生”の賛歌ではあるんだけど。
叔母の一人が子供の頃脳膜炎に罹り、
戦後間もない頃で十分な治療を受けられず、
精神遅滞の障害を負いました(詳細は不明なのですが
母親からはそう聞いています)。
叔母の知能は6、7歳程度で止まってしまった。
そのため叔母は自立して社会生活を営むことは
できなくなりましたが、その分、童心が純粋な形で保たれ
本当に清らかな心の持ち主でした。
私は、この叔母が大好きだった。
そういう自分自身の体験もあって、
障害者は生きる価値がないという考え方や
(昔、ナチスドイツは障害者の断種手術を
行ったのですよね。映画『アンナとロッテ』でも、
それにまつわるエピソードが描かれていました)、
障害を持って生まれた子供は、
健常者の身代わりに障害を持って生まれて来てくれた、
この子達のおかげで誰かが障害を持たずに済んだ、
という考え方も到底受け入れることができない。
人は誰もが、何らかの意味を持って、
この世に生かされているのだと思う。
*【参考】ドリュー・バリモア&アダム・サンドラー主演の
『50回目のファースト・キス』