
丸の内にある三菱一号館美術館で開催中の『バーン=ジョーンズ展~装飾と象徴』を見て来た。
フランスで生まれた「印象派」と並び、19世紀後半に起きた西洋美術における一大ムーブメントである英国の「ラファエル前派」の系譜に連なる画家、エドワード・バーン=ジョーンズ(Edward Burne-Jones,1833-98)の全貌に迫る、日本では始めての個展だと言う。
英国バーミンガム美術館のコレクションを中心に、国内外から集められた油彩画、水彩画、素描、貴重書、タペストリと、その数は約80点にのぼる。
ヴィクトリア朝絵画の頂点を極めた画家であると同時に、オックスフォード大で出会って以来、その友情が生涯に渡って続いたウィリアム・モリスと共に、アーツ&クラフツ運動の創始者と言う一面も持つバーン=ジョーンズ。本展覧会は、その多彩な活動を展観する、またとない機会と言えるだろうか?
とても興味深い展覧会だった。「描写の迫真性より、装飾性と審美性に優位」と言う解説の一文が、バーン=ジョーンズ作品全体を貫く作風を言い得て妙であり、印象に残っている。

19世紀半ば、時代の変化の流れに沿った形で、当時の既成概念に反旗を翻した運動のひとつが、英国美術界における「ラファエル前派」の誕生であった。
「ラファエル前派」は、当時の美術アカデミーで模範とされたルネサンス古典主義の完成者ラファエロ以降のアカデミックな芸術を否定し、ラファエロより遡るルネサンス初期や中世の絵画様式に美的価値を認めた画学生、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティやウィリアム・ホルマン・ハントやジョン・エバレット・ミレイらが中心ととなって立ち上げた芸術運動である。
その後、3人は方向性の違い等から袂を分かつことになるのだが、ロセッティを慕って集まった若き画家達の中に、バーン=ジョーンズがいた。それゆえに、バーン=ジョーンズをラファエル前派の後継者と見なす説もあるようだ。
その「ラファエル前派的」特徴は作品にも顕れていると言えるだろうか?例えば、《運命の車輪》(右上画像)に描かれた人間の運命を司る女神フォルトゥナのその端正な横顔は、初期ルネサンスの画家フィリッポ・リッピが描いた《聖母の戴冠》の中の聖母マリア像の横顔に酷似している(参考:下写真)。
俯き加減のその横顔の憂いを帯びた表情、優美な弧を描く鼻のライン、甘美な唇の形、柔らかな丸みを帯びた顎のラインは、見れば見るほどソックリで、フォルトゥナを見て、すぐさまリッピの聖母マリアの横顔が頭に浮かんだほどだ。



同じくミケランジェロに私淑し、その作品の多くで裸体表現を採りながらも、同時代の自国の自然主義思潮の流れを受けて、のちに独自の表現に到達した「近代彫刻の父」オーギュスト・ロダンの肉体表現とは異なり、バーン=ジョーンズのそれは、ルネサンス期で時を止めたかのようだ(逆に彼の女性の裸体表現は、より時代に即したものとなっており、男性像とは異なる印象だ)。
身分差や職業に関係なく(何しろ、奴隷が戴冠の王を足で踏みつけているのだ)、運命の車輪の回転に抗うことができずに苦悶する人間の姿を、物憂げな表情で見つめる運命の女神フォルトゥナ。着衣姿のフォルトゥナと全裸の人間の対比もまた何やら象徴的で、見る者の想像をかき立てる。仮に、3人の人間が着衣姿であったなら、本作が与えるインパクトは今よりも小さかったのではないだろうか?

それにしてもバーン=ジョーンズが描いた女性の身体の曲線美には、思わず目が釘付けになる。神話の中の女神を描く、と言う体裁を取りながら、実際は生身の女性の美しさを描いているからだろうか?しかし、その端正さゆえにエロチックな印象はない(果たして、男性目線ではどうなのだろうか?)。
例えば、《果たされた運命~大海蛇を退治するペルセウス》(最上段の画像)に描かれた王女アンドロメダの裸身。
その美しさを海のニンフに優ると親が自慢したが為に海神の怒りを買い、大海蛇の生け贄として鎖に繋がれてしまった王女アンドロメダ。
無防備とも言えるその白肌も露わな後ろ姿は、荒々しい岩肌を背景にクッキリとその輪郭線を浮かび上がらせている。
肩のラインから左腕、肩胛骨、背骨、ウエストのくびれ、(丸みを帯びた)臀部、太もも、ふくらはぎ、(引き締まった)足首と、女性の優美な肉体の曲線をあますところなく描き、その輝く美しさで見る者の目を釘付けにする。思わず、画面右側で繰り広げられるペルセウスと大海蛇の死闘を見忘れてしまうほどだ。
色彩的にも、青を基調に描かれたペルセウスと大海蛇より、白肌のアンドロメダの方が前面に浮かび上がる効果が顕著だ。ペルセウスの活躍をテーマにしながら、その実、最も描きたかったのは、美しき王女アンドロメダだったのではないだろうか?そう思わずにはいられないほどの、アンドロメダの美しさなのだ。


赤いドレスの裾の部分と右肩に掛けた藍色のストールは風になびいているが、腰から裾に向かうドレスの身頃は女神の身体に密着し、衣に隠されたその身体の線をクッキリと浮かび上がらせている。豊かな肉付きを想像させる臀部の描写は、先のアンドロメダ像とは違って、少しエロチックですらある。風になびく藍色のストールさえ優美な曲線を描いて、手前の女神像の美しさを際立たせる小道具なのかもしれない。
そして、ここでもまた、藍色と赤、のように「色のコントラスト」が効果的な使われ方をしているように思う。
本展覧会では、こうした細部まで見応えのある作品の数々が、聖書・神話・物語等のテーマ毎に展示されている。

本展覧会はまた、バーン=ジョーンズのアーツ&クラフツ運動の創始者としての一面の紹介にも尽力していて、彼が手がけた本の装丁や挿絵、教会のステンドグラスの原画や、タピストリーの展示もあり、彼の作品の特徴である精緻な装飾性がいかんなく発揮されたこれらの作品群も見応え十分。その一部が、この日本にあることにも驚いた。
そして、明治期の近代建築(あの河鍋暁斎の弟子、ジョサイア・コンドル設計)をほぼ忠実に復元した形の三菱一号館美術館の、さほど広くない部屋が細々と配置された空間構成の特徴が、本展覧会では作品に適した鑑賞環境を提供する上で功を奏しているようだ。つまり、作品をテーマ毎に閉じられた小空間で展示することで、鑑賞者がそれぞれの作品世界に没入することを容易にしている、と筆者は感じた。
例えば、本展覧会が、もし、乃木坂の国立新美術館の、あの大空間での展示であったならば、作品に対する印象は大きく異なったに違いない。もちろん、この美術館の空間構成に合わせて、本展覧会の展示構成は考えられたとは思うが、本展覧会に対する鑑賞後の満足度の高さは、それぞれの美術館の特徴に合わせた展覧会の在り方を、改めて考えさせられたと言っていい。その意味でも、興味深い展覧会である。
唯一の不満と言えば、代表作の《運命の車輪》の絵はがきが販売されていないことだろうか?(笑)

下画像は《マリア・ザンバコ頭部習作~ガラーテアⅠ》。ギリシャ彫刻を思わせる端正な横顔が美しい。画家がモデルとなった女性に一目惚れして、道ならぬ恋に走ってしまったのも頷ける美しさだ。
このような鉛筆画は、描画を趣味とする人には堪らない作品ではないだろうか?実際、似たような画風のイラストをネット上でもよく見かける。

(記事中の画像は、公式サイトより転載)