新たに「今日の言の葉」と言うカテゴリーを作り、日々、印象に残った言葉を書き残して行こうと思う。私はけっして多読家ではないけれど、毎日何かしら読んではいる。外出時のバッグにも1冊ないし2冊の本を忍ばせて、バスや電車での移動中に読んでいる(そう言えば、最近また電車やバスで読書する人が増えて来たように思う。仲間が戻って来て?嬉しい限りまあ、あくまでも個人的な印象だけれど)。
私の読書傾向は、ある一人の作家の本を読んで気に入れば、続けて飽きるまでその作家の著書を読み続けることが多い。最近は『人間の分際』を読んで以来、曽野綾子さんの著書をコンスタントに読んでいる。もう今ので4冊目だろうか?
今日はその中からひとつ。出典は『旅は私の人生』(青萠堂、2015)、p50「たまには途上国の悪路を経験するといい」より。
( 前略 )
時々私は機嫌がいいと言われることがある。実は私はイジワルで不遜で、忍耐心もあまりない。機嫌がいい人などとほめられる要素は全くないのだが、子供の頃から苦労して育ったおかげで、仏頂面して生きるのと、とにかく表面だけはにこにこして暮らすのと、どちらが無難かという選択はできるようになったのである。
これ以上乗り心地のいいシートはないと思うようなベビーカーで育った赤ちゃんは、将来どうなるのだろうか?
( 中略 )
しかるに世界の半分以上はひどい暮らしをしている。国によっては、道路の九割は、穴凹だらけの未舗装の道なのだ。そこを路線バスさえろくろくないので、何キロでも歩く暮らしをしている人もたくさんいる。
( 中略 )
過保護に育った子供はそんな体験をしたくないだろう。もちろん、その子が自分のひ弱さを自覚して、自分で自分を改造すれば、私以上に強くなるだろうが…。
子供にはむしろ厳しさに耐えることを教えるのがほんとうの親心だと私は思っている。一日くらい食べなくても平気。長く歩ける。悲しみに耐えて生きて行く。ものがなければ工夫して生きる。こうしたことができる子供だけが、心身共に生き延びるだろうし、幸福も手にするのである。
親ばかな自分を戒めるような言葉が印象に残った。今、気に掛かっていることだからこそ、その一節が心に引っ掛かったのだろう。そして自分の今の心情に照らして、敢えて自分とは逆の見方を選び、自らの甘さを戒めることで、考え方のバランスを取っているかもしれない。
そもそも自分自身の経験に照らしても、辛かった子供時代があったからこその今があるように思う。今、私は自分が置かれた環境に素直に感謝できる。幸福である。その意味では、息子はこれからが大変かもしれない(とは言っても息子も傍目には恵まれた環境ながら彼なりに様々な葛藤はあっただろう)。しかし、辛く苦しい経験も糧にして、自立した人間として生き抜いて行くしかない。
曽野綾子さんはその率直な物言いでしばしば物議を醸す人で、アマゾンの書評でも時々辛らつな批判を浴びている。戦中戦後を生き抜いて来た人らしい肝の据わった人で、多少の批判には微動だにしない。自分の粗忽さも認めた上で(だから一部で批判されているような上から目線ではけっしてないと思う。しかし、ネット上では曽野さんはご夫妻揃ってエライ叩かれよう叩かれても仕方のない失言も確かにあるようだ)、時には敢えて人の神経を逆撫でするような辛口な発言で、読み手に考えさせる。寧ろそこが彼女の良さだと私は思う。
心地良い、目障りの良い言葉はするりと意識を通り抜けるだけである。引っ掛かるからこそ人はそこで考え、言葉は意識下に残るのである。
とは言え、作家の言うこと全てを鵜呑みにするほど自分はうぶではない。学生時代の恩師にもCritical readingを勧められたのが今も頭の片隅に残っている。本の内容を読んでそのまま受け入れるのではなく、しばしば立ち止まって自分の頭で考えて、その是非を判断することを心がけている。
その根底には作家も所詮人間であり、その思想やそれに基づく発言が必ずしも完璧ではないという認識がある。日本人はとかく信仰心が希薄だと言われるけれど、一部の歌手のファンの在りようを見ていると、歌手をあたかも神のように崇拝し、その挙動発言を鵜呑みにしているところがあるのではないか?今も昔も得体の知れない新興宗教に高学歴者が嵌るのも珍しくない。さらに、この国はかつて何かに付け「一億総」と言う接頭語?をつけて、国民に対して挙国一致を強いたことが何度もあった。そこに日本人、ひいてはこの国の危うさを感じる。
どんな人物であれ~立派な肩書きや華麗な経歴の持ち主であれ、一見真っ当な物言いの人物であれ、盲信してはいけない。それは曽野さんに対しても同様だ。特に戦略的に"イメージ"を利用する映像&宣伝広告の時代の今は、耳障り目障りの良い言葉を投げかけたり、印象的(キャッチー)なフレーズを多用する人物は少し疑ってかかるぐらいの用心深さが、受け手側には必要なのかもしれない。
だからこそ作家とも程よい距離感を保って、その著作に時にはツッコミを入れながら読むぐらいが、読書をする態度としては丁度良いのではと思っている(そのせいか、読む本にもよるけれど読書中に独り言や含み笑いが多いと夫に指摘されている)。
私の読書傾向は、ある一人の作家の本を読んで気に入れば、続けて飽きるまでその作家の著書を読み続けることが多い。最近は『人間の分際』を読んで以来、曽野綾子さんの著書をコンスタントに読んでいる。もう今ので4冊目だろうか?
今日はその中からひとつ。出典は『旅は私の人生』(青萠堂、2015)、p50「たまには途上国の悪路を経験するといい」より。
( 前略 )
時々私は機嫌がいいと言われることがある。実は私はイジワルで不遜で、忍耐心もあまりない。機嫌がいい人などとほめられる要素は全くないのだが、子供の頃から苦労して育ったおかげで、仏頂面して生きるのと、とにかく表面だけはにこにこして暮らすのと、どちらが無難かという選択はできるようになったのである。
これ以上乗り心地のいいシートはないと思うようなベビーカーで育った赤ちゃんは、将来どうなるのだろうか?
( 中略 )
しかるに世界の半分以上はひどい暮らしをしている。国によっては、道路の九割は、穴凹だらけの未舗装の道なのだ。そこを路線バスさえろくろくないので、何キロでも歩く暮らしをしている人もたくさんいる。
( 中略 )
過保護に育った子供はそんな体験をしたくないだろう。もちろん、その子が自分のひ弱さを自覚して、自分で自分を改造すれば、私以上に強くなるだろうが…。
子供にはむしろ厳しさに耐えることを教えるのがほんとうの親心だと私は思っている。一日くらい食べなくても平気。長く歩ける。悲しみに耐えて生きて行く。ものがなければ工夫して生きる。こうしたことができる子供だけが、心身共に生き延びるだろうし、幸福も手にするのである。
親ばかな自分を戒めるような言葉が印象に残った。今、気に掛かっていることだからこそ、その一節が心に引っ掛かったのだろう。そして自分の今の心情に照らして、敢えて自分とは逆の見方を選び、自らの甘さを戒めることで、考え方のバランスを取っているかもしれない。
そもそも自分自身の経験に照らしても、辛かった子供時代があったからこその今があるように思う。今、私は自分が置かれた環境に素直に感謝できる。幸福である。その意味では、息子はこれからが大変かもしれない(とは言っても息子も傍目には恵まれた環境ながら彼なりに様々な葛藤はあっただろう)。しかし、辛く苦しい経験も糧にして、自立した人間として生き抜いて行くしかない。
曽野綾子さんはその率直な物言いでしばしば物議を醸す人で、アマゾンの書評でも時々辛らつな批判を浴びている。戦中戦後を生き抜いて来た人らしい肝の据わった人で、多少の批判には微動だにしない。自分の粗忽さも認めた上で(だから一部で批判されているような上から目線ではけっしてないと思う。しかし、ネット上では曽野さんはご夫妻揃ってエライ叩かれよう叩かれても仕方のない失言も確かにあるようだ)、時には敢えて人の神経を逆撫でするような辛口な発言で、読み手に考えさせる。寧ろそこが彼女の良さだと私は思う。
心地良い、目障りの良い言葉はするりと意識を通り抜けるだけである。引っ掛かるからこそ人はそこで考え、言葉は意識下に残るのである。
とは言え、作家の言うこと全てを鵜呑みにするほど自分はうぶではない。学生時代の恩師にもCritical readingを勧められたのが今も頭の片隅に残っている。本の内容を読んでそのまま受け入れるのではなく、しばしば立ち止まって自分の頭で考えて、その是非を判断することを心がけている。
その根底には作家も所詮人間であり、その思想やそれに基づく発言が必ずしも完璧ではないという認識がある。日本人はとかく信仰心が希薄だと言われるけれど、一部の歌手のファンの在りようを見ていると、歌手をあたかも神のように崇拝し、その挙動発言を鵜呑みにしているところがあるのではないか?今も昔も得体の知れない新興宗教に高学歴者が嵌るのも珍しくない。さらに、この国はかつて何かに付け「一億総」と言う接頭語?をつけて、国民に対して挙国一致を強いたことが何度もあった。そこに日本人、ひいてはこの国の危うさを感じる。
どんな人物であれ~立派な肩書きや華麗な経歴の持ち主であれ、一見真っ当な物言いの人物であれ、盲信してはいけない。それは曽野さんに対しても同様だ。特に戦略的に"イメージ"を利用する映像&宣伝広告の時代の今は、耳障り目障りの良い言葉を投げかけたり、印象的(キャッチー)なフレーズを多用する人物は少し疑ってかかるぐらいの用心深さが、受け手側には必要なのかもしれない。
だからこそ作家とも程よい距離感を保って、その著作に時にはツッコミを入れながら読むぐらいが、読書をする態度としては丁度良いのではと思っている(そのせいか、読む本にもよるけれど読書中に独り言や含み笑いが多いと夫に指摘されている)。