今だから…昭和さ ある男のぼやき

主に昭和の流行歌のことについてぼやくブログです。時折映画/書籍にも触れます。

一唱民楽~東海林太郎という人生

2005-08-27 23:49:05 | 昭和の名歌手たち
東海林太郎、こう書いて「しょうじたろう」と読める人、あのロイド眼鏡に燕尾服、独特の髪型・直立不動の姿勢が出てくる人は果たして何人だろうか。

没後33年。秋田で東海林太郎ナンバーを合唱で歌うイベントがあったそうだが100人集める予定が40人しか集まらなかったとか。
「40人もよく集まった」という気持ちと「たった40人」という気持ちで複雑な心境である。

東海林太郎の歌に対する情熱は並大抵のものではなかったらしい。
吹き込み前には歌詞を毛筆で写し、内容をまず理解しようとした。
納得できない場合は文献を読み漁る。
佐藤惣之助(詩人)曰く「東海林さんの歌を書くのは怖い」
藤田まさとは「すごい読書家で小野小町を題材にした時、彼は神田の古本屋で7・8冊も参考文献を仕入れて意見を述べた。作詞家に意見を出せる歌手は他にいないあ」と語った。佐藤の話は東海林も後年自身の口から話している。
(昭和46年7月22日放送「なつかしの歌声」ほか)

「歌に生き、歌に支えられた私です。死ぬまで歌い続けます。東海林の歌を聞きたいと言う人が一人でもいるうちは……」とも語る。
ピアノを使い、1日に1時間発声練習をし、ピアノがないホテル・旅館は泊まらなかった。
胃の中で食べたものが消化されているうちはいい声が出ない、食べたものが調へ流れた頃が一番いい声が出る。という考えから歌の前の食事は4時間前に摂った。

歌についてはこうも言っている。
「シューベルトを歌う心で歌っている。クラシックも、歌謡曲でも、いい歌を歌うには、ちゃんとした服装、人格で……その心・息・身には正装が最適です。例えば末のキャバレーが舞台であっても僕はコンサートのつもりで歌います。ですからアロハシャツや着流しでは歌えないのです。
あえていえば、その場で命を落としてもかまわない覚悟です。したがってステージで握手を求められてもお断りします。真剣勝負の場で握手するなんておかしいじゃありませんか。一尺四方のステージは真剣勝負の同情です」

当時の若手(60年代!?)についてはこう語っていた。
「この頃の歌手はたくみに歌うが自分で新しく開拓しようという気持ちがない
歌まねです。あんなものを聴くと馬鹿になります。歌の本質を知らないのです。
あんなに地声を張り上げてよくノドが続くと思うことがあります。しかし発見しました。彼らは声をつぶす前に自分が消えてゆくことをです」
なかなか辛口である。もっと長命であったならこの辛口トークが話題となった可能性もある。決して淡谷のり子だけが辛口の批評をしていた訳ではないのだ。

一時期、女優の高峰秀子と同居し、養女として貰い受けたがっていたが、結局高峰が嫌がりご破算になった。
この話は「いっぴきの虫」(高峰秀子・著)に詳しい。

なお藤山一郎とは犬猿の仲で有名だが、私は藤山が相当敵視していたと聞いた。
フィナーレに出場歌手全員が勢ぞろいする際に、藤山の前に東海林がゆっくり歩いていると、「やだねぇ~、年寄りは」と言っていたとか。
他にも東海林が楽屋に入る際に「おはようございます」と挨拶したところ、藤山は、「ああ、おはよう」と台本を読みながら応対したという話も。
東海林に対しては、俺の方が先輩という思いと自分がヒットが出せずにいた時期に
台頭したことを面白くなかったからとも考えられる。
東海林・藤山も癖のある人物である。
一番の原因は多分、ウマが合わなかったのだろう(笑)。


話は戻る。
東海林は意外にも弟子は「人に教えるガラじゃない」ととらず、リサイタルも嫌いだった。

辛口批評はまだある。「馬鹿な司会者(東海林談)」についてである。
「ふたことめには歌は世につれ世は歌につれというが、歌じゃ世につれても、世は歌につれるほど甘くありません」
「『昔とちっともお変わりありませんね』と私を励まして愛想のつもりで言ってるのでしょうが、こんなに情けないことは無い。40年も同じ歌を歌って進歩が一寸も認められないことだからね(苦笑)」

口癖は「白寿のリサイタルではシューベルトとワーグナーを歌うんだ」
「歌うたいであると同時に日本人であり、社会人であることを忘れてはいけない」
常に歌に対する精進をかさね、真摯な態度だった。
レコーディングの際はスタジオの入り口で最敬礼をし、スタッフのひとりひとりににこやかに挨拶をし、どんなに暑い日でもキチンと背広にネクタイ。
懐メロ歌手には珍しい、昔の音階(声質は衰えてはいるが)で声を出し
「勝負は1回しかない」と常に本番1回でレコーディングを終えた。

持ち歌は「赤城の子守唄」に1番愛着を持ち、テレビで歌うときも2番の省略には
この曲は頑として応じなかったことから「信念の人」とも評された。

こう書いてきて、お読みになった方は「東海林はクソ真面目なつまらない奴」と
思ったかもしれない。
いやいやそんなことは無い。酒を飲むと特に。
飲めば駄洒落をよく飛ばし、逆立ちをしながらビールを飲む芸当を見せる。
いつも日本酒・ビール・ウィスキーのチャンポンを飲む。

東海林太郎=酒と駄洒落 のイメージは同業者に多いらしい。
故コロムビアトップ氏も酒と駄洒落の話をしていた。
何しろ日本酒・ビール・ウィスキーのチャンポン、相手がバテてまどろんでると
もう本を読んでいるほどのタフさ。
若い頃は夕方6時から翌朝8時まで飲んでもビクともしなかったとか。
「実は満州で鍛えたんだ。でもこっそりトイレで吐いていたんだよ」とも。
「酒を飲んで歌えないのは本当の歌手じゃない」は酔ったときの口癖。
国民的歌手・東海林太郎ここにあり。

この真面目で辛口で酒を愛した東海林太郎。
明治という時代に生まれ育ったのも、この大歌手が出来た土壌のように思える。
東海林の信念も、今の世には生まれるものでもないだろう。
世間一般では格下に思われた歌手では初の勲四等受賞。
没時に国民栄誉賞があったらば、まず受賞していただろう。
正五位勲三等瑞宝章追賜というのは芸能界では最高だけに。
大衆芸能は軽く見られがちだが、美空ひばりが今もあれだけ騒がれている。
もうそろそろ東海林や藤山一郎は教科書で教える時代のような気がする。
テレビでも映像が放送されない現状では。
昭和も遠くになりにけり。


東海林太郎
本名:同じ。
明治31年12月11日、秋田に生まれる。長男。
大正5年3月、秋田中学校(現・秋田高等学校)卒業。
国立東京音楽学校入学を、父の反対により断念。
大正6年4月、早稲田大学商学部予科入学。
同期に河野一郎(河野洋平元・自民党総裁の父)、浅沼稲次郎(元社会党委員長)ら。
陸上競技選手も一時はやっていた。
大正11年1月、結婚。
大正12年9月、満鉄入社・調査課勤務。
大正13年1月、長男・和樹出生
大正14年9月 妻・久子、歌手の夢が捨てられず、長男・和樹を残して帰国。
大正15年、二男・玉樹出生(東海林が引き取る、久子とはその後離婚)
昭和2年4月、鉄嶺図書館長赴任。(左翼というレッテルを貼られたため)
昭和5年8月、歌手の夢を捨てきれずに満鉄を退社
昭和5年9月、渡辺シズを伴って帰国。のちにシズとは結婚。
昭和8年3月、ニットー・レコードで「宇治茶摘唄」を吹込み、レコードデビュー
昭和8年5月、時事新報社主催・第2回音楽コンクール声楽部門入賞。
昭和9年2月、ポリドール・レコードで「赤城の子守唄」発売。50万枚を売る。昭和9年、「国境の町」(ポリドール)「山は夕焼け」(キング)ヒット。
スターの座を不動のものにする。
昭和10年、「旅笠道中」「むらさき小唄」「野崎小唄」「お駒恋姿」などがヒット。
昭和11年、「三味線やくざ」「お夏清十郎」「すみだ川」ヒット。
昭和12年、「踏絵」「湖底の故郷」ヒット。
昭和13年、「陣中髭比べ」「上海の街角で」「麦と兵隊」ヒット。
昭和14年、「名月赤城山」「築地明石町」ヒット。東海林太郎後援会発足。
昭和15年、テイチク移籍。
昭和16年、「あゝ草枕幾度ぞ」「琵琶湖哀歌」「銀座尾張町」ヒット。
昭和18年、「軍国舞扇」ヒット。
昭和22年、ポリドール復帰。「さらば赤城よ」ヒット。
昭和23年7月、S状結腸癌手術。
昭和26年正月、第1回紅白歌合戦出場。
昭和27年、「勘太郎子守唄」が久々のヒット。
昭和28年12月28日、妻・シズ逝去。享年五十二。
昭和30年11月 2回目のS状結腸癌回復手術。
昭和30年大晦日、第6回紅白歌合戦に病院から抜け出し出場。
昭和31年大晦日、第7回紅白歌合戦出場。
昭和34年、青木美瑳子と再婚。
昭和38年2月、日本歌手協会設立。初代会長に就任し、亡くなるまで勤める。
昭和39年6月、3回目の手術。人工肛門を施す。
昭和40年6月、LP「東海林太郎傑作集」(キング)、20万枚の大ヒット。
昭和40年11月3日、紫綬褒章受章。
昭和40年12月、第7回日本レコード大賞特別賞受賞。
昭和40年大晦日、第16回紅白歌合戦出場。
昭和41年11月11日、秋の園遊会招待。
昭和43年5月、人工肛門にポリープ発見、切除。
昭和43年12月14日、先妻・庄司久子逝去、享年七十。
昭和44年4月、新たに人工肛門を施す。
昭和44年4月29日、勲四等、旭日小綬章授与。
昭和45年10月 レコード吹込み中、右脚アキレス腱を切る。
これにより足を痛め、軽井沢の自宅へはあまり戻らなくなる。
昭和46年8月、立川市のマネージャー宅に転居。
昭和47年3月、第23回NHK放送文化賞を受賞。
昭和47年敬老の日、山梨県富士吉田市文化センターの歌謡ショーに出演。
競演に若原一郎他。これが最後のステージとなる。
昭和47年9月22日、東京12チャンネル「なつかしの歌声」収録。
笑顔で「早稲田大学校歌」を、他に「春の哀歌」を歌う。これが絶唱となる。
昭和47年9月26日、仕事の打ち合わせをマネージャーとした後の午後2時、「ねむい、いつものように1時間ばかり昼寝をしますよ、3時になったら姿三四郎のTVをつけて下さい」と言って、横になった。
3時になり、マネージャーがテレビをつけたが起きず、様子がおかしいのに気づき
急いで医者を呼び見て貰ったところ、脳出血の発作による昏睡状態とわかる。
翌日、立川中央病院に入院。意識は混濁し、家族の顔も見分けられず。
10月3日夕刻頃から好転の兆しが現れ、大部分のつめかけた人が一旦帰宅。
長男・和樹も大阪へ戻る。
夜、院長回診後に容態悪化。
10月4日午前8時50分、次男夫婦・妹・付き人・マネージャー・後援会関係者数名に看取られながら逝去。享年七十三。
死因は脳出血による心臓衰弱。
没後、正五位勲三等瑞宝章追賜。
10月 青山葬儀所において音楽葬。法名・ 声楽院釈太朗大居士。
秋田市土崎港中央3丁目、西船寺に眠る。
11月 日本歌謡大賞放送音楽特別賞受賞。
大晦日、第23回紅白歌合戦で島倉千代子が「すみだ川」を歌う。