
遺跡の位置関係。

現在の市内の中心部は豊臣秀吉によって埋め立てられ陸地となりましたので、弥生時代の遺跡はもっと水辺に近かったと思います。
板付遺跡の入り口。

板付遺跡の説明。

現在の遺跡の全体模型。

集落周辺は用水路と水田に囲まれていましたが、現在西側に用水路と水田の一部が再現されています。
模型横の説明。

用水路には堰があり、水田に引く水量が調整されていました。
住民は高度な稲作技術を持って大陸から渡ってきた「渡来人」ではないかと考えられています。
「竪穴住居」と作物を保存した「貯蔵穴」、「墓地」などの説明。

周辺で一番高い位置にあった集落の入り口。

集落の周りはⅤ字形の深い溝が掘られていました。

環濠は10人が1年近くもかけて掘られた規模だったそうですが、掘られた目的は分かっていません。

後には濠は自然と埋まりました。
周辺部族との争いが無くなり、不要になったからではないかと考えられています。
縄文時代の狩猟や木の実の採取など自然のままの生活から、耕作し作物を貯蔵する集団共同生活の弥生時代へと移っていきます。
佐賀県の吉野ケ里遺跡などと合わせて見学すると興味が倍増します。
撮影:CANON EOS5DIII + EF24-105mmF4 L IS

現在の市内の中心部は豊臣秀吉によって埋め立てられ陸地となりましたので、弥生時代の遺跡はもっと水辺に近かったと思います。
板付遺跡の入り口。

板付遺跡の説明。

現在の遺跡の全体模型。

集落周辺は用水路と水田に囲まれていましたが、現在西側に用水路と水田の一部が再現されています。
模型横の説明。

用水路には堰があり、水田に引く水量が調整されていました。
住民は高度な稲作技術を持って大陸から渡ってきた「渡来人」ではないかと考えられています。
「竪穴住居」と作物を保存した「貯蔵穴」、「墓地」などの説明。

周辺で一番高い位置にあった集落の入り口。

集落の周りはⅤ字形の深い溝が掘られていました。

環濠は10人が1年近くもかけて掘られた規模だったそうですが、掘られた目的は分かっていません。

後には濠は自然と埋まりました。
周辺部族との争いが無くなり、不要になったからではないかと考えられています。
縄文時代の狩猟や木の実の採取など自然のままの生活から、耕作し作物を貯蔵する集団共同生活の弥生時代へと移っていきます。
佐賀県の吉野ケ里遺跡などと合わせて見学すると興味が倍増します。
撮影:CANON EOS5DIII + EF24-105mmF4 L IS
なお、この遺跡から出た多数の足跡の警察の鑑識による鑑定では身長164センチと縄文人より高身長であることが判っていて、
このようなことから研究者は船を駆使した移動性の高い稲作渡来民が、長江下流領域から沿海沿いに北上し、山東半島、朝鮮半島南岸部、そして日本列島に渡来しこの稲作耕作の適地である板付に入植したと考えているようです。