今、バッハの「G線上のアリア」を聴きながらこの文章を書いている。
カラヤン指揮、ベルリンフィルである。
ホントに素晴らしい時間を僕は過ごしている。
僕はとりわけバッハが好きなのであるが、バッハの音楽が素晴らしいのは、そこに何の意味も表出しようとしていないからであろう。
一般に「標題音楽」と呼ばれるものは、音で意味を描き出そうとしているのだ。
そこに「音楽の無意味さ」に対する作曲家のコンプレックスが見てとれる。
逆に文学者は、往々にして「音楽」について何かひとこと言わないと気がすまないようだ(笑)
音楽の完全な無意味性、しかしそれでいて譬えようもなく深い価値を音楽がもつことにコンプレックスを刺激されるのであろう。
音楽は本来無意味な芸術である。
これは音楽に対する悪口ではない。
無意味だけれども大きな価値をもつのが優れた音楽作品なのである。
以前にも書いたが、日本人は音楽にではなく、「歌詞」に感動する場合が多いように思う。
いわゆる「演歌」など、とくにそうであろう。
・・・あぁ、若者の間で流行っている「ラップ」とかいう意味過剰音楽もあったっけ・・・。
とにかく、断言するが、音楽の真髄は「意味」ではない。
そのことを多くの方々に分かっていただきたいと思う今日この頃です(合掌)
カラヤン指揮、ベルリンフィルである。
ホントに素晴らしい時間を僕は過ごしている。
僕はとりわけバッハが好きなのであるが、バッハの音楽が素晴らしいのは、そこに何の意味も表出しようとしていないからであろう。
一般に「標題音楽」と呼ばれるものは、音で意味を描き出そうとしているのだ。
そこに「音楽の無意味さ」に対する作曲家のコンプレックスが見てとれる。
逆に文学者は、往々にして「音楽」について何かひとこと言わないと気がすまないようだ(笑)
音楽の完全な無意味性、しかしそれでいて譬えようもなく深い価値を音楽がもつことにコンプレックスを刺激されるのであろう。
音楽は本来無意味な芸術である。
これは音楽に対する悪口ではない。
無意味だけれども大きな価値をもつのが優れた音楽作品なのである。
以前にも書いたが、日本人は音楽にではなく、「歌詞」に感動する場合が多いように思う。
いわゆる「演歌」など、とくにそうであろう。
・・・あぁ、若者の間で流行っている「ラップ」とかいう意味過剰音楽もあったっけ・・・。
とにかく、断言するが、音楽の真髄は「意味」ではない。
そのことを多くの方々に分かっていただきたいと思う今日この頃です(合掌)
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