朝から強風が吹いていた。
風が収まったと思ったら薄日が差したり、
小雨が降ったりする。
きょう、チャリダーは休息すべき日だろう。
宿にこもっていても仕方ないから
折りたたみ傘を持って外出する。
ここ鶴岡駅前から南へ2キロくらいに
庄内藩の藩庁「鶴ヶ岡城」があるはずだ。
市内の道路は江戸時代からさほど変わっていない雰囲気がある。
とりあえず歩いていたら、登城するはず。
古い時代の生活用水路が見られる。
江戸時代、当時最先端の町割りによく見られる。
間違いなくこの道はお城に続くはず。
興味深い建物。
廃墟感、はんぱない。
やはり出た。
河川だけど外堀に違いない。
お城方面へ、
もう迷いようもない。
立派な門構えだ。
お屋敷跡だろう。
明治の建築だという。
鶴岡市には空襲がなかったそうだ。
古い雰囲気のものがよく残っていて素敵だ。
城址には、大手門も櫓も、何も残ってはいない。
武藤氏、最上義光を経て、幕末まで三河以来の徳川の重臣、酒井氏が治めた。
西日本では城郭といえば石垣だけど、
東日本では土塁が多用されている。
本丸の櫓跡。
ここも土塁だ。
もともと、天守閣はなかったそうだ。
幕府中枢の酒井氏の居城にしてはお世辞にも厚い防御とはいえないが、酒井氏の庄内藩。
実は凄い。
「酒井氏、半端ないって!」
戊辰戦争、東北での戦いで、
唯一、最後まで負けなかった。
各方面の戦いに連戦連勝のまま最終的に武装解除に応じたのだ。
酒井氏は、北前船の主要貿易港の酒田(隣町)の豪商「本間家」から莫大な資金援助を受けて、最新の武器を、当時「日米修好通商条約」によって国際貿易港として整備されつつあった新潟港から大量に輸入、陸揚げした。
船舶、国際貿易、資金。
身分に関係ない志願兵制と、近代戦術。
国をあげた総力戦が可能になったという。
まるで近代戦争の先駆けのような未来的な藩だったのだ。
このお城は、戦国時代のような
「城を枕に討死」的な発想ではなく、
平時は政庁、戦時は司令部、
といった性格ではなかったかと想像した。
まるで20世紀の発想だと思った。
いや、話が逸れた。
本題に戻ろう。
僕は城を見に来たわけではなく、
ここに来たかったのだ。
藤沢周平記念館
中は撮影禁止。
いや、多くは語るまい。
僕は文学もサブカルチャーと同じだと思っている。
興味のない人にとってはオタクっぽいだけだし、何が面白いのかわからないだろう。
いやあ、来てよかった。
今日が雨で、ほんとに良かった。
と、サブカル的に悦ぶのである。
見応え充分の資料館に大満足して、まるで充実した読書のあとのような気分で、お城をあとにする。
土塁と、お堀。
この辺りが唯一、当時の面影を色濃く残すという。
この堀は、撮影場所を境に埋められているのであるが、
ちょっと「ブラタモリ」的に、痕跡を探して歩いてみた。
なにしろ、きょうは暇なのだ。
堀跡は道路になっていて、
官庁街に続いていた。
そしたら、
あるではないか!
道路は堀の延長上にある。
左手の土手は城の土塁に相違あるまい。
先程の土塁の延長線上にピッタリとあてはまる。
ここは角になっていて、さらにわかりやすい。
たぶんかつては櫓があっただろう。
特に説明板は見当たらなかったが、まず間違いないだろう。
もういいだろうと、城をあとにして歩き出す。
そろそろ城域の外だろうと思ったあたりで、
まだあった!
堀の痕跡と、わずかに残る土塁。
50〜70mくらい続いている。
角地は公園になっており、その名も
「とぼり公園」
外堀やな!
見張り台みたいな遊具が立っているところは土台がしっかりしている。
かつて何かあったのかもしれない。
こうしてブラタモリ的、城下町ウオークは、大満足のうちに終了したのである。
なんでもフェーン現象とやらで、季節外れに暑い。汗だくだ。
山には変な雲がかかっている。
夕方には雨が本降りになった。
夕食に買った、半額のお寿司と、
350円の毛ガニ。
北海道民、東北でカニ食う。
本日の走行距離ならぬ、歩行距離、
6.5km。
風が収まったと思ったら薄日が差したり、
小雨が降ったりする。
きょう、チャリダーは休息すべき日だろう。
宿にこもっていても仕方ないから
折りたたみ傘を持って外出する。
ここ鶴岡駅前から南へ2キロくらいに
庄内藩の藩庁「鶴ヶ岡城」があるはずだ。
市内の道路は江戸時代からさほど変わっていない雰囲気がある。
とりあえず歩いていたら、登城するはず。
古い時代の生活用水路が見られる。
江戸時代、当時最先端の町割りによく見られる。
間違いなくこの道はお城に続くはず。
興味深い建物。
廃墟感、はんぱない。
やはり出た。
河川だけど外堀に違いない。
お城方面へ、
もう迷いようもない。
立派な門構えだ。
お屋敷跡だろう。
明治の建築だという。
鶴岡市には空襲がなかったそうだ。
古い雰囲気のものがよく残っていて素敵だ。
城址には、大手門も櫓も、何も残ってはいない。
武藤氏、最上義光を経て、幕末まで三河以来の徳川の重臣、酒井氏が治めた。
西日本では城郭といえば石垣だけど、
東日本では土塁が多用されている。
本丸の櫓跡。
ここも土塁だ。
もともと、天守閣はなかったそうだ。
幕府中枢の酒井氏の居城にしてはお世辞にも厚い防御とはいえないが、酒井氏の庄内藩。
実は凄い。
「酒井氏、半端ないって!」
戊辰戦争、東北での戦いで、
唯一、最後まで負けなかった。
各方面の戦いに連戦連勝のまま最終的に武装解除に応じたのだ。
酒井氏は、北前船の主要貿易港の酒田(隣町)の豪商「本間家」から莫大な資金援助を受けて、最新の武器を、当時「日米修好通商条約」によって国際貿易港として整備されつつあった新潟港から大量に輸入、陸揚げした。
船舶、国際貿易、資金。
身分に関係ない志願兵制と、近代戦術。
国をあげた総力戦が可能になったという。
まるで近代戦争の先駆けのような未来的な藩だったのだ。
このお城は、戦国時代のような
「城を枕に討死」的な発想ではなく、
平時は政庁、戦時は司令部、
といった性格ではなかったかと想像した。
まるで20世紀の発想だと思った。
いや、話が逸れた。
本題に戻ろう。
僕は城を見に来たわけではなく、
ここに来たかったのだ。
藤沢周平記念館
中は撮影禁止。
いや、多くは語るまい。
僕は文学もサブカルチャーと同じだと思っている。
興味のない人にとってはオタクっぽいだけだし、何が面白いのかわからないだろう。
いやあ、来てよかった。
今日が雨で、ほんとに良かった。
と、サブカル的に悦ぶのである。
見応え充分の資料館に大満足して、まるで充実した読書のあとのような気分で、お城をあとにする。
土塁と、お堀。
この辺りが唯一、当時の面影を色濃く残すという。
この堀は、撮影場所を境に埋められているのであるが、
ちょっと「ブラタモリ」的に、痕跡を探して歩いてみた。
なにしろ、きょうは暇なのだ。
堀跡は道路になっていて、
官庁街に続いていた。
そしたら、
あるではないか!
道路は堀の延長上にある。
左手の土手は城の土塁に相違あるまい。
先程の土塁の延長線上にピッタリとあてはまる。
ここは角になっていて、さらにわかりやすい。
たぶんかつては櫓があっただろう。
特に説明板は見当たらなかったが、まず間違いないだろう。
もういいだろうと、城をあとにして歩き出す。
そろそろ城域の外だろうと思ったあたりで、
まだあった!
堀の痕跡と、わずかに残る土塁。
50〜70mくらい続いている。
角地は公園になっており、その名も
「とぼり公園」
外堀やな!
見張り台みたいな遊具が立っているところは土台がしっかりしている。
かつて何かあったのかもしれない。
こうしてブラタモリ的、城下町ウオークは、大満足のうちに終了したのである。
なんでもフェーン現象とやらで、季節外れに暑い。汗だくだ。
山には変な雲がかかっている。
夕方には雨が本降りになった。
夕食に買った、半額のお寿司と、
350円の毛ガニ。
北海道民、東北でカニ食う。
本日の走行距離ならぬ、歩行距離、
6.5km。