水戸徳川初代・徳川頼房(よりふさ)の若いころの逸話です。子供時代の光圀と似た逸話があるのは、やはり親子ということなのでしょう。こういう逸話は伝えられる文書によって微妙に違うことが多いようですが、以下はその一つだと思って見てください。写真は二の丸跡にある頼房像ですが、今、大手門復元工事のために撤去されているようです。(「みとぶら」さんから柵町坂下門レプリカの所に頼房像が移転したということを教えていただきました。)
家康が、天守閣で子供たちに「ここから飛びおりられるか」と聞いたところ、頼房は「飛びおりるが、欲しいものを下さい」と答えたそうです。家康が「お前は死ぬのだぞ」というと、「たとえ死んでも天下を取ったという名は後世まで残ります」と頼房は答えたそうです。
若い頃、家康が側近を集めて望みを聞くと、頼房は「人を多くほしい」とこたえたそうです。なぜかと問われると、「天下を知るため」と答えたそうです。
若い頃は全く手におえなくて、異様な姿をしたり、長い刀をおびたりしたそうです。こうした話が2代将軍秀忠の耳に入り、付家老(つけがろう)中山備前守(びぜんのかみ)信吉(のぶよし)が必死に諫言した結果、行動は改まったそうです。
家康は、頼房の力に屈しない強い性格を見て、「腰刀と心得て大切にして、鞘(さや)から抜くことのないように」と伝えたそうです。それで、頼房は3代将軍家光から敬重されたり、将軍を補佐したという説と、その強い性格が嫌われて御三家の中で一番下に置かれたという見方があるようです。
武のイメージの強い頼房ですが、学問も好きだったそうで、家康は、御三家のうち尾張と紀伊には武具類を与え、水戸の頼房には書物を与えたとも伝えられているそうです。大日本史編纂や水戸学の源流はここにあるのかもしれません。