徳川斉昭には、花鳥風月を詠むのではない、「武」や時勢を意識した歌が多いようです。自分の主張をそのまま歌にしたということなのでしょう。以下は、いずれも、嘉永6年(1853)のペリー来航以前の歌です。こうした早い時期からの危機感表出が、斉昭人気の源泉だったのでしょうか。
今日もまた さくらかざせて 武士(もののふ)の ちるとも名をば 残さゞらめや
「さくらかざせて」は、有名な古今和歌集、山部赤人の、「ももしきの 大宮人は いとまあれや 桜かざして 今日も暮らしつ(奈良時代の宮中に仕える人たちは平和でゆとりがあったのだろうか、桜をかざして暮らしている)」が念頭にあったような気がしますが、それを完全に価値転換させて、武士は命を散らせて名を残すものだとしているようです。武士(戦い)と桜を詠んだ流れにある歌の一つなのでしょう。
浮雲の かかればかかれ 後の世の 鏡と照らす 山の端(は)の月
さえぎろうとする勢力(月をおおう浮雲)はあるが、月の光は自分の考えや行動を後の世まで照らすだろう、といった感じなのでしょう。「公(斉昭)嘗(かつ)て歌あり 吾れ今記す、浮雲名月 尚(なお)依然たりと」と高杉晋作が斉昭を偲んだ「烈公を懐う」という漢詩に詠み込んだ歌だそうです。
敵(かたき)あらは(ば) 鋩(きっさき)みせん 花の陰 弥生(やよい)なかは(半ば)の 眠りさましに
天保11年(1840)3月21日に千束原で行った追鳥狩(おいとりがり)で詠んだ歌だそうです。平和になれた水戸の武士に、追鳥狩という名前の軍事演習をすることで、時代の危機感を感じさせようとしたようです。敵がいたら武器を見せてやろうではないか、平和になれた花が咲く3月なかばに、といった感じでしょう。
浦安の 国守(くにまもる)ものは 軍艦(いくさぶね) 飛火(とびひ)の筒(大砲)の 外(ほか)なかりけり
弘化3年(1846)に伊達宗城(むねなり)に送った手紙に書かれた歌だそうです。浦安は、平安といった意味で、軍艦はたぶんいくさぶねと読むのでしょう。斉昭が74門の大砲を幕府に贈ったのは嘉永6年(1853)、完成したものの横倒しになった洋式帆船・旭日丸を建造したのは安政2年(1855)だそうです。
まことなき えみし(異国人)の船を うら安の はやきおきてに うちかへさなん
異国の船を昔からの攘夷の方針通りに退散させようといった感じなのでしょう。「嘉永二酉(とり)とし(1849)四月九日浦賀港へイキリス船渡来の事あり このころ浦賀下田大嶋あたりへ こと国(異国)の船と(ど)もかすかみえたるよし聞えければ」という前書きがあるそうです。