西野了ブログ テキトーでいいんじゃない?

日々浮かんでくる言葉をエッセイにして・・・・・・。小説は「小説を読もう 西野了」で掲載中です。

宮沢賢治の不思議な文体 7.4.16

2007-04-16 22:25:25 | Weblog
 活字中毒者にとって、好きな作家というものは、その文体によるのではないか。
 僕の場合、疲れたときに読む作家は村上春樹である。とくに心が疲れたときは、「ダンス・ダンス・ダンス」や「羊をめぐる冒険」を読む。村上春樹の文章は、とくに「ダンス・・」や「羊を・・」あたりの文章は体にフィットする。物語がすーと入ってくる。
 反対に元気なときは、ドストエフスキーの長編を読む。この怪物的なエネルギーをもった作家の作品を読むには、こちらも相当なエネルギーが必要なのだ。しかし、ドストエフスキーの長編小説における後半の、とりわけ残り三分の一くらいからの文章力、物語の悪魔的吸引力は凄い。「白痴」を読み終わった後、2週間くらい晩酌しなくてすみました。頭が酔っ払っちゃたわけですね。禁酒するなら、ドストエフスキーを読め!です。
 さて、宮沢賢治です。宮沢賢治の文体は一種独特で、作品の内容も、児童文学の範疇をはるかに越えて普遍性を獲得している。ところが賢治の文章は、ダイレクトに僕の中に入ってこない。読みにくいわけではない。ワンクッション置いて、入ってくるのである。この感覚は僕だけでなく、宮沢賢治ファンの多くの人が感じているのではないだろうか?物語の内容もユーモアにあふれて、子どもに読み聞かせすると、子どもが笑う箇所がいくつかある。しかし、である。大人の僕が読むと、ふーむと考えてしまうことが多い。物語の内容は面白いのだが、何かひっかかるのだ。何がひっかかるか、よく分からないのだが、気になる感覚が残ってしまう。これは読後の消化不良ではなく、言葉に表したいのだが、表せないもどかしさと言ったほうが正確かもしれない。それは、おそらく光あるものであり、僕がちゃんと生きようと思う限り、宮沢賢治の魂が僕に訴えているのだと思う。だから、宮沢賢治は気になる作家であり、ときどき手にとって、30ページくらいの童話を読み、しばらく考えて、すこしいい気持ちになるのだ。

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