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川柳・ボートっていいね!北海道散歩

川柳・政治・時事・エッセイ

ミトコンドリア・・・人類起源説(アフリカとは言い切れず)

2008年09月04日 | 川柳

     函館クリスマスファンタジー!!!

          年末の HAKODATE いかがですか。。。

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        http://www1.ocn.ne.jp/~job/movie.html

函館明治館正面 函館明治館噴水
(2002/9/12)
人類のルーツは、一人の女性

女系の先祖を辿るとします。母親・・・祖母・・・曾祖母・・・
すると、60億人の全人類(ホモ・サピエンス)のルーツは、たった一人の女性に収斂します。

彼女の名は、イヴ

今から、約15万年前のアフリカの洞窟。

イヴは、産声をあげます。母にとっては、初めての可愛い娘でした。彼女の誕生日は、不明ですが、判明したら、人類共通の祝日にするべきですね。

どうして、そんなことが分かるのか?

ミトコンドリアは、細胞の中にある呼吸に関係した器官で、核とは別に遺伝子をもっています。

ミトコンドリアのDNAは、母親の物のみを受け継ぎ、父親からは、影響を受けません。しかし、長期間経過すると、DNAは、突然変異で変化します。

ミトコンドリアのDNAの中で、Dループといわれる約500個の塩基配列は、遺伝には、影響しない無意味な部分です。つまり、突然変異しても、自然淘汰に影響することないでしょう。

世界中の人間の、この500個の塩基配列を調べます。そして、突然変異が起こる確率を調べて、計算します。 15万年前に、DNAは共通(イヴのもの)だったという結論になるそうです。

人類は、共通の女性をルーツに持つ、35種類(クラスター)に分類できるそうです。この内の13種類は、アフリカ人のものです。

世界人口の13%しかいない、アフリカ人が37%もクラスターが存在するのは、人類が長い間、アフリカに留まった証拠です。アフリカは、「人類のふるさと」なのです。

さて、ここで、もう一人の女性を登場させましょう。

彼女は、10万年前に生まれました。故郷は、紅海に近い場所、例えばエチオピアあたりでしょう。

彼女の名前は、ナナ

彼女は、8クラスターのアフリカ人以外の27クラスターの人類のルーツです。
イギリス人も、ロシア人の、日本人も、アメリカインデアンも、ポリネシア人もすべて彼女の腹から生まれた一族の子孫なのです。

◆◆食糧不足が、彼女の一族をアフリカの地を離れる決心をさせます。◆◆
◆◆ まさに約10万年前の出アフリカ紀。◆◆

◆◆ シナイ半島を通り、一族が向ったのは、中東でした。◆◆

 

◎川柳っていいね!北海道散歩は、アイヌ資料をリンクしております。

アイヌはどこから来たの?そのアイヌ民族は以前、どこに住んでいたの?そのルーツは?と辿って行くと現時点ではアフリカ起源説・クロマニヨン起源説、今後のDNAミトコンドリア産業の発展から人類の起源は流動的なものになりそうです。

 

それにしても人類のルーツは一人の母から・・・という考えは面白い!!

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アイヌ人は・・縄文人

2008年09月03日 | 川柳
埴原和郎(朝日選書517「日本人の起源」、P210)

「これは今の私(埴原)の仮説なのだが、アイヌは、現代日本人の中では、縄文人の伝統を最も濃厚に受け継いだ人たちなのであろうということだ。」と云ってます。主として古人骨の種々の計測の多変数分析が根拠のようですが、生活環境による違いも手伝っていないのかと、些か疑問は残ります。


科学朝日編「モンゴロイドの道」

百々幸雄の頭骨の小変異に着目した研究 或る変異が「あるか、ないか」で判別出来る点で客観性が高いように窺えます。その研究の結果として「縄文人は、現代日本人とではなく、アイヌと非常に近い関係にあることがわかった。」と述べています。P176


科学朝日編「モンゴロイドの道」
宝来聰のミトコンドリアの研究成果(P140-)

「日本人の先住民である縄文人と近世アイヌの一部が、現代日本人と東南アジア人の一部と系統的に近い関係にあることを示している」「縄文人や近世アイヌが系統樹の上で早くに分岐した現代日本人とは、系統的にはかなり異なることを示している」「縄文人と近世アイヌに代表される日本の先住民は、現代日本人グループIIに相当することになる」(P148)と述べています。


科学朝日編「モンゴロイドの道」

更にATLウイルスの研究では、「極端に表現してみると、現在の日本人は二つに分類できる。それは第一はATLウイルス・キャリア群であり、第二はノンキャリア群である。前者は先住民であり、おそらく古モンゴロイドであろう。後者はあとで大陸から渡来した新モンゴロイドが主で、これが大和に本拠をおいた大和人(和人)である。これが北へ南へ進んで勢力を拡大し、最終的には現在、日本人の主流を形成するようになったのであろう。ここでいうキャリア群は縄文人を指し、ウイルスを持っていないノンキャリア群は主として弥生時代以降に渡来した人々を指している。」(同書P204)


これらの研究結果は「日本人には人種的に2種類観察され、ひとつは縄文人やアイヌ人に共通するグループ、もう一つが弥生人系のグループ」ということと理解されます。

勿論、これらの研究成果とは違う結論を出してる研究もありましょう
上記は、私にとっては、アイヌ語に縄文語の残照を求めて逍遥するには充分過ぎるほどの理由、背景、根拠です。


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君は縄文系?弥生系?

2008年09月02日 | 川柳

君は縄文系? 弥生系?

 みなさん、まず隣の人の目をよく見てください。今日の学習会はここからやる以外ないのですよ(笑)。「私たちはどこから来たのか」ですが、鼻の両脇の蒙古襞を見てほしいのです。上瞼の一番鼻に寄ってる側が、下瞼に対して被さっている人はいませんか。これが蒙古襞で、渡来系弥生人の顔の特徴だと言われています。

 僕らはあまり気にしていないけれど、西洋人が東洋人を見るとき、この蒙古襞がすごく気になるらしい。蒙古襞はモンゴロイドのなかでも、新モンゴロイドと呼ばれる人たちの特徴です。「蒙古襞の出現頻度」という表を見て下さい。これで見ると、縄文系が強いと言われてるアイヌの人では、男性で5人に1人ぐらいしか出ない。畿内つまり近畿地方では、男性は2人に1人ぐらい蒙古襞がある。朝鮮南部では62.6%の率で蒙古襞が出現します。

 今から2300~1700年前の弥生時代、この蒙古襞のある人々(渡来系弥生人)が対馬海峡を越えて日本列島に渡ってきたということです。彼らの多くは北九州から瀬戸内海沿岸、そして畿内に住み着いた。表には京都の女性の65.2%には蒙古襞があるとでています。つまり畿内の奈良や京都は渡来人の都だということです。

 それに対して、目頭から目尻までくっきりと二重になっている二重瞼は、縄文系の特徴です。弥生人の渡来以前から日本列島に住んでいた縄文人には二重瞼が多く、蒙古襞は余り見られないのです。縄文系とされるアイヌの人の96.8%が二重瞼なのに対して、朝鮮南部では二重瞼は42.1%しかいない。沖縄の人も縄文系だと言われてきたが、今はちょっと違うんじゃないかといわれています。

 その他にも縄文系と弥生系では異なった特徴があります。まず耳です。耳たぶがツルンとくっ付いてるのは弥生系。分離型の耳たぶ=福耳は縄文系です。それからエラが張ってるのは縄文系で、細顎で歯がでかいのは弥生系です。青森の三内丸山遺跡は縄文の里ですが、縄文の遺跡から出土する人骨と、佐賀の吉野ヶ里など弥生の遺跡から出土する人骨ではサイズが違うのです。弥生人のほうが平均で6センチぐらい大きい。それらから縄文系か弥生系か、顔を見ただけでだいたい分かるというのが、考古学では言われていることです。

 縄文時代・弥生時代とか言うけれど、縄文人と弥生人は人種が違うのです。東大名誉教授の埴原和郎さんなどの提唱する「日本人二重起源説」ですね。弥生時代から大和朝廷の時代までに、ざっと100万人ぐらいの人々が朝鮮半島ないし中国から、海を渡って日本列島にやってきたと考えられるのです。この渡来系弥生人と、元々の縄文人の混血の末裔が現代日本人となった。全く純粋な弥生人もいなければ、全く純粋の縄文人もいない。みんな混血しているから、今の日本人は縄文系の特徴と弥生系の特徴を両方持っているということです。

 何でこれが問題となるのか。かつて戦前の日本では、「皇祖皇宗」(天照大神や神武天皇など神話から続く万世一系の天皇の系統)とか、「日本民族の単一性」とかが強調された。今でも「新しい歴史教科書をつくる会」などの一部の右翼勢力は、『古事記』を歴史のようにあつかうなどしています。でもそんなのは、現在の考古学や人類学の研究成果に照らし合わせれば全くの誤りです。単一民族云々などというのは、それこそ「神話」でしかない。

 外国人にとって、日本人ほど顔の違う民族は珍しいのだそうです。ジャパニーズは、チャイニーズやコリアンと区別がつかない。ヨーロッパだと、イタリア人はイタリア人、フランス人はフランス人と一目で区別がつくらしい。どうして日本人が分かりづらいのか。混血が進んで「これが日本人」という顔の特徴がないからです。蒙古襞とか二重瞼とか混ざっているのです。つまりわれわれはみんな混血、ブレンド人種なのです

 

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ミトコンドリアとは何か・・・。

2008年09月02日 | 川柳

ミトコンドリアとは何か・・・・・・

               


 ミトコンドリアはほとんどすべての生物(動植物や菌類など)の細胞に広く含まれている細胞内構造物の一つです。 高校の生物の教科書などで細胞の構造図を見た覚えがあれば、その中でたいていは丸いカプセルのような形で描かれていたでしょう。 このミトコンドリアは一つの細胞に(細胞の種類によって違いますが)数十から数万という大変な数が含まれています。

  これらのミトコンドリアは細胞の中で呼吸をしてエネルギーを生産しているのです。 我々が肺から吸い込んだ酸素は、血液によって体内の細胞に運ばれ取り込まれ、ミトコンドリアによって糖や脂肪を燃やす燃料として使われていることになります。 燃やすといっても生化学的に糖などを分解していく過程でエネルギーが発生するわけで、我々はそのエネルギーを利用して体温を保ち運動をして生きていることになります。

 ところで我々の体を構成する細胞一つ一つには、ごく特殊なものを除いてがあり、その中には遺伝情報がぎっしりと詰まった遺伝子(染色体)が含まれています。 ヒトの場合には23対46本の染色体があり、父親と母親から23本ずつうけついだ遺伝情報が記録されているわけです。
 1968年にミトコンドリアの構造の中に細胞の核が持っている遺伝子とは別の遺伝子が発見されました。 これをミトコンドリアDNAと呼びます。 DNAのことは別に調べていただくとして、動物のミトコンドリアDNAは丸い輪になった形をし端末がありません。 動物の場合大体17000前後の梯子段がつながったまま折り畳まれ、ミトコンドリアが自分自身を複製して増えるための遺伝情報の一部が乗っています。

 その後の研究によると、ヒトを含め大部分の動物でミトコンドリアDNA母系遺伝をすることが確認されました。 ヒトの精子も細胞ですから20程度のミトコンドリアが存在しています。 しかし卵子と融合した後でなぜか精子由来のミトコンドリアは消滅してしまい、元々卵子にあったミトコンドリアだけが生き残るのです。  
 従って我々の体内にあるすべてのミトコンドリアは、体細胞のDNAと違い、すべて母親から受け継いだものなのです。  

  もう一つ大切なことがあります。 DNAというのは4種類の塩基が延々と繋がったものですが、様々な要件で塩基の並び方が変わったり、ある塩基が別の塩基に置き換わったりします。 DNAの繋がりに変化が起こると病気になったり、場合によっては致死的な条件になることもありますが、一方生物の進化や環境への適応など重大な役割を果たしています。 さらに、長い配列の中にはその生物が生存していく上で必要がなくなっている部分が大量に見つかっています。 その部分は配列に変化が起きても生存のためには何ら支障が出ません。 DNAの塩基配列が長い期間を通じてみれば、おおむね一定の割合で変化していることは、各種の動植物のDNA配列を調べた結果確認されています。
 動物の種類の違いでも、ヒトとヒトの血縁関係でも、スケールは違いますが、共通の祖先が遠いほど違う配列になっている部分が増えるのです。 

 人のミトコンドリアDNAの場合、現在では特定部位の変化の数から、共通祖先を辿ることが出来るようになっています。

 

縄文人とアイヌのミトコンドリアについて調べています。

 

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アイヌ民族博物館(北海道白老)・・・アイヌって?

2008年09月01日 | 川柳

アイヌって?

 アイヌ民族博物館  北原次郎太

歴史

 アイヌは、日本国に暮らす民族の一つで、東北地方の北部から北海道、千島列島(北方四島とその北の島々)、樺太(今のサハリン)といった地域に古くから暮らしてきました。明治時代になって、おおぜいの和人(日本民族)が入植(植民地に入って生活をはじめること)し、隣り合ってくらすようになりました。そこで、先にくらしていたという意味で「先住民族」という言葉を使うこともあります。
 アイヌモシ(アイヌ民族の土地)には、文字を使った記録ができるより前から人が暮らしてきました。約2万年前の石器、1万年前の人の骨が見つかっています。この骨は、現在のアイヌの先祖らしく、この頃までにはアイヌが北海道に来ていたことがわかります。
 世界のどの民族でもそうであるように、アイヌの歴史も周りの民族との関わりのなかで作られてきました。樺太から先にはニヴフ、ウイルタ、そしてウリチ、ナナイや、モンゴル、漢人、満州人といった大陸の民族がいました。千島列島の先にはカムチャッカ半島があり、イテリメンやコリャーク、チュクチが暮らしていたほか、時代が下るとロシア人が入植してきました。もちろん、本州の和人とも長い交流の歴史があります。
 アイヌは、身の周りの環境をよく知り、そこから手に入る魚や海草、動物の肉と皮、ワシの羽根などによって周囲の民族と取引してきました。また、いくつもの民族を介して中国製品を手に入れ、それをまた本州に売るなど「仲介交易」と呼ばれる取り引きもありました。「物々交換」というと単純なイメージがありますが、それは今の「貿易」や「国際交流」と変わるものではありません。北海道産の魚からつくったこやしが、近畿地方の綿花をそだて、木綿製品になってアイヌにもたらされるなど、お互いの生活に大きな変化を生みだすきっかけでもあったのです。
 このページで紹介している物語にも交易がたくさん出てきます。初期の交易は、お互いに自由に行き来ができました。アイヌは船を操って函館や東北地方まで渡り、自由に相手を選んでいました。やがて函館付近の和人が勢力を持ち、松前藩となっていく中で、交易には多くの制約が課されました。東北地方へ渡ることが禁じられ、やがて函館にも行くことが禁じられました。それぞれの地域に和人が出向いて交易を行うようになると、決まった相手としか取り引きできなくなり、多くの不正が行われました。「アイヌ勘定」や「メノコ勘定」という言葉があります(メノコは女性のこと)。「アイヌは数をかぞえることができないので『はじめ、一、二…十、おわり』と数えて交易品を騙し取った」という笑い話で、アイヌをこっけいにあつかった北海道の民間伝承です。明治時代に「アイヌ勘定」をされた女性の思い出話が残っていますが、実際にはウソとわかっていてもにらみをきかせて文句を言わせないのだそうで、とてもくやしかったそうです。
 このような事情から、物語に語られるような幸せな交易の時代もやがて終わりを迎えました。また、中国やロシアと行き来がしやすい地域では、和人よりもそちらの民族と親しくした人もいました。
 明治時代になると、日本政府はそれまで蝦夷地と呼んでいた場所を、新たに「北海道」という名前にして、植民政策(自民族の領地として人を送り込むこと)を始めました。アイヌは日本国民とされましたが、制度の上でも今日まで続くいろいろな不平等があります。
 千島列島と樺太はロシアとの間で奪い合いとなり、何度も国境が変わりました。アイヌは国境によって、また領土内の移住によって暮らす場所を変えられ、仕事も言葉も新しいものに変えなければなりませんでした。先祖伝来の暮らしから異民族の名前と言葉を使い、異民族の神に参り、異民族の間で暮らすこととなりました。この時代を乗り越えるのは、いまの私達には想像もできないほど大変なことだったでしょう。
 そうした新しい暮らしのなかでも、このページで紹介している物語や歌などは伝えられてきました。雑誌やテレビなどを通じて新しい娯楽に親しみながらも、同時にこうしたものを楽しむ人がいました。なかには、アイヌのことばや物語・歌を後世に伝えようと意識して努力する人もいました。

 

   川柳っていいね!北海道散歩はアイヌ資料をリンク発信しています。

                情報の共有と考えています

 

 ■私たち日本人(定義はあいまいですが)の祖先の人々は、厳寒の中で暮らす衣   食住の知恵をどれほど、アイヌの方々から教えられたか判りません。

  日本の、昔話もアイヌの口承文芸をアレンジしたのも少なくはないようです。

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