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川柳・ボートっていいね!北海道散歩

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世界文化遺産候補・・・HAKODATE 大船縄文遺跡群も!

2008年09月29日 | 川柳

       世界文化遺産候補

 

 文化庁は二十六日、新たな世界文化遺産候補として、地方自治体から公募した三十二件のうち「金と銀の島、佐渡」(新潟県)など五件を選んだ。(国連教育科学文化機関)の暫定リスト記載日本の候補は既にリストに記載されている「平泉の文化遺産」(岩手県)など八件を含め計十三件となる。文化庁はこれで自治体公募を打ち切る。

 

ほかの候補四件は三内丸山遺跡を含む「北海道・北東北の縄文遺跡群」、大阪府の「百舌鳥・古市古墳群」、「九州・山口の近代化産業遺産群」、福岡県の「宗像・沖ノ島と関連遺産群」。

 

 

 

<川柳的徒然>

しばし、目と耳を疑った「大阪府の百舌鳥・古市古墳群」の世界文化遺産候補。仁徳天皇稜。

ある意味、日本史の今までのタブー、皇室の祖先が渡来人の系譜であるということを世界に示すことになる(朝鮮半島の系統)

早速、文化庁長官青木保氏の文化庁長官としてのご挨拶や、功績などを閲覧させていただき、納得が出来るような気がします。
文化人類学者であり、日本民族学会の会長でもありました。

 20万もあるといわれている日本中の古墳の中で敷地面積が秦の始皇帝よりクフ王のピラミッドより大きいそうです。

          世界三代古墳のひとつだそうです。

今まで、宮内庁しかその古墳の鍵を開けられなかったため、さまざまな歴史にかかわる研究者にとっては大きなジレンマでもありました。

    候補として世界遺産に登録申請するとどうなるか??

まず、ユネスコの世界遺産を検討する審議会は、「はい!落選!ですよ・・・」とはいえない。

かといって、宮内庁・皇室一族・日本の縄文人(一万年戦争がなかった時代から)と弥生人の先住民族まで歴史の史実は検討されることに当然なることでしょう。

そのとき、「歴史は動いた!」NHK番組ではないけれど・・・いろいろと足りない資料を日本文化庁に打診してくるでしょう・・・。

文化庁は、宮内庁に資料提出の協力を呼びかけて・・・どうなるか?認定されてもされなくても、日本の歴史のタブーの鍵を一歩進めることになります。(それが本当に出来る時代を向かえたのか?)

皇室も、お世継ぎ問題がこれからは少子化で?大変になります。

今の天皇・皇后はある意味では、終戦の鎮魂を日本中に行脚され、日本に住む人々の中では多方面に亘って「弱者と対面し続けた人生」でもあったような気がします。

もし、私が天皇陛下なら、「先祖の古墳を・・・この日本の政治下で後世まで守ってくれるのだろうか???」という不安はありすぎますね。

腑に落ちるような・・・落ちないような・・・感じですが・・・。

天皇のご意向もあったなら・・・すばらしい・・・日本史の開花です。

(他の4つの候補のうちちょっと足踏みした感があるようですが・・・ぜひ・・・東北・北海道の縄文遺跡群と並んで検討されたなら、縄文文化の平和の基層と、権力闘争の象徴との対比が21世紀のこの日本の歴史のお盆の上に乗るのです。歴史的な人類文明・文化の因果を感じます。)

私の住む函館の大船遺跡・森のストーンサークルも日本が一押しの平泉中尊寺が認定されれば、5年以内に「世界遺産の登録」も夢ではありません。一道民としてとても楽しみです。

そして、その東北、北海道縄文ロードすべてに足を運びたくなってしまいました。

やおろずの神も、和の精神もこの縄文時代のベースにあったのですね。

         縄文っていいね!北海道散歩。

 

 

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エドワード・モース

2008年09月29日 | 川柳
 文明開化/外人がもたらした新しい知識
 モースの講演 明治十二年八月十三日、熊谷・石上寺の境内にある熊谷乙中教院で、本県では初めての外人講演会が開かれた。講師はその二年前、古代人の遺跡〝大森の貝塚〟を発見して有名になったアメリカ人、エドワード・S・モース博士。「ダーウィンの進化論」がテーマだった。
 〝進化論〟などといっても、当時の人は何のことやらさっぱりわからない。それでも、大学の先生をしているエライ外人さんが話をするというので、会場は朝からいっぱいだった。かたずをのんで見守るなかで、モース博士は静かに語りはじめた。ひとくぎりついて、若い学生風の通訳の口からでたことばに人々は耳を疑がった。
 「われわれ人間の祖先はサルである」
 これを聞いた講演会の発起人、田島玉造はすっかりハラを立ててしまった。「けしからん。紅毛人(ヨーロッパ人)の祖先はサルだったかも知れないが、われわれ日本人の祖先は違う。あんなやつは日本から追い出せ」とカンカンに怒り、講演なかばで席をけった。もっともこの話には玉造の顔つきが日吉丸そっくりだったというオチまでついているので真偽のほどは確かでない。
 それはともかく、集まった人たちは、モースの〝珍しい講演〟に耳を傾けた。海の向こうの人に初めて接した人たちは、青い目の外人さんの姿に〝文明開化〟の波をひしひしと感じ取った。
 本県へ外人がやってきたのは、これが初めてではない。前々年の十年、オーストリア公使で、考古学研究家のヘンリー・シーボルトが〝吉見の百穴〟と〝黒岩の百穴谷〟の調査にしばしば訪れている。モースが〝大森の貝塚〟を発見したニュースを東京日日新聞(いまの毎日新聞)でみ大里郡吉見村の根岸武香が「オレもいっぱつ」……とハッスル。黒岩の百穴谷の発掘を始めて金環などを発見、これがモースらの耳にはいって彼らの来県となった。

 吉見百穴論争 白い凝灰岩の岩ハダに掘りあけられた無数の穴の正体はそれまで不明。江戸時代の人々は「テングさまが掘った穴だ」「雷神さまがあけたんだ」とそれぞれ勝手に信じていた。根岸武香の発掘で初めて科学的な検討が行なわれるようになったわけだが、武香自身は先住民族の住居と断定した。シーボルトは随員に「アイヌの住居らしい」と語ったと伝えられ、モースは朝鮮人の墓だと考えていた。貝塚は欧米にもあったが、横穴は珍しいケース。先進諸国の学者たちにも正体はつかめなかった。
 吉見の百穴は明治二十年、東大の坪井正五郎らの手で本格的な発掘が行なわれ、二百三十の石室が掘り出された。大論争の末、古墳時代の墓地という結論に達したのは大正にはいってからだった。
 明治政府は欧米の知識や制度を取り入れるため多くの学者や技術者を招いた。彼らは政府の顧問や学校の教師になって、新しい時代への脱皮に尽した。モースも、シーボルトも〝外人顧問団〟の一員。彼らが県内にやってきたことで、チョンマゲを切り落としたばかりの人たちは、数多くの〝新しい知識〟を吸収、しだいに近代人としての身だしなみを整えていった。
 メ モ
モース〕(1838-1925)アメリカの博物学者で日本研究家。研究材料の腕足類が日本に多いと聞いて明治十年来日した。いったん帰国したが、東京大学に招かれて翌年再び来日した。大森の貝塚をはじめ、各地の古墳発掘なども行ない初期の日本の人類学、考古学にも寄与した。著書に「大森貝塚」「日本その日その日」がある。
シーボルト〕明治初期にオーストリア代理公使として来日した。幕末、長崎出島のオランダ商館の医官として来日、医学をはじめ蘭学の発達に寄与した大シーボルトの息子。明治十二年、邦文の「考古説略」という考古学の概説書を著わし、考古学という語を初めて使っている。

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