福光Cafe

目覚めの珈琲、癒しの珈琲、希望の珈琲など淹れたての香りをのせてお届けします。

月刊 寺島実郎の世界<日本とハンガリー 歴史的因果>

2009年09月26日 | コーヒータイム

ハンガりーは抑圧と忍耐の歴史を綴ってきた。

チンギスハーン、オスマン帝国、第一次世界大戦・・・

ナチスの弾圧から逃れるため、ユダヤ科学者はアメリカへ亡命。

彼らはナチスドイツへの意識から、原爆開発の推進に携わる。

ドイツよりも先に開発を急ぐ必要を、時の大統領、アインシュタインへ提言。

やがて世界で初めて原爆開発に成功する。

それは原子爆弾として、広島・長崎へ。

歴史をひも解いていくと、関係性が薄いと思われている国も、歴史上重要な

因果関係がある。

日本が世界唯一の被爆国として、核兵器廃絶を訴えていく事が、いかに世界に

対して平和の大切さをもたらすかを証明する歴史でもある。

 

トリニティ実験
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%8B%E3%83%86%E3%82%A3%E5%AE%9F%E9%A8%93


マンハッタン計画
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%B3%E8%A8%88%E7%94%BB

 


時は流れて

2009年09月22日 | 音楽

ドイツの詩人・劇作家シラー。

シラーは、「人間の自由と尊厳」を謳いあげた詩や戯曲を残した。

『歓喜に寄す』の詩は、ベートーベンの荘厳な第九交響曲に結実する。

彼は詩に綴っている。

「時の歩み方には、三つある。

未来はためらいながら近づき、現在は矢のように速く飛び去り、

過去は永遠に静かに立っている」

何度思索しても深い言葉だ。


中島みゆき by 時は流れて


中島みゆき関連

http://critic6.blog63.fc2.com/blog-entry-147.html

 

 


核廃絶の世界へ―

2009年09月21日 | レボリューション

広島原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑)

「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから」

慰霊碑が建立されたのは、原爆投下から7年後の1952年8月6日のことであった。

碑文の作者は、広島大学教授の雑賀忠義である。

その3ヶ月後の11月、長身のインド人が慰霊碑の前に立ち献花し黙とうを捧げた。

あの東京裁判で判事を務め、ただ一人、日本のA級戦犯全員の無罪を主張した、

インドの国際法学者ラダビノッド・パールである。

パール博士は碑文を見ると、通訳に何と書かれたいるのか何度も意味を確認した。

彼の目は、怒りに燃えていった。

「この“過ちは繰り返さぬ”という過ちは誰の行為をさしているのか。むろん日本人を

さしていることは明らかだ。それがどんな過ちであるのか、わたしは疑う」

彼は、敗戦国が戦勝国に屈して、加害者の責任をあいまいにしてしまうことが、許せ

なかったのである。パール博士は、原爆死没者慰霊碑に刻まれた文章の主語は、

日本人であると考えた。

しかし、原爆を落としたのはアメリカであり、日本人は被害者である。

その日本人が“過ちは繰り返しませぬから”ということが、博士には納得できなかっ

たのだ。このパール博士の発言は、ラジオや新聞で取り上げられた。

これに対し、広島市長の浜井信三(当時)は、「あれは原爆の犠牲者に対し広島市

民に限らず、生きている全人類の立場を代表した言葉だ」と述べている。

また、碑文の作者・雑賀忠義は、「広島市民であるとともに世界市民であるわれわれ

が過ちを繰り返さないという霊前に誓う ― これは全人類の過去、現在、未来に通じ

る広島市民の感情であり、良心の叫びである」と、パール博士に抗議文を送ってい

る。碑文をめぐる論争は、1970年にも再燃。

碑文は屈辱的であり、抹消すべきだという運動も起こっていた。

山本伸一は、敗戦国を擁護し、尊重する、パール博士の心を、嬉しく思った。

しかし、伸一は、この碑文は核戦争の過ちを二度と起こさないという、人類の誓いで

あるととらえていた。誰が加害者で、誰が被害者であるかを明らかにすることも必要

であろう。だが、慰霊碑にとどめるべきは、平和への誓いである。

また、被害者であるとの考えのみにとらわれ、加害者を糾弾しているだけでは、憎悪

と報復の連鎖を繰り返すだけである。

世界の恒久平和を創造していくには、被害者・加害者という分断的な発想を転換し、

地球上のすべての人が、同じ人類、世界市民としての責任を自覚することが必要で

ある。伸一は、慰霊碑の言葉はそれを世界に明示するものとして、高く評価していた

いたのだ。その言葉を広島の、日本の、そして世界の人びとの誓いとしていくには、

人類の心の結合が不可欠だ。

それを可能にする生命尊厳の哲理こそが、日蓮仏法なのである。

<新・人間革命より引用>

 

「核兵器 ― 現代世界の脅威」

1982年6月1日。ニューヨーク・マンハッタンにあるルーズベルトホテル。

格子柄の絨毯に敷き詰められた部屋に、三人のアメリカ人学者が入ってきた。

マンハッタン計画の参加者、バーナード・フェルド。

ノーベル賞受賞者、ジョージ・ウォールド。

世界的な行政学者の権威、ジョン・モンゴメリー。

待っていた日本人たちに静かに歩み寄る。長身を折って握手。

一斉にカメラが光る。マンハッタン計画の参加者が、原爆の被害者と対面する ―

メディアの注目が集まっていた。

重い空気。フラッシュの音まで、ずしりと腹に響く。

テーブルのジュースに誰も手を伸ばさない。フェルドが口を開いた。

「あなたたちは、アメリカを恨みますか?」

イエスかノーかを迫る、いかにもドライな米国人らしい問いかけだった。

「はい・・・・・。最初は憎くて、たまらんやった」

とつとつとした口調で婦人が答えた。長崎で被爆した橋本トミヨ。

「ばってん、今は怨んでましぇん」

爆心地から1.2キロ。全身にガラス片が刺さり、重たい梁の下敷きになった小柄な

体をもむように、声をふりしぼった。

「アメリカの人にも、私らが受けた苦しみを、二度と絶対に味あわせたくなかと。

そいだけです!」 耳を疑ったフェルド、ウォールド、モンゴメリー。

さらに橋本は、まるで世界に宣言するように、自分は創価学会の一員であると名乗

った。「池田先生に教わりました。『愚かな指導者の生命にある魔性が、一番悪か』

って!」 モンゴメリーは、池田会長が発表した軍縮提言にも目を通した。

非常に示唆に富んでいる。だが眼前の婦人にも、価値観をひっくり返されるような

衝撃を受けた。原爆を落としたアメリカ。長崎、広島の被爆者。

永遠に交わらない平行線と思っていたが、煉獄の炎をくぐり抜けた東洋の女性から

人類の根本命題を突きつけられた。

<月刊 潮から引用>

 

アメリカのオバマ大統領「プラハ演説」

核廃絶へむけて自分たちが変わるとの宣言であった。

日本は、唯一の被爆国として「核兵器は絶対悪」との平和アピールをすべき。

 

 

 

 

 

 

 

 


月刊 寺島実郎の世界<日本とインドの座標軸>

2009年09月20日 | 政治・経済

<インドと日本~日本を見つめる定点座標~>

寺島>  
私は国際社会を動いていてインドについて思う事があります。我々は「インド人から見た日本というものを自覚しなければいけないな」というくらい私はインド人の目線を意識します。まるで日本を見つめている定点座標のような気がするわけです。既にこの8月で終戦から64年が経ち、戦後生まれの日本人と言っても64歳になっているくらいですから、今や忘却の彼方に日本人が忘れている話なのですが、インド人は全く忘れていないという話がいくつかあります。
 まず、チャンドラ・ボースという人がいたという事です。よほどの事情通でないと若い人は誰の事なのか知らないと思います。彼はベンガルで弁護士の子供として生まれて、ケンブリッジ大学を卒業したエリートでした。チャンドラ・ボースは軍国少年だった時代の世代の人からするとインドの英雄と言いますか、日本軍と一緒になってインパール作戦を戦って、インド独立のためにイギリスに反逆した風雲児というドラマチックな人間です。調べれば調べるほど「風雲児」という言葉はこの本当にこの人のためにあるのだと思うくらいです。
 私はインドに行ってびっくりした事があります。歴史博物館等でガンジーやネルー等のインド独立の英雄という人たちは高く評価されているだろうが、傀儡政権を日本と一緒につくってイギリスと戦ったチャンドラ・ボースという人間は、日本と同じようにインドにおいても忘れ去られていると思っていました。しかし、インドではインド独立の英雄として大変な展示がなされているのです。
チャンドラ・ボースは、最初はガンジーやネルーたちと手を組んでインド独立のために行動していましたが、いわゆるガンジーたちの非暴力主義とは違って、武力闘争をもってしてもインドの独立を達成するのだという事で、インドで逮捕されていたのですがアフガニスタン経由しソ連を経由して抜け出て行ってドイツに渡って、ヒットラーと手を組んでインド独立のためにインド義勇軍のようなものをつくって戦っていたのです。しかし、チャンドラ・ボースはヒットラーの人種差別的な考え方に失望して、日本が開戦した事を聞いて日本軍と一緒に戦おうと思い、ドイツの潜水艦によって送られてマダガスカル沖で日本の潜水艦に乗り換えてアジアに現われたのです。ピーク時はシンガポールでインド独立のための軍を2万人も組織していて日本軍と一緒にインパール作戦の戦いに臨んで行ったという人物という事で歴史に名を残しているのです。しかし、彼は終戦後間近にして日本の旗色が悪いと、今度はソ連に亡命して、ソ連でイギリスからの独立運動をやろうとしましたが、台湾で航空事故によって死んでしまったのです。まさに、終戦の日の頃(8月18日)でした。いま彼の遺骨は東京の杉並区の蓮光寺というお寺に祀られています。そのような物語を知っている日本人はすっかりいなくなってしまいましたが、インド独立のために戦った7千人は、終戦後に捕まってインドに送還されましたが、これらインド人たちの裁判・処遇がインド民衆の反英独立運動を燃え上がらせる契機となりました。チャンドラ・ボースの戦いは決して無駄ではなかったという事がおそらくインド人の人たちのチャンドラ・ボースに対する理解だと思います。
日本人とこれほど縁のある人物なのに日本人でチャンドラ・ボースと一緒に日本は戦ったという事を知っている人がほとんどいなくなってしまったという事がまず1つ目の話です。
 2つ目の話は、これはいまでも盛んに問題になっている事です。日本が戦争に敗れた後、東京裁判がありました。インドを代表する形で東京裁判に判事としてやって来たのがパル判事という人で日本人でも結構知っている人がいます。有名な「パル判決文」を書いてインドに帰ってしまったという話です。いわゆる戦犯として当時、東京裁判によって被告になっていた25人全員を無罪だという判決を下して自分の判決書を書いてインドに帰ってしまったというわけです。彼の「パル判決書」は何も日本に同情したり弁護をする意図で書かれているわけではない事はいま文庫本で出版されているので、若い人でもそれを読んだらおそらく心を揺さぶられると思います。
彼は東京裁判の仕組みそのものがおかしいと主張していたのです。復讐の欲望を満たすために、単に法律的な手続きを踏んだに過ぎないような、みせかけの裁判であって、国際正義とは名ばかりで、こんな儀式化された復讐、つまり、復讐を儀式化したような裁判では被告人に対して間違った判決を下すため、後で結局は後悔をする事になるだろうというような判決文を書いて帰ってしまったのです。私は戦後の混乱とゴタゴタの中で憎しみが復讐の心になって繰り返されるような状況の中でこれだけ冷静な法理を尽くした判決文を書いた人物の事が前から気になっていて、インドから来た判事の存在感が心の中に非常に残っていたわけです。
 彼は1966年、80歳だった時に招待されて日本にやって来て、尾崎記念館で読売新聞主催によって最後の講演をやりました。彼は「世界平和と国際法」というタイトルで話をするはずだったのですが、壇に上がって老齢だった事もあって言葉が出ないで最初から最後まで無言だったのです。そして、合掌を続けていたそうです。聞いていた人たちがみんな一言も発しない彼の講演に感動して涙を流したという記録が残っています。私は自分が講演をやる機会が色々とありますが、最初から最後まで一言も発しないで感動させるという講演をやってみたいと半分冗談ですが思ってしまいました。
その時、パル判事が「日本の青年に」として朝日新聞に書いていた記事で、西洋の分割統治=divide and rule、つまり、分割して自分の影響力を最大化するというやり方に気をつけろというものがありました。どんなイデオロギーのためであっても分裂してはならないという事を日本の青年に訴えて帰って行ったわけです。箱根の湖畔に彼の記念碑が建っています。日本人は東京裁判の事を調べている人なら必ずパル判決書というところにぶつかるけれどもこのようなインド人がいたのかという事にびっくりするような感銘を受けるはずです。
 そして、もう一つ、これが重要なのですが、1951年にサンフランシスコ講和条約が結ばれて日本は国際社会への敗戦後の復帰を果たします。しかし、サンフランシスコ講和条約の時にインドは署名しなかったのです。彼は日本に駐留している全ての米国の軍隊が日本を引き揚げるならば署名してもよいと変な条件を出しました。しかし、翌年にインドは日本との単独講和に応じてくれました。実はインドの単独講和がその後日本がアジアに新しい関係を構築して行く上で大変に重要になり、1955年のバンドン会議において日本はアジアに言わば戦後初めてのコミュニケーションのチャンネルを復活して行くのです。

木村>  
世界の舞台に初めてと言っていいくらいの復活なのですね。

寺島>  
本日、私が話して来たチャンドラ・ボースやパル判事、サンフランシスコ講和条約の時のインドのスタンス等を見ると、要するに、日本という国の国際関係をジーッと見つめて来ているインドの目線が何故気がかりなのかという事が次第に分かって頂けると思います。
 インドはなかなか味わい深く日本を見つめているわけで、何故サンフランシスコ講和条約に署名しなかったのかという事をインドの言葉を心の中で描き出してみると、「あなたたちはついこの間までアジアの解放だとか言って興奮して、インパール作戦だ、チャンドラ・ボースだと言っていたのではないのか? 開戦してわずか5、6年で今度はアメリカとの間に講和条約を結んで行くのは結構だけれどもアメリカ軍の基地を引き受けて、その軍門にくだって根性を失って、アジアの解放だとか自立自尊と言っていた話はどこへ行ってしまったのか?」と言わんばかりのメッセージだと感じます。いわゆるインドの非同盟諸国会議(註.4)を今日においても率いている目線は結構怖いわけです。東西冷戦の真っただ中でも非同盟という事でどこにも帰属しない目線でジーッと日本を見てきていたのです。
 そのような中で、さて、今後日本がどこへ進むのかという事についてもインド人の目線から見ていると思います。核保有しているインドや最近のインドとアメリカとの関係を見ていて、日本人としてインドに対して非常に首をかしげなければならない部分は率直に申し上げてあると思います。しかし、我々は、この番組でも何度も申し上げていますが、「アメリカを通じてしか世界を見ない」という戦後を生きてきました。例えば、インド人の目線から見たら日本という国の戦前から戦後にかけての歴史はどのように見えるのだろうかと考える事は非常に大事な事だと思います。勿論、インドだけの事ではなく、アジアの人たちの目線で見て、日本がどのように映るのだろうかという事を問いかけてみる時に、インドという問題意識が物凄く重要なのです。この事を本日は話題にしておきたいわけです。

木村>  
日本において外交の中でインドが取り上げられる時の一つには勿論、経済的に力をつけているインドとどのように交易=通商を結ぶのかという事と共に、もう一つはとりわけASEANを舞台にして、中国というものをどのようにその力を牽制するのかという発想の時に、どうしてもインドが出て来ます。何と言いますか、ある種の小手先の議論というものが随分多くて、そこが解せないところだと思います。

寺島>  
アジアが結局日本を見捨てずに支えてくれた事があるという事を忘れてはならないのです。それは何故かと言うと、日本の戦後に大きな影響を与えたアメリカの元国務長官のダレスがアメリカの「フォーリン・アフェアーズ」という雑誌にサンフランシスコ講和条約の頃、「インドが見ているぞ」という事を書いているからです。インドはアメリカが日本を対等なパートナーとみなして、友好的な協力関係を構築して行く可能性は低いと見ているために、インドは講和条約の調印の条件として米軍の日本及び琉球列島からの完全撤退を要求したわけです。この要求が認められなかったためにインド政府は調印を拒否しました。我々はこのようなインドの懸念が現実のものとならないようにしなければならないのです。つまり、アメリカがフェアーでなければインドが見ているという事です。インドのこのようなスタンスが日本の占領政策に対して物凄く大きなブレーキにもなっています。我々は歴史の中でアジアから決して孤立していないと言いますか、アジアから孤立して敗れたような戦争だけれども、例えば、インドから見た日本がこのような形によって深い縁を持っているという事を我々は歴史の中で学ばなければならないと思います。これが私が申し上げたい事です。

木村>  
インドと日本、日本を見つめる定点座標、つまり、我々はつい忘れがちですが、我々がインドから見つめられていて、しかも、そこに歴史的な深い思考がなければならないという事が寺島さんのお話しされた事から学びました。


「さよならがいえなくて」水谷 修

2009年09月19日 | 読書

http://asahi.co.jp/sayonara/

http://topics.jp.msn.com/entertainment/tv/article.aspx?articleid=142992

 

僕は、18年間、夜の世界を生き、ずっと夜回りしてきました。
この間、多くの政治家の方々にもお願いした。「薬物・ドラッグ問題は、絶対この国の最大の危機になる。子どもたちを薬物の魔の手から守るために力を貸してほしい」と。
 大半の政治家は 「水谷さん、何を言っているんだ。この国で薬物なんか大きな問題にならない」と言いました。そんな中、僕の話に初めて心を開き、僕を助けてくれたのが、公明議員でした。 「国政の場でお前を助ける。多くの予算を勝ち取り、機関をつくり、薬物の魔の手につかまった子どもたちを更生させるために病院をつくろうじゃないか。お前は一人じゃない。一緒に薬物と戦おう」と。どれほどありがたかったことか。
 街を歩くと70代、80代のお年寄りもアパートを追われ、毛布一枚で公園で寝ている。20代、30代の若い子たちがマンガ喫茶などに行くお金すらなく路頭に迷っている。僕は、 「彼らのことも忘れないでほしい」とお願いしてきました。
 僕は公明議員が大好きです。公明党も大好きだ。なぜか、この十数年、最も弱い人たちの立場に立って、最も弱い人たちを守ってきてくれた。それだけは、僕の信頼は揺るぎません。僕はその恩義に報いるために、きょう応援にきました。
 今、この国は非常に混乱しています。閉塞的だ。経済的にもつらい状況にあります。でも、そんな中で偉い人たちは政争を繰り返している。僕にとって大事なのはどの党派かではない。お年寄りが一人も苦しまず幸せな笑顔で暮らせて、子どもたちが一人も薬物の魔の手につかまらず、皆が笑顔で優しさを分け合って生きられる社会です。僕は公明党が国政の場でやってくれると確信しています。
 <公明新聞より転載>


「主演する女優」という魅力

2009年09月10日 | コーヒータイム

スポーツニッポンの連載記事 ~我が道~ 高橋恵子

15歳で大映映画「高校生ブルース」でデビュー。

18歳の時、映画「朝やけの詩」の故熊井監督から、『これだけは覚えておきなさい。

女優には、さまざまなタイプの人がいるが、あなたは主演する女優だ』

彼女は述懐している。『他の人よりも必死に演技に取り組まないと、仕事が全うでき

ないと、自分に言い聞かせ続けました。自分は演技がうまいなんて思い上がったこと

は一度もありません』

衆院選の結果も突き詰めれば魅力がなかった政党は負ける。

秋になると必ずと言っていいほど思い出す歌がある。

「風立ちぬ」 松田聖子

彼女もまた「主演する女優」であり「主演する歌手」である。

 

朝日新聞 ~うたの旅人~ 松田聖子「風立ちぬ」

http://www.asahi.com/shopping/tabibito/TKY200909030193.html

軽井沢万平ホテルのカフェテラスを吹き抜ける高原の風をイメージ。

松田聖子は、この曲でアイドルから脱皮。

写真:万平ホテルのカフェテラスの窓辺では、美しい枝葉が、微風で揺れていた=長野県軽井沢町

 


’09衆院選総括

2009年09月05日 | 政治・経済

一連の官僚不祥事、税金が官僚のさじ加減で使われる実態、官僚の天下りに

対する国民の怒りが、「官僚主導の政治」から「政治主導の政治」へと主張し続けた

民主党へ、消去法での政権交代を託した。

自公政権の「責任力」「実績」は、国民が求める「安心」にはなり得なかった。

的を得た例ではないかもしれないが、井上陽水の「傘がない」に表現される。

国民は今日の、今の瞬間の雨に対する傘がほしかった。

自民党は傘を買う補助金を役所に預け、「国民の皆さん!手当を用意しましたから

各自申請して補助金を受取り、傘を購入して下さい!そうすれば雨に打たれなくて

済みます!安心して下さい大丈夫ですから!」と言っているようなもの。

方や民主党は、国民の目からやっと見えるような遠い場所で、傘そのものを

沢山用意し「皆さん買って下さい!」と声を張り上げていた。

国民は大変だと思いながらも、その場所へと急いだ。