’70年代の映画「冬の華」に使われた音楽。
実は今日車で山沿いを走って、すばらしい景色に出会った。
道路脇の木々の枝一本一本まで、雪がきれいに付いていて、まるで「雪の華」
そこで思い出したのが、映画「冬の華」
映像と音楽をイメージしながらドライブできました。
TV朝日「交渉人」スペシャル 2月28日(土)21時~
交渉人 宇佐木玲子(米倉涼子)にドラマの中で会える。
インタビューで話していたが、回し蹴りをしたいそうだ。実現したらかっこいいだろうね。
28日が楽しみ。あれ?その日は用事が。録画して後でゆっくり。
右巻 ― 忍び寄るファシズムの魅力
グローバル資本主義とファシズムの危機を読み解く
「歴史は反復する。ただし、過去とまったく同じ形態をとることはない」
「ファシズムは、欧米の良質な知的伝統を継承した運動なのである。しかし、結論を先取りして言うとファシズムの処方箋は好ましくない。動員型政治を基本とするファシズムは、政治領域に内側と外側の線引きをする。そして、この線引きは簡単に排他主義に転化し、そこから戦争に発展する危険性を常にはらむのである」
「ファシズムには様々な形態がある。ファシズムは、国家が国民の能動性を引き出して束ねる運動だ。したがって、束ねられることを選択した人々は国家によって庇護される同胞になる。これに対して、束ねられることを拒否した人々は非国民として処遇される。ファシズムは必然的に非国民を生み出す」
「私の理解では、ファシズムのいちばんの危険性は、束ねる過程で耐エントロピー構造をつくるところにある。日本においても、特定の民族集団や特定地域に住む人々を『毛深い』とか、あるいは『臭い』という無責任な表象操作によって具象化し、ファシズムをつくりだすことは可能である。さらに社会的構造に弱い立場に置かれ、就労の機会を得られない人々に対して、『あいつらは怠け者だ』という表象で、内側と外側に分ける指標が生まれるかもしれない」
左巻 ― 新自由主義の行方
国家と社会が弱体化する新自由主義の論理を読み解く
「なぜ新自由主義がいけないのか?私の理解では、新自由主義が国家と社会がもつ暴力を加速する傾向があるからだ。国家はその本質において、合法的な暴力を独占する機関である。国家は抽象的な存在ではない。国家として思考し、行為する実体は官僚だ。新自由主義が理想とする『小さな政府』とは、国家機能から福祉、教育などの分野を削り取り、治安、外交、国防に国家機能を極力限定していこうという発想だ。『小さな政府』が実現すれば、警察官僚、司法官僚、外務官僚、防衛官僚の影響力が強化される。これらの官僚は、日常的に国家の強制力(暴力)を背負いながら職務を遂行している。したがって、これらの官僚の職業文化は暴力である」
「市場競争の論理で新自由主義を批判することはできない。商品や貨幣は自明のものではなく、近代資本主義の成立とともに人間の生活を支配するようになったということが、市場競争を前提とするいわゆる近代経済学では理解できないのだ。マルクス経済学やカール・ポラニーの経済人類学のような、幅広い教養と歴史認識に裏付けられた経済哲学をもたなくては、現下の日本と世界が陥っている危機を理解することはできない」
「マルクスには二つの魂がある。革命家としてのマルクスの魂についてはとりあえず横に置いておく。二つ目の資本主義社会の内在的論理を明らかにするという観察者としての魂を発展させたのが、日本の傑出したマルクス経済学者、宇野弘蔵である。私は、マルクス ― 宇野の線に沿って新自由主義の行方について考えている」
「新自由主義はアトム(原子)的世界観をとる。ばらばらになった個体(個人・企業)が市場での競争を通じて、最適の配分がなされると考える新自由主義を究極まで推し進めると、『規制緩和』ではなく『無規制』になり、『小さな政府』ではなく『無政府』になる。新自由主義は、国家を認めないアナーキズムと親和的である」
「新自由主義において、人々が個体に分断されてしまうために、民族や国民としての連帯感が希薄になった。日本の場合、旧来の村落共同体が解体された後も終身雇用のもとで、企業(会社)を社会と見立てる『会社主義』が機能していた。しかし、新自由主義の浸透とともに、契約社員、派遣社員などの非正規雇用が拡大し、企業を中心とする労働者の連帯感は薄れてきた」
マディソン郡の恋 / 秋元順子
秋元順子 雨の旅人
秋元順子 - 愛のままで
金スマでも紹介されていたが、この声には鳥肌もの。
ペドロ&カプリシャスの初代ボーカル「前野曜子」以来の感動。
日本でもじっくり大人の歌を聴かせる歌手が出てきた。
こころにも花が咲く、新しい春
http://www2.jfn.co.jp/tera/index.html
上杉 隆
http://diamond.jp/series/uesugi/10066/
http://diamond.jp/series/uesugi/10066/?page=2
http://diamond.jp/series/uesugi/10066/?page=3
柳原滋雄
質問を重ねることで新聞記事(昨日付、日経夕刊)にもなっている民主党副代表の「石井一」は2003年秋、マルチ商法企業を支援するための政治団体「流通ビジネス推進政治連盟」(NPU)の設立にかかわり、その名誉会長に就任した。その後、NPUが母体となって、国会議員でつくる議員連盟も発足。事務局長に前田雄吉が就任、会長に山岡賢次が就いて、精力的に活動していたことで知られる。彼ら民主党議員は、業界や企業から総額4000万円の献金を受け取っていた。前田などは、「いいマルチは擁護しなければならない」などと声高に主張していたが、そのNPUの参加企業で中心的役割をはたしていたキャッツドットコム(港区・守屋祐生子社長)の実態がいろいろと報道されている。
17日付の「紙の爆弾」(インターネット版)によると、先日会長らが逮捕された健康寝具販売会社エル・アンド・ジー(L&G)の関係者が上記キャッツ社と密接な結びつきをもっており、現在、キャッツ社の社員も警察の取り調べを受けているという。もともとマルチ商法の世界は、そのうまみを一度味わうとなかなか足を洗うことができず、会社を移っては同じことを繰り返す傾向が強い。業界内に“かつての仲間”が散在する形となり、困ったときにはそれらの人間関係を頼るというわけだ。
実はキャッツドットコム社長の夫である守屋直幸氏は関連会社のアウレオ(千葉県君津市)代表をつとめており、この夫婦はいずれも、90年に逮捕・摘発されたマルチ企業・ダンディライオンの役員だったことで知られる。守屋直幸氏は当時、藤井姓を名乗っており、代表取締役をつとめていた。
富山新聞(92年6月12日付)などによると、同社は、北陸での健康機器販売で300人以上に被害をあたえていた。富山、福井県の販売担当者が公民館などに20歳前後の若者を集め、「商品を買って会員になれば、月に100万も200万ももうけられる。外車にも乗れるし、海外旅行もできる」などと勧誘し、原価5万円のアルカリイオン精製機器を16万円で売らせていた。悪徳マルチの典型といえる手法で、なかには19歳の少年で16万円の金がなく、サラ金から借金したケースもあったという。
そんな悪質マルチを展開して同社が摘発されたのは、直幸氏が42歳、祐生子氏が38歳のとき。2人はその後結婚し、新たなマルチ商法企業、キャッツドットコムとアウレオを立ち上げ、現在は20~30億円の売上に成長させた。そうした現状を知ってか、かつての仲間であるL&G関係者が守屋氏のもとを頼っているということらしい。それでも裁判沙汰などの「内紛」の絶えない会社のようである。
民主党の前田雄吉などは、こうした夫婦の過去の経歴などまったく知らなかったようで、手放しで「いいマルチ」と持ち上げ、同社の“提灯持ち”をつとめていた。松下政経塾出身者としてはお粗末な限りで、このような思考能力の欠けた人間は二度と政界に復帰すべきではない。
実態は、こうした企業がNPUの中核であり、そのNPUを母体に民主党中心の議員連盟が結成され、多額の献金を受け取っていた。立ち上げたのは上記の「石井一」であり、活動を推進したのは、前田、山岡である。彼らが受け取った献金には、マルチ商法で騙された被害者のなけなしの金が含まれている。被害者を踏みつけにして活動してきた政治家、と批判されても仕方のない現状にある。
*重要だったので全文引用させていただきました
http://kamibaku.com/modules/weblog/
【キャッツドットコムの「内紛」の実例】
http://kanz.jp/hanrei/data/html/200809/20081021092200.html
久々に古民家で一献かたむけました。
超辛口「越乃影虎」を飲みながら、大河ドラマの人物批評など。
歴史を綴った武将もさることながら、話は現代へ。
政治も、経済も、あらゆる営みはすべて人間から始まる。
ならば人間の行いが、その善悪に左右されることは当然の理となる。
現在の、あらゆる行き詰まり感は、人間のモラルの無さから発している。
人間の思想・哲学が、あまりにも希薄で偏重していることに、原因がある。
これらの意見の一致をみた。(酒を飲みながらこんな話をするのは何者か)
やはり「愛」と「義」が最も大切な人間の生き方だと結論した。
去年は、『篤姫』で女性の生き方に主眼がおかれた。
今年は、『天地人』で男性の生き方が試される一年になりそうである。
『若さに贈る』松下幸之助(講談社現代新書)
「商売というものは、ひじょうにむずかしいものだ。きびしいものだ。
いわば真剣勝負と同じだ。だから、大きな心配事にぶつかると、どうしたらこの困難
を克服できるかと、あれこれ思いめぐらして、眠れない夜を幾日も明かす。
それほどの心労を重ねなければならない。心配し抜き、考え抜く。
心労のあまり、とうとう小便に血が混じって赤くなる。
そこまで苦しんで、はじめて、どうしたらよいかわかり、心が安定し、そして新しい
光が見えてくる。道がひらけるのだ。すこしオーバーないい方かもしれないが、
一人前の商人になるまでには、二度や三度は小便が赤くなる経験がいるのだ」
「いのちをかける思いがあるならば、ものに取り組む態度というものがおのずと
真剣になる。したがって、ものの考え方が一新し、創意くふうということも、
つぎつぎに生まれてきます。あなたのいのちの力が、生きて働くからです。
そうすると、そこからわたしたち人間が繁栄していく方法というものが、
無限にわき出てくるといえるのではないでしょうか。
この無限にひそんでいるものを一つ一つ捜し求めていくのが、人間の姿であり、
わたしたちお互いの、人間としての努めであると思います。
もうこれでいい、これで終わりだ、けっしてそう考えてはならない。
それは、人間の務めを怠るずるい人だとわたしは思います」
第34回「SGIの日」記念提言 池田大作
「哲学者ガブリエル・マルセル『抽象化の精神 ― 戦争の要因たるもの』
マルセルいうところの『抽象化の精神』とは、その具体性からかい離した悪しき
独り歩きの謂であります。人間は、例えば戦争に参加するとなると、個々人の
具体的な人格的特性をすべて捨象し、敵を抽象的な概念 ―
ファシスト、コミュニスト、シオニスト、イスラム過激派、等々 ― で括ろうとする」
「一番の問題は、そうした『抽象化の精神』は、ニュートラル(中立的)で没価値的な
境位に止まっていず、『価値貶下的な帰納』(意訳:価値を定めるための決めつけ)
を引き起こす『情念的側面』、怨念を随伴している点にあります。
すなわち、抽象的概念で括ったとたん、それらは無価値なもの、低級なもの、
有害なものとして、駆逐されるべき対象の位置まで貶められてしまう。
人格的存在としての『人間』は不在となる。『抽象化の精神は情念的な本質をもって
いるものであり、逆にいえば、情念が抽象物を捏造する』と述べるマルセルは、
故に自分の哲学上の全仕事は『抽象化の精神に対する休みなき執拗な闘い』と
位置づけている。この指摘は、今なお、光を失っていないと思います」
「マルセルは、その一方でアメリカに代表される産業文明、機械文明の病理にも
容赦しませんでした。『まさしくテクノクラシーこそ、何よりも隣人の抽象化をなして、
ついには隣人を否定するところに成立つ』と。
半世紀たった今日、テクノクラシーの延長線上にある金融工学を駆使した
金融商品で巨額の利益を追い求める一握りの富者が、貨幣という『抽象物』の
化身さながらに、膨大な貧者に目もくれず巨万の富を独占している惨状が、
マルセルの切っ先をのがれることができるでしょうか。『隣人の否定』の上にしか
成り立たないような繁栄など長続きするはずがないし、また、させてはならない。
私は、まだソ連邦が存続していた20年前のこの提言で、普遍的な視座、理念への
アプローチは、『外在的』あるいは『超越的』なものであってはならず、徹して人間に
即した『内在的』なものでなくてはならないとして、『内在的普遍』ということの重要性
を訴え、多くの識者の賛同をいただきました。イデオロギーや貨幣の普遍性とは、
まさに『外在的』『超越的』普遍性であり、『抽象化の精神』の産物なるがゆえに、
具体的存在としての人間や社会を蚕食してやまないのであります。
私の申し上げる『内在的普遍』とは、その対極に位置しており、徹して具体性の
世界に根を下ろし、その内側からのみ探り当てることが可能となるであろう普遍的
な視座、理念のことであります」
「まず身近な具体的なところから始まり、一歩そしてまた一歩と、四囲を『隣人』
たらしめる人間連帯の間断なき構築作業 ― ここに平和の王道があり、
この地道な積み重ねなくして、恒久平和の地平など望みうべくもありません。
そうした感受性、生活感覚の共有こそ、『内在的普遍』ということの内実なのであり
ます。マルセルいうところの『抽象化の精神』に毒されることない具体性の世界の
実相なのであります。そして、そのような精神性、ヒューマニティーの潤しゆくところ、
『抽象化』の病理は駆逐され、『イデオロギー』によって『人間』が、『目的』によって
『手段』が、さらには『未来』によって『現在』が...約していえば『抽象的存在』によって
『具体的世界』が犠牲にされ、生贄にされるような人間不在の転倒は、決して起こら
ないにちがいない。そこに立ち現われてくるのは、『貨幣』のような抽象的かつ
称的な存在が、わが物顔に振る舞う社会ではなく、『生命』や『人間』といった仮想的
ではない真実のリアリティーにスポットが当てられる、ヒューマニティー溢れる時代で
あり世紀であると、私は確信してやみません」
「経営の神様」松下幸之助。
100年に1度の金融・経済危機と言われる昨今。
1929年の世界恐慌時、社員を解雇せず生産日数・時間を減らし、残りの時間を
社員全員で販売に汗を流し、売上を伸ばし、しかも社員増を果たし、その不況を
乗り切ったことが伝えられている。
さらに、国家を憂いて「PHP研究所」「松下政経塾」を設立。
経済と共に、政治の危機も叫ばれている今、氏の理念を行動として示す政治家は?
当然松下政経塾出身の政治家はいま何処に。
また、自分の経営理念から、国の予算のあり方を問うていた。
予算を使い切るのではなく、節約しその余剰金を積立てることによって、何年後には
税金が安くなり、ひいては国民に分配できるという考え。
今で言えば税制改革であり、官僚の無駄使いの改革になる発想である。
「素直な心」「感謝報恩」が、生涯の指針であり処世の基本であった。