第二の人生を満喫!+愛犬ウィル(享年14歳)

還暦で娘・息子は結婚し孫がいます
様々な障害を抱え妻に支えられながら前向きに暮らしてます。

発 症 / 03' July 

2006-10-20 01:00:00 | 職場と正面から向き合って(終)

この記事は、過去に書いたもので、非公開にしていたものです。
投稿日時も、そのままにしています。

過去の非公開記事から、見つめなおす為、公開します。
自分自身が、どれだけ成長しているのか確認したい。という意味もあります。

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「しゃくやくは、毎年おなじ花を咲かせてくれる。季節を知らせ感じる」

 

 

1996年(平8)から2002年(平14)までの7年越しの

「予兆」は、2003年(平15)に医師の診断により発症

していることを知ります。

 

2003年(平15)7月22日夜8時頃のこと


仕事から帰ると妻と2人の子どもたちがいる。 

いつも通りの光景帰って制服から日常着に着替える。 

何も変わってはいない。

応接椅子に座り夕方のニュースを見る。

事件が多いなと感じる。


妻が夕食を持ってくる。  

子どもたちは口喧嘩  

元気だ。


風呂に入り1日の疲れを落とす。 

妻は食器を洗っている。

風呂から上がって椅子に座る。 

妻がビールとコップを持ってきた。

妻から注がれながら今日も一日が終わったと感じる。

瞬間急に動悸がする。 


何だ! 慌てた。息苦しい。息が出来ない。

意識が遠のいていく。憶えていない・・・


救急車が呼ばれ市内のC救急病院に運ばれる。


気がつくと病院のベット 

心配そうに妻が傍らにいた。


妻から心電図、血液検査は異常なし。 

過換気症候群と聞いた。


右腕が鬱血 点滴痕 少し痛む。

病院から出ると太陽は昇りかけていた。

まだ、ふらふらする。 

点滴か?


妻に運転してもらい家へ帰る。

家に帰り朝食、ふらふら感はない。

救急病院以外はいつものように出勤       

心の奥底に不安感を感じていた。 

なんの病気か?

 

同年、7月31日朝3時頃のこと


肩胛骨が痛み眠りから醒めた。

起き上がろうとしたが起き上がれない。

寝返りも出来ない。


声は出せる。

妻に「肩胛骨が痛い」と叫んだ。

妻は起きて「大丈夫」と言った。

私は「病院へ連れていって」と言った。

 

市内のC救急病院へ連れて行って貰った。

X線などの検査では異常なし。

原因が分からないまま、処置は無く帰宅した。


その日の朝一番で

札幌のK心療内科に妻に付き添われ電車で行く。

状況を妻から医師へ話をした。

医師から「パニック症候群」と診断され、肩胛骨に

ブロック注射をし、ソラナックスを飲んで少し寝ました。

寝ているとき、

パニック症候群」って何?と思っていました。

 

午前中には、肩胛骨の痛みが取れて、若干回復し

札幌から帰り、そのまま着替えて出勤した。

午後から、まずまずの調子だ。

夜6時に仕事中、職場において過換気になり職場

の車で市内の救急病院に運ばれた。

市内の救急病院では、心電図をとりホリゾンの点滴

の処置

 


この日から

パニック障害の治療と

職場における病気の説明が始まりました。

とりあえず、職場への説明は妻からして貰いました。

 

 

 

 


予兆 ⑤

2006-10-20 00:50:00 | 職場と正面から向き合って(終)

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いよいよ「予兆」と言えるのも最後になりました。

 

2001年(平13)12月頃に、家で強い動悸に襲われ

市内のC救急病院へ妻に連れて行って貰いました。

このとき過換気症候群と診断されました。

ストレスが原因で起こることがあるとの事でした。

 

行動半径も飛行機や狭いところがダメだったのが、

気がつかないうちに徐々に電車に乗れなくなり映画館

でも動悸や目眩に襲われました。

 

病院巡りも心臓・循環器から始まり、内科、脳外科など

2002年(平14)には、数十カ所に及んでいました。

 

この2年間は、過換気症候群に苦しめられながらも、

何とか勤務をこなしていました。

上司に「過換気症候群でした」と報告しても

「あ!そっ」の返答でしたし部隊の健康診断でも異常

無しでした。

 

 

過換気症候群という聞き慣れない病気を診てくれる

病院が精神科であるとは、調べて知っていました。

精神科は私にとって、敷居が高い場所で行くことは

この時、ありませんでした。

 

 

2003年(平15)には、遂に医師の診断により発症

していることが分かりました。

また

このときから症状は、更に酷くなり救急車のお世話になりました。

 

 

 

 


予兆 ④

2006-10-20 00:40:00 | 職場と正面から向き合って(終)

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静岡勤務を終え、北海道に帰って移動を

含めて3日目に職場に出勤しました。

引っ越しの荷物は、届いていませんでしたが

取りあえず生活を始めました。

 


妻は帰ってきてから、また子らの学校や転入手続き

引っ越しの荷物が届いてから整理整頓と忙しく動き

周り、子らの面倒は二の次でした。

それもこれも、私を職場で勤務させるため妻は一生懸命

に家のことをしていたと思います。

私は妻に任せっきりで職場の勤務に専念出来ました。

 


2000年(平12)は、

職場での勤務もより一層、忙しくなっていました。

 


そんな中、

日増しに動悸が酷くなり目眩までしてくるようになりました。

夜勤勤務についていた、ある朝、酷い動悸がして部下に

「上司に連絡してくれ」と言い上司に連絡して貰い、上司

が見に来てくれましたが、

「精神力!精神力!」と言って帰って行きました。

仕方なく、

我慢をして勤務を行いました。

その場には職場の長もいました。

勤務後、職場の長から顔色が悪いなと言われ、

「精神力で頑張ります!」と私は答えました。

 


この頃の私は、

朝は7時00に出勤し家に戻るのは夜9時、10時

職場で泊まり仕事をしていたことも度々あります。

職場では2~3日、寝なくて仕事をするのが

当たり前と言われ、そうなっていました。

 


職場での仕事を終え、家に帰ってからも動悸や目眩が

頻繁に起こり、

「何か変だ」と強く思うようになりました。

病院に行きたかったのですが、仕事が山積み状態で

したし、「健康管理は自己責任」と職場の考えで、

「病気になったのは自分の健康管理が悪いからだ」と

指導も受けていました。

そんな事もあり、公然と言い出せる状況では、

ありませんでした。

 


確かに

職場であっても中には公然と、どんなに忙しくても病院

に行きますという人はいます。

そう言う人は上司の言うことを文句も言わずに良く聞き

ある意味、かわいがられている人です。

 


私の場合、どちらかと言えばかわいがれた方では無かったですし、

世渡りが下手な人間だと思います。

 


勤務の合間を縫って半日の休みがありましたので

札幌のO病院に行きました。

O病院は心臓・循環器の専門病院です。

O病院で心臓・循環器の様々な検査を受けましたが、

心臓の壁が厚い(スポーツ心臓)だし、異常は無しでした。

 


心臓・循環器で異常が無いとしたら

「何の病気か?」と不安は増大して行きました。

この年の健康診断も異常は無し、健康診断で最後に問診

があり、このとき始めて、動悸や目眩がすると言いました。

 


2000年(平12)は、

動悸や目眩を我慢しながら職場で勤務をしていました。

また

パニック障害の「予兆」に対し、病気探しの検査のための

病院巡りが始まりました。

 

 

 

 


予兆 ③

2006-10-20 00:30:00 | 職場と正面から向き合って(終)

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前回までは、1997年(平9)まで書きました。

今回は、

1998年(平10)から書きます。

 

この年は、

静岡に転勤をを命じられ

年をまたいで翌年まででしたので、家族も一緒に行くこと

になりました。

 

軽い動悸がしたものの勤務は支障なく出来て

いました。

転勤に際して、

私は勤務で引っ越し準備、特に

向こうで住む場所の確保や子らの転校、住民異動手続きなど

妻に任せっきりになってしまいました。

妻は文句も言わず、良く準備をしてくれたと思います。

 

静岡に行ったのは、転勤完了1日前でした。

転勤完了4日前まで、別海に仕事に行ってました。

その仕事から帰り、慌ただしく私自身の転勤準備に取りかかり

フェリーで移動しました。

子らは、年齢がいってなく、訳が分からない状態だったと

思います。

 

静岡に荷物が到着したのは、静岡に来てから2日目でした。

荷物が来るまで、なんとか妻が、やりくりしました。

本当!

頭が下がりました。

その時、私は自分が使うものだけは車で持って行きましたので

転勤に支障はありませんでした。

茶碗などが来ない間、妻は使い捨ての茶碗(紙製)のを使い、

ご飯は、店屋で電子レンジで温めたのを出していました。

朝、飯は当然ながら冷たかったです。

私の場合、昼ご飯は職場の食堂で食べましたが

妻や子らは、冷たいご飯を食べているんだなぁと後ろめたい

思いでした。

 

この期間中、軽い動悸や不安が襲ってくることは、ありましたが

特に、支障があるものではありませんでしたし、

健康診断は異常は無しでした。

すぐ転勤になり、翌1999年(平11)まででしたので、慌ただしく

北海道に帰りました。

とにかく、この時期は、急がしかったです。

 

 

 


予兆 ②

2006-10-20 00:20:00 | 職場と正面から向き合って(終)

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前回は、勤務先の職場である福島での「予兆」について

書きました。

 

引き続き

パニック障害らしき「予兆」について書いていきます。

 

1997年(平9)3月に、北海道に転出になりました。

転出するとき家族や車もありましたので

仙台発苫小牧行のフェリーで移動しました。


フェリーに乗っているとき妙な、不安感が襲ってきました。

福島で便所で倒れたときと同じような漠然とした不安感

です。


乗り物に酔うことが無かった私は、酔うってこんな感じ

かなぁと思いました。


フェリーの移動中、妻に介抱されながら苫小牧まで着くこと
は出来ました。


苫小牧に着くと車で移動し、家へ向いました。

 

北海道の職場での勤務は支障は、ありませんでした。
仕事を、こなせていました。

 

狭いところや飛行機に乗ったときなどや日常ふとした
ところで、軽い動悸や不安感がありました。 

 

こんな感じで1997年(平9)の1年間は過ぎていきました。

 

 

 


予兆 ①

2006-10-20 00:10:00 | 職場と正面から向き合って(終)

 

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パニック障害が発症する前の予兆から書
いて行きたいと思います。

 

 

「予兆」は

1996年(平8)に勤務先が福島での勤務のときからですね。

福島はフルーツロードとかあったりして、近所の農家の方から林檎を頂
いたりして、果物が美味しかった思い出があります。

そこに住み始めてから、何故か?

町内会長になり、勤務先の上司とかいて複雑な気持ちでした。

また

妻には上手く、近所と付き合って欲しいと言いました。

そして、
妻や子に勤務先の関係を持ち込みたく無いと思いました。

妻は福島にいる間、上手く、近所の奥さんたちと付き合ってくれました。

妻には感謝しています。

 

話が少し逸れましたので、戻します。
当時、
私は毎日たばこを1日1箱と晩酌でビール
を500mL2本を飲んでいました。

 

1996年(平8)7月に勤務先から夜7時過ぎに家に戻り、家族で夕食を食べた後、
すこししてから動悸がしているなぁと感じてトイレに行ったら、トイレの中で倒れてしまいました。

倒れたとき、急に真っ暗になり余り憶えていま
せん。
 

妻はトイレで大きな音がしたので、トイレには鍵を掛けてありましたので、トイレの戸を叩きながら声を出していたそうです。

倒れてから20分くらい経った頃に気が付きトイ
レから出ました。

 

妻は心配そうでしたが、何なんだろうと思いながらも妻には「大丈夫!」と言いましたし、毎年の職場の健康診断も異常はありませんでした。

この日、以降
勤務に支障はなかったのですが
時々、動悸があり不安に感じていました・・・

 

 


はじめに / 06' October

2006-10-20 00:00:00 | 職場と正面から向き合って(終)


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 「雄大な景色の中に佇むと人は大自然に抱かれていると感じる。」

 

現在進行形で続いているメンタルケアを求める闘い


それはとてつもなく巨大な組織


病気になったばかりに家族は犠牲に。


なぜ。


病気になったのか。


何度も問い直した。


平凡で普通だった家族生活 


病気と巨大な力で崩れていく。


現在進行形の闘いは、
家族にとって出口の見えないトンネル


現在、私は病気休職子どもたちは、
どうなるんだろうという不安の日々


私が病気であるがゆえに、家族は不幸
になっている。


現在、私は、職場に26年います。
子ども四人の平凡な家族でした。


2003年7月にパニック障害・抑うつを発症


2006年3月、同じ様な病気の人間が職場に
いることを知りました。


しかし、職場にメンタルケア(メンタルヘルス)の規則
が無く、精神疾患の人に対して十分なケアがされな
いまま退職して行った人や今でも、十分なケアを受
けられずに自宅や病院にいる人を見て、


これでは今の職場は同じ様な病気になった場合、
職場は良くならないと考えた。


家族を自分を守る、そして職場にいる同じ様な病気の
人間のため、メンタルケアを求め続けています。


巨大な組織とのメンタルケアを求める幕が切られました。


部隊については組織的に病気休職になった事実を基に
現在進行形の記事を書いています。


自分から挑んだのでは、ありませんでした。


病気になったからこそ、始めて何が苦しいのか。
辛いのか。が理解出来た。


同時に自らの病気との闘いでもあったのです。


私は、職場からの復職などの特例を拒み、
私自身だけではなく、職場にいる同じ様な病気の人のために、
メンタルケア(メンタルヘルス)の規則化と実行を求め、あえて、
困難な道を選びました。


そして


メンタルケアの規則が無いのであれば、私自身が復職して
メンタルケアをしようと決意しました。 


そう言った意味から、私の心のままに、家族と心ある友人たち
から癒され復職までの日常の日々を綴っていきます。