現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

禿げ も笑いのネタに

2016-12-22 18:42:11 | 虚無僧日記

お相撲さんには若ハゲはいない?。髷(まげ)が結えなくなったら
相撲取り廃業か? 鬘(かつら)では、勝負できんだろう。 

などと 心配するのは 私だけか?。

他人ごとではない。私の髪は、どんどん薄くなる。虚無僧は「有髪の
僧」だから、ツルツル丸坊主になってしまったら坊さんと一緒に
なってしまう。困った困った悩みの種。(髪の毛に執着)

綾小路きみまろが、鬘(かつら)であることがバレて、それを笑いの
ネタにしていた。
「きみまろさ~ん。鬘(かつら)の下は禿げてるんですかぁ?」
「禿げているから被るんです。禿げてなかったら被りません!」
「脱いで 見せてぇ~?」「パンツ脱ぐより 恥ずかしいです。
 パンツの下は まだ 毛がありますから」。大爆笑。

P子が、私の頭を後ろから見てクスクス笑う。
どうやら禿げが見えているようだ。
「それならば」と手を頭にやり、結わいていたゴムバンドを
取って、髪を左右に分け、禿げをさらけ出してみせたら7
もっと大笑い。
「落ち武者じゃん」と。

「そう虚無僧は浪人。元は武士だから月代(さかやき)を剃って
いたのでござる。これは武士のヘアースタイルじゃ」。
「へぇ~、坂本龍馬は剃ってないよォ」
「桂(かつら=鬘)小五郎じゃ」といっても、通じなかった。

“オヤジギャグ”より“自虐ギャグ”。



山伏に遭遇

2016-12-21 23:06:17 | 虚無僧日記

京都に行った時、丸太町で「山伏」に遭遇した。
肩まで伸ばした白髪、堂々たる体格に精悍な
顔立ち。身につけた装束がまた 立派。

虚無僧の私がなんとも貧相に見えた。(すぐ
比較してしまう私)。

山伏は、真言宗系当山派の「醍醐寺」と、
天台宗系本山派の「聖護院」の2派の他に、
全国各地に単独で存在している。

ネットでみると、山形の羽黒山、広島県の宮島、
三重県の赤目四十八滝など、各地で、祭事に
山伏が登場している。山伏の多くは「在家」だ。
その点「虚無僧」と同じ。

仏教哲学者の梅原猛氏は、中日新聞に「現在の
僧侶は、肉食妻帯して、戒を犯していることを
恥じない。山伏は、山に登る時は、潔斎して、
身を清め、真摯に神仏を崇敬している。その
点でも、山伏こそ“真の仏教徒”と言える」と
書いている。

ならば「虚無僧」も、と思うのだが、どうも
最近は、山伏より分が悪い。がんばらなきゃ。


一休と山伏 対決

2016-12-21 23:05:31 | 虚無僧日記

江戸時代の初期に出版された『一休関東咄』に
「一休と山伏の問答」が出てくる。

一休が 虚無僧の尺八を吹いて歩いていると、
山伏が「虚無僧殿、いず方へ参る」と問いかける。
一休「風に任せて」と言えば、山伏「風無き時は
いかに」と。一休「吹いていく」と。

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『一休咄』には、一休と山伏の“法力”比べがある。

大きな犬がはげしく吠え立てるのを見て、山伏が
「法力で、あの犬を おとなしくさせてみせよう」と
数珠をくり、「アビラ ウンケン ソワカ」と呪文を
唱えるが、犬は一向に吼えやまない。そこで一休。
「どれ、私が 黙らせてみせよう」と、懐から焼き飯を
取り出して「ころ ころ ころ」とやさしく呼べば、
犬は吼えるのをやめて、尾を振ってきたり。

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山伏は「法力(念力)」で、奇特な超常現象を現すが、
禅宗は「仏法に不思議なし」という考えである。

江戸時代でも、山伏の“法力”がインチキ臭いという
ことを看破していた節があるが、山伏の信仰は、
今日でも根深く生きている。

 

江戸時代、山伏にもピンからキリまであった。山岳修行一筋に生き、

村人から崇め奉られた聖もいただろうが、大部分は市井に住み、

近在の民家を檀家とし、招かれて祈禱に出かける、あるいは

山参りの代参をしたり、山登りの先達を勤める。 また、いかがわしい

占いで荒稼ぎするごろつきまで。

江戸時代の山伏は、修行者というよりは、祈禱者であった

 


山伏(修験道)と虚無僧の対比

2016-12-21 22:10:20 | 虚無僧日記

山伏(修験道)は、日本古来の山岳信仰に神道、仏教(密教)、道教などが

ミックスされた民間信仰として地域ごとに浸透してきた。

江戸時代のはじめ、熊野を中心とする天台系(本山派)と、金峯山を

中心とする真言系(当山派)で対立が起こり、江戸幕府は、両派の調停

として、慶長18年(1613)「修験道法度」を定め、山伏は真言宗系の

当山派と、天台宗系の本山派のどちらかに属さねばならないことにした。

虚無僧の「慶長の掟書」は、虚無僧達が捏造したものだが、

山伏(修験道)については、きちんと「法度(はっと)」が出された。

これにより、山伏は真言宗か天台宗の一派として公認されたことになる。

しかし、虚無僧同様、山伏にも いかがわしい加持祈祷や占いで

荒稼ぎする者も出、民間から毛嫌いされるようになる。それで

明治政府も、廃仏稀釈の一環として虚無僧と山伏に廃止令を出した。

普化宗の廃止は明治4年(1871)。修験道は翌5年(1872)に太政官

第273号「修験道廃止令」として出された。しかしその内容は

江戸幕府同様、「修験道を廃止し、本山派修験・羽黒修験は天台宗に、

当山派修験は真言宗に所属せよ」というもので、山伏は天台、真言

どちらかの僧侶となれば身分を保証するというものだった。

しかし追い打ちをかけて「狐憑きを落すような祈禱や口寄せのような

行為を一切禁止する」「吉凶占い、加持祈祷などを行った者は、

拘留または科料に処す」。「そのような行為を行う者がいたら

訴えるように」とまで通達や法令が出され、山伏としての収入源は

断たれることになる。

これで 全国に200カ寺以上あった修験道の寺は半数が打ち壊され、

18万人もいた山伏は壊滅姿したのだが・・・・。

山伏による病気平癒の祈祷などはできなくなっても、純粋に山に登って

修行するという「行」は残された。

そして戦後の信教の自由で、山伏は「修験宗」として宗教法人登記される。

現在は、「聖護院」を本山とする「本山修験宗」、醍醐寺を本山とする

「真言宗醍醐寺派」。これに天台系の金峯山金剛峯寺を本山とする

「修験本宗」の三派。その他に 羽三山、日光ニ荒山など、地方単立の

山伏の組織がある。

山伏と虚無僧は 在家仏教という点では似たもの同士だが、山伏は

皇室との結び付きがあったこと、聖護院や醍醐寺三宝院、三井寺等、

由緒格式ある寺院を本山としてきた。そして山伏は明治初年18万人。

現在でも 1~2万人居るとされる。虚無僧は江戸時代でも数百人。

そして現代では 百人ほど。数でも圧倒的な差がある。

 

 


普済寺の看守「九皐 (きゅうこう)」

2016-12-19 17:22:41 | 虚無僧日記

『菰野町史』【切畑村文書(三重県三重郡菰野町切畑)】の中に
「留場(とめば)証文」があり、「鈴法山 普済寺 看守 九皐
(きゅうこう)」の名が見える。

「普済寺」は 三重県鈴鹿市白子に在った虚無僧寺。

「虚無僧寺」は、檀家も墓も無いので、葬儀や法事による収入が無い。

そこで 虚無僧は 門付(かどづけ=托鉢)で一日の糧を得るのだが、
村々に押しかけては、布施を強要するので 迷惑がられた。布施を
断ると、大勢で押しかけて、布施を得るまで、ブーブーと下手な
尺八を吹いた。それを「藪(やぶ)枯らし」と言うそうな。

それで 各村では、「あらかじめ 一定の金や米を納めるので
虚無僧は来ないようにしてほしい」という契約を 虚無僧寺と
結ぶようになった。それが「留場(とめば)証文」。「留場」は
「これより先 虚無僧は“足留め”」の意味。「ヤクザ」の
「しま」や「縄張り」のようなもの。「場先(ばさき)」とも言った。
「留場」であることを示す札が、村の入り口に立てられたようだ。


「切畑村」は「留場料」として銀2匁2分,打廻料に銭100文。
証文切替料と筆墨紙料に 金二朱を普済寺に納めたようである。

こうした留場を何カ所か持つことによって、虚無僧は生活を
保証されるようになり、ますます門付けなどせず、「飲む、
打つ、買う」の無頼人に堕落していく。

それで 明治政府は「普化宗」を廃宗とし、尺八を吹いて門付けする
ことも禁じたのだった。戦前まで、虚無僧の格好で門付けする
ことは、法律で禁止されていたのである。実際「虚無僧最後の人」
と云われた「谷 狂竹」は二度 警察に逮捕され、罰金刑に処せられ
ている。

それが解禁となったのは戦後のこと。虚無僧は今こそ大手を
振って、いや尺八吹いて 歩けるのだ。

ところで、普済寺の看守の名前が「九皐(きゅうこう)」とは面白い。
「九皐」とは「奥深い沢」。【詩経】に「鶴 九皐に鳴き、声 天に
聞こゆ」とある。「鶴は深い谷底で鳴いても、その鳴き声は天に届く」
の意で、「賢人は身を隠しても、その名声は広く世間に知れ渡る」と
いうことだそうだ。

虚無僧本曲の秘曲が『鶴の巣篭もり』。尺八で「鶴の鳴声」を模す。
それにも掛けた名であろうか。

私も「今は 潜んでいても、名声は世間に知れ渡りたい」との欲を
捨てきれずにおる。



虚無僧の起源、「暮露」と「薦僧」は別?

2016-12-10 19:51:01 | 虚無僧って?

「虚無僧」と書くのは、江戸時代1600年代に入ってから。
それ以前は「虚妄僧、薦僧」。さらに「薦」は、「暮露、
ぼろ、ぼろぼろ、ぼろんじ、梵論字、梵字」と同じと
されていました。

鎌倉幕府の最末期1330年頃に書かれた吉田兼好の『徒然草』に
「ぼろぼろと言う者 昔は無かった。最近ぼろんじ、梵字、
漢字など云ひける者 その始めなりけるとや」とあり、この
「ぼろ」こそ「虚無僧」の前身と言われていました。

しかし「薦」は尺八を吹くが、「ぼろ」は尺八は吹かない。

「ぼろ」というので「ボロボロの着物を着ているから」と
いうのが一般的 見解でしたが、最近、異説が出てきました。



「ぼろ」は、紙で作った「紙衣(かみぎぬ)」を羽織って
いました。「紙で作った衣だから、すぐボロボロになる
安物=貧乏人の着物」と思われますが、どうしてどうして
現代でも「紙子」は しっかりしていて結構いい値段が
します。

ですから「紙衣」は「暮露」の定番衣装であって、決して
ボロボロの衣では無かったのではないかと思えるのです。

「暮露」の出で立ちは、「紙子」の着物に「黒の袴」と
「大きな日傘」でした。

一方「薦僧(こもそう)」も、「紙衣」ですが、露宿するための
「薦むしろ」と「面桶(めんつう)」という弁当箱を腰に下げ、
尺八を吹いていました。

ですから「暮露」と「薦僧」は別物なのです。

『徒然草』に「ボロ」に「梵論」という漢字を当てて「梵論梵論、
梵論字」と書かれていますので、「これはインドのバラモンか。
暮露はインドや支那からの渡来人」などという説まで出てきました。

さて、最新の説は「ボロとは『一字金輪の呪=のうまくさんまんだ
ぼたなんぼろん』に由来するのでは?」というものです。

「暮露」は 長い柄のついた大きな傘を持ち、傘の柄を叩いて
「のうまくさんまんだ ぼたなんぼろん」と唱えていたので、
「ぼたなんぼろん、ぼたなんぼろん」から「ぼろんぼろん」
「ぼろんじ」などと呼ばれるようになったという説。

私はこの説を信じます。ちなみに、「漢字」とも書くというのは
「(社寺)の勧進」の「かんじん」の当て字ではないかという
解説もありました。



虚無僧の俳諧

2016-12-10 19:15:00 | 虚無僧日記

祖師の名の普化というより尺八の節を継ぐ今の虚無僧  みとく 古今夷曲集 1666 寛文6

尺八の自慢で 乞食もどきなり  伴自 俳諧神子の臍 1710 宝永7

伯母を見舞いに尺八でゆく     帆かけ舟     1713 正徳3

どこやら 女梵論の寝姿      岡村石鯨     1784 天明4 

一月寺 仏に遠き人ばかり     谷素外      1784  天明4

かかる時 恋慕流しを吹けせんし 女ともなる雪に見とれて 千潟 職人尽狂歌合 1807文化4

むかひ路の高根の雪に こも僧の おのが軒端に 手を吹いて見る 有文 職人尽狂歌合 1807文化4

祖師の教え 精出して ふけせんし 板入       1813 文化10

梵論シは さて若衆か 女かな   皐月律佐     1819 文政2