現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

尺八の流派 都山系

2021-05-24 21:13:00 | 虚無僧日記

宗悦流 近藤宗悦は、40歳ごろに出身地の長崎を出て京都明暗寺に入り、尾崎真龍に弟子入りして明暗真法流を学び、また三曲尺八の手付けを行って関西外曲の素地を作った。尺八を水平近くに構え、チャルメラのような大きな音と、転がす奏法が特徴で、チャルメラ宗悦と異名を取った。大正中頃まで関西尺八界に君臨したが、現在は廃絶。


都山流 : 初代中尾都山は、明治9年10月5日に枚方の油問屋の次男として生まれた。祖父の寺内大検校の合奏相手だった近藤宗悦から尺八のてほどきを受け、独学で箏三弦との合奏技術を身につけ、また近藤宗悦の弟子の小森隆吉に明暗尺八を習って虚無僧修行も行った。そして19歳の明治29年に大阪で開軒。

近代的な記譜法と作曲理論、楽曲性を重視した尺八本曲を数多く作曲、地歌・筝曲の尺八譜や新曲譜の出版、教授法と組織化などに新機軸的を打ち出して、一代で満州から台湾まで門弟3万人という尺八界最大の流派を築いた。

昭和31年、宮城道雄の後を追うようにして80歳で亡くなると、妾レンとの間に生まれた稀一が二代目を継承した。稀一は都山69歳の時の子。甘やかされて育ち、尺八から逃げ、酒に溺れ肝硬変を患った。そして昭和49年、30歳の若さで他界する。苦しみもがき壮絶な最後だったという。

二代目の早世により、三代目の椅子を巡って大騒動が起きた。稀一の遺児はまだ7歳の美都子。都山流の規定では世襲でこの美都子が三代目となるところだったが、門弟のナンバー1で常務理事の高平瞠山が、稀一の母(初代の妾)と組んで、稀一が亡くなる直前、理事会を招集して規定から「世襲制」の条文を削除し、母親のレンを三代目に決めた。

高平艟山は金の亡者で、レンを宗家にして、自分が理事長に就任すると、報酬2000万を勝手に決めた。昭和49年の2000万は大企業の社長並みである。都山流会費の私的流用、門弟の昇格試験などに公然と賄賂をとるなど悪辣で評判が悪かった。そして高平艟山の不正に不満を抱く幹部連中を都山流から追放した。

そこで追放された島原帆山たちの一派が、稀一の遺児美都子を宗家にして「都山流協会」を立ち上げた。つまり姑レンが「都山流楽会」。そして嫁(稀一の妻和子)側が「都山流協会」となった。

楽会」本部は 京都市北区紫野北舟岡町12 

協会(現新都山流)」は、京都市北区紫野北舟岡町27-170 目と鼻の先で対抗している。

 レンが亡くなると、楽会は初代都山の本妻の孫「中尾正幸」を4代目宗家に迎えた。

 レンの孫娘である美都子の都山流協会は、その後島原帆山が脱会して昭和54年に都山流日本尺八連盟、昭和55年に新都山流日本尺八連盟と名称変更。昭和56年 中尾美都子宗家となって新都山流を建てた。

 

というわけで、現在は次の三派に別かれている。

「都山流尺八楽会」宗家は初代都山の本妻の孫「正幸」。平成14年に山本邦山が人間国宝に。

「新都山流」 宗家は初代都山の妾のひ孫「美都子」

「日本尺八連盟」 島原帆山は昭和57年に人間国宝に認定され、平成13年に逝去。 現在の宗家は坂田誠山。

 

その他都山流から脱退して樹立された流派

晃山流 平塚晃山が都山流から独立して創始。

洋山流 勝田洋山が都山流から独立して創始。

上田流 : 初代中尾都山の弟子の上田佳山は、14歳で入門して20歳ごろの明治45年には流内の最高職格まで登りつめた。しかし、自作の新曲を公演したことで批判を浴び、大正6年に破門、独立して上田芳憧と号した。大正10年に上田流と命名。2代宗家は芳憧の長男の上田佳道。記譜法や奏法は都山流を継承し、芳憧作曲の新本曲の他、明暗系の古典本曲も演奏対象とす。平成16年佳憧死去により、弟の芳誠が3代目を継承。



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