上野の東叡山寛永寺は、江戸の鬼門を守る寺として天海和尚によって建てられた寺。寺域は30万5千坪。今の上野公園の二倍。不忍の池から、国立博物館、芸大まで含めた敷地に支院塔頭(たっちゅう)36カ寺という広大な寺でした。
慶応4年(1868)大坂から逃げ帰った徳川慶喜はここ寛永寺の塔頭大慈院に謹慎していました。その慶喜公の護衛と称して、幕府の旗本や脱藩浪士約4,000人が「彰義隊」を結成して寛永寺に集結し、慶喜公が水戸へ送られた後もそのまま寛永寺に立て籠っていました。
勝海舟と「江戸城無血開城」を約束した西郷隆盛としては、これを黙視していた。それでは甘いと、大総督府は西郷を司令官から解任し、長州藩士・大村益次郎を新司令官に任命。大村は彰義隊に武装解除を命じた。
そして慶応4年(1868)5月1日(新暦の7月4日)、新政府軍は約1万の兵卒で寛永寺を包囲し攻めたが当初は一進一退。午後から佐賀藩のアームストロング砲で攻撃。彰義隊はなす術もなく、たった1日で敗北した。彰義隊の隊員は開戦時約1000名、そのうち1/4の266名が戦死。あとは逃散した。
そして、寛永寺の堂塔伽藍はことごとく焼き払われた。
さて、これが問題。
戦争で被害にあったならともかく、実は、上野戦争が終結した後、寛永寺の警備に当たっていた鳥取藩によって、警護するのはめんどうくさいと、焼き払われたとのこと。
鳥取藩は、池田家32万5千,石の大藩。外様だが、幕末の藩主はなんと、水戸の徳川斉昭の5男・池田慶徳(よしのり)。つまり、15代将軍慶喜の兄が養子に入っていた。
池田の殿様も水戸の烈公(斉昭)の子だけあって、『尊皇攘夷』のガチガチ。鳥羽伏見の後はさっさと新政府に寝返り、新政府の議定に就任していた。
そして水戸は、光圀以来、仏教を排斥、斉昭は大砲や砲弾を作る為、領内の寺から釣鐘や仏具を接収するなど、仏教軽視の藩風だった。それで、寛永寺も放火され消滅するという被害にあったのだった。
その後、寛永寺は明治8年(1875)規模を大幅に縮小して再建が認められ、本堂は川越の喜多院(天海が住職をしていたお寺)を移築したもの。