現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

学徒生は核実験の生贄にされた

2021-08-05 19:56:00 | 太平洋戦争

今日8月6日は「広島に原爆が投下された日」。

(社)実践倫理宏正会(朝起会)では、毎年8月6日朝5時~6時『平和祈念朝起会』を開催してきましたが、今年はコロナ騒ぎで縮小。

この日は「上広栄治会長」の著書『倫理がひらく君たちの未来』が読まれることになっています。

ここから先のことは、昨年も書いたことですが、今年も書かずにいられないので、再掲させていただきます。

その本によれば、「朝起会」の創設者「上広哲彦氏」は、広島の三菱重工に勤務し、家族は広島から30kmほど離れた加計町に疎開していた。しかし、その日の朝は 学徒動員で三菱重工に はいってくる学生たちを迎えに横川駅まで出向いていた。
そして「トイレにはいった瞬間、爆風で吹き飛ばされた。
急いで外に出、待ち合わせの場所に行くと、無数の無残な学生たちの姿。生き残った人は皆無だった」とあります。

現会長の「栄治」氏は、小学校の校庭で朝礼中に閃光を見る。

やがて空からジュラルミンの粉のような無数の紙ふぶきが舞い降りてきた。それを拾って帰ると、母親が「すぐに捨てなさい」と叫んだ。母親はすでにラジオのニュースで広島に恐ろしい新型爆弾が落とされたことを知っていた。

聞けばあれはピカドンという恐るべきウラン爆弾で・・・・

この話から、私は二つの疑問が生じました。

ひとつは、新型爆弾が 危険な放射能を降りまく原子爆弾であることを、母親が知っていたということです。「ピカドン」という呼び名まで広まっていたとは驚きです。

もうひとつは、多くの人が疎開し、食料事情も悪い中、8月6日の早朝、8時を期して、近郷から多くの学生が広島市内に集められていたということ。

(補)今朝の原爆追悼式典では、「空襲に備えて、広島市内の家屋の解体撤去作業に12歳から14歳の男女が学徒動員されていた」とも。

学生だけでなく、この日の8時までに、西部方面の全司令官も広島に集められていました。いつもなら9時からの会議が、この日に限って「9時では遅い、8時に集合させよ」との「畑俊六・西部方面第二軍司令長官」の厳命が出ていたというのです。

畑俊六は「8時から会議」と命じていながら、自分は 原爆投下時、広島市から 20km 郊外の自邸に留まって、原爆を避けていたのです。畑俊六の側近も、高野広島県知事も避難していて無事で、原爆投下のその日のうちに「復興作業」にとりかかっているのです。

このことから、戦争終結のための密約が、アメリカと昭和天皇のごく一部の側近(鈴木貫太郎首相、畑俊六)との間で交わされていた。それは、原爆投下にあたって市内がもぬけの殻では困るので、軍人や学徒を動員するというもの。

中国、九州の全司令官が集められたのも、戦争終結(降服)時に、無用な動きをさせないため、一網打尽に始末したものと考えられるのです。

広島の平和記念の碑文は、「二度とくりかえしません」と、まるで原爆投下に日本政府?も関与していたような表現です。

こういう話に目を輝かすのは私だけでしょうか。
毎年、このブログで書いているのですが、反応はゼロ。
「今さら、それを知ったところで何になるの。昭和天皇も畑俊六も、この世には居ないのだし」と冷ややかな反応です。


「実践倫理(朝起会)」でも、先代会長は「原爆の被害に遇いながらも、アメリカを恨まず 憎まず、現実を大肯定して、力強く明日に向かって今日を生きよう」とこの会を発足させたのでした。



横川駅



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1 コメント

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通りすがりですが・・・ (SYI)
2013-11-14 15:25:08
通りすがりの者ですがコメントさせて頂きますね
この原爆投下を日本軍が知っていたという事実を最近知り検索していてこの記事を拝見する事になりました

原爆投下を知っていたのになぜ知らせなかったのか

これは昭和天皇が何の罪にも問われずにいた事と関係あるのでは?と思ってしまうのです
マッカーサーが昭和天皇の言葉を聞き深く心服したからとか言われていますが、どうなのでしょう

原爆の威力を確かめたかったアメリカ
広島は大きな空襲を受けておらず
原爆前に残った兵などが集められた事実

天皇に対して何も処罰を与えない事と引き換え
考えすぎでしょうかね


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