「太平の眠りをさます 上喜撰(じょうきせん)たった四杯(はい)で 夜も眠れず」、「アメリカが、来ても日本はつつがなし」 これらの狂歌などは、黒船の来航に当時の人々が驚き混乱したさまを伝える。
嘉永6年6月3日(1853年7月8日)に浦賀沖にあらわれたペリー艦隊は、旗艦「サスケハナ」(帆装蒸気外輪船)、「ミシシッピー」(同)、「サラトガ」(帆船)、「プリマス」(同)の四隻編成。黒塗りの船体、三本マスト、中央に黒煙をあげる煙突、舷側に水しぶきをあげて回転する大きな水車の外輪船が二隻。外輪船はそれぞれ帆船を曳航。
蒸気外輪船には大砲が上段、中段に計20門配備され、臨戦態勢をとりながら、江戸湾の測量などを始め、さらに湾内で数十発の空砲を発射。落雷のような音響がこだまし、江戸は大混乱に陥ったという。
嘉永6年6月9日(1853年7月14日)にペリー一行は久里浜上陸を許され、浦賀奉行がペリーと会見した。ペリーは開国を促すアメリカ大統領の国書などを手渡したが、幕府は、返答に1年の猶予を要求したため、ペリーは1年後に再来航することを告げ、艦隊は6月12日(1853年7月17日)に江戸湾を離れた。
右の挿図は『嘉永六年六月浦賀表に渡来北亜美理加国蒸気舩之図』 嘉永7年頃 黒船サスケハナ号の図。『下田了仙寺蔵』
左の挿図は「水師提督 名 マツラウセペルリ」 嘉永7年 肉筆画 、『蒸気船並ノリ組人物』より 浦賀に来航した黒船艦隊乗組員を描いた中のペリー像。 『下田了仙寺蔵』
このペリー像の説明書きは次の通り。
<水師提督 名 マツラウセベルリ / 袍筒袖花色羅紗牡丹〆 / 帽子黒革紅白鳥毛カザリアリ / 腕ニ金ノ環三ッ入ル太刀金拵へ其外金具金 / 金ノ総数不知 > 挿図と見比べながら声を出して読んでみると、ぺりー提督のいでたちが伝わってきて面白い。是非ご一読を。
「水師提督」 水師は海軍ですね。その昔の軍歌を思い出します。
「旅順開城約なりて 敵の将軍ステッセル 乃木大将と会見の 所は何処水師営」(海軍の兵営)なつかしいですね。
次回を楽しみにしています。
「更に湾内で数十発の空砲を発射~~大江戸は大混乱」とありますがよく戦争にならなかったですね。空砲を撃ったのは二度目の来航時,久里浜上陸許可の際の祝砲(知らぬ庶民は大混乱でも幕府は承知していた)ではなかったかな 愚問ですね。ごめんなさい。
戦争を回避できるか否かは、幕府の対応如何にあり、度重なる評議の結果アメリカ側の要求を受け入れ、久里浜で国書受領と相成ったようです。(これは、第1回目の来航)