文明開化と平仮名英語

流れるような筆使い、崩し字満載の平仮名で書いた英語は日本国開国・文明開化の一時期を象徴するような出来事でした。

開国 横浜開港

2008年04月28日 | 文明開化と平仮名英語

                         

  嘉永7年、1854年 1月ペリー提督はアメリカ東洋艦隊(旗艦ポーハタン号”Powhatan”)7隻(途中参加した船あり8隻とも、9隻ともいう)を率いて下田に来航。 翌、安政元年、「日米和親条約」調印さる。やがて安政5年、1858年7月「日米修好通商条約」調印。続いてオランダ、オロシャ、イギリス、フランスとも同様の条約を締結、これで鎖国体制は崩壊。条約に基づいて安政6年6月2日(1859年7月1日)に横浜港が開港された。これが日本国開国文明開化のはしりとなった。

  開港の翌年、万延元年(1860)に清水卯三郎は『ゑんぎり志ことば』を出板し、その序文で横浜開港について熱い思いを述べている。そのうち冒頭の6行を挿図に掲げてみた。筆の跡をたどるとなるとかなりの大きさにしなければならない。何回かトライしている内にほぼ原寸大になってしまった。(挿図は、早稲田大学:文庫08c0566『ゑんぎり志ことば』 より)  清水卯三郎は、強固な国粋主義者で漢字を廃止、仮名使用を主張した学者と云われるだけあって、この中でいわゆる漢字は五行目の「」一字のみで、他は全文仮名書きであるという。

   挿図は、崩し字満載で素人には読解不能に近い。杉本つとむ『日本英語文化史の研究』に掲載の現代平仮名翻案を参考に崩し字辞典と首ッ引きで、解読に努めたものを中央に掲げてみた。ここまで辿り着くのが精一杯。しかし、このままでは意味不明。崩し字を現代の平仮名に直し、一部、漢字に置き換え、対比しやすいように配列してみた。
   挿図の三行目の後半から六行目まで 

   こたび、公のいと妙なる恵みにて、神奈川なる横浜の港に、商い場を開き給うと 
    ぞ、わが民も彼の人もいと嬉しう思いけり

  幕府の窮余の一策「開港」を「公のいと妙なる恵みにて」と表している。これがなんとも云えない。頑強な国粋主義者の反面、英語、蘭語、仏語の3ヶ国語をよくし、熱烈な欧米文化の礼賛者といわれる事業家清水卯三郎にとって、まさに待望の商機到来であったあろう。清水卯三郎の熱い思いを伝えられれば幸い。
   日本国開国、開港は、元寇の役以来の大難と混乱を極めたと伝えられている。その影響でもあるまいが、清水卯三郎の平仮名の崩し字解読は混迷を極めた。例示の如く、二段跳びしないと原文を理解できない。ご容赦をこう。

   因みに、2009年6月2日は横浜開港,150周年とか、多彩な記念事業がすでに行われている。まずは横浜市のホームページから探訪されることをお勧め。


開国 黒船

2008年04月06日 | 文明開化と平仮名英語

 「太平の眠りをさます 上喜撰(じょうきせん)たった四杯(はい)で 夜も眠れず」、「アメリカが、来ても日本はつつがなし」 これらの狂歌などは、黒船の来航に当時の人々が驚き混乱したさまを伝える。

 嘉永6年6月3日(1853年7月8日)に浦賀沖にあらわれたペリー艦隊は、旗艦「サスケハナ」(帆装蒸気外輪船)、「ミシシッピー」(同)、「サラトガ」(帆船)、「プリマス」(同)の四隻編成。黒塗りの船体、三本マスト、中央に黒煙をあげる煙突、舷側に水しぶきをあげて回転する大きな水車の外輪船が二隻。外輪船はそれぞれ帆船を曳航。 
 
 蒸気外輪船には大砲が上段、中段に計20門配備され、臨戦態勢をとりながら、江戸湾の測量などを始め、さらに湾内で数十発の空砲を発射。落雷のような音響がこだまし、江戸は大混乱に陥ったという。

 嘉永6年6月9日(1853年7月14日)にペリー一行は久里浜上陸を許され、浦賀奉行がペリーと会見した。ペリーは開国を促すアメリカ大統領の国書などを手渡したが、幕府は、返答に1年の猶予を要求したため、ペリーは1年後に再来航することを告げ、艦隊は6月12日(1853年7月17日)に江戸湾を離れた。

 右の挿図は『嘉永六年六月浦賀表に渡来北亜美理加国蒸気舩之図』 嘉永7年頃 黒船サスケハナ号の図。『下田了仙寺蔵』

 左の挿図は「水師提督 名 マツラウセペルリ」 嘉永7年 肉筆画 、『蒸気船並ノリ組人物』より 浦賀に来航した黒船艦隊乗組員を描いた中のペリー像。 『下田了仙寺蔵』
 このペリー像の説明書きは次の通り。
<水師提督 名 マツラウセベルリ / 袍筒袖花色羅紗牡丹〆 / 帽子黒革紅白鳥毛カザリアリ / 腕ニ金ノ環三ッ入ル太刀金拵へ其外金具金 / 金ノ総数不知 > 挿図と見比べながら声を出して読んでみると、ぺりー提督のいでたちが伝わってきて面白い。是非ご一読を。