嘉永7年、1854年 1月ペリー提督はアメリカ東洋艦隊(旗艦ポーハタン号”Powhatan”)7隻(途中参加した船あり8隻とも、9隻ともいう)を率いて下田に来航。 翌、安政元年、「日米和親条約」調印さる。やがて安政5年、1858年7月「日米修好通商条約」調印。続いてオランダ、オロシャ、イギリス、フランスとも同様の条約を締結、これで鎖国体制は崩壊。条約に基づいて安政6年6月2日(1859年7月1日)に横浜港が開港された。これが日本国開国、文明開化のはしりとなった。
開港の翌年、万延元年(1860)に清水卯三郎は『ゑんぎり志ことば』を出板し、その序文で横浜開港について熱い思いを述べている。そのうち冒頭の6行を挿図に掲げてみた。筆の跡をたどるとなるとかなりの大きさにしなければならない。何回かトライしている内にほぼ原寸大になってしまった。(挿図は、早稲田大学:文庫08c0566『ゑんぎり志ことば』 より) 清水卯三郎は、強固な国粋主義者で漢字を廃止、仮名使用を主張した学者と云われるだけあって、この中でいわゆる漢字は五行目の「給」一字のみで、他は全文仮名書きであるという。
挿図は、崩し字満載で素人には読解不能に近い。杉本つとむ『日本英語文化史の研究』に掲載の現代平仮名翻案を参考に崩し字辞典と首ッ引きで、解読に努めたものを中央に掲げてみた。ここまで辿り着くのが精一杯。しかし、このままでは意味不明。崩し字を現代の平仮名に直し、一部、漢字に置き換え、対比しやすいように配列してみた。
挿図の三行目の後半から六行目まで
こたび、公のいと妙なる恵みにて、神奈川なる横浜の港に、商い場を開き給うと
ぞ、わが民も彼の人もいと嬉しう思いけり
幕府の窮余の一策「開港」を「公のいと妙なる恵みにて」と表している。これがなんとも云えない。頑強な国粋主義者の反面、英語、蘭語、仏語の3ヶ国語をよくし、熱烈な欧米文化の礼賛者といわれる事業家清水卯三郎にとって、まさに待望の商機到来であったあろう。清水卯三郎の熱い思いを伝えられれば幸い。
日本国開国、開港は、元寇の役以来の大難と混乱を極めたと伝えられている。その影響でもあるまいが、清水卯三郎の平仮名の崩し字解読は混迷を極めた。例示の如く、二段跳びしないと原文を理解できない。ご容赦をこう。
因みに、2009年6月2日は横浜開港,150周年とか、多彩な記念事業がすでに行われている。まずは横浜市のホームページから探訪されることをお勧め。