佐野屋冨五郎は明治11年に尾崎冨老の名前で『新撰英語実用便』を出版(この頃から板の字は影を潜める)、序文に冨老流の発音談義がある。 その序文にある譬えが云い得て妙と云うかサスガと云うか。冨老の<いふこころなり >を聞いてみたい。
序文の冒頭と最初のルールを取り上げる。
<それ初めから、横文字の本を読むことは難しくって、覚えられぬものなり>から始まって<いぎりす言葉はみんな片仮名で書く>ことを宣言している。しかもと云うか、当然と云うかイギリス言葉は横書き。課題の『外国商通ことばつけ』では、全部平仮名英語、英語といえども平仮名書きだから縦書きである。時代が移り変わり、当座しのぎから脱して横文字を横文字として受け止める心の準備を促しているようだ。波止場の庶民の平仮名英語に固執した佐野屋冨五郎にとって、自分自身に言い聞かせているようでもある。
難しくて覚えられないから、物の名をあらまし覚えてから、「本当の稽古」なるものを勧めている。(尤も「本当の稽古」をどのようにイメージしていたか問題であるが。)備えあれば憂いなし<絵図を見ておいて旅へ行くが如し>この譬えが現実的で分かりやすい。共感を呼ぶ。
本文は平仮名、漢字まじり。英語の読みは、全編を通して片仮名英語である。発音にかかわる部分は大変興味深い。石橋正子「錦誠堂尾崎冨五郎出版目録(稿)」#33の翻案に準拠して挿図の如く掲げてみた。挿図は原文 (神奈川県立図書館、K83.1/7)の文字を現代の文字に翻字し読みやすくするように努めた。紛らわしい文字の読み等石橋論稿を参考にした。
実際にどのようであったか、同書、本文中には、対象の「スタアル、ワートル」をはじめ「よこへ寄せて小さく書きたるル」そのものは、いくら探しても見つからない。何かキツネにつまされたようだ。これは彼流には一体如何なる「こゝろ」なのか。 佐野屋冨五郎に伺ってみなければならない。
実は、この序文は同出版目録(稿)#57:ケーエスアソム氏撰 『新刻撰正 英語手引草』尾崎冨五郎蔵板(刊年不明)の序文にも見出される。いわば発音の手引きというか、「コツ」として、庶民に歓迎されたのであろう。