HJハインツ社のグローバル経営の基礎をつくったオライリーは、1996年から2000年にかけて相次いで社長職、CEO職、そして会長職を退任し、ビル・ジョンソンに引き継ぎました。 ハインツが日本に上陸したのは1961年ですから、その間にハインツ社では3代目社長のジャックから6代目のビル・ジョンソンまで4人の社長を経験したことになります。
1961年、ハインツは日魯漁業(現在の株式会社ニチロ)との合弁会社、日魯ハインツ株式会社をスタートさせました。初代社長は雨宮栄蔵、2代目はカナダ人のモーリス、3代目はアメリカ人のマーガス、4代目はオーストラリア人のバールと外国人社長の経営が続きましたが、設立後10年間は経営を軌道に乗せることができませんでした。
1970年に5代目社長の浅井和夫が就任。この年にハインツ日本はデミグラスソースの商品化に成功します。これが現在の当社の基盤を作ることになりました。この本格的なデミグラスソースの開発の指揮をとったのが、ヨーロッパでシェフの修行をした後、1964年にハインツ日本に入社した稲田英男です。
ハインツ日本の業績を心配した米国本社は、シェフで米国司厨士協会会長の経験を持つポール・レスケを送り込み、日本ではどんな商品なら売れるのか、その調査をさせました。このとき彼を助けたのが、全日本司厨士協会の会長でレスケと交友関係にあった斎藤文次郎氏でした。
2人は斎藤氏の案内で日本のレストラン、料理店を食べ歩きます。その結果、「日本で成功するには、日本人の舌に合う独自の商品の開発が必要だ」という結論に至ったレスケは、斎藤氏に日本人シェフの仲介を依頼します。当時、丸の内ホテルの総料理長だった斎藤氏は自分の部下で全日本司厨士協会の第1回欧州派遣団から帰国したばかりの稲田を推薦したのでした。
ハインツ日本に入社した稲田は、さっそく商品化の候補を検討しました。そして、最初に注目したのがデミグラスソースでした。
デミグラスソースを厨房でつくるには、まず牛の骨やスジ肉、香味野菜などでダシ(フォン)をとり、別の鍋で小麦粉と油脂を焦がさないように微妙な温度調整をしながら長時間、炒めてブラウンルゥを作ります。このフォンとブラウンルゥをあわせてソースエスパニョールをつくり、それを煮詰めます。半分の量になるまで丁寧に煮詰めることで光沢が出て鏡のようになることから、フランス語の“半分=デミ”と“鏡=グラス”を合わせてデミグラスソースという名前がつけられたのです。
このように膨大な手間と時間とコストがかかることから、稲田自身もプロの料理人として「デミグラスソースが最初からあったら、いつでも料理にとりかかれるのに・・・」という思いを抱いていました。そこで、米国のハインツ本社でも着手していなかったデミグラスソースの商品化に着手したのです。
気さくで温和な人柄であった稲田ですが、仕事では緻密で妥協を許しませんでした。そしてシェフだからこそ限りなく厨房に近い作り方にこだわりつつ、それを工場の生産工程に置き換えるという困難な作業に挑戦したのです。
特にハインツのデミグラスソースの大きな特長であるブラウンルゥの製造は困難を極めましたが、和菓子の餡(あん)を煉るのに使われていたレオニーダーという機械の導入により問題を解決。ついに1970年に、業務用デミグラスソースの発売にこぎつけました。そして 1972年には、家庭用のデミグラスソースとホワイトソースを発売したのです。以来、ハインツのクッキングソースは日本の洋食文化に欠かせないものとなりました。
ハインツ日本の現在のデミグラスソースとホワイトソース、そして、そこから派生したさまざまな洋風ソースには、今も稲田英男が最初にデミグラスソースを開発したときのプロの料理人としての味づくりのこだわりが受け継がれてます。
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