ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト[注釈 1](ドイツ語:Wolfgang Amadeus Mozart、1756年1月27日 - 1791年12月5日、35歳没)はオーストリアの音楽家[注釈 2]。
洗礼名はヨハンネス・クリュソストムス・ウォルフガングス・テオフィルス・モザルト [Johannes Chrysostomus Wolfgangus Theophilus Mozart]。
ハイドンやベートーヴェンと同じく古典派音楽・ウィーン古典派を代表する人物[1]
晩年[編集]
ウィーンではピアニストとして人気があったが、晩年までの数年間は収入が減り、借金を求める手紙が残されている。モーツァルト自身の品行が悪く、浪費癖に加えて、高給な仕事に恵まれなかったことが大きな原因であるが、モーツァルトの天才に恐れをなした宮廷楽長アントニオ・サリエリらのイタリアの音楽貴族達が裏でモーツァルトの演奏会を妨害したため、収入が激減したとする憶説もある。
1790年1月、オペラ 『コジ・ファン・トゥッテ(女はみなこうしたもの)』 K.588を初演する。2月には皇帝ヨーゼフ2世が逝去し、レオポルト2世が即位する。モーツァルトはフランクフルトで行われた戴冠式に同行し、同地で私費を投じてコンサートを開催し、ピアノ協奏曲26番ニ長調 K.537「戴冠式」、同19番ヘ長調 K.459「第二戴冠式」などを演奏するも聴衆は不入りだった。
1791年 1月、最後のピアノ協奏曲となる第27番 K.595を作曲する。この曲を自ら初演した3月4日のコンサートが演奏家としてのモーツァルトの最後のステージとなった。7月には、第6子フランツ・クサーヴァー・モーツァルト(モーツァルト2世)が誕生する。9月、プラハで行われたレオポルト2世のボヘミア王戴冠式でオペラ 『皇帝ティートの慈悲』 K.621を初演。
9月30日、シカネーダーの一座のためにジングシュピール 『魔笛』 K.620を作曲・初演するなど作品を次々に書き上げ精力的に仕事をこなしていたが、9月のプラハ上演のときにはすでに体調を崩し、薬を服用していたという。
体調は11月から悪化し、レクイエム K.626に取り組んでいる最中の11月20日から病床に伏し、2週間後の12月5日0時55分にウィーンで死去した。35歳没。
死に際して聖職者たちが来るのを拒み、終油の儀は受けていない。
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