喜多圭介のブログ

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金子みすゞ(3)

2007-01-31 11:16:19 | 俳句・短歌と現代詩
米国のベトナム戦争以後、帰還兵のなかに精神の異常の見られる人が多くなり、このことが拍車をかけたのだろう、日本でも精神医学の急速な進歩を促す結果となった。

精神医療が一般にも普及、と同時に今日の日本の社会構造のなかで精神の悩める人々が急増、青少年のなかにはリストカットという神経障害が深刻である。

それだけにもしかしたら自分は神経症に陥っているのではないかと、気軽に神経科の専門医、あるいは「○○クリニック」といった病院での診断を受けられる風潮にもなってきた。

ときは大正時代、精神医学、精神医療の分野は、いまほど発達も普及もしていなかった。一般の人にとってはこういった方面の情報すら入手できない時代である。したがって自分が神経症を負っていることなどは本人も肉親も気付かなかった。もっともあまりにもひどいときは世間体をはばかって、家の中に座敷牢を造作、隔離していた家もあったようだが。子供の頃であったが、白壁の土蔵に閉じ込められ、登校することもなくそこで生活していた、年長の子供のいたことを私は記憶している。

このような時代に育った金子みすゞの精神はどのようなものであったか。彼女は二十六歳で自殺していることを記憶しておきたい。

みすゞの生まれたときの家族構成は父、母、祖母、兄の五人家族だが、のちに弟が生まれている。父は彼女の三歳の時に死去、弟はその一年後に下関の上山家に養子に出され、母は彼女の十六歳の時に兄とみすゞを残したまま再婚。二十歳まで彼女は仙崎で祖母、兄との三人暮らしであったが、二十歳の時に母の嫁いだ上山家に移り住み、義父、実母、弟と暮らすようになる。

概略、こうした環境の中でみすゞは生育し青春時代を過ごしている。私は矢崎節夫氏の著書を読んでいないのでなんとも明確なことは言えないが、みすゞが死に至るまでには謎が隠蔽されているのではないかと想像している。

高遠氏の著書の中での指摘であるが、みすゞが直接的に母をテーマにした詩は少ないそうである。また亡き父、祖母、兄の少年時代は愛情を込めて詠んでいるが、母と弟のことは屈折した思いを込めて詠っているそうである。

読者はこうした事実を踏まえてみすゞの詩に触れていったほうが、みすゞの詩の真実に迫れるのではないか。

私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、
地面(じべた)を速くは走れない。
私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように
たくさんな唄は知らないよ。
鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。

この詩について高遠氏は以下のように述べておられる。

『この詩はみすゞが娘を出産した約一年後に作られたものと思われる。比喩は詩の生命なので、この詩にも比喩が使われていると考えれば、小鳥は夫、鈴は娘の比喩だと容易に読み取れる。その頃のみすゞの生活状況は悲惨だった。夫は義父と絶縁された為、実家の熊本へ一時みすゞと共に身を寄せたが、そこでも受け容れられなかった為にまた下関へ舞い戻り、食料玩具店を始めるのだが、その頃夫は遊郭に入りびたり、その為に彼女も発病する。みすゞは生活費もままならず、実家にも頼れず、乳呑み子をかかえた彼女が家に寄りつかない夫に対し、家族愛を懐疑的に詠んだのがこの詩である。』――引用『詩論 金子みすゞ』

なぜ高遠氏がこの詩を採り上げたかといえば、この詩が教科書に掲載されているからである。この詩が教科書掲載に適切な詩であるかに疑念を持たれ、教育関係者に再考を促しておられる。

私は高遠氏の指摘はもっともな見解ではないかと思う。私は「みんなちがって、みんないい。」は、その前のどことなくネガティブな色合いの比喩と付き合わせてみると、なかなか曲者の表現だな、と感じている。一見、各自の個性尊重を表現しているように見えるのだが、はたしてそうなのか、という疑念が残る

明治・大正・昭和の日本史を通読して、みすゞがこの詩を詠った頃の社会に、一般人の「個性尊重」の思想と言葉は標榜(ひょうぼう)されていたのか、社会風潮になっていたかである。ノウである。確かに大正十一年には「元始、女性は太陽であった」で著名な平塚らいちょうらによる女性自身の解放運動が、大正デモクラシーの風潮のなかであったが、この運動自体は女性差別の解放、女性の社会進出への自覚が目的のものであり、「個性尊重」の思想にまでは行き着かなかったのではないか。まして下関に住んでいたみすゞの脳裏に、女性解放や「個性尊重」の思想が自覚されていたかどうかははなはだ疑問である。もし女性解放だけでも自覚されていたのなら、なぜ彼女は自分の詩の才能を見出してくれた西條八十を頼って上京しなかったのか。上京の衝動に駆られておかしくない年頃であった。この辺の事情について矢崎氏の著書は触れておられるのだろうか。

私は(1)と(2)でみすゞのそれぞれの詩の最後の二行辺りの表現をそのまま素直に受け取っては、みすゞの真実には迫れないのではないか、大きな過誤を残すことになるのではないかをさりげなく指摘したのだが、この詩においても「みんなちがって、みんないい。」を個性尊重の表現とは思えないのである。やけのやんぱちに投げ出したニュアンスを視る。高遠氏が言及しているように「家族愛を懐疑的に詠んだ」のかもしれない。あるいは私がみすゞの詩を幾篇か読んで実感する、投げ遣り偽装表現かもしれない。ただその投げ出し方が実に巧い。だから真実を惑わされやすい。この辺に天性の詩人感覚がある。

このような疑義の残る詩を教科書に掲載し、教師は子供に何をどう教えるのか。みすゞの詩の真髄に迫っている教師は、教えることに戸惑うであろうし、逆に生半可な知識しか持たない教師は、子供に間違ったことを教え込んでしまう危険性がありはしないか。

私は一概にこのようなみすゞの詩を教科書に掲載すべきではないと言及しているのではない。高校生の教科書であれば、こうした詩を教材に教師と生徒でデスカッションでもすれば教育効果は深まると思うが、小学生の教科書に採択されていることが適当なのかどうかである。

と、このようなことを書いてみたが、私はこの詩にも無意識ではあっても偽装癖のついた金子みすゞの哀しみの心境を視てしまう。

私は心的障害を背負った女性を幾人か知っているが、共通していることは案外強がりに生きようとしていることである。ときには他者を攻撃する言辞を弄(ろう)する。攻撃こそ傷心への防御である。その強がりに私は彼女たちの哀しみを視る

みすゞの詩篇に他者を攻撃するような詩はみられないと思うが、彼女の詩篇にはこれに代わるニヒリズム、自己放擲、投げ遣り偽装表現が底流していたのではないか。

◆金子みすゞの詩
詩集の館

金子みすゞ(2)

2007-01-31 11:05:35 | 俳句・短歌と現代詩
矢崎節夫氏の金子みすゞ発掘に係わる経緯を書いた著書を読んでいないので、根拠のあることはいえないが、発掘の発端になったのが以下の詩であったことを何かで読んだことがある。それでここに採り上げてみた。

大漁
朝やけ小やけだ
大漁だ
大ばいわしの
大漁だ。
はまは祭りの
ようだけど
海のなかでは
何万の
いわしのとむらい
するだろう。

詩の読み取りは様々な解釈がなされる。様々な解釈を誘う詩ほど膨らみがあってよいともいえる。矢崎氏は「大漁」の何処に瞠目されてみすゞ発掘の発端に繋がったのかわからないが、おそらくは「いわしのとむらい/するだろう。」でひっくり返ったのではないだろうか。

金子みすゞは大正時代の詩人である。海の魚介類が大量死する環境汚染という言葉には無縁の時代である。このような時代に「いわしのとむらい/するだろう。」といった視点を持ち得た若き女性詩人がいたことに衝撃を受けるのは当然であろう。

時節柄タイミングのいい詩を発見したことになる。

しかしこの詩が環境汚染に係わる詩でないことは大方の知るところであろう。人にとって大漁であれば、魚群仲間にとっては大層な弔いになることに、みすゞは思い至ったのであり、当然な表現といえばいえるが、大正時代にこのような視点を獲得していた詩人は稀有であっただろう。

が、私はこのことを言及したいために「大漁」を持ち出したのではない。(1)に掲載した以下の詩と比較してどうだろうか。

「帆」
港に着いた舟の帆は、
みんな古びて黒いのに、
はるかの沖をゆく舟は、
光りかがやく白い帆ばかり。

はるかの沖の、あの舟は、
いつも、港へつかないで、
海とお空のさかいめばかり、
はるかに遠く行くんだよ。
かがやきながら、行くんだよ。

どうも「いわしのとむらい/するだろう。」と「海とお空のさかいめばかり、/はるかに遠く行くんだよ。」は、みすゞの胸中の波長は同類のものではないか。つまり「いわしのとむらい/するだろう。」の表現を想起したときのみすゞの心情は、魚の大量死に悲しみの目を向けているのではなく、'''自己の胸中に潜んでいる「死への思い」が、このような形で浮上したのではないか'''。

「いわしのとむらい/するだろう。」とぽんと言葉を投げ出せる詩精神は、通常の詩人にはみられないことではないか。常日頃から胸中に「死」を育てていたみすゞのニヒリズムを前提に推察しないと、このキレの良さは納得できない

みすゞの詩がすべてニヒリズム、ネガティブな作品であるわけはないだろうが、以下の作品はどうだろうか。彼女は最後の節で自己否定している。死を育てる人間の言葉は、常日頃から自己否定の影を帯びやすい。

お花だったら
もしもわたしがお花なら、
とてもいい子になれるだろ。
ものが言えなきゃ、あるけなきゃ、
なんでおいたをするものか。
だけど、だれかがやって来て、
いやな花だといったなら、
すぐにおこってしぼむだろ。
もしもお花になったって、
やっぱしいい子にゃなれまいな、
お花のようにはなれまいな。

しかしながらそれがためにみすゞはしょげしょげしたタイプの女性かというとそうではなく、繊細でもあり理知でもあり、なによりも気丈夫なタイプではなかったか。一九三十年三月十日の夜、カロチンを服毒して自殺する寸前まで、きりぎりの思いで気丈に生涯を生ききったのであろう。夫により詩作を禁じられ、その上に愛娘を奪われては、彼女に何が残ったのであろうか。絶望以外の何もなかった。この世の中は生と死しか選択肢はない。

生を絶たれれば死を選ぶ、潔い処世の精神を保持していたがゆえにニヒリズムが顔を覗かすが、それはひねくれたニヒリズムではなく、一種の悟りのように思える。釈迦の思想も健康なニヒリズム(無常観)である。

金子みすゞ(1)

2007-01-31 10:47:38 | 俳句・短歌と現代詩
矢崎節夫氏によって発掘され、5、6年前にはブームとなった金子みすゞの詩群のなかで、私の気に入っている一篇が以下であります。

「帆」
港に着いた舟の帆は、
みんな古びて黒いのに、
はるかの沖をゆく舟は、
光りかがやく白い帆ばかり。

はるかの沖の、あの舟は、
いつも、港へつかないで、
海とお空のさかいめばかり、
はるかに遠く行くんだよ。
かがやきながら、行くんだよ。

この詩は小説創作の基本を説明するのに実に具合のいい詩である。もちろん詩には韻律とか内在律といったリズム感が不可欠なので、小説と同列ではないことは承知のことであるが。

一節の「港に着いた~白い帆ばかり。」は、みすゞが目視して実感したことの描写である。二節に入ってみすゞは描写を屈折させて自らの主観をさりげなく投げ出している。この詩の中には小難しい解説も説明もない。

これが詩や小説を創作するときの基本態度である。

「港に着いた舟の帆は、/みんな古びて黒いのに、」にはみすゞの不幸な境遇が反映されている。その気持ちを「はるかの沖をゆく舟は、/光りかがやく白い帆ばかり。」と切り替えるのが、みすゞのさまざまな詩の特徴である。視点の転換によりこの詩を読む読者に想像の余白を残す。みすゞの詩作の巧みさであり、みすゞファンにとっての魅力であろう。

この巧みさがみすゞの天性の資質からのものであるかどうか、ここを検証していくのがみすゞ研究者にとっての魅力であろうが、私はみすゞ研究者でないのでそこまでは探求しない。

小説創作もこのようなものでないかと思うのが、日頃小説創作に腐心している私の持論である。描写でもない説明文かメモ書き程度のことをだらだらと書いて、それを小説創作と誤解している諸氏、小説風体裁の中で人生論めいたことを得々と展開している諸氏、このみすゞの一篇を味読し、詩とは、小説とは本来このようなものであることを認識してもらいたいと思う。

この詩は一節だけでは詩にならない。二節があって詩として存在する。このことは小説でも同様で、文章による現実描写だけでは写真芸術やビデオ映像に勝てないし、それだけでは小説として成立しない。やはり小説にも二節が不可欠となる。

二節の「海とお空のさかいめばかり、」と「はるかに遠く行くんだよ。」。ここはみすゞの曲者精神が象徴されている箇所で、単純な読み取りはできない。みすゞの深層心理の深遠な部分が、このような形でふっと浮遊したと読みとっている。「はるかに遠く行くんだよ。」と書いてあれば、不遇のみすゞがそれでもなお明るい未来に夢をかけて生きているように思えそうだが、「海とお空のさかいめばかり、」という一見投げ遣りな、それでいて写実的表現と繋いでみると、はたしてこの詩が明るい方向に向かっているかどうかはあやしいものである。

この短詩から私はいろいろなことを思索し、想像する。小説とてプロの佳作、秀作ともなれば何気なく書いてあるように見えても、そこに作者の深い計らいが隠されている。それを読みとれるかどうかは読者の鑑賞眼による。人生とは、愛とはこれこれである、とわかりやすく力説したものは、小説といえないものが多い。

小説も一節の描写は修練していれば修得していけるものだが、二節が難しい。ここに作家の過去から現在までのすべての経験、体験、これらからもたらされた心境が総動員されるからである。そして総動員をかけられない人は、いくら創作していても佳品一つ創作できないかもしれない。

みすゞの場合は、それを表現しうる詩人であったということである。

付け加えると、この詩は暗い境遇の中にいるみすゞが、その境遇に負けまいと自分の将来に光り輝くものを視ようとした詩と解釈すると、そこには大きな過誤があると思われる。教科書掲載はその過誤を犯したまま、みすゞの詩を掲載しているのではないか。よい子を育てるのが教科書の目的であるから。

みすゞは決してよい子ではなかった筈だ

ただこの一篇の詩にもみすゞの哀しみは見て取れる。私はこの詩に、むしろ人生を投げ捨てたみすゞの諦観を読みとってしまう。みすゞの詩篇に明るさが見られるときは、それはみすゞの偽装ではないか、そう疑って読むほうが、真のみすゞに迫れるのではないか。私はこの詩を読んでも明るい未来に向かって、と鼓舞されるような気持ちにならない。私は「はるかに遠く行くんだよ。」を天上の蓮の花園の仏の世界のように受け取ってしまう。

ここでみすゞの詩とは無関係であるが、以下のことについて私なりの感想を述べておこう。

高遠氏は著作『詩論 金子みすゞ』の最終章「金子みすゞを童心詩人と呼ぼう」―金子みすゞの最後―で、かなり熱っぽくみすゞの自殺について、多少の共通項があるということで林芙美子の生き方と比較して述べられているが、果たして著書のタイトルから見ると、ここは蛇足ではなかったか、少なくとも詩論から逸脱した項目ではなかったかという疑問が残った。

論建ての動機を「金子みすゞが時代と社会に負けて死を選んだのではなく、自分に負けて自殺したと言うことを論証」するためと述べておられるが、「時代と社会に負ける」とか「自分に負ける」という固定観念そのものが、今日の精神医学の発達、青少年や女性の置かれている複雑な状況から鑑みて、いかにも古びたアナクロニズムなものでないか。したがって帰結する論法はお粗末な比較論、晩年を全うした林芙美子との比較である。勉強の出来る子供と出来ない子供を並べて、出来ない子供に出来る子供のあれこれの努力を並び立てて諭すようで、私は強者の粗雑な論理ではないかと、たいへん違和感を覚えた。これでは筆者は本当にみすゞの境遇、心情に思い至っておられるのか疑問を禁じ得ない。

年譜によるとみすゞは《昭和三年(一九二八年 二十五歳)三月、島田忠夫、商品館にみすゞを訪ねるも、上新地の自宅に病臥していて会えず。十一月号の『燭台』に《日の光》、『愛誦』に《七夕のころ》が掲載。この前後に、夫より詩作と手紙を書くことを禁じられ、以後発表作なし。同じ頃夫より淋病を移され、体調を崩し始める。 昭和四年(一九二十九年 二十六歳)春、下関市上新地町百十九に移る。この夏から秋にかけて、三冊の遺稿集『美しい町』、『空のかあさま』、『さみしい王女』清書(一組は西條八十に、もう一組は正祐に託す)。夏、四回目の引っ越し、下関市上新町二千四百四十九。この後病の床に伏している。九二十六月日付の葉書に〈朝雑巾がけをすこししたら、また五日やすみました〉とある。秋、遺稿集の清書終わる。十月より、娘ふさえの言葉を採集する、『南京玉』を書き始める。》とある。

薄幸な育ちのみすゞは、それでも詩作を頼りにひたすら生き抜こうとした。みすゞにとって詩作と手紙を書くことを禁じられことは、自らの人生を閉ざすことに等しい。このときの絶望感を、『さみしい王女』の巻末手記で次のように書いている。

巻末手記
――できました、
できました、
かはいい詩集ができました。
我とわが身に訓(をし)ふれど
心 をどらず
さみしさよ。
夏暮れ
秋もはや更けぬ、
針もつひまのわが手わざ、
ただにむなしき心地する。
誰に見せうぞ、
我さへも、心足(た)らはず
さみしさよ。
(ああ、つひに、
登り得ずして帰り来し、
山のすがたは
雲に消ゆ。)
とにかくに
むなしきわざと知りながら、
秋の灯(ともし)の更(ふ)くるまを、
ただひたむきに
書きて来し。
明日(あす)よりは、
何を書かうぞ
さみしさよ。

ともかく当時も現代も自殺を上記のような一面的捉え方は、私には笑止でしかない。

みすゞは生涯に五百十二篇の作品を遺した。この中で矢崎節夫氏が遺書と思える詩に以下を揚げておられる。全集の一番最後に書かれている、「きりぎりすの山登り」。これが自分に負けた弱い女の詩であろうか。したたかな詩である。

きりぎっちょん、山のぼり、
朝からとうから、山のぼり。
 ヤ、ピントコ、ドッコイ、ピントコ、ナ。
山は朝日だ、野は朝露だ、
とても跳ねるぞ、元気だぞ。
 ヤ、ピントコ、ドッコイ、ピントコ、ナ。
あの山、てっぺん、秋の空、
つめたく触るぞ、この髭に。
 ヤ、ピントコ、ドッコイ、ピントコ、ナ。
一跳ね、跳ねれば、昨夜見た、
お星のところへ、行かれるぞ。
 ヤ、ピントコ、ドッコイ、ピントコ、ナ。
お日さま、遠いぞ、さァむいぞ、
あの山、あの山、まだとおい。
 ヤ、ピントコ、ドッコイ、ピントコ、ナ。
見たよなこの花、白桔梗、
昨夜のお宿だ、おうや、おや。
 ヤ、ドントコ、ドッコイ、ピントコ、ナ。
山は月夜だ、野は夜露、
露でものんで、寝ようかな。
 アーア、アーア、あくびだ、ねむたい、ナ。

もしみすゞの自殺に触れるのであれば共通項云々ではなく、芥川龍之介、有島武郎、太宰治なども共に論じる別タイトルの著書を一冊お書きになるのが妥当ではなかったか。同様な辛苦を嘗めただれそれは晩年を全うしたのに、みすゞはこの程度の不遇に負けて自殺したのか、と批判することは詩論にとっても、みすゞの詩業にとってもなんの益もないことではないか。

こういう詩を創作するみすゞは、すでに死を内包した詩人であったということである。みすゞの冥福を敬虔に祈ることのみが、みすゞへの愛ではないかと私には思える。いつの日かみすゞの墓前に詣ることがあれば、私は一輪の白い花を手向けたいと思う。

十代から三十代辺りの女性群にみすゞブームがなぜ湧き起こったか。この辺のことも考察してみると面白いと思うが、このブームの根底には昨今、傷心を抱いて神経症になったり、引き籠もっている女性群が多いことと無関係ではないように想像している。「春」を早く知りすぎた少女、親による言葉や暴力での児童虐待、幼児期における性虐待を負った女性が辿る道筋は無明である、空虚が広がる。彼女たちはみすゞの詩を読むことで癒されたのではないか。こうした女性群にとってはみすゞの詩群は癒しの詩となった。傷心の女性同士が交感しうる詩がみすゞの詩群であり、時節柄タイミングよく矢崎節夫氏はみすゞを発掘したのである。

金子みすゞについて少し書いてみようかと思ったのは、高遠信次氏から氏の著作『詩論 金子みすゞ』を寄贈していただき、一読させて貰ったからである。最終章の一部の項目に異論は持ちつつも、この著作は高遠氏が正直な人柄を吐露しつつ、金子みすゞの詩の真実に迫真していこうと努力された、好感の持てる内容である。

悲愁の文学――太宰治論

2007-01-31 00:23:14 | 文藝評論
10 むすび


生活破綻者の文学では太宰以外にも太宰が親近感を持った葛西善蔵や檀一雄、坂口安吾といないこともないが、躁鬱病との関係を作品で如実に表現したのは太宰一人ではなかったか。

太宰は渡世上では道化芝居を演じたが、文学上では終生、俗物的妥協、堕落をしなかった、というよりも太宰の躁鬱精神がこれを許さなかった。世には若い頃の純粋性を何処に置き忘れたのか、ちっぽけな功なり名遂げると、いっぱしの文化人、作家気取りの人物をまれに見かける。だが太宰は、当時の文壇の権威に追従したり、利用することもなく、大衆、時流に阿(おもね)ることもなく、孤高のひとであった。

この辺のことも実は太宰の健全精神からそうであったと考えるよりも、躁鬱は自分のことしかみえない、エゴイズムな感情に囚われやすい症状であるからこそ、純粋性を保ち得たのかもしれない

太田静子との関係では太宰の身勝手が顕著であるが、この点についてはいずれ『斜陽』、『人間失格』を考察する機会があれば、そのときに譲りたい。

『風の便り』、『虚構の春』で他人との手紙や葉書の遣り取りをデフォルメして利用した節がないわけでもないが、これとても太宰の躁鬱を考慮すると、自らは世間の常識から外れた無心の行為であったとみなしてもよい。

いずれにしても太宰のall-or-nothingの矜持(きょうじ)を、私は高く評価したい。

昨今太宰のように躁鬱を抱えながら作家を目指している若者は、増加傾向にある。こうした人たちに全九巻の小説と一巻のエッセーを遺した太宰文学は、死への誘(いざな)いでなく、生への執着を鼓舞する勇気を与えてくれると、私は考えている。

私はこの小論において現代の精神医学の面から太宰を躁鬱気質として扱ってきたが、考察する間において、頭に去来していたのはニーチェが著した次の文章であった。もし太宰がディオニュソス的人間の遺伝子を精神健常と認められている人たちよりも色濃く持っていたとしたら、あるいは我々が作り上げた、あるいは構築しようとしている現代社会そのものが、ディオニュソス的人間を疎外し続け、さらに躁鬱気質やら分裂症の人間を増大していくのではないかという懸念であった。

ディオニュソス的人間というのは、この意味ではハムレットに似ている。両者はともに事物の本質を本当に見ぬいた、つまり〈見破った〉ことがあるのだ。そこで彼らは行動することに嘔吐をもよおすのである。なぜなら、彼らがどのように行動したところで、事物の永遠の本質にはなんの変わりもないのであり、関節がはずれてしまったこの世を立てなおす務めなどをいまさら負わされることに、彼らは滑稽を感じ、あるいは屈辱感しかいだかないからである。認識は行動を殺す、行動するためには幻想(イルージョン)のヴェールにつつまれていることが必要だ――これがハムレットの教えであって、多すぎる反省のために、いわば可能性の過剰から、行動するに至らない夢想家ハンスのあの安っぽい知恵ではないのだ。行動へかりたてるすべての動機を圧倒するのは――反省なんかでは断じてない!――真の認識、身の毛のよだつ真実への洞察なのだ。ハムレットの場合も、ディオニュソス的人間の場合も。こうなるとどんな慰めももはや役に立たない。あこがれは世界を飛びこえ、神々さえ飛びこえて死に向う。生存は、神々や不死の彼岸におけるそのまばゆい反映もろとも、否定される。ひとたび見ぬいた真実の意識のうちに、今や人間はあらゆる所に存在の恐怖あるいは不条理しか見ない。今や人間はオフェリアの運命にひそむ象徴的なものを理解し、森の神シレノスの知恵を認識するのだ。彼は嘔吐をもよおすのである。

この時、意志のこの最大の危機にのぞんで、これを救い、治癒する魔法便いとして近づくのが〈芸術〉である。芸術だけが、生存の恐怖あるいは不条理についてのあの嘔吐の思いを、生きることを可能ならしめる表象に変えることができるのである。(後略)

ニーチェ著『悲劇の誕生』より

ニーチェは八十九年一月三日(四十四歳)、イタリアはトリノのカルロ・アルベルト広場で昏倒し、精神錯乱のまま一九〇〇年八月二十五日ワイマールに没す。


◆縦組み体裁で読みたい。
悲愁の文学

悲愁の文学――太宰治論

2007-01-30 00:08:28 | 文藝評論
9 死への安らぎ


美知子との結婚生活で情緒の安定した創作活動に入っていき、次々と佳作を発表していたので、そのままに推移すれば命を縮めることもなく、武者小路実篤、谷崎潤一郎、佐藤春夫、川端康成らと並んで戦後の文壇の大御所として活躍したことだろうが、そうはならず、女性関係の縺(もつ)れから山崎富栄と共に死出の旅路となった。

つくづく惜しいことだが、なんども自殺、心中を繰り返してきた太宰にしてみれば、やっと死ぬことが出来た、皆さん、グッド・バイの心境だったかもしれない。

このとき太宰の胸に去来していたことは、妻子のことだった。とくに自分亡き後の妻の美知子のことだが、美知子は理性のある妻だったので後事を託すに足る女性と太宰はみていた。『おさん』という作品に次のような箇所がある。

雨がやんで、夫は逃げるようにそそくさと出かけ、それから三日後に、あの諏訪湖心中の記事が新聞に小さく出ました。

それから、諏訪の宿から出した夫の手紙も私は、受取りました。
「自分がこの女の人と死ぬのは、恋のためではない。自分は、ジャーナリストである。ジャーナリストは、人に革命やら破壊やらをそそのかして置きながら、いつも自分はするりとそこから逃げて汗などを拭いている。実に奇怪な生き物である。現代の悪魔である。自分はその自己嫌悪に堪(た)えかねて、みずから、革命家の十字架にのぼる決心をしたのである。ジャーナリストの醜聞(しゅうぶん)。それはかつて例の無かった事ではあるまいか。自分の死が、現代の悪魔を少しでも赤面させ反省させる事に役立ったら、うれしい。」

などと、本当につまらない馬鹿げた事が、その手紙に書かれていました。男の人って、死ぬる際(きわ)まで、こんなにもったい振って意義だの何だのにこだわり、見栄(みえ)を張って嘘(うそ)をついていなければならないのかしら。

夫のお友達の方から伺(うかが)ったところに依(よ)ると、その女のひとは、夫の以前の勤め先の、神田の雑誌社の二十八歳の女記者で、私が青森に疎開していたあいだに、この家へ泊りに来たりしていたそうで、姙娠(にんしん)とか何とか、まあ、たったそれくらいの事で、革命だの何だのと大騒ぎして、そうして、死ぬなんて、私は夫をつくづく、だめな人だと思いました。

革命は、ひとが楽に生きるために行うものです。悲壮な顔の革命家を、私は信用いたしません。夫はどうしてその女のひとを、もっと公然とたのしく愛して、妻の私までたのしくなるように愛してやる事が出来なかったのでしょう。地獄の思いの恋などは、ご当人の苦しさも格別でしょうが、だいいち、はためいわくです。

気の持ち方を、軽くくるりと変えるのが真の革命で、それさえ出来たら、何のむずかしい問題もない筈です。自分の妻に対する気持一つ変える事が出来ず、革命の十字架もすさまじいと、三人の子供を連れて、夫の死骸を引取りに諏訪へ行く汽車の中で、悲しみとか怒りとかいう思いよりも、呆(あき)れかえった馬鹿々々しさに身悶(みもだ}えしました。

太宰は美知子を自分の自殺(心中)についてこのような分析のできる妻と思い、自分が亡くなったあとも、しっかりと子どもを育てて生きていくだろうと予想していた。

またこの箇所で、太宰は自分の今回の所業についても自己批判的分析をしているが、太田静子、山崎富栄、それに妻の美知子まで巻き込んだ女性問題に収拾不能となり、神経が疲弊、創作意欲すら喪失。事がややこしくなると発作的に自殺衝動に駆られてしまう太宰の症状からすれば、自殺するか山崎富栄との心中しか選択肢がなかった。

心中する一年ほど前の富栄の日記には次のことが書かれている。富栄は太宰との死を覚悟していた。こうした気持ちの富栄を太宰はそのままにしておくことができなかった。むしろ富栄のほうに死への積極性がある。もし富栄が、私はあなたと別れるから奥さん、子どもさんと生きて、と言ったなら、太宰は安堵してそうしただろうが、太宰は「死ぬ気で、死ぬ気で恋愛してみないか。」と富栄に囁いてしまった。太宰がこうした約束事に命がけになるのは、『走れメロス』でわかる。女を騙す世間の中で、裏切らない、誠実といえば誠実であるが、太宰は自ら足枷(あしかせ)を嵌めてしまった。富栄の七月十四日の日記には、

親より先にしぬということは、親不孝だとは知っています。でも、男の人の中で、もうこれ以上の人がないという人に出逢ってしまったんですもの。お父さんには理解できないかもわかりませんけど。太宰さんが生きている間は私も生きます。でもあの人は死ぬんですもの。あの人は、日本を愛しているから、芸術を愛しているから、人の子の父の身が、子を残して、しかも自殺しようとする悲しさを察してあげてください。私も父母の老後を思うと、切のうございます。

でも、子はいつかは両親から離れねばならないですもの。人はいつかは死なねばならないんですものね。

長い間、ほんとうに、ほんとうにご心配ばかりおかけしました。子縁の少ない父母様が可哀想でなりません。

お父さん、赦してね。富栄の生き方はこれ以外にはなかったのです。お父さんも、太宰さんが息子であったなら、好きで好きでたまらなくなるようなお方です。

老後を蔭ながら見守らせてくださいませ。

私の好きなのは人間津島修治です。


と書いて、一年後の覚悟を付けてしまっている。これでは太宰には心中以外の逃げ道はなかった。

悲愁の文学――太宰治論

2007-01-30 00:06:40 | 文藝評論
8 罪の意識


太宰文学論には、従来から評論家の奥野健男氏が指摘する問題が論議されてきた。

太宰の〈罪の意識〉、〈原罪〉の問題である。最初にこのことを指摘したのは亀井勝一郎の『太宰治の人と作品』ではなかったかと思うが、私が高校生の頃かに読んだので記憶は定かでない。以下は奥野健男氏の『太宰治』の一節である。

彼をして自己をマイナスの存在と強く意識させた直接の動機は、コミニズムの実践運働からの脱落です。富豪の生家に対する反逆と、「他の為」になりたい、弱い者の味方になりたいという倫理感から、つまり下降指向によつて彼は学生時代コミニストとして、その運動に自己のすべてを賭けました。(中略)非合法運動の、肉体的精神的疲労に達した時、彼は逃亡し、その裏切りの罪意識から、偶然知り合った女性と入水自殺を計りました。彼は自己をもつと患劣なかたちで途絶えさせようとしたのです。だが彼だけは死ねず、生き残りましたた。この卑劣な行為が、彼に烈しい倫理的な負い目を与えます。いや彼はこの罪の意識を持つたことにより、始めて生きて行く理由が見つかつたのです。

太宰の非合法活動、左翼との関わりについてはすでに見てきた通りであり、はたして〈烈しい倫理的な負い目〉を太宰はその後終生背負ったかとなると、私は疑問である。もちろんなんらかの〈後ろめたさ〉はずっと曳いており、晩年の作品では自分の脱落を自己弁護したような作品もみられる。

しかし〈倫理的〉、〈罪の意識〉となると、このことに太宰が真剣に囚われ、苦悩してきたかと作品を検証していくと、そのような深刻な意識下での作品は一つもないというのが、私の感想である。

太宰の作品には〈神〉、〈キリスト〉、〈聖書〉という語彙が出てくる――キリスト。私はそのひとの苦悩だけを思った。(『苦悩の年鑑』)――が、これは太宰が聖書に親しんでいたという事実を明らかにしているだけのことで、これを真摯な信仰、懺悔に結びつけていくような作品はみられない。

太宰は聖書を創作のヒントにしていただけにすぎない。と同時に肩肘張って懸命に生きている姿勢への慰安に読んでいたにすぎない、と言えば言い過ぎだろうか。『風の便り』に次のような箇所がある。

私のいまの仕事は、旧約聖書の「出エジプト記」の一部分を百枚くらいの小説に仕上げる事なのです。(中略)自分の醜態を意識してつらい時には、聖書の他には、どんな書物も読めなくなりますね。そうして聖書の小さい活字の一つ一つだけが、それこそ宝石のようにきらきら光って来るから不思議です。

どうも私は、立派そうな事を言うのが、てれくさくていけません。モーゼほどの鉄石の義心と、四十年の責任感とを持っているのならとにかく、私の心の高揚は、その日のお天気工合等に依って大いに支配されているような有様ですから、少しもあてになりません。

聖書や仏教書の一節から創作することは、太宰にかぎらず作家にはよくあることである。『誰』は次の書き出しから創作した作品である。

イエス其(そ}の弟子(でし)たちとピリポ・カイザリヤの村々に出(い)でゆき、途(みち)にて弟子たちに問ひて言ひたまふ「人々は我(われ}を誰と言ふか」答へて言ふ「バプテスマのヨハネ、或人(あるひと)はエリヤ、或人は預言者の一人」また問ひ給(たま}ふ「なんぢらは我を誰と言ふか」ペテロ答へて言ふ「なんぢはキリスト、神の子なり」(マルコ八章二七)

私は〈私の心の高揚は、その日のお天気工合等に依って大いに支配されているような有様ですから〉に注目する。左翼との関わりも聖書との関わりも、あるいは女との関わり、自らの人生そのものとの関わりすら、お天気具合によって左右されてきた。この場合の〈お天気〉とは、太宰の持病である躁鬱のことを指している。

躁鬱のあるひとは思春期の頃からこれに悩まされる。あるいは小学生後半から悩み始めるかもしれない。このときは自分が躁鬱という認識はないし、今日のように精神医学が進歩しておらず、一般にまでその知識が普及していない時代のことだけに、太宰本人にしても太宰の周辺にしても、太宰を躁鬱病と判断しうることがなかった。いや亀井勝一郎、奥野健男氏にしても、このような認識のもとでの太宰治論を記述してはいない

太宰が聖書に求めていたのは〈やすらぎ〉であって、聖書と面と向かって倫理的に〈罪の意識〉と格闘していたわけではない。太宰が必要としていたものは〈やすらぎ〉と〈やさしさ〉であり、これは鬱を刹那的に癒すには必要不可欠なことで、これが得られれないと自殺に走るか、自己放棄のオウム真理教のような新興宗教に走る。

太宰は〈やさしさ〉のほうは、そのときに巡り会った特定の女に求めた。このときの〈やさしさ〉とは、夫婦間の愛とか聖職者の愛とは別種の、刹那的恍惚といったものであり、事後に死への誘惑を曳航していることもある。

情死とはこのようなものである。

太宰が罪の意識で自殺したと考えるのは、見当違いなことである。

悲愁の文学――太宰治論

2007-01-29 10:32:50 | 文藝評論
7-2 太宰の後期


山崎富栄の概略は以下。

山崎富栄は大正七年、山崎晴弘と信子の次女として東京都本郷区東竹町に生まれる。山崎晴弘は日本最初の美容と洋裁の専門学校、東京夫人美髪美容学校(お茶の水美容学校)の創設者。

富栄は昭和十三年から銀座のオリンピア美容院を開設し、山崎つた(義姉)と経営。昭和十九年、二十五歳のとき三井物産の社員だった奥名修一と結婚するが、修一は結婚後間もなく三井物産マニラ支店に赴任。米軍上陸で現地召集され、戦闘中に行方不明。

昭和二十年のB二十九空襲でお茶の水美容学校、オリンピア美容院ともに焼失。昭和二十一年、富栄は三鷹駅近くのミタカ美容院に勤め、夜は進駐軍専用のキャバレー内美容院で働く。昭和二十二年三月二十七日、うどん屋で太宰と面識を得た。

当時太宰は、妻の美知子が妊娠中。そんな時に太田静子との浮気が美知子にも知られて気まずい状況にあった。

富栄の日記から引用。

 五月三日
 先生は、ずるい
 接吻はつよい花の香りのよう
 唇は唇を求め
 呼吸は呼吸を吸う
 蜂は蜜を求めて花を射す
 つよい抱擁のあとに残る、涙
 女だけしか、知らない
 おどろきと、歓びと
 愛しさと、恥ずかしさ
 先生はずるい
 先生はずるい
   忘れられない五月三日


「死ぬ気で、死ぬ気で恋愛してみないか。」
「死ぬ気で恋愛? 本当はこうしているのもいけないもの――。」
「有るんだろう? 旦那さん。別れてしまえよォ、君は、僕を好きだ。」
「うん、好き。でも、私が先生の奥さんの立場であったら、悩む。でも、若し恋愛するなら、死ぬ気でしたい!」
「そうでしょう!」
「けど、奥さんや、お子さんに対して、責任を持たなくてはいけませんわ。」
「それは持つよ、大丈夫だよ。うちのなんか、とても確かりしてるんだから――。」
「先生、ま、ゆ、つ、ば――」

I love you with all in my heart but I can't do it

何処にもおビールがなく、私の缶ビールを箱に入れて、思想犯の独房にのこのこ上がり、御一緒に飲む。

五月三日、新憲法発布の日、ほのぼのとした日の感覚だった。そして先生の背はいつものようにまるい。雨あがりの路は足を吸いこんで放さない。唸りたいような声を押えて堤を折れる。

テツサの心以外の何ものもない今の私。
「困ったなあ――。」
「泪は出ないけれども泣いたよ。」
「死なない?」
「一生こうしていよう。」
「困ったなあ――。」

先生の腕に抱かれながら、心よ、先生の胸を貫けと射る――どうにもならないのに。いつまでもお幸せで、いつまでもお幸せでと。

忘れられない――振り返って、もう一度とび込んできて下さった心……ああ、人の子の父である人なのに、人の妻である人なのに――「君を好き!」先生、ごめんなさい。

読んでいて、これはどうしようもない状況(実のところ、男のぼくはねたみを覚える)。太宰が冷静に対処すれば心中は回避できるのであるが、こういう場面で自制心をなくすのが、太宰の性格である。太宰のような男を愛してしまうと、山崎ならずとも死に持って行かれる女性は多いだろう。その一方で太宰的男性をクールに見下し、蔑視する女性も多い。どちらが賢明なのか。

七月七日に富栄のもとに奥名修一の戦死の公報が届き、山崎姓に戻る。太宰は妻の苦悩や太田静子の女子誕生(のちの作家太田治子)で神経衰弱が進行、それでなくても日頃より厭世観を強めていた太宰にとっては、その頃巡り逢った山崎富栄は、心中の好餌であった。富栄のほうにも太宰との心中を回避した節はない。

悲愁の文学――太宰治論

2007-01-29 10:27:48 | 文藝評論
7-1 太宰の後期


太宰作品の全体を見ると、昭和十三年に石原美知子との結婚が分岐点で、以前と以後とでは作品の完成度が大きく異なる。

太宰文学の研究者は結婚前の作品も重要視しなければならないが、読書を愉しむだけならば、後期作品に太宰の力量をみることが出来る。前期で見逃しがたいのは二十三歳で執筆した『思い出』を初めとして二十四、五歳に創作した『列車』、『魚服記』、『葉』、『猿面冠者』、『彼は昔の彼ならず』、『ロマネスク』がある。二十六歳のときの鎌倉の山中で首吊り自殺未遂以後はパビナール中毒で、精神が錯乱。未完成な創作傾向を帯びていった。

太宰文学は『斜陽』、『人間失格』あたりで論じられる向きが多いが、私が太宰文学の真髄に触れた思いがしたのは、後期作品の『富嶽百景』、『おさん』、『トカトントン』、『走れメロス』、『眉山』、『右大臣実朝』などの無用な饒舌を抑制した作品であった。

題材の違うせいもあるが、『右大臣実朝』は『逆行』の頃とは人が変わったように抑制された文体である。分裂症だと原稿三百枚を超える息の長い作品を、文体の乱れなく創作するのは無理ではないか。年代も違い一概に較べられないが、芥川にこれらの巧さの作品は見られない。

戦後の太宰は、死を賭して創作に向かっていた。

私が瞠目(どうもく)するのは戦後の執筆活動。友人たちとの酒宴や女とのことで時間をとられながら、いつ執筆していたかと思うほどの凄まじさ。芥川も作品数は多いが、長くて百枚前後、ほとんどが三、四十枚作品。太宰は短期間に長編を相当数創作している。これは死ぬ覚悟でなければできない偉業。この辺のことを年譜から抜き書きする。

■昭和二十年(一九四五年)三十六歳、三月、空襲下の東京で『お伽草子』を執筆し始め、六月、完成。四月、爆撃に遭い家が損壊したため、妻の実家である甲府の石原家に疎開。七月、爆撃のため甲府の石原家も全焼し、妻子を連れかろうじて津軽の生家へたどりつく。

【作品】『竹青』、『パンドラの匣』、短編集『新釈諸国噺』、書き下ろし長編『惜別』、書き下ろし『お伽草子』

■昭和二十一年(一九四六年)三十七歳、十一月、約一年半の疎開から、妻子と共に三鷹の自宅に帰る。

【作品】『庭』、『親という二字』、『嘘』、『貨幣』、『やんぬる哉』、『十五年間』、『未帰還の友に』、『冬の花火』、『苦悩の年鑑』、『チャンス』、『春の枯葉』、『雀』、『たずねびと』、『親友交歓』、『男女同権』、単行本『パンドラの匣』、短編集『薄明』

■昭和二十二年(一九四七年)三十八歳、二月、神奈川県下曽我に太田静子を訪ね、一週間滞在の後、田中英光が疎開していた伊豆の三津浜に行き、三月上旬までかかって、太田静子の日記をもとに『斜陽』の一、二章を書く。三月、次女里子(作家・津島佑子)誕生。三鷹駅前の屋台で戦争未亡人の山崎富栄(二十八歳)と知り合う。四月、新たに借りた三鷹の仕事部屋で『斜陽』を書きつづけ、六月に完成。十一月、太田静子との間に誕生した女児を認知し、治子(作家・太田治子)と命名。単行本の『斜陽』(新潮社)がベストセラーとなる。

【作品】『トカトントン』、『メリイクリスマス』、『母』、『ヴィヨンの妻』、『父』、『女神』、『フォスフォレッセンス』、『朝』、『斜陽』、『おさん』、作品集『冬の花火』、短編集『ヴィヨンの妻』、単行本『斜陽』

■昭和二十三年(一九四八年)三十九歳、

【作品】『犯人』、『酒の追憶』、『饗応婦人』、『眉山』、『美男子と煙草』、『如是我聞』、『渡り鳥』、『女類』、『桜桃』、『人間失格』、『グッド・バイ』、『家庭の幸福』、単行本『人間失格』、短編集『桜桃』、エッセイ集『如是我聞』

自らの人生を袖手(しゅうしゅ)をして傍観していた芥川との大きな相違で、太宰は災いを自ら招くようにして、やたら悪戦苦闘、泥濘(ぬかるみ)に足を取られ、転倒し、玉川上水に投身する。

私の長編執筆の経験から見ても、短期間にこれだけ創作すれば神経衰弱になるのは理解できる。太宰にほとんど休息の時間がない。

太宰二十九歳のときで、井伏鱒二が親代わりになって、都留高等女学校の教師・石原美知子(二十六歳)と結婚。知的で明るい女性、ひたすら太宰の創作に自己犠牲を払っている。この時期に太宰は長編『火の鳥』の執筆に専念するが、この小説は未完に終わる。焦燥感に囚われたのか、通俗ぽい作品である。

石原美知子は八人きょうだいの三女、父親の石原初太郎は明治三年、現山梨県中巨摩郡敷鳥町に生まれる。東京帝大で地質学を専攻。卒業後、東京鉱山監督署、山口県などの旧制中学に校長として勤め、広鳥高等師範の講師となる。大正十年、県の招きで帰郷、以後、県内の地質・動植物から地誌・文化に至る調査に携わり『富士山の自然界』、『富士の地理と地質』や『御嶽昇仙峡とその奥』を著す。

石原美知子の側からの小説が、津島佑子著の長編『火の山――山猿記』上・下(講談社)。父親太宰を画家として描いているが、敬愛の念で描いてある。

太宰が美知子と結婚した頃には亡くなっていたが、母親は健在で甲府に住んでいた。美知子との婚約のことは『富嶽百景』に描かれている。美知子は石原家女五人の中ではもっとも知性的な女性だが、結婚後は太宰文学の最大の理解者で、太宰の創作のために献身的な奉仕をする。美知子との結婚後の八年間、太田静子と知り合うまでの間が、創作の安定期だった。

三十九歳のとき、昭和二十三年(一九四八)三月から五月にかけ『人間失格』を執筆。不眠症を伴う疲労はなはだしく、しばしば喀血。四月、八雲書店より『太宰治全集』が刊行され始めた。六月十三日夜半、『グッド・バイ』の草稿、遺書数通、伊馬春部への歌を机辺に残し、山崎富栄(三十)と共に玉川上水に入水。十九日遺体発見、二十一日、葬儀委員長豊島与志雄、副委員長井伏鱒二等によって告別式が行われた。七月、三鷹の禅林寺に埋葬。

悲愁の文学――太宰治論

2007-01-28 14:56:29 | 文藝評論
6-2 左翼との関係


■昭和十年(一九三五年)二十六歳、二月、『逆行』を「文芸」に発表、同人雑誌以外に発表した最初の作品である。三月、大学卒業が絶望とわかり(半年後に授業料未納で除籍)都新聞社の入社試験に落ち、同月十七日夜、鎌倉の山中で縊死(首吊り自殺)を企てるが失敗。(三回目の自殺未遂)四月、盲腸炎で入院。手術後腹膜炎を起し、鎮痛のため使用したパビナールのため、以後中毒に悩む。八月、『逆行』が第一回芥川賞候補となったが、次点。川端康成の選評に抗議して『川端康成へ』を発表。佐藤春夫を知り、以後師事する。

前途に絶望しての自殺未遂。過度の躁による自信過剰と借金などによる焦燥感と自己嫌悪に囚われた時期で、分裂症気味でもあった。

川端康成への手紙の書き出しは以下のようになっている。この手紙は太宰が川端に何を伝えたかったのか、支離滅裂な内容になっている。

あなたは文藝春秋九月号に私への悪口を書いて居られる。「前略。――なるほど、道化の華の方が作者の生活や文学観を一杯に盛っているが、私見によれば、作者目下の生活に厭(いや}な雲ありて、才能の素直に発せざる憾(うら)みあった。」

この時期の太宰は八方ふさがり、創作においても内容が支離滅裂。精神状態がそのようになっていた。自分の精神の動きが鋭敏に見えすぎて、それがために足を掬(すく)われてしまう状況に陥っていた。

『逆行』と『道化の華』を較べると、川端が述べたように『道化の華』のほうがまだリアリティーがある。『逆行』のほうはほとんど独白に近いもので、独白だからリアリティーがないのではなく、読者にほとんどイメージが浮かんでこない、神経症患者の深層心理を、書き殴っただけのものになっている。このことに価値をおけば次点だが、これもそのときまでの太宰の創作活動の履歴を加味したものでなかったか。まったくの無名であれば次点にもならなかった作品。太宰本人にはこれこそ新しい文学という思い込みがみられるが、独善の感は免れない。

『道化の華』は二回目の心中事件後の、入院四日間のことを題材にして創作したものだが、自意識過剰で一つの方向に焦点を絞ってのストーリー展開ができない、書かなくてもよいことまで頭脳の火花を炸裂するように書き込み、『逆行』よりは小説らしく読めるが完成度は低い。四年後に創作した『富嶽百景』、五年後に創作した『走れメロス』などの完成度が高いだけに、精神の不安定期というのは、ストレス発散のためにやたら饒舌、抑制が利かない状態にあることは明瞭。アルル地方に滞在していた頃の画家ゴッポもそうだったが、あの不気味な印象の『ひまわり』も後世に遺るのだから、『道化の華』や『逆行』が太宰全集に収録されるのも、作家としてのひと仕事。減らず口だけ叩いている文学青年よりは、太宰は苦労した。

自殺衝動の原因の一つに借財もある。この頃に創作した『ダス・ゲマイネ』に、

僕は、本でも出して借金を全部かえしてしまって、それから三日三晩くらいぶっつづけにこんこんと眠りたいのだ。借金とは宙ぶらりんな僕の肉体だ。僕の胸には借金の穴が黒くぽかんとあいている。

と書いてある。

同じ頃に創作した『玩具』(未完)には次のようなことが書かれている。当時の太宰の精神状況を語っている。

私はこの玩具という題目の小説に於いて、姿勢の完璧(かんぺき)を示そうか、情念の模範を示そうか。けれども私は抽象的なものの言いかたを能(あた)う限り、ぎりぎりにつつしまなければいけない。なんとも、果しがつかないからである。一こと理窟を言いだしたら最後、あとからあとから、まだまだと前言を追いかけていって、とうとう千万言の註釈。そうして跡にのこるものは、頭痛と発熱と、ああ莫迦(ばか)なことを言ったという自責。つづいて糞甕(くそがめ)に落ちて溺死したいという発作。

さらに『ダス・ゲマイネ』には、ご丁寧に自分の自意識過剰についても書いている。

自意識過剰というのは、たとえば、道の両側に何百人かの女学生が長い列をつくってならんでいて、そこへ自分が偶然にさしかかり、そのあいだをひとりで、のこのこ通って行くときの一挙手一投足、ことごとくぎこちなく視線のやりば首の位置すべてに困(こう)じ果てきりきり舞いをはじめるような、そんな工合いの気持ちのことだと思うのですが、もしそれだったら、自意識過剰というものは、実にもう、七転八倒の苦しみであって、〔後略〕

こういう精神状況では冷静な創作はできないが、太宰は何を書いても太宰の言葉でしか表現していない。ありきたりの表現で書かないところが、太宰の非凡な文学精神。

年譜から、四度目の自殺(心中)から最後の妻石原美知子(作家津島佑子の母親)との結婚に至る経緯をみておく。

■昭和十二年(一九三七年)二十八歳、三月、小山初代と谷川岳山麓の水上温泉でカルモチンによる自殺を図るが失敗。(四回目の自殺未遂)帰京後、初代と分かれる。この年から翌年にかけ、時折エッセイを書くほかは、ほとんど筆を絶つ。

■昭和十三年(一九三八年)二十九歳、七月、ようやく沈滞から脱し『姥捨』を書き始める。九月、山梨県御坂峠の天下茶屋に行き、長編『火の鳥』の執筆に専念したが、結局この小説は未完に終わる。十一月、井伏鱒二が親代わりになって、都留高等女学校の教師・石原美知子(二十六歳)と見合いし婚約。

■昭和十四年(一九三九年)三十歳、一月、井伏家で結婚式をあげ、甲府市御崎町の新居に移る。四月、『黄金風景』が「国民新聞」の短編小説コンクールに当選する。九月、東京府下三鷹村下連雀百十三に転居、終戦前後を除き死ぬまでここに住んだ。

小山初代との心中の経緯は『姥捨』の書き出しに次のように書かれている。

そのとき、
「いいの。あたしは、きちんと仕末(しまつ)いたします。はじめから覚悟していたことなのです。ほんとうに、もう。」変った声で呟いたので、
「それはいけない。おまえの覚悟というのは私にわかっている。ひとりで死んでゆくつもりか、でなければ、身ひとつでやけくそに落ちてゆくか、そんなところだろうと思う。おまえには、ちゃんとした親もあれば、弟もある。私は、おまえがそんな気でいるのを、知っていながら、はいそうですかとすまして見ているわけにゆかない。」

などと、ふんべつありげなことを言っていながら、嘉七も、ふっと死にたくなった。
「死のうか。一緒に死のう。神さまだってゆるして呉れる。」

ふたり、厳粛に身支度をはじめた。

あやまった人を愛撫した妻と、妻をそのような行為にまで追いやるほど、それほど日常の生活を荒廃させてしまった夫と、お互い身の結末を死ぬことに依(よ)ってつけようと思った。早春の一日である。そのつきの生活費が十四、五円あった。それを、そっくり携帯した。そのほか、ふたりの着換えの着物ありったけ、嘉七のどてらと、かず枝の袷(あわせ)いちまい、帯二本、それだけしか残ってなかった。それを風呂敷に包み、かず枝がかかえて、夫婦が珍らしく肩をならべての外出であった。夫にはマントがなかった。久留米絣(くるめがすり)の着物にハンチング、濃紺の絹の襟巻(えりまき)を首にむすんで、下駄だけは、白く新しかった。妻にもコオトがなかった。羽織も着物も同じ矢絣模様の銘仙(めいせん)で、うすあかい外国製の布切(ぬのきれ)のショオルが、不似合いに大きくその上半身を覆っていた。質屋の少し手前で夫婦はわかれた。

初代の不倫が原因の一つ。太宰が昭和十一年に精神病院に入院、初代は見舞いに来たとき太宰の義理の弟で、高校時代の後輩である小館善四郎と病院で巡り会う。善四郎も手首を切る自殺未遂で入院していた。その後に初代は善四郎と性関係を結んでしまった。この辺のことが檀一雄著『太宰と安吾』(沖積舎刊)に書いてあるので抜粋しておく。

私が芳賀家から離脱して、太宰治の碧雲荘に移ったのは、ある日彼のアパートをたずねてみると
「ちょっと話があるんだ」

太宰は私を誘い出して、荻窪の線路東の蕎麦屋にはいり込み、五、六本の酒を一気にあおりつづけたあげく
「初代が事を起こしたんだ。その相手をだれだと思う? Kだよ、K。ひどいもんだ。酸鼻だよ。これが、君だったらね。男らしく、決闘もなりたつ。Kではね。蛾の鱗粉がベットり、こっちの手にくっついてくる感じなんだ」

激昂して、太宰はそんなことを言いつづけた。
「それで、君はどうするの?」
「別れるさ。それ以外にないだろう」

初代さんは、もう碧雲荘にはいなかった。おそらく親戚の吉沢さんのところにでも身をかくしていたのだろう。私はそのまま、何となく太宰の碧雲荘に居すわってしまったのだが、太宰の中学時代の友人中村貞次郎氏が、時々、やってきた。中村氏は医局につとめており、ひどい喘息で、時折り、モヒの注射を自分でうっているのを私はそれとなく目撃した。だから、太宰のモヒは中村氏の影響があったかも知れぬと思い、先日、中村氏にあったついでに
「太宰にモヒの注射を教えたのは、あなたではなかったの?」

とこっそりきいてみたところ
「お互い、弱い人間だからね」

と中村氏はさびしく笑って答えたものだ。

太宰はパビナール中毒が進行し、芝の済生会病院に入院するが、全治しないままに一ヶ月足らずで退院。このときの作品が『HUMAN LOST』、ほとんど狂人日記に等しい。

悲愁の文学――太宰治論

2007-01-28 14:48:07 | 文藝評論
6-1 左翼との関係


ここで太宰と日本共産党との関係をみておく。年譜によると、

■昭和五年(一九三十)二十二歳、一月、同期生の上田重彦らが校内左翼分子として検挙され、放校処分になる。三月、弘前高校卒業、四月、東京帝国大学仏文科入学、三兄の「圭二」が住んでいた近くの戸塚町諏訪町二百五十番地「常磐館」に下宿。五月上旬、弘前高校先輩工藤永蔵の訪問・説得を受け、工藤の属する日本共産党に、毎月十円のカンパを約束した。

とある。

渡辺惣助の日記によると、昭和二十年十一月十四日、青森県共産党再建会議が津川武一家で開かれた。出席者は渡辺惣助、雨森卓三郎、津川武一、山中(沙和宗一)、内山、山鹿、唐牛、原、島口、田村文雄、杉浦、津島(太宰治)の十二名(小野正文『太宰治をどう読むか』弘文堂、昭三十七、二)でした。戦後の共産党をどうして再建してゆくかの相談会だったが、彼はあまり発言しなかった。日本共産党は、ロシアとも世界共産党とも手を切ってやるのだと結論が出たとき、太宰は全く口をつぐんでしまい、途中で退席した。この事に対し、小野正文は〈太宰には、共産党再建に対する興味も意欲もなかったことは明瞭である。彼は純粋に、故旧忘れ得べき、こういう人なつかしさで顔を出したのである〉と語っている。この指摘は鋭い。戦後の太宰がコミュニズムの運動と直接かかわったのは、この一回きり。

以後の太宰には、むしろ反共的な言動もあるが、太宰は共産党だけのことではなく、戦後のあらゆることに不信を募らせていった。この辺のことは昭和二十二年(一九四七年)三十八歳のときに創作した『トカトントン』に、事の是非はともかくとして、巧く描ききっている。

青森県共産党再建会議に加わっているのだから、戦前・戦中の関わりは深いものがあるが、紺野与次郎が〈党員であったことはありませんね。事実上ではね。そのころのアジト提供者というのは、むしろ非党員なんです〉(「太宰治とコミュニズム」、『太宰治の人と芸術』第二号、昭五十.四)と述べている。

紺野は明治四十三年三月九日生まれ。太宰より数ケ月年下の同学年であった。当時の共産党中央委員で、のちに国会議員となる。昭和五年七月十五日以来、共産党中枢は破壊されていたが、松村昇(スパイM・本名飯塚盈延(みちのぶ)が風間丈吉らと連絡をとりあい、岩田義道、紺野与次郎の四名で中央ビューローを結成、共産党の中央部を再建していた。(絲屋寿雄『日本社会主義運動思想史』法政大学出版局、昭五十五・十一)。

断片的ではあるが、『列車』、『猿面冠者』、『虚構の春』、『二十世紀旗手』、『東京八景』、『葉』、『狂言の神』、『懶惰の歌留多』、『花燭』、『おしやれ童子』などには、コミュニズムとの関わりが出てくるので、生涯太宰の胸の何処かに当時のことが消えないものとなっていた。しかしこのことが自殺に結び付く自己否定となったとは思えない。

太宰の実家は既述したように、長兄を初めとして男四人兄弟は芸術を愛好するタイプで仲も良かったが、末弟の太宰治一人が破天荒な所業を繰り返していた。亡父は貴族院議員、長兄は現役の政友会の有力県議の家だから、太宰の非合法活動を長兄は立場上黙視できない。

小山初代という太宰より四歳年下の芸者との結婚もさりながら、家族に非合法な共産党支持者がいるとあっては、津島家の一大事。

太宰二十二歳の十一月九日、上京した長兄・文二によって、太宰の分家(義絶)・除籍、学費、生活費の負担を前提に、初代との将来の結婚を承認することで決着。

十一月十九日、太宰の分家・除籍の手続きがとられた。十一月二十四日、長兄・文二は、太宰の名で小山家と結納を取り交わすが、突如、太宰の自殺未遂が起きる。長兄としては寛容に寛容を重ねた上でのこの事態、なにがなんだかわからなかった。

その後、昭和六年(一九三一)二十三歳、一月二十七日、太宰と長兄は、原籍の移転、小山初代との結婚、今後の生活費や学費などについて詳細な「覚」を取り交わした。「覚」は、長兄が一方的に示した。

内容は、昭和八年の大学卒業までの間、月額百二十円づつ長兄が負担すること。ただし、帝国大学からの処罰、検事の起訴、浪費等の場合はこの額を減ずる。というものであった。その減額規定の中に、「社会主義運動に参加し或いは社会主義者又は社会主義運動へ金銭或いはその他の物質的援助を為したるとき」という一項目があり、長兄としては最大限の譲歩案だった。それにもかかわらず昭和七年(一九三二)二十四歳の六月、青森の特高警察が、生家を訪れ、太宰の行動について照会したことから、長兄に非合法運動のことがわかり、仕送り停止。

長兄から自筆による送金中止の手紙が届けられた。内容は厳しかった。青森警察署に出頭し、左翼運動からの離脱を誓約しない限り、一切の縁を絶つ、とするものであった。

七月中旬、青森警察署に出頭、以後、非合法活動から離脱。生活費は、「覚」の定め通り、月額百二十円から九十円に減額。

津島家に経済的支援を受けながら、その顔に泥を塗るような所業、太宰としては弁解の余地がない。それも社会革命に本心から取り組んでいるのだったら、主義・主張の相違ということで、長兄としても太宰の見るべき点は尊重もしただろうが、太宰の共産党との関わりはそんなものではなかった。言ってみれば金持ちの坊ちゃんのシンパサイザー的支援の気持ちにすぎなかった。当時の関係者の弁をみてみる。

弘前高時代の太宰とコミュニズムとの関わりに関して、上田重彦(石上玄一郎)は、〈我々研究会(筆者注「政治研究会」)の者は彼を一種の精神的奇型児と見傲し、彼に対しては入会を誘ひもしなかったし寧ろ、好意あるいたはりの眼を以て臨んでいた〉〈私は数名の学生とともに弘前署の特高に検挙され、学校の方は放校になつた。津島は研究会のメンバーでもなかったから無事に卒業し東大の仏文にも行つたが、のちに津島が大学で左翼の運動をしてゐると聞いて意外に思つた〉と述べている。

大高勝次郎は、「津島修治の思い出」(『無名群』昭三十七・四)で、〈私の知る限りでは、彼は弘高在学中は左翼の思想にも組織にも無関係であった〉と述べている。

相馬正一は〈左翼的な作品を書いたり校内細胞と接触してストライキに積極的に参加したとしても、それはどこまでも太宰の文学的理由に基づくものであって、コミュニズムとの直接的な関係は考えられません〉(『菊池九郎。佐々木五三郎・太宰治(上)』弘前図書館、昭四十三・一、『太宰治』津軽書房、昭五十一。六所収)と述べている。

大学にはいってからはどうだったか。大高勝次郎は次のように述べている。

受験の為に東京に集ったときから、私達は既に、一つの会合を作った。私達といっても左翼的傾向のある者ばかりであった。会合の場所は、大抵津島の下宿であった。津島は喜んで室を提供した。会合はまだ正規のものでなかったから、気楽な空気が充満していた。
アジトとして、津島の室を度々利用させて貰った。色々なカンパにも、相応のことをしてくれた。併し、私は津島を左翼の組織に加入するようにすすめたことは一度もなかった。津島のような人間が、苦しみに満ちた地下運動に堪えられるとは思われなかったからである。

当時の活動家からみても、太宰が覚悟を決めて非合法活動に参加していたとは思えなかった。器に合わないことに太宰は、'''旧弊な世の中が変わればいいという関心だけで首を突っ込んでいた'''。あるいは女にほだされるように、非合法の正義感の面にほだされてアジトを提供したり、長兄からの仕送りの一部をカンパしていた。

だからといって太宰を軽んじる気持ちは私にはない。これだけでも当時としては勇気の要ることだった。当時の関係者は語っている。

〈「裏切者」などと極めつけるのは、事情を知らない人達の考えることで、修治の、あの精一杯の党に対する寄与に対して気の毒だと恩う〉(工藤永蔵、既出)

〈あの厳しい情勢の中で、精一杯党活動のために尽してくれた太宰には、工藤も私も心から感謝するものである〉(渡辺惣助、既出)

〈アジトを提供するということは、その当時としては非常に勇気のいることだったですね〉(紺野与次郎、既出)

弘高在学中から帝国大学在学中の昭和七年までの左翼学生との関わりが、太宰にとっては唯一の青春ではなかったかと思う。

三回目の自殺の経緯は次のようなものである。