米国のベトナム戦争以後、帰還兵のなかに精神の異常の見られる人が多くなり、このことが拍車をかけたのだろう、日本でも精神医学の急速な進歩を促す結果となった。
精神医療が一般にも普及、と同時に今日の日本の社会構造のなかで精神の悩める人々が急増、青少年のなかにはリストカットという神経障害が深刻である。
それだけにもしかしたら自分は神経症に陥っているのではないかと、気軽に神経科の専門医、あるいは「○○クリニック」といった病院での診断を受けられる風潮にもなってきた。
ときは大正時代、精神医学、精神医療の分野は、いまほど発達も普及もしていなかった。一般の人にとってはこういった方面の情報すら入手できない時代である。したがって自分が神経症を負っていることなどは本人も肉親も気付かなかった。もっともあまりにもひどいときは世間体をはばかって、家の中に座敷牢を造作、隔離していた家もあったようだが。子供の頃であったが、白壁の土蔵に閉じ込められ、登校することもなくそこで生活していた、年長の子供のいたことを私は記憶している。
このような時代に育った金子みすゞの精神はどのようなものであったか。彼女は二十六歳で自殺していることを記憶しておきたい。
みすゞの生まれたときの家族構成は父、母、祖母、兄の五人家族だが、のちに弟が生まれている。父は彼女の三歳の時に死去、弟はその一年後に下関の上山家に養子に出され、母は彼女の十六歳の時に兄とみすゞを残したまま再婚。二十歳まで彼女は仙崎で祖母、兄との三人暮らしであったが、二十歳の時に母の嫁いだ上山家に移り住み、義父、実母、弟と暮らすようになる。
概略、こうした環境の中でみすゞは生育し青春時代を過ごしている。私は矢崎節夫氏の著書を読んでいないのでなんとも明確なことは言えないが、みすゞが死に至るまでには謎が隠蔽されているのではないかと想像している。
高遠氏の著書の中での指摘であるが、みすゞが直接的に母をテーマにした詩は少ないそうである。また亡き父、祖母、兄の少年時代は愛情を込めて詠んでいるが、母と弟のことは屈折した思いを込めて詠っているそうである。
読者はこうした事実を踏まえてみすゞの詩に触れていったほうが、みすゞの詩の真実に迫れるのではないか。
この詩について高遠氏は以下のように述べておられる。
『この詩はみすゞが娘を出産した約一年後に作られたものと思われる。比喩は詩の生命なので、この詩にも比喩が使われていると考えれば、小鳥は夫、鈴は娘の比喩だと容易に読み取れる。その頃のみすゞの生活状況は悲惨だった。夫は義父と絶縁された為、実家の熊本へ一時みすゞと共に身を寄せたが、そこでも受け容れられなかった為にまた下関へ舞い戻り、食料玩具店を始めるのだが、その頃夫は遊郭に入りびたり、その為に彼女も発病する。みすゞは生活費もままならず、実家にも頼れず、乳呑み子をかかえた彼女が家に寄りつかない夫に対し、家族愛を懐疑的に詠んだのがこの詩である。』――引用『詩論 金子みすゞ』
なぜ高遠氏がこの詩を採り上げたかといえば、この詩が教科書に掲載されているからである。この詩が教科書掲載に適切な詩であるかに疑念を持たれ、教育関係者に再考を促しておられる。
私は高遠氏の指摘はもっともな見解ではないかと思う。私は「みんなちがって、みんないい。」は、その前のどことなくネガティブな色合いの比喩と付き合わせてみると、なかなか曲者の表現だな、と感じている。一見、各自の個性尊重を表現しているように見えるのだが、はたしてそうなのか、という疑念が残る。
明治・大正・昭和の日本史を通読して、みすゞがこの詩を詠った頃の社会に、一般人の「個性尊重」の思想と言葉は標榜(ひょうぼう)されていたのか、社会風潮になっていたかである。ノウである。確かに大正十一年には「元始、女性は太陽であった」で著名な平塚らいちょうらによる女性自身の解放運動が、大正デモクラシーの風潮のなかであったが、この運動自体は女性差別の解放、女性の社会進出への自覚が目的のものであり、「個性尊重」の思想にまでは行き着かなかったのではないか。まして下関に住んでいたみすゞの脳裏に、女性解放や「個性尊重」の思想が自覚されていたかどうかははなはだ疑問である。もし女性解放だけでも自覚されていたのなら、なぜ彼女は自分の詩の才能を見出してくれた西條八十を頼って上京しなかったのか。上京の衝動に駆られておかしくない年頃であった。この辺の事情について矢崎氏の著書は触れておられるのだろうか。
私は(1)と(2)でみすゞのそれぞれの詩の最後の二行辺りの表現をそのまま素直に受け取っては、みすゞの真実には迫れないのではないか、大きな過誤を残すことになるのではないかをさりげなく指摘したのだが、この詩においても「みんなちがって、みんないい。」を個性尊重の表現とは思えないのである。やけのやんぱちに投げ出したニュアンスを視る。高遠氏が言及しているように「家族愛を懐疑的に詠んだ」のかもしれない。あるいは私がみすゞの詩を幾篇か読んで実感する、投げ遣り偽装表現かもしれない。ただその投げ出し方が実に巧い。だから真実を惑わされやすい。この辺に天性の詩人感覚がある。
このような疑義の残る詩を教科書に掲載し、教師は子供に何をどう教えるのか。みすゞの詩の真髄に迫っている教師は、教えることに戸惑うであろうし、逆に生半可な知識しか持たない教師は、子供に間違ったことを教え込んでしまう危険性がありはしないか。
私は一概にこのようなみすゞの詩を教科書に掲載すべきではないと言及しているのではない。高校生の教科書であれば、こうした詩を教材に教師と生徒でデスカッションでもすれば教育効果は深まると思うが、小学生の教科書に採択されていることが適当なのかどうかである。
と、このようなことを書いてみたが、私はこの詩にも無意識ではあっても偽装癖のついた金子みすゞの哀しみの心境を視てしまう。
私は心的障害を背負った女性を幾人か知っているが、共通していることは案外強がりに生きようとしていることである。ときには他者を攻撃する言辞を弄(ろう)する。攻撃こそ傷心への防御である。その強がりに私は彼女たちの哀しみを視る。
みすゞの詩篇に他者を攻撃するような詩はみられないと思うが、彼女の詩篇にはこれに代わるニヒリズム、自己放擲、投げ遣り偽装表現が底流していたのではないか。
◆金子みすゞの詩
詩集の館
精神医療が一般にも普及、と同時に今日の日本の社会構造のなかで精神の悩める人々が急増、青少年のなかにはリストカットという神経障害が深刻である。
それだけにもしかしたら自分は神経症に陥っているのではないかと、気軽に神経科の専門医、あるいは「○○クリニック」といった病院での診断を受けられる風潮にもなってきた。
ときは大正時代、精神医学、精神医療の分野は、いまほど発達も普及もしていなかった。一般の人にとってはこういった方面の情報すら入手できない時代である。したがって自分が神経症を負っていることなどは本人も肉親も気付かなかった。もっともあまりにもひどいときは世間体をはばかって、家の中に座敷牢を造作、隔離していた家もあったようだが。子供の頃であったが、白壁の土蔵に閉じ込められ、登校することもなくそこで生活していた、年長の子供のいたことを私は記憶している。
このような時代に育った金子みすゞの精神はどのようなものであったか。彼女は二十六歳で自殺していることを記憶しておきたい。
みすゞの生まれたときの家族構成は父、母、祖母、兄の五人家族だが、のちに弟が生まれている。父は彼女の三歳の時に死去、弟はその一年後に下関の上山家に養子に出され、母は彼女の十六歳の時に兄とみすゞを残したまま再婚。二十歳まで彼女は仙崎で祖母、兄との三人暮らしであったが、二十歳の時に母の嫁いだ上山家に移り住み、義父、実母、弟と暮らすようになる。
概略、こうした環境の中でみすゞは生育し青春時代を過ごしている。私は矢崎節夫氏の著書を読んでいないのでなんとも明確なことは言えないが、みすゞが死に至るまでには謎が隠蔽されているのではないかと想像している。
高遠氏の著書の中での指摘であるが、みすゞが直接的に母をテーマにした詩は少ないそうである。また亡き父、祖母、兄の少年時代は愛情を込めて詠んでいるが、母と弟のことは屈折した思いを込めて詠っているそうである。
読者はこうした事実を踏まえてみすゞの詩に触れていったほうが、みすゞの詩の真実に迫れるのではないか。
私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、
地面(じべた)を速くは走れない。
私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように
たくさんな唄は知らないよ。
鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。
この詩について高遠氏は以下のように述べておられる。
『この詩はみすゞが娘を出産した約一年後に作られたものと思われる。比喩は詩の生命なので、この詩にも比喩が使われていると考えれば、小鳥は夫、鈴は娘の比喩だと容易に読み取れる。その頃のみすゞの生活状況は悲惨だった。夫は義父と絶縁された為、実家の熊本へ一時みすゞと共に身を寄せたが、そこでも受け容れられなかった為にまた下関へ舞い戻り、食料玩具店を始めるのだが、その頃夫は遊郭に入りびたり、その為に彼女も発病する。みすゞは生活費もままならず、実家にも頼れず、乳呑み子をかかえた彼女が家に寄りつかない夫に対し、家族愛を懐疑的に詠んだのがこの詩である。』――引用『詩論 金子みすゞ』
なぜ高遠氏がこの詩を採り上げたかといえば、この詩が教科書に掲載されているからである。この詩が教科書掲載に適切な詩であるかに疑念を持たれ、教育関係者に再考を促しておられる。
私は高遠氏の指摘はもっともな見解ではないかと思う。私は「みんなちがって、みんないい。」は、その前のどことなくネガティブな色合いの比喩と付き合わせてみると、なかなか曲者の表現だな、と感じている。一見、各自の個性尊重を表現しているように見えるのだが、はたしてそうなのか、という疑念が残る。
明治・大正・昭和の日本史を通読して、みすゞがこの詩を詠った頃の社会に、一般人の「個性尊重」の思想と言葉は標榜(ひょうぼう)されていたのか、社会風潮になっていたかである。ノウである。確かに大正十一年には「元始、女性は太陽であった」で著名な平塚らいちょうらによる女性自身の解放運動が、大正デモクラシーの風潮のなかであったが、この運動自体は女性差別の解放、女性の社会進出への自覚が目的のものであり、「個性尊重」の思想にまでは行き着かなかったのではないか。まして下関に住んでいたみすゞの脳裏に、女性解放や「個性尊重」の思想が自覚されていたかどうかははなはだ疑問である。もし女性解放だけでも自覚されていたのなら、なぜ彼女は自分の詩の才能を見出してくれた西條八十を頼って上京しなかったのか。上京の衝動に駆られておかしくない年頃であった。この辺の事情について矢崎氏の著書は触れておられるのだろうか。
私は(1)と(2)でみすゞのそれぞれの詩の最後の二行辺りの表現をそのまま素直に受け取っては、みすゞの真実には迫れないのではないか、大きな過誤を残すことになるのではないかをさりげなく指摘したのだが、この詩においても「みんなちがって、みんないい。」を個性尊重の表現とは思えないのである。やけのやんぱちに投げ出したニュアンスを視る。高遠氏が言及しているように「家族愛を懐疑的に詠んだ」のかもしれない。あるいは私がみすゞの詩を幾篇か読んで実感する、投げ遣り偽装表現かもしれない。ただその投げ出し方が実に巧い。だから真実を惑わされやすい。この辺に天性の詩人感覚がある。
このような疑義の残る詩を教科書に掲載し、教師は子供に何をどう教えるのか。みすゞの詩の真髄に迫っている教師は、教えることに戸惑うであろうし、逆に生半可な知識しか持たない教師は、子供に間違ったことを教え込んでしまう危険性がありはしないか。
私は一概にこのようなみすゞの詩を教科書に掲載すべきではないと言及しているのではない。高校生の教科書であれば、こうした詩を教材に教師と生徒でデスカッションでもすれば教育効果は深まると思うが、小学生の教科書に採択されていることが適当なのかどうかである。
と、このようなことを書いてみたが、私はこの詩にも無意識ではあっても偽装癖のついた金子みすゞの哀しみの心境を視てしまう。
私は心的障害を背負った女性を幾人か知っているが、共通していることは案外強がりに生きようとしていることである。ときには他者を攻撃する言辞を弄(ろう)する。攻撃こそ傷心への防御である。その強がりに私は彼女たちの哀しみを視る。
みすゞの詩篇に他者を攻撃するような詩はみられないと思うが、彼女の詩篇にはこれに代わるニヒリズム、自己放擲、投げ遣り偽装表現が底流していたのではないか。
◆金子みすゞの詩
詩集の館