喜多圭介のブログ

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万葉の歌

2007-01-12 00:23:14 | 俳句・短歌と現代詩

大伯皇女(おおくのひめみこ)は大来皇女とも記す。天武天皇の皇女、母は大田皇女。大津皇子(おおつのみこ)は同腹の弟になる。十三歳の時、伊勢斎宮に召(め)され、翌年伊勢に下る。十三年間斎宮(いつきのみや)として奉仕する。

大津皇子の説明は以下にあるが、悲劇の皇子として知られている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B4%A5%E7%9A%87%E5%AD%90


 

磯の上に生ふる馬酔木(あせび)を手(た)折らめど見すべき君が在りと言はなくに

うつそみの人なる我や明日よりは二上山を弟背(いろせ)と我(あ)が見む


この歌は大津皇子が謀反の疑いで処刑され、二上山(ふたかみやま)に葬むられた時に詠んだ歌とされている。

 

上の歌は「岩のほとりの馬酔木を手折ってあなたに見せたいのに、だれもあなたがこの世に在るとは言ってはくれない」。下の歌は「この世にいる私は、明日から二上山を弟と思って生きていこう」。

 

弟を喪った姉の哀しみがよく表れている。馬酔木は三月上旬頃、白とピンクの花を咲かせる。おそらく大津皇子も花を愛でる性質の持ち主であったのだろう。とくべつに「あー悲しい」と詠ってはいないが、場面が形象化されたなかにそれが表出している。


神風(かむかぜ)の伊勢の国にもあらましを何しか来けむ君もあらなくに

見まく欲(ほ)り我(わ)がする君もあらなくに何しか来けむ馬疲るるに

 

大津皇子の亡き後、大伯皇女が伊勢の斎宮より大和に上る時に詠った歌。上の歌は「伊勢にいたほうがよかったのに、なんのために私は大和に上るのであろうか。弟のいない大和に」。下の歌は「私が見たいと思うあなたはもういない。どうしてやって来たのか、馬が疲れるだけなのに」。


弟思いの姉である。そんな心理が形象化されている。ほかにもある。

 

我が背子を大和へ遣るとさ夜更けて暁(あかとき)露に我が立ち濡れし

二人ゆけど行き過ぎかたき秋山をいかにか君が独り越ゆらむ


上の歌は「弟を大和へ帰すというので、この場に夜が更け暁まで立ち尽し、私は露にびっしょり濡れた」。下の歌は「二人でも越えるのに困難な秋山を、どのような思いで弟は越えるのだろうか」。

 

この時期、大津皇子はすでに我が身の危険を感じていたのかも知れない。ひそかに伊勢神宮に出掛けた。その折りの大和に戻るときの場面である。

 

弟思いの彼女だが、いつまでも弟を喪ったことを、嘆き悲しんでいる女ではない。14歳から伊勢神宮に出仕しており、「何しか来けむ馬疲るるに」と詠えるしっかりとした現実的な性格の持ち主であった。

 

ついでに詩文に秀でた大津皇子の歌を見ておく。

 

経(たて)もなく緯(ぬき)も定めず未通女(をとめ)らが織れる黄葉(もみち)に霜なふりそね

あしひきの山のしづくに妹待つと我が立ち濡れぬ山のしづくに

大船の津守(つもり)が占(うら)に告(の)らむとは兼ねてを知りて我が二人寝し

ももづたふ磐余(いはれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ

 

順に歌の意味を書いておくと「横糸もなく、縦糸も定めず、少女たちが織ったもみじの錦に霜よ降らないでくれ」、二首目は石川郎女(いしかわのいらつめ)に贈ったもので「あなたを待つとて、山の木々の下に佇んで、私は雫に濡れたよ。山の木々から滴り落ちる雫に」、三首目も同じく石川郎女に宛てた物である。このとき大津皇子と草壁皇子(くさかべのみこ)は同じ女に思いを寄せており、結婚したいと思っていた大津皇子は、津守連通(つもりのむらじとほる)に占って貰った。「津守の占いに露顕することは前以て分かっていて、それでも私たちは二人寝たのだ」、最後のは辞世とされる歌で「磐余の池に鳴く鴨を見るのも今日限りで、私は死ぬのだろうか」


こうして万葉の歌を見てくると、有史以前の壁画と同じく我が国の和歌においても形象がなされている。形象は人類普遍の精神的な営みであることがわかる。

 

なお日本最古の漢詩集「懐風藻」に大津皇子の辞世の漢詩「五言臨終一絶」が収められている。こちらのほうに死ぬ前の心境がよく出ている。皇子が子どもの頃に育った訳語田(わさだ――奈良県桜井市戒重)の家で詠んだ。

 

金鳥臨西舎(太陽が西に沈む)

鼓声催短命(時を告げる大鼓の音に短命を顧みる)

泉路無賓主(死出の旅には客はいない)

此夕離家向(夕刻に家を出て、私はどこに向かうのか)

 

草壁皇子の母親、皇后鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ、後の持統天皇)が皇位を草壁皇子に継承させたいために、大津皇子の謀反をでっち上げた節が資料から読み取れる。

 

大津、草壁の父親であった天武天皇自身、大海人皇子であったとき、兄の中大兄皇子(天智天皇)との皇位継承問題で、兄の疑惑を避けるために吉野に難を逃れた。このときの経験か壬申の乱を治めてら天武天皇となったとき、高市皇子、大津皇子、草壁皇子と天智天皇の子の川嶋皇子、施基(しき)皇子、皇后らを連れて吉野へ行幸した。このとき天武は六人の皇子たちに、力を合わせて世の中を治めることを約束させた。皇子等を抱きしめ、「母は違うが同じ母の子として慈しむ」と言った。このときのことが鵜野讃良皇女の記憶に残り、逆に大津皇子の悲運を招いたとも考えられる。

 

天武天皇も大海人皇子のとき、兄の天智天皇の寵愛を受けたとされる額田王( ぬかたのおおきみ)に横恋慕し、後に妃(きさき)にしている。十市皇女を生んだ。同じようなことが石川郎女を巡って草壁と大津のあいだに起こった。

 

大津皇子が石川郎女に贈った、

あしひきの山のしづくに妹待つと我立ち濡れぬ山のしづくに

の返歌が、

我(あ)を待つと君が濡れけむ足引の山のしづくにならましものを

 

意味は「私を待っているあいだ、あなたがお濡れになった。その山の雫になれたらよいのに」である。


平安朝の紫式部の雅(みやび)な宮廷文化が、花開くずっと以前の時代に、貴族に限られるとはいえ、日本民族にこのような優雅な文化があったことに、ぼくはいつも驚嘆する。このことに引き替え、男女ともに高等教育なるものを受け、マイハウスにはテレビ、冷蔵庫、洗濯機、マイカーのある現代、兄が妹を、妻が夫を殺してバラバラに解体する殺伐とした世相と文化は、一体何なのか。