喜多圭介のブログ

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文学の言語(1)

2007-01-03 00:11:06 | 文藝評論

「言語について」を書いたのは、本題の導入部のつもりでもあった。年を重ねるほどに文学の言語とはどういうものかが気に懸(か)かってきた。というのも文学表現は人格形成の一貫であるという思いがあるからのことである。10年ほど前までは退屈しのぎ、胸に積もり積もった感情を吐露する、物事を観察するためにとかの意識で創作に向かっていた。短編、長編小説になると構成を考えたりはしたが、人格形成のためにといった坊主臭い心がけで創作する意識はなかった。

 

昨今は破滅型作家はいなくなった気がするが、敗戦後の太宰治、坂口安吾、織田作之助、石川淳らの文学をデカダンス文学とも無頼派文学とも呼んでいた。退廃と虚無、破滅が特徴でもあった。太宰や坂口の作品は情動表現が多く観られた。

 

太宰治の書いた物に「鬱屈禍」という一文がある。太宰はご承知のように10代の頃から自殺、心中を繰り返し、モルヒネ中毒にもなり、やっとのことで玉川上水で心中を果たして生涯を閉じた。この一文を採り上げて情動言語を補足しておきたい。

 

太宰の文学は彼の人格形成に寄与したのかと問うてみたくなる。自殺したから人格形成が未熟であったと言うつもりはない。有島武郎の心中、芥川龍之介の服毒死、永井荷風の孤独死、三島由紀夫の割腹、江藤淳の自裁は、人格形成の到達点による覚悟の死と見ることもできるが、太宰治の場合は未熟な人格形成のまま発作的に死んだという思いがする。もちろん彼は常日頃から死神を背負っていたのであるが、それならそれで覚悟の文学作品があってもよさそうに思うのだが、死を決意した作品という物が死の間近にも完成していない。だから彼の死は発作的、衝動的死である。

 

一方、彼の作品のほとんどは遺書であったと解釈できないこともないが、ぼくが読んだかぎりでは遺書ではなく、死に至る軌跡と表現するほうが正鵠(せいこう)を射ているかもしれない。

 

太宰文学には完成度の高い作品も多いが、その一方で「鬱屈禍」のような文章を書き散らかしている。同じように心中した有島武郎にはこうした文章は見られない。少し引用しておく。

 

【前略】
 こういう言葉がある。「私は、私の仇敵(きゅうてき)を、ひしと抱擁いたします。息の根を止めて殺してやろう下心。」これは、有名の詩句なんだそうだが、誰の詩句やら、浅学の私には、わからぬ。どうせ不埒(ふらち)な、悪文学者の創った詩句にちがいない。ジイドがそれを引用している。ジイドも相当に悪業の深い男のようである。いつまで経っても、なまぐさ坊主だ。ジイドは、その詩句に続けて、彼の意見を附加している。すなわち、「芸術は常に一の拘束の結果であります。芸術が自由であれば、それだけ高く昇騰すると信ずることは、凧(たこ)のあがるのを阻むのは、その糸だと信ずることであります。カントの鳩は、自分の翼を束縛する此(こ)の空気が無かったならば、もっとよく飛べるだろうと思うのですが、これは、自分が飛ぶためには、翼の重さを托(たく)し得る此の空気の抵抗が必要だということを識(し)らぬのです。同様にして、芸術が上昇せんが為には、矢張り或る抵抗のお蔭(かげ)に頼ることが出来なければなりません。」なんだか、子供だましみたいな論法で、少し結論が早過ぎ、押しつけがましくなったようだ。
【中略】
「大芸術家とは、束縛に鼓舞され、障害が踏切台となる者であります。伝える所では、ミケランジェロがモオゼの窮屈な姿を考え出したのは、大理石が不足したお蔭だと言います。アイスキュロスは、舞台上で同時に用い得る声の数が限られている事に依て、そこで止むなく、コオカサスに鎖(つな)ぐプロメトイスの沈黙を発明し得たのであります。ギリシャは琴に絃を一本附け加えた者を追放しました。芸術は拘束より生れ、闘争に生き、自由に死ぬのであります。」
 なかなか自信ありげに、単純に断言している。信じなければなるまい。
 私の隣の家では、朝から夜中まで、ラジオをかけっぱなしで、甚だ、うるさく、私は、自分の小説の不出来を、そのせいだと思っていたのだが、それは間違いで、此の騒音の障害をこそ私の芸術の名誉ある踏切台としなければならなかったのである。ラジオの騒音は決して文学を毒するものでは無かったのである。あれ、これと文学の敵を想定してみるのだが、考えてみると、すべてそれは、芸術を生み、成長させ、昇華させる有難い母体であった。やり切れない話である。なんの不平も言えなくなった。私は貧しい悪作家であるが、けれども、やはり第一等の道を歩きたい。つねに大芸術家の心構えを、真似でもいいから、持っていたい。大芸術家とは、束縛に鼓舞され、障害を踏切台とする者であります、と祖父のジイドから、やさしく教えさとされ、私も君も共に「いい子」になりたくて、はい、などと殊勝げに首肯(うなず)き、さて立ち上ってみたら、甚だばかばかしい事になった。自分をぶん殴り、しばりつける人、ことごとくに、「いや、有難うございました。お蔭で私の芸術も鼓舞されました。」とお辞儀をして廻らなければならなくなった。駒下駄で顔を殴られ、その駒下駄を錦の袋に収め、朝夕うやうやしく礼拝して立身出世したとかいう講談を寄席で聞いて、実にばかばかしく、笑ってしまったことがあったけれど、あれとあんまり違わない。大芸術家になるのもまた、つらいものである。などと茶化してしまえば、折角のジイドの言葉も、ぼろくそになってしまうが、ジイドの言葉は結果論である。後世、傍観者の言葉である。
 ミケランジェロだって、その当時は大理石の不足に悲憤痛嘆したのだ。ぶつぶつ不平を言いながらモオゼ像の制作をやっていたのだ。はからずもミケランジェロの天才が、その大理石の不足を償って余りあるものだったので、成功したのだ。いわんや私たち小才は、ぶん殴られて喜んでいたのじゃ、制作も何も消えて無くなる。
 不平は大いに言うがいい。敵には容赦をしてはならぬ。ジイドもちゃんと言っている。「闘争に生き、」と抜からず、ちゃんと言っている。敵は? ああ、それはラジオじゃ無い! 原稿料じゃ無い。批評家じゃ無い。古老の曰(いわ)く、「心中の敵、最も恐るべし。」私の小説が、まだ下手くそで伸び切らぬのは、私の心中に、やっぱり濁ったものがあるからだ。

 

この文章は小説でないが、感情をもろに出した情動言語の色濃い文章である。小説、詩、短歌といった文学作品は芸術である以上、そこに情動的表現があるのは当然であるが、この文章は主観丸出し、心理の奥で命題言語によるブレーキがかかっているように思えない。

 

もう一つ少し長いが全文を挙げておく。太宰が芥川賞を逃したときの選考委員川端康成に吐いた八つ当たりの一文である。これが作家の文章かと思えるが、ヒトによっては、だから面白いという評価もあるかもしれない。

 

 あなたは文藝春秋九月号に私への悪口を書いて居られる。「前略。――なるほど、道化の華の方が作者の生活や文学観を一杯に盛っているが、私見によれば、作者目下の生活に厭(いや)な雲ありて、才能の素直に発せざる憾(うら)みあった。」
 おたがいに下手な嘘はつかないことにしよう。私はあなたの文章を本屋の店頭で読み、たいへん不愉快であった。これでみると、まるであなたひとりで芥川賞をきめたように思われます。これは、あなたの文章ではない。きっと誰かに書かされた文章にちがいない。しかもあなたはそれをあらわに見せつけようと努力さえしている。「道化の華」は、三年前、私、二十四歳の夏に書いたものである。「海」という題であった。友人の今官一、伊馬鵜平(うへい)に読んでもらったが、それは、現在のものにくらべて、たいへん素朴な形式で、作中の「僕」という男の独白なぞは全くなかったのである。物語だけをきちんとまとめあげたものであった。そのとしの秋、ジッドのドストエフスキイ論を御近所の赤松月船氏より借りて読んで考えさせられ、私のその原始的な端正でさえあった「海」という作品をずたずたに切りきざんで、「僕」という男の顔を作中の随所に出没させ、日本にまだない小説だと友人間に威張ってまわった。友人の中村地平、久保隆一郎、それから御近所の井伏さんにも読んでもらって、評判がよい。元気を得て、さらに手を入れ、消し去り書き加え、五回ほど清書し直して、それから大事に押入れの紙袋の中にしまって置いた。今年の正月ごろ友人の檀一雄がそれを読み、これは、君、傑作だ、どこかの雑誌社へ持ち込め、僕は川端康成氏のところへたのみに行ってみる。川端氏なら、きっとこの作品が判るにちがいない、と言った。
 そのうちに私は小説に行きづまり、謂(い)わば野ざらしを心に、旅に出た。それが小さい騒ぎになった。
 どんなに兄貴からののしられてもいいから、五百円だけ借りたい。そうしてもういちど、やってみよう、私は東京へかえった。友人たちの骨折りのおかげで私は兄貴から、これから二三年のあいだ、月々、五十円のお金をもらえることになった。私はさっそく貸家を捜しまわっているうちに、盲腸炎を起し阿佐ヶ谷の篠原病院に収容された。膿(うみ)が腹膜にこぼれていて、少し手おくれであった。入院は今年の四月四日のことである。中谷孝雄が見舞いに来た。日本浪曼派へはいろう、そのお土産として「道化の華」を発表しよう。そんな話をした。「道化の華」は檀一雄の手許(てもと)にあった。檀一雄はなおも川端氏のところへ持って行ったらいいのだがなぞと主張していた。私は切開した腹部のいたみで、一寸もうごけなかった。そのうちに私は肺をわるくした。意識不明の日がつづいた。医者は責任を持てないと、言っていたと、あとで女房が教えて呉(く)れた。まる一月その外科の病院に寝たきりで、頭をもたげることさえようようであった。私は五月に世田谷区経堂の内科の病院に移された。ここに二カ月いた。七月一日、病院の組織がかわり職員も全部交代するとかで、患者もみんな追い出されるような始末であった。私は兄貴と、それから兄貴の知人である北芳四郎という洋服屋と二人で相談してきめて呉れた、千葉県船橋の土地へ移された。終日籐椅子(とういす)に寝そべり、朝夕軽い散歩をする。一週間に一度ずつ東京から医者が来る。その生活が二カ月ほどつづいて、八月の末、文藝春秋を本屋の店頭で読んだところが、あなたの文章があった。「作者目下の生活に厭な雲ありて、云々。」事実、私は憤怒に燃えた。幾夜も寝苦しい思いをした。
 小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す。そうも思った。大悪党だと思った。そのうちに、ふとあなたの私に対するネルリのような、ひねこびた熱い強烈な愛情をずっと奥底に感じた。ちがう。ちがうと首をふったが、その、冷く装うてはいるが、ドストエフスキイふうのはげしく錯乱したあなたの愛情が私のからだをかっかっとほてらせた。そうして、それはあなたにはなんにも気づかぬことだ。
 私はいま、あなたと智慧(ちえ)くらべをしようとしているのではありません。私は、あなたのあの文章の中に「世間」を感じ、「金銭関係」のせつなさを嗅(か)いだ。私はそれを二三のひたむきな読者に知らせたいだけなのです。それは知らせなければならないことです。私たちは、もうそろそろ、にんじゅうの徳の美しさは疑いはじめているのだ。
 菊池寛氏が、「まあ、それでもよかった。無難でよかった。」とにこにこ笑いながらハンケチで額の汗を拭っている光景を思うと、私は他意なく微笑(ほほえ)む。ほんとによかったと思われる。芥川龍之介を少し可哀そうに思ったが、なに、これも「世間」だ。石川氏は立派な生活人だ。その点で彼は深く真正面に努めている。
 ただ私は残念なのだ。川端康成の、さりげなさそうに装って、装い切れなかった嘘が、残念でならないのだ。こんな筈ではなかった。たしかに、こんな筈ではなかったのだ。あなたは、作家というものは「間抜け」の中で生きているものだということを、もっとはっきり意識してかからなければいけない。

 

以上、文学の言語ということで太宰の二つの文章をやり玉に揚げたが、太宰文学ファンのために断っておくと、ぼくは太宰文学全般を貶(おとし)めるために、かようなことを書いたのではない。このことはぼくが数年前に同人誌に掲載した以下を読んで貰うとわかる。

http://fsskikaku.hp.infoseek.co.jp/dazai.pdf

 

ぼくは太宰のみならず坂口安吾の文学も評価しているが、しかし二人の文学の表面だけを読み取って安易に評価するのは間違いでないかと思っている。もし二人の文学に憧れて創作するのであれば、太宰の『走れメロス』でないが命がけで突っ走らなくては駄目だということである。たとえ中途で命を落とそうとも。そうでなければ二人から何を吸収したかがわからないのではないか。

 

とくに創作者が二人に類似したような形で創作していると何十歳になっても、死の衝動に至る情緒不安の虜囚(りょしゅう)の姿になるのではないか。昨今破滅型文学が廃れたのは、それだけ人間が進化したともいい加減になったとも指摘できるのであるが。

 

できれば井上靖、瀬戸内晴美(寂聴)、三浦哲郎、大江健三郎、田辺聖子、村上春樹、村田喜代子、川上弘美のように情動言語より命題言語の比率を高めた文学のほうが、ややもすると情動に流されやすい日本人にとっては必要でないか。