喜多圭介のブログ

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短歌を食わず嫌いであった訳

2007-01-05 00:14:24 | 俳句・短歌と現代詩

意識的に短歌を読み始め、作り始めたのは8年ほど前のことで、ある事情があったからである。文学創作に取り組んだのは20代半ばからであったが、現代詩を少し創作する程度で、小説を本格的に作り始めたのは30代に近付いた頃であった。この頃も創作よりは哲学、心理学の書物を読書しているほうに充足感があった。


 


現代詩は世相への主張ぽいものを創っていて、恋愛詩には興味がなかった。短歌よりは蕉風俳諧(芭蕉の俳句)に興味があった。だから8年前までは短歌にことさら見向きをしなかった。理由を少し考えてみると高校生の若気のいたりもあるのだが、与謝野晶子『みだれ髪』の熱情的な歌――やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君――や石川啄木『一握の砂』の、


 


東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる


 


頬(ほ)につたふ
なみだのごはず
一握(いちあく)の砂を示しし人を忘れず


 


の感傷に辟易(へきえき)した。このときのぼくの心理を分析すると、思春期特有のものである。その頃のぼくの感情世界は異性への性欲とかセンチメンタルな情動が発火しやすくなっており、揮発性暴発の危険を回避するには、情動表現を遠ざける傾向にあった。シンプルに表すとこういう短歌世界にのめり込みやすいので、逆にそれを避けたのである。短歌を読むのであれば代数の計算、幾何の証明問題を解くことにエネルギーを傾けておるほうが賢明であった。換言すると太宰好きが無防備に太宰文学にのめり込むと、太宰のような生き方を選択しやすくなるのと似ている。それで短歌の世界は見て見ぬふりをしてきた。


 


横道に逸(そ)れるが、正月明け早々禍々(まがまが)しい女子短大生バラバラ殺人が報道され、21歳の次男が「妹に『夢がない』などとなじられ、殺してのこぎりや包丁を使って首や手足を切り取り、ゴミ袋に入れた」と犯行を供述した。ぼくの年齢では想像できない非人間的犯罪が家庭内で昨今勃発しているが、事件の原因が妹になじられたことのみにあるのなら、そのときの激情を回避する手だてが現代の青少年にないことを痛感する。先日「狂気について」を執筆したが、人間心理の狂気を常日頃から認識しておれば、主観を制御する心理トレーニングを実行することもできたであろう。今日の義務教育が自己を客観視するトレーニングから遠ざかっていることにも一因がある。


 


現在のぼくは与謝野晶子、石川啄木の短歌を再認識しているが、関心の向く短歌となると抒情性や感傷性の色濃くない作品である。


 


それでやむなく(事情があってということだが)「短歌人」という全国的規模の結社の会員となって、作歌の手ほどきを受けることにした。五七五七七は理解していても、ぼくの作った物が短歌なのかどうかその判断すら不確かな未熟さであった。歌人に、はい、これは短歌になっております、と指摘して貰わないと不安であった。しかしなあ……与謝野晶子や石川啄木のような詠い方のヒトに指導されると、拒否反応がでるかもと案じていた。


 


毎月15首ほど作って郵送すると、このなかから幾分ましと思える歌を歌人の高瀬一誌氏が選んで、結社誌に載せてくれる。高瀬一誌氏が「短歌人」の代表蒔田さくら子と並ぶ大幹部であることは、結社誌を眺めていてわかったが、斎藤茂吉ほどの歌人であるかがわかっていなかった。指導して貰うかぎり取りあえずは一流の人物にと密かに願っていた。それで角川の「短歌」、短歌新聞社の「短歌現代」といった現代短歌の総合誌を数冊買って来て通読したら、高瀬一誌氏が「短歌現代」に〈歌誌月旦〉というものを載せていた。毎月発刊される歌誌を数冊ピックアップして批評。これなら相当の歌人で評論家であると想像、一安心した。


 


そうなると今度は高瀬一誌氏の歌風なるものが気になる。見本に郵送されてきた「短歌人」(1998 6)の同人1中の氏の作品をご紹介する。この時点では高瀬一誌氏がぼくの作品を見てくれるとはわかっていなかったが。


 


電線のゆきつくところ大いなる森を駅名「森林公園」と称す


わが顔に力があらずと真昼間電車の人は語ったか


あめ降らぬ 部屋の隣はシヤチハタのスタンプ台使う人ならん


水を汲み死人の口へ運ぶかな八王子人形かんたんならず


階段を上がって生まれし姪の子は金太郎様と名付けられたり


電灯を消し忘れたのではなかったな人間ふたり立ち上る見ゆ


解剖が終わったあとから坊屋三郎髪のふさふさ残ってしまう


船団をこの頃はみたことがない さみしさびしの女が飲みぬ


おしろいの花咲くところゆく北京のバスは解放という


 


読み終えて、短歌へのぼくの既成概念が打破された。これも短歌か……しばらく唸っていた。この歌人ならぼく向きと思った。その後二年間高瀬氏に従(つ)いて作歌に励んだ。この頃に「現代短歌人」のブログに時折出てこられる、歌人鶴野佳子さんとお付き合いするきっかけがあったが、このことは後日執筆。


 


高瀬氏はぼくが事情あって作歌から離れた後、一年後に逝去された。ご好意に創作で何一つ報いていないのが残念。


 


神戸新聞の短歌の選者である歌人米口實氏が、高瀬一誌氏のことを「眩」47号に書いておられるので引用させて貰った。ここに出てくる歌人辰巳泰子さんとも多少の縁があった。電話を二度ほど頂戴した。


 


これを読んでぼくは高瀬氏の壮絶な時期にお世話になっていたことを知った。大阪で一度お会いしたのがぼくにとっての多少の慰めである。




高瀬さんの遺歌集など


 


 高瀬一誌さんが亡くなって「短歌人」が追悼特集を組んだのは去年の12月号だった。そしてこのほどその遺歌集『火ダルマ』が送られてきた。感慨、ひとしおである。
 彼が咽頭癌で入院したのは1194年の3月だった。そして2000年の秋には内臓転移で入院手術ということになる。それから翌年の5月12日の死去まで、壮絶な闘病生活があった。この歌集の初出一覧を見るとその歌は『スミレ幼稚園』以後のもの、1996年の「短歌人」6月号から始まる。それはもう彼が病因を意識してから2年後のことになると思う。すでに、その初期に
  断つという音のいろいろ分析をつくしてガンの音がのこりぬ
  横転でも回転でもいいが死に顔はこうときめた男だ
がある。そして、歌集の終わりのころの
  旨き茶があり 旨き茶もなし眠れば別れ別れぞ
まで、彼はまっすぐに死に顔を向けて生きて来たのだと思う。
 高瀬さんの歌は一般には異色だと思われて来た。意識的に定型を外した律調、極端に場面を省略する手法、そして日常に素材を採りながら日常現実からさらに深層に嵌入してゆく主題の置き方、すべてが旧来の歌壇の常識となった情景描写という方法からは隔離されていたのだ。それは濃縮されれば詩としてはエピグラム(箴言)に近いものになってゆくだろう。
 彼の『スミレ幼稚園』から作品を引く。
  さんざんあそんだあとでこの水さいごは水に喰われてしまう
  この金亀虫の死ぬふりはまず足の動かし方からはじまりにけり
  天才は眠らせておけ 斎藤茂吉の首に雪はふるもの
 私はこういう作品に高瀬さんの短歌の完成度を見ていた。そもそも近代短歌は事実を切り取るというところから逃れることが出来なかった。その場合、事実をとりまく現実の諸条件を切り捨て、省略することが如何に困難であるかということは多くの短歌作法書のいうとおりである。高瀬さんの短歌はいわばその対極にあった。もうこれからの歌壇に彼のような作者は登場しないだろう。
 死に顔を向けて生きる、と言えば私には最近、とても辛い経験があった。今年の4月21日、「短歌朝日」の創刊5周年の記念パーティが東京会館であった時のことである。編集スタッフの市原克敏さんが会場の入り口近いところにぽつねんと立っていた。まるでお客のようである。「どうしたの」と声を掛けると「ちょっと出先から来たものですから・・」という返事が返って来た。何か会合でもあってそれに出席したのか、とふと思っていた。それから、突然の彼の死を知ったのは辰巳泰子さんのホームページだった。5月7日がお通夜、8日が葬儀だったという。あまりにも急な死に方であった。
 ながらみ書房の及川さんと電話で話していて、彼の死因を聞いて愕然とした。その日も彼は病院から会場に来たのだった。その時の彼の顔色は黒ずんでいて今から考えると不審を持ってもよかったのだ。彼もまた死に顔を向けながら生きていた一人だったのか。
 人間は否応なく死ぬ。死ぬことが運命づけられているのだから、われわれはそれから目を背けるべきではない。(下線は喜多)


 


◆高瀬一誌の短歌
http://fss926sei.hp.infoseek.co.jp/takase.pdf