喜多圭介のブログ

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悲愁の文学――太宰治論

2007-01-26 08:26:48 | 文藝評論

2-2 気質


太宰が分裂症であるなら、いつの時期から分裂症になったのか。分裂症は薬事療法などを早期に、継続的に行わないことには、幻聴や妄想が昂進し、二重人格、多重人格化していく。太宰にこれは見られない。もし太宰に分裂症があるとしたら、二十六歳のときの三回目の自殺未遂、鎌倉山中での首吊りから二十八歳のときの小山初代と谷川岳山麓の水上温泉でのカルモチンによる四回目の自殺未遂までのことで、二十九歳で石原美知子と結婚してから亡くなるまでの八年間は、作品の完成度が高く、分裂症を窺わせるものはなにも見当たらない。分裂症患者にみられる引き籠もりもない。


作品には初期の頃から分裂症を思わせるような主人公の二面性、神経過敏な虚弱性と早熟多感な道化の姿がみられるが、太宰作品は必ずしもリアリズムを基調としたものでないので、二面性や幻想は創作上の手法として用いているのであって、太宰の心が分裂しているからではない。


太宰は自然主義風私小説作家とも見られるので、幻想が出てくると分裂症ととらえる向きがあるが、虚構を多用した作家である。女性を主人公にした作品(『女生徒』、『ヴィヨンの妻』、『おさん』)も多く、太宰にとっては、一人何役の使い分けは容易であった筈で、だからといって分裂症とは言えない。


分裂症は幼児、子どもの頃の虐待体験、親や教師などによる暴力(言葉による暴力も含めて)が原因であることが多く、思春期に症状となって現れてくる例が多い。最近では中高校生、若い女性のリストカットも分裂症の一つとされている。


太宰の幼少年期は作品『思ひ出』にあるように両親との縁、とくに母親の愛情によって育てられてはいないが、児童虐待を受けていた節はない。


私は太宰は躁鬱気質ではないかと考えている。躁鬱と分裂症は初期段階で類似した症状がみられるので、誤診されることがある。そして太宰の場合は欝よりも軽い躁(軽躁)が頻繁ではなかったか、と私はみている。精神科医の斎藤茂太著『躁と欝』(中公新書)を読むと、

躁状態の場合


躁病、躁状態の症状はまさにうつ病、うつ状態の正反対であるといってよかろう。


アイディアはこんこんと涌き、気分爽快、高揚、精神運動興奮、ちょうど、アルコールの血中濃度がたかまったときとおなじ状況を呈する。上機嫌、陽気、おしゃべり、たえず冗談をいい、言葉のなかにさかんに外国語をまじえ、まさに「天狗」の状態である。全身にエネルギーがみちあふれている感じ、将来は明るくピンク色の人生が待ちうけているように思い、記憶の外に遠ざかっていた過去の思い出が再生してくる。万事が愉快で、楽天的で頭の回転が早いので、言葉がつぎつぎに間断なくとびだしてくる。自信がありすぎ、自分を最高の人間と思うので、他人がバカにみえる。したがって、他人を指図し、干渉し、こうしたほうがいいなどと高圧的な態度にでるので、他人を往々にして怒らせてしまう。新しい計画を野放図にたて、金を湯水のごとく使い、またどんどん借金をするので、あとでニッチもサッチもいかなくたるのである。他人のいうことに耳をかさず、自分の思ったとおり勝手に行動して止まるところを知らない。


おのずと周囲の人間と衝突をし、けんかをする。上役、同僚を怒らせ、自分の評判をおとしていることに気がつかない。


さらにエスカレートすると、気分が怒りっぽく、刺激的となり、他罰的傾向がつよく、やたらに他人をやっつけ、すぐ訴えたりする。睡眠不足と、行動過多と、ゆっくり食事もとらない栄養不足等でしだいにやせて体重が減少してくる。病識がなく、自分の行動を正当視し、過信し、他人の忠告をよけいなお世話だなどとつっばねて受けつけようとしない。


誇大気分、昂揚気分がついには誇大妄想を成立させてしまう。妄想の内容はあまり組織的ではなく、空想的なものが多い。そして流動的できわめて変わりやすいという特徴を有する。


うつ状態


うつ状態の精神症状は抑うつ感情を中心にしたものだが、過去に対する後悔、自己の所業に対する不満足感、不確実感、自信喪失、将来への不安、取越苦労などから四面楚歌的な、まったく出口のない場所へ追いこまれ、完全に逃げ道をふさがれたような絶望感にさいなまれる、そういった心理をもつにいたるのである。


はては、自分がダメな人間であるがゆえに、家庭を不幸に陥れ、自分の能力、才覚不足のために、会杜の業績に傷をつけるといった自己を責める罪業感が強くなり、すべてが自分の責任であるかのように思い、自らを罰する傾向が強化される。仕事の能率は低下し、決断力がにぶくなる。(中略)


罪業感がべつの方向へ進むと、他人が自分をあざけっている、バカにしている、陰謀をたくましゅうしているといった被害念慮的な邪推、曲解が生れてくる。家族からも、隣人からも見離されてしまったという孤立感、淋しさも生れてくる。


妄想的曲解が、貧困妄想というかたちとなることもある。実際はそれほどでもないのに、貧乏になった、金がなくなった、経済的に破綻しているという妄想である。妄想というのは、説得はまったくきかない誤まった考えである。


『逆行』、『道化の華』の頃の太宰は躁状態がひじょうに昂進していた。〈アイディアはこんこんと涌き、気分爽快、高揚、精神運動興奮、ちょうど、アルコールの血中濃度がたかまったときとおなじ状況を呈する〉のであった。〈気分が怒りっぽく、刺激的となり、他罰的傾向がつよく、やたらに他人をやっつけ、すぐ訴えたりする〉。『如是我聞』で志賀直哉に烈しく反駁している文章は、まさにこの症状によるもので、『如是我聞』中の以下の文は太宰に跳ね返るものである。

はりきって、ものをいうということは無神経の証拠であって、かつまた、人の神経をも全く問題にしていない状態をさしていうのである。

デリカシィ(こういう言葉は、さすがに照れくさいけれども)そんなものを持っていない人が、どれだけ御自身お気がつかなくても、他人を深く痛み傷つけているかわからないものである。

自分ひとりが偉くて、あれはダメ、これはダメ、何もかも気に入らぬという文豪は、恥かしいけれども、私たちの周囲にばかりいて、海を渡ったところには、あまりにいないようにも思われる。


太宰は文豪、先輩の姿を権威主義と批判しながら、太宰も自著には〈宮さま〉を持ち出して権威付けしているが、こうした矛盾には気付こうとしない。これも躁鬱症の特徴である。

貴族がどうのこうのと言っていたが、(貴族というと、いやにみなイキリ立つのが不可解)或る新聞の座談会で、宮さまが、「斜陽を愛読している、身につまされるから」とおっしゃっていた。それで、いいじゃないか。おまえたち成金の奴==やっこ}の知るところでない。ヤキモチ。いいとしをして、恥かしいね。太宰などお殺せなさいますの?売り言葉に買い言葉、いくらでも書くつもり。

『如是我聞』は阿修羅のごとき感情むき出しの非難文であるが、内容が空疎で何一つ説得力がない。当時の文壇からも読者からも顰蹙を買うだけであることが、太宰にはわからない。


すでにこの頃は自殺衝動を伴う重症の鬱にあったとみて差し支えない。


悲愁の文学――太宰治論

2007-01-26 08:16:59 | 文藝評論

2-1 太宰の気質


太宰の気質から入ろうと思うが、他書の太宰治論には眼を通さなかったが、しかし太宰の気質や性格となると、私は精神科医でないので、この面から太宰はどのように分析されてきたのか、それらしい既述のある研究書を紐解いてみなければならない。


太宰は分裂症であるというのが定説のようにもなっている。


後述するが、戦後すぐに開かれた青森県共産党再建会議が日本共産党員であった津川武一家で開かれた。津川武一は精神科医で、一九六九年からは青森県日本共産党衆議院議員として五期十三年間活躍し、地元では保守・革新を問わず人望があった。


津川は太宰が亡くなって六日後の二十三年六月二十二日付「東奥日報」で、次のように述べた。

太宰がもう一年生きていたらどうなっただろう。そう思うと私は心おそろしくなる。自殺は容易に出来るものではない。その自殺を何回目かであったがやりとげたところに背筋が寒くなるのを覚える。敗戦の年の十一月九日のこと、戦後の共産党をどうして再建してゆくかの相談会に、誰から聞いたのか太宰が顔を出して私を驚かした。

色白の、キャシャな、いつもより鼻先きを尖らして、眼がくぼんで眼光が光って、顎を細らして、日本共産党はロシアとも全世界共産党とも手を切ってやるのだと結論が出たとき、太宰は全く口をつぐんでしまった。太宰は今年になってからも自分の性格を「極端な小心者……議論しても……相手の確信の強さ……すさまじさに圧倒せられ……沈黙する」と、その「桜桃」の中で述べている。敗戦後の共産党のあり方についても意見があったのを、他人に圧せられて何も言わずに帰って行った。

太宰の顔貌と性格は分裂型と呼ばれる。分裂型の体格気質の人は精神分裂病になっては、聞こえぬものを感ずる。「斜陽」の中で「壁から忍び笑ひの声がきこえて来て」父の死に当って庭の木はどの木にも一杯に蛙が頭をもたげて巻きついていたのであるという具合に、幻を見るのである。自殺前の芥川竜之介を思い出す。

こうした精神状態であれば人は容易に死を考え死を易々とやる。「斜陽」の中で太宰は幾回も幾回も死をたたえ、死にたがっている。死ななかったら発狂していたろう。そう思うと太宰が無性に不欄でならない。死なないためにも、太宰のとり得るたった一つの道は強くなることであった。強くなるためにこそ彼は共産党の相談会にも顔を出したのであり、「斜陽」の中の遺書で「僕は高等学校……で、僕の……階級と全くちがつた階級……の友とつきあふ」ことをしたのであったが結局強くなれず、「僕には希望の地盤がない……僕は貴族です」とうち倒れてしまった。

それが太宰の自殺である。太宰が強くなろうとしてつき合った友の一人である八戸の林徳右エ門と二人で、私は太宰の死をこう結論した。

津川のこのとらえ方はやや大仰(おおぎょう)ではないかと思う。人相と性格だけで分裂症とするのも早計だが、津川は太宰とどれほどの交際があったのか、太宰の性格を把握するほどの深い交際はなかったのではないか。津川が太宰に接したのは昭和十一年後半から十二年の前半、東京での「ちがる会」という同郷者同士の会、左翼系の気楽な会でのときであったから短期間にすぎない。太宰は革命の実践者とはなり得ない自分を知っていて、その場ではほとんど無口、いつの間にか席を立って居なくなっていた。これでは太宰の気質を分析できないだろうし、当時は今日ほどの精神医学の進歩もなかったから、精神病は大抵神経衰弱か精神分裂症と判断されてもやむを得ない面がある。


躁状態では幻聴、幻覚、妄想が出現することがある。さらに作家であれば虚構としてこれらを駆使することもある。私も近作に自分の顔を自覚しない、つまり首から上を意識し得ない主人公を扱ったが、このことをもって私を狂人扱いされては、はなはだ迷惑。


精神分裂の特徴については精神科医西丸四方著『病める心の記録――ある精神分裂病者の世界』から引用する。


普通の健康な精神生活では、周囲の世界を認識し、自己の状態を認識し、それに対して適当な判断評価を加え、相応した行動をする。この場合、認識、判断、評価、行動の材料となるものは、大部分、精神活動の裏に横たわっているバックグラウンドから湧き出してくる。バックグラウンドには、過去の経験、希望、恐れ、期待、欲望が潜んでいる。雀を雀として認識し、害鳥と判断し、愛すべき鳥と評価し、それを捕えようとするか、それに餌をやろうとするかは、バックグラウンドから出てくるものによって規定される。このバックグラウンドは混沌としたもので、目が醒めてしっかりしているときには、現実の周囲の情況にうまく合うように、材料がこの混沌のなかから選び出される。睡眠と夢では現実の周囲の状況はなくなってしまい、バックグラウンドの混沌が勝手に姿を現わす。

精神分裂では心は現実と夢との中間にあり、両方が重なっている。現実と夢の中間の、両方が重なった状態には、このほかに、うかされ、うわごとをいう状態があるが、このときには睡りによけい近く、現実把握がよけい少なく、夢がよけい勢いを占めている。すなわち二つの形の現実と夢の混合がある。(中略)。精神分裂では一応醒めてしっかりしていながら、夢の世界が現実の精神活動のなかに混じってくる。患者は現実の世界にでもなく、夢の世界にでもなく、両方の重なった別の世界に生活する。

この二重構造の世界では夢の世界の侵入によって、現実世界における認識と行動も多かれ少なかれその力が弱められ、バックグラウンドからの材料はよけいに現実の世界のなかのものとして現われる。思い出としてバックグラウンドから浮び出るものは、現実世界における他人の声とされ、バックグラウンドから浮びあがる空想は、現実世界に実際そういうものが存在すると患者は感じるので、傍から見れば妄想である。現実世界における認識と行動は、その力が弱くなるので、病人の現実世界との触れ合いは弱まり、病人は現実の一部とバックグラウンドの一部の現実化とが重なった世界のなかに、孤独に生活するようになる。


初期症状としては身体の不調感(頭痛・頭重・全身倦怠感・易疲労性)、不眠・思考力、記憶力低下・離人症・抑うつ気分、口数少なく、不活発で閉じこもりがちになる。神経衰弱症状で神経症やうつ病と診断されることもある。


専門でないのでこの程度の羅列に留め置くが、私は太宰作品を読むかぎりでは、津川武一の分析は当たっていないと考える。