7-2 太宰の後期
山崎富栄の概略は以下。
山崎富栄は大正七年、山崎晴弘と信子の次女として東京都本郷区東竹町に生まれる。山崎晴弘は日本最初の美容と洋裁の専門学校、東京夫人美髪美容学校(お茶の水美容学校)の創設者。
富栄は昭和十三年から銀座のオリンピア美容院を開設し、山崎つた(義姉)と経営。昭和十九年、二十五歳のとき三井物産の社員だった奥名修一と結婚するが、修一は結婚後間もなく三井物産マニラ支店に赴任。米軍上陸で現地召集され、戦闘中に行方不明。
昭和二十年のB二十九空襲でお茶の水美容学校、オリンピア美容院ともに焼失。昭和二十一年、富栄は三鷹駅近くのミタカ美容院に勤め、夜は進駐軍専用のキャバレー内美容院で働く。昭和二十二年三月二十七日、うどん屋で太宰と面識を得た。
当時太宰は、妻の美知子が妊娠中。そんな時に太田静子との浮気が美知子にも知られて気まずい状況にあった。
富栄の日記から引用。
読んでいて、これはどうしようもない状況(実のところ、男のぼくはねたみを覚える)。太宰が冷静に対処すれば心中は回避できるのであるが、こういう場面で自制心をなくすのが、太宰の性格である。太宰のような男を愛してしまうと、山崎ならずとも死に持って行かれる女性は多いだろう。その一方で太宰的男性をクールに見下し、蔑視する女性も多い。どちらが賢明なのか。
七月七日に富栄のもとに奥名修一の戦死の公報が届き、山崎姓に戻る。太宰は妻の苦悩や太田静子の女子誕生(のちの作家太田治子)で神経衰弱が進行、それでなくても日頃より厭世観を強めていた太宰にとっては、その頃巡り逢った山崎富栄は、心中の好餌であった。富栄のほうにも太宰との心中を回避した節はない。
山崎富栄の概略は以下。
山崎富栄は大正七年、山崎晴弘と信子の次女として東京都本郷区東竹町に生まれる。山崎晴弘は日本最初の美容と洋裁の専門学校、東京夫人美髪美容学校(お茶の水美容学校)の創設者。
富栄は昭和十三年から銀座のオリンピア美容院を開設し、山崎つた(義姉)と経営。昭和十九年、二十五歳のとき三井物産の社員だった奥名修一と結婚するが、修一は結婚後間もなく三井物産マニラ支店に赴任。米軍上陸で現地召集され、戦闘中に行方不明。
昭和二十年のB二十九空襲でお茶の水美容学校、オリンピア美容院ともに焼失。昭和二十一年、富栄は三鷹駅近くのミタカ美容院に勤め、夜は進駐軍専用のキャバレー内美容院で働く。昭和二十二年三月二十七日、うどん屋で太宰と面識を得た。
当時太宰は、妻の美知子が妊娠中。そんな時に太田静子との浮気が美知子にも知られて気まずい状況にあった。
富栄の日記から引用。
五月三日
先生は、ずるい
接吻はつよい花の香りのよう
唇は唇を求め
呼吸は呼吸を吸う
蜂は蜜を求めて花を射す
つよい抱擁のあとに残る、涙
女だけしか、知らない
おどろきと、歓びと
愛しさと、恥ずかしさ
先生はずるい
先生はずるい
忘れられない五月三日
「死ぬ気で、死ぬ気で恋愛してみないか。」
「死ぬ気で恋愛? 本当はこうしているのもいけないもの――。」
「有るんだろう? 旦那さん。別れてしまえよォ、君は、僕を好きだ。」
「うん、好き。でも、私が先生の奥さんの立場であったら、悩む。でも、若し恋愛するなら、死ぬ気でしたい!」
「そうでしょう!」
「けど、奥さんや、お子さんに対して、責任を持たなくてはいけませんわ。」
「それは持つよ、大丈夫だよ。うちのなんか、とても確かりしてるんだから――。」
「先生、ま、ゆ、つ、ば――」
I love you with all in my heart but I can't do it
何処にもおビールがなく、私の缶ビールを箱に入れて、思想犯の独房にのこのこ上がり、御一緒に飲む。
五月三日、新憲法発布の日、ほのぼのとした日の感覚だった。そして先生の背はいつものようにまるい。雨あがりの路は足を吸いこんで放さない。唸りたいような声を押えて堤を折れる。
テツサの心以外の何ものもない今の私。
「困ったなあ――。」
「泪は出ないけれども泣いたよ。」
「死なない?」
「一生こうしていよう。」
「困ったなあ――。」
先生の腕に抱かれながら、心よ、先生の胸を貫けと射る――どうにもならないのに。いつまでもお幸せで、いつまでもお幸せでと。
忘れられない――振り返って、もう一度とび込んできて下さった心……ああ、人の子の父である人なのに、人の妻である人なのに――「君を好き!」先生、ごめんなさい。
読んでいて、これはどうしようもない状況(実のところ、男のぼくはねたみを覚える)。太宰が冷静に対処すれば心中は回避できるのであるが、こういう場面で自制心をなくすのが、太宰の性格である。太宰のような男を愛してしまうと、山崎ならずとも死に持って行かれる女性は多いだろう。その一方で太宰的男性をクールに見下し、蔑視する女性も多い。どちらが賢明なのか。
七月七日に富栄のもとに奥名修一の戦死の公報が届き、山崎姓に戻る。太宰は妻の苦悩や太田静子の女子誕生(のちの作家太田治子)で神経衰弱が進行、それでなくても日頃より厭世観を強めていた太宰にとっては、その頃巡り逢った山崎富栄は、心中の好餌であった。富栄のほうにも太宰との心中を回避した節はない。