喜多圭介のブログ

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悲愁の文学――太宰治論

2007-01-29 10:32:50 | 文藝評論
7-2 太宰の後期


山崎富栄の概略は以下。

山崎富栄は大正七年、山崎晴弘と信子の次女として東京都本郷区東竹町に生まれる。山崎晴弘は日本最初の美容と洋裁の専門学校、東京夫人美髪美容学校(お茶の水美容学校)の創設者。

富栄は昭和十三年から銀座のオリンピア美容院を開設し、山崎つた(義姉)と経営。昭和十九年、二十五歳のとき三井物産の社員だった奥名修一と結婚するが、修一は結婚後間もなく三井物産マニラ支店に赴任。米軍上陸で現地召集され、戦闘中に行方不明。

昭和二十年のB二十九空襲でお茶の水美容学校、オリンピア美容院ともに焼失。昭和二十一年、富栄は三鷹駅近くのミタカ美容院に勤め、夜は進駐軍専用のキャバレー内美容院で働く。昭和二十二年三月二十七日、うどん屋で太宰と面識を得た。

当時太宰は、妻の美知子が妊娠中。そんな時に太田静子との浮気が美知子にも知られて気まずい状況にあった。

富栄の日記から引用。

 五月三日
 先生は、ずるい
 接吻はつよい花の香りのよう
 唇は唇を求め
 呼吸は呼吸を吸う
 蜂は蜜を求めて花を射す
 つよい抱擁のあとに残る、涙
 女だけしか、知らない
 おどろきと、歓びと
 愛しさと、恥ずかしさ
 先生はずるい
 先生はずるい
   忘れられない五月三日


「死ぬ気で、死ぬ気で恋愛してみないか。」
「死ぬ気で恋愛? 本当はこうしているのもいけないもの――。」
「有るんだろう? 旦那さん。別れてしまえよォ、君は、僕を好きだ。」
「うん、好き。でも、私が先生の奥さんの立場であったら、悩む。でも、若し恋愛するなら、死ぬ気でしたい!」
「そうでしょう!」
「けど、奥さんや、お子さんに対して、責任を持たなくてはいけませんわ。」
「それは持つよ、大丈夫だよ。うちのなんか、とても確かりしてるんだから――。」
「先生、ま、ゆ、つ、ば――」

I love you with all in my heart but I can't do it

何処にもおビールがなく、私の缶ビールを箱に入れて、思想犯の独房にのこのこ上がり、御一緒に飲む。

五月三日、新憲法発布の日、ほのぼのとした日の感覚だった。そして先生の背はいつものようにまるい。雨あがりの路は足を吸いこんで放さない。唸りたいような声を押えて堤を折れる。

テツサの心以外の何ものもない今の私。
「困ったなあ――。」
「泪は出ないけれども泣いたよ。」
「死なない?」
「一生こうしていよう。」
「困ったなあ――。」

先生の腕に抱かれながら、心よ、先生の胸を貫けと射る――どうにもならないのに。いつまでもお幸せで、いつまでもお幸せでと。

忘れられない――振り返って、もう一度とび込んできて下さった心……ああ、人の子の父である人なのに、人の妻である人なのに――「君を好き!」先生、ごめんなさい。

読んでいて、これはどうしようもない状況(実のところ、男のぼくはねたみを覚える)。太宰が冷静に対処すれば心中は回避できるのであるが、こういう場面で自制心をなくすのが、太宰の性格である。太宰のような男を愛してしまうと、山崎ならずとも死に持って行かれる女性は多いだろう。その一方で太宰的男性をクールに見下し、蔑視する女性も多い。どちらが賢明なのか。

七月七日に富栄のもとに奥名修一の戦死の公報が届き、山崎姓に戻る。太宰は妻の苦悩や太田静子の女子誕生(のちの作家太田治子)で神経衰弱が進行、それでなくても日頃より厭世観を強めていた太宰にとっては、その頃巡り逢った山崎富栄は、心中の好餌であった。富栄のほうにも太宰との心中を回避した節はない。

悲愁の文学――太宰治論

2007-01-29 10:27:48 | 文藝評論
7-1 太宰の後期


太宰作品の全体を見ると、昭和十三年に石原美知子との結婚が分岐点で、以前と以後とでは作品の完成度が大きく異なる。

太宰文学の研究者は結婚前の作品も重要視しなければならないが、読書を愉しむだけならば、後期作品に太宰の力量をみることが出来る。前期で見逃しがたいのは二十三歳で執筆した『思い出』を初めとして二十四、五歳に創作した『列車』、『魚服記』、『葉』、『猿面冠者』、『彼は昔の彼ならず』、『ロマネスク』がある。二十六歳のときの鎌倉の山中で首吊り自殺未遂以後はパビナール中毒で、精神が錯乱。未完成な創作傾向を帯びていった。

太宰文学は『斜陽』、『人間失格』あたりで論じられる向きが多いが、私が太宰文学の真髄に触れた思いがしたのは、後期作品の『富嶽百景』、『おさん』、『トカトントン』、『走れメロス』、『眉山』、『右大臣実朝』などの無用な饒舌を抑制した作品であった。

題材の違うせいもあるが、『右大臣実朝』は『逆行』の頃とは人が変わったように抑制された文体である。分裂症だと原稿三百枚を超える息の長い作品を、文体の乱れなく創作するのは無理ではないか。年代も違い一概に較べられないが、芥川にこれらの巧さの作品は見られない。

戦後の太宰は、死を賭して創作に向かっていた。

私が瞠目(どうもく)するのは戦後の執筆活動。友人たちとの酒宴や女とのことで時間をとられながら、いつ執筆していたかと思うほどの凄まじさ。芥川も作品数は多いが、長くて百枚前後、ほとんどが三、四十枚作品。太宰は短期間に長編を相当数創作している。これは死ぬ覚悟でなければできない偉業。この辺のことを年譜から抜き書きする。

■昭和二十年(一九四五年)三十六歳、三月、空襲下の東京で『お伽草子』を執筆し始め、六月、完成。四月、爆撃に遭い家が損壊したため、妻の実家である甲府の石原家に疎開。七月、爆撃のため甲府の石原家も全焼し、妻子を連れかろうじて津軽の生家へたどりつく。

【作品】『竹青』、『パンドラの匣』、短編集『新釈諸国噺』、書き下ろし長編『惜別』、書き下ろし『お伽草子』

■昭和二十一年(一九四六年)三十七歳、十一月、約一年半の疎開から、妻子と共に三鷹の自宅に帰る。

【作品】『庭』、『親という二字』、『嘘』、『貨幣』、『やんぬる哉』、『十五年間』、『未帰還の友に』、『冬の花火』、『苦悩の年鑑』、『チャンス』、『春の枯葉』、『雀』、『たずねびと』、『親友交歓』、『男女同権』、単行本『パンドラの匣』、短編集『薄明』

■昭和二十二年(一九四七年)三十八歳、二月、神奈川県下曽我に太田静子を訪ね、一週間滞在の後、田中英光が疎開していた伊豆の三津浜に行き、三月上旬までかかって、太田静子の日記をもとに『斜陽』の一、二章を書く。三月、次女里子(作家・津島佑子)誕生。三鷹駅前の屋台で戦争未亡人の山崎富栄(二十八歳)と知り合う。四月、新たに借りた三鷹の仕事部屋で『斜陽』を書きつづけ、六月に完成。十一月、太田静子との間に誕生した女児を認知し、治子(作家・太田治子)と命名。単行本の『斜陽』(新潮社)がベストセラーとなる。

【作品】『トカトントン』、『メリイクリスマス』、『母』、『ヴィヨンの妻』、『父』、『女神』、『フォスフォレッセンス』、『朝』、『斜陽』、『おさん』、作品集『冬の花火』、短編集『ヴィヨンの妻』、単行本『斜陽』

■昭和二十三年(一九四八年)三十九歳、

【作品】『犯人』、『酒の追憶』、『饗応婦人』、『眉山』、『美男子と煙草』、『如是我聞』、『渡り鳥』、『女類』、『桜桃』、『人間失格』、『グッド・バイ』、『家庭の幸福』、単行本『人間失格』、短編集『桜桃』、エッセイ集『如是我聞』

自らの人生を袖手(しゅうしゅ)をして傍観していた芥川との大きな相違で、太宰は災いを自ら招くようにして、やたら悪戦苦闘、泥濘(ぬかるみ)に足を取られ、転倒し、玉川上水に投身する。

私の長編執筆の経験から見ても、短期間にこれだけ創作すれば神経衰弱になるのは理解できる。太宰にほとんど休息の時間がない。

太宰二十九歳のときで、井伏鱒二が親代わりになって、都留高等女学校の教師・石原美知子(二十六歳)と結婚。知的で明るい女性、ひたすら太宰の創作に自己犠牲を払っている。この時期に太宰は長編『火の鳥』の執筆に専念するが、この小説は未完に終わる。焦燥感に囚われたのか、通俗ぽい作品である。

石原美知子は八人きょうだいの三女、父親の石原初太郎は明治三年、現山梨県中巨摩郡敷鳥町に生まれる。東京帝大で地質学を専攻。卒業後、東京鉱山監督署、山口県などの旧制中学に校長として勤め、広鳥高等師範の講師となる。大正十年、県の招きで帰郷、以後、県内の地質・動植物から地誌・文化に至る調査に携わり『富士山の自然界』、『富士の地理と地質』や『御嶽昇仙峡とその奥』を著す。

石原美知子の側からの小説が、津島佑子著の長編『火の山――山猿記』上・下(講談社)。父親太宰を画家として描いているが、敬愛の念で描いてある。

太宰が美知子と結婚した頃には亡くなっていたが、母親は健在で甲府に住んでいた。美知子との婚約のことは『富嶽百景』に描かれている。美知子は石原家女五人の中ではもっとも知性的な女性だが、結婚後は太宰文学の最大の理解者で、太宰の創作のために献身的な奉仕をする。美知子との結婚後の八年間、太田静子と知り合うまでの間が、創作の安定期だった。

三十九歳のとき、昭和二十三年(一九四八)三月から五月にかけ『人間失格』を執筆。不眠症を伴う疲労はなはだしく、しばしば喀血。四月、八雲書店より『太宰治全集』が刊行され始めた。六月十三日夜半、『グッド・バイ』の草稿、遺書数通、伊馬春部への歌を机辺に残し、山崎富栄(三十)と共に玉川上水に入水。十九日遺体発見、二十一日、葬儀委員長豊島与志雄、副委員長井伏鱒二等によって告別式が行われた。七月、三鷹の禅林寺に埋葬。