喜多圭介のブログ

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小説――通天橋

2007-01-25 01:13:45 | 自作小説(電子文庫本)

ホテルでバイキング形式の朝食を摂(と)ると、二人はタクシーで新神戸駅に出た。黒のブラウスに黒の帽子、黒のバック、肌色のパンツの由香は先ほどから、未明のベッドでの幸輔の囁きを忘れたかのように押し黙り、萎(しお)れていた。
「京都まで送って行こう。京都で昼食をしてからきみを新幹線に乗せる。それでいいね」

 

衆人環視を構わずに、幸輔はしょぼくれている由香の肩に片方の掌(てのひら)を載せた。
「いいの?」
「大学は春休み中だからぼくは自由だ。東京まで行ってもいいが、離れがたくなるばかりだろう」
「京都まででいい。それまでに元気になる」
「夜は元気だったのに」

 

幸輔は由香の片頬を指で突(つつ)いた。
「そんなこと言って……」

由香は目蓋を薄紅に染め、泣き出しそうになったが、微かに笑みを浮かべた。
「東京と芦屋は近いのだよ」
「わかってます」

 

十時前に京都駅に着いた。観光シーズンだけに烏丸中央出口の構内は、気ぜわしく改札口を出入りする人、一様に小型のリュックに帽子を被った中年のオバさんグループ、太股の露わなミニスカートにルーズソックスのコギャルグループなどで混雑していた。春の陽気に誘い出されたかのように、皆生き生きと輝いている。
「もう一つ桜を観ておきますか。醍醐桜のような一本樹ではないが、春爛漫だ。昨夜のきみのように」
「また意地悪を……」

 

ロッカーに大きな荷物を預けると、幸輔はタクシー乗り場に向かった。
「東福寺に連れて行くよ。観光客のほとんどは北に向かったり嵐山に脚を伸ばす。東福寺は駅の南側だから観光客が少ない。春は桜、秋は紅葉が綺麗だ」
「京都へはよく来られますか」
「以前はね。だけど一人で来ても淋しいだけ」
「私が出て来ます。六月、八月、十月、十二月と一月(ひとつき)おきに」
「八月の京都は暑い。ぼくが東京に行く。十二月のクリスマスも東京のホテルできみと過ごそう。大学の休み中は東京で過ごす。突然きみの両親にご挨拶は出来ないだろう。ご両親とよく似た年齢だからご両親も驚かれる。二人で一緒に暮らす段取りがつけば、ご両親からきみを奪うために逢いに行くけど、それまでは無用なトラブルに由香を巻き込みたくない」

 

タクシーを降りると、片側に石組みの上に白壁の土塀が続いている路を歩いた。前方に青々と竹畑があった。
「ここは修学旅行で来なかったわ」
「京都はそのとき以来かい?」
「ええ。一人で来てもつまらない」

そうか、由香はそういう男たちと付き合ってきたのか、と幸輔は胸の裡でこれまでの由香の境涯を思った。

 

セックスだけを女に求め、女と人生を愉しむことをしない。視野の狭い男が多くなったものだ。幸輔は妻の牧子とよくあちこちに出かけた。主に京都、奈良であった。牧子が喜びそうなところを見付けては誘った。牧子が行く先々の景観を、満面で喜んでいる姿を見るのが好きであった。
「これからは何処へ行くのも一緒」
「あー嬉しい。それを愉しみに暮らしていきます」

 

山門を潜(くぐ)ると由香は、「広い」と目を瞠(みは)った。
「三重塔(さんじゅうのとう)があるのね」由香はそびえ立つ塔を見上げている。

 

観光客は境内の緑の枝を広げた樹間に疎(まば)らであった。
「観るものはいろいろとあるけど、時間があまりないので洗玉燗(せんぎょくかん)に行ってみよう。通天橋(つうてんきょう)という朱塗りの橋が谷に架かっている。欄干から眺める桜や紅葉がいい」
「通天橋って、摩天崖のところにも……」
「そう。だから東福寺の通天橋をきみに見せておきたくて」

 

幸輔は先に歩き、切符売り場で通天橋を渡る切符を買った。前方を腰高の外国人のカップルが、カメラを肩から提げて歩いていた。由香の左手を握った。
「緑の芝生がいいわね。それに桜が」

 

由香は幸輔の手を堅く握り締めた。橋の中央で二人は立ち止まった。谷の斜面に薄紅の桜が満開だった。淡い白雲のようだった。
「本当に綺麗」
「醍醐桜と違って可愛らしい」
「桜は咲くために散るのですね」
「万物すべて輪廻転生。宇宙の摂理です」
「歓びと哀しみがあるのね」
「一時(いっとき)の別れは次の歓びを約束します」

 

タクシーで京都駅に引き返した。京都駅の近くのホテル内に京料理の膳を出している、老舗の支店の暖簾を潜った。ここも穴場で京を知悉(ちしつ)した上品な年輩が、数組静かに食事をしているだけであった。和服の若い女が献立を持ってきた。それを由香に渡して、食べたいものを選びなさい、と幸輔は言った。由香の選んだ物と違うのをぼくは頼み、分け合って食べようとも。幸輔だけ冷酒を一合頼んだ。

 

由香はふと思い付いたような動作で、旅行バッグの一隅からピンク色の短冊形の一筆箋と毛筆ペンを取り出した。幸輔の眺める前でさらさらとペンを走らせた。それから書き上げた一葉を丁寧にはぎ取り、幸輔に差し出した。

 

桜のみ春におぼろの洗玉燗(せんぎょくかん)忍ぶ恋路は通天橋へ

 

「由香さんは短歌をたしなまれるのですか」
「いま思い付いたので、きょうの記念にしてくださると嬉しい」
「ありがとう。大切にします。上手く詠えていますね」
「お恥ずかしいですけど」
「ところで由香さんは着物を着るのじゃないか」
「どうしてわかったの……日本舞踊の名取なの」由香は恥ずかしそうに、顔色を薄く染めた。
「やはり。摩天崖でそう思った」
「母が自宅で踊りを教えているの。私養女なんです。本当の両親は私が幼稚園のときに交通事故死を」由香は幸輔の切り子の杯に酒を注いでから言った。

 

幸輔は、「そうだったのか……」と嘆息すると、酒を飲み干した。そして「まぁいい」と呟いた。
「まぁいいとは?」
「寿命のあるかぎり由香を愛してやろうと覚悟したんだよ」
「あー嬉しい」

 

由香はにこっと微笑んだ。


          ◇

 

由香の乗った新幹線がホームを離れ、視界から消えるまで幸輔はその場に佇(たたず)んでいた。由香の残り香が鼻先に漂っていた。

――幸輔さんは小説を書いて、傍らで私は羽を抜いて機(はた)を織るというのはどうでしょうか。


醍醐桜の村里で由香は、真実こう願っていたのではないだろうか。どんなことが起ころうと、由香を受け留め続けてやろう、と決意し、幸輔は寂寥に疼(うず)く胸を、下りの新幹線ホームへと運んだ。