30年来の文学の知人Hが、昨年7月に刊行した『海の声』という単行本を送ってくれていたのを、体調の悪かったこの三日間に読んだ。届いた当座に読まなかったのは創作に明け暮れていて、他人の本を読む気持ちでなかったからである。 30数年前英国から帰国した私は、無性に小説を創作してみたくなったが、今ひとつ創作のことが呑み込めていなく、新聞に大阪文学学校の生徒募集があったので、一年間昼間部に通ってみることにした。週に一回のクラスだった。この文学学校の事務局にいたのがHだった。 あるとき、おそらく一年間の卒業式の帰路のことではなかったかと思うが、梅新の喫茶店に北川荘平、竹内和夫、奥野忠昭、沢田閏(同志社文学部教授)、Hと私がいた。前者四人は文学学校のチューターで、北川、竹内、奥野の三名は芥川賞候補作家だった。 その夜私は西宮近くのHのアパートに泊めて貰った。それまで特別昵懇でもなかったが、阪急電車内で少し話していると、Hは出雲出身、私は一時期松江で育ったので、同県人意識というのか、彼が泊まっていく? と誘ってくれたので、2DKに泊まることになった。アパートに着くと女性が居たので、彼は結婚か同棲かしていたことになるが、詳しくは訊かなかった。 翌日二人が三宮の近代美術館にメキシコの画家「シケイロス」展を観に行くというので、それにお供した。シケイロスは社会主義者であった。 シケイロスの油絵を鑑賞後、三宮の喫茶でコーヒーを飲んで別れた。ただこれだけの付き合いだったが、彼と私は同県人意識と同年、文学に志す人物として、なぜか私の記憶から消えなかった。文学活動の場も違っていて、その後の交流はなかった。 それから十五年後頃のある夜、大阪で催されたパーティーの二次会でHと再会した。長身、痩身、頬の落ち込んだ長い顔の青年が、恰幅の良い体格になっていたので、再会したときはわからないほどの変貌だった。 Hはいまは父親の跡を継いで東本願寺の僧侶兼大阪文学学校の講師? でないか。 そのHからの本である。再会後、彼からは属している同人誌が何回か郵送されてきたので、彼の文章は読んできたが、小説らしき物はこの『海の声』が初めてで彼がどんな小説を創作したのかと愉しみでもあった。が長編『海の声』一本かと思っていたが、「海の声」、「群声」、「黄土断片」、「祭りの夜」の中・短編4本の合本、256頁、定価2200円。 読後の印象は期待はずれ。このうち「海の声」がいちばん読ませる内容であったが、ストーリー展開としては尻切れトンボ、なぜこれ一本で256頁を物にしなかったのかと、Hの根気のなさに落胆した。根気のなさは他の三本も同様で、小説として見た場合、とれもこれも中途半端、これでは読者を欺瞞したと酷評されても仕方がないのではないか。 彼の30年間の結実がこの程度だったかと思うと、実に残念な気持ち。 まず「海の声」の書き出しから。Hの文体は野間宏の影響がある。
{{{
1、峠
曲がりくねって長く、埃っぼい山道につづく峠を、いくつも越えた。あたりのまだ熱っぽい空気をふくむ山々から、カナカナ蝉の長く尾をひく、澄んだ鳴き声が湧きあがり、それは私の耳奥(みみおく)で幾重にも反響して、胸の奥へと落ちた。 敗戦後四年目、私が小学一年生のときであった。夏半ばすぎ、山陰・島根の父の郷里である、海辺の寺へ向かう最後の峠を越えたとき、空気のなかに急に潮の匂いが混じり、視界がいっべんに開け、そうして全身が解き放たれる感じが襲ってきた。私は大きく一息つくと、あたかも糸をたぐり寄せるように潮の匂いを鼻に引きよせ、坂道をいっさんに下った。すると後ろから「おーい…」と私の名を呼ぶ声がし、「そげん急がんでも、海は、もうそこだがね-」と、中学生になつて声変わりし始めた弘志(ひろし)おじの声が、風と風のあいだを縫うように聞こえてきた。
}}}
中程
{{{
意識しようとしまいと、日に数回、その空間のところから、海辺の駅を発つ機関車の、あのピイーツという音が聞こえた。叫び声に似たその音は、鐘のない空間から、いくつもの束となってこちらへ流れこんできた。しかし空間を見やりながら、あの音が聞きたい、そろそろ叫べ! と待っているとき、決して聞こえてきはしない。松の葉を通り抜ける風が、鐘楼の石段を吹き抜け、幾本もの松葉を落してゆくだけだった。 私は何を考えていたのだろう。自分の体が、あの鐘のない空間のように感じていたに過ぎない。なぜ鐘がないのか、ぶら下がっていないのかということさえ、そのとき考えてはいなかった。日ごろ千恵子おばから、そこにあった鐘は戦時中、祖父が軍に供出したまま戻ってこないということを聞かされていた。供出ということ――私がもう五つ六つ歳を喰っておれば、軍に供出した鐘が、鉄砲の弾に化けたことくらい分かっていたかも知れない。あるいは、もっと歳を喰っておれば、その弾が銃の先から火を噴いてまっすぐ人間に向かって飛んでゆき、瞬時に突き刺さって肉を割き、血を噴き出させ、その人を死に至らしめたことが分かっていたかも知れない。
}}}
彼らしい文体ではあるが未整理な、思わせぶりな文体。主人公である小学一年の「私」と作者である私が同化し、かつある思想を読者に押し付けている。たとえその思想が真実であっても主人公と作者が同化して、それを表現するとなれば、私の創作態度から見ると下手な小説であるということになる。――あるいは、もっと歳を喰っておれば、その弾が銃の先から火を噴いてまっすぐ人間に向かって飛んでゆき、瞬時に突き刺さって肉を割き、血を噴き出させ、その人を死に至らしめたことが分かっていたかも知れない――などの表現は、長編の中で自然な描写として描くべきことで、観念を述べるのであれば、小説の創作は楽な仕事となってしまう。 Hにこのことがわかっていないのか、そのことが残念である。
以下は「群声」のワンシーン。この表現も小学一年の子どものシーンとすれば思わせぶり、作者が同化した表現、文体である。
{{{
このときだ―四方全山じゅうの、どことも言えぬ、ずっと遠くの隅のほうから、音が湧き起こったのは。最初、濁った、ちいさな音だった。やがてそれは雲の群れのあいだから、丸っこく、太く、粘っこい響きに変わって近付いてきた。年に二、三度しか聞くことのない異国の飛行機がもたらす金属的な響きであるのは、すぐ分かった。近付いてくるにつれ、あたかも雲と雲とのあいだに大きな洞があって、そこをかいくぐり発されるような、持続的で重苦しい、ぶきみな高音へと変わっていった。私は、機影が真上にくるその姿を確かめたいと待って、あせった。
響きが、いままで聞いたどの音よりも大きく、そして一つではなく複数のものであるのが分かった。待たせるな…待たせるな。私は長い時を耐える。…と、神戸川を両側からせめぐ、ついたてのような山と山との上に乗っかる、雲と雲とのあいだの隙間にキラリと輝く、十字型の翳(かげ)を見た。機体の上方は西陽に染まり、下方は影をひきずった。私が目を奪われ、「源おっつあん、あれ…」と言おうとした瞬間、光る機影は重苦しい高音とともに、分厚い雲の中へ飛び込んでいった。
「おっつあん!」私は短く発した。
声が源さんに届いたのを確かめ、ふたたび空を見上げたとき、こんどは二機が現われていた。二横はキラッと鋭い翳をはなって雲の向こう、青みを残した隙間を飛び、二磯もたちまち雲と雲とのあいだへ滑り込んでいった。ふたたび締め付ける高音が落ちてきた。
瞬時に消えた、三機。翳と重苦しい金属音とを残して去った、三機。あれはどこまで行くのだろう。山の上、雲の上、上空はるか、あれはどこへ行くのか。濁音と高音とが入り混じった響きは、神戸川をもっとも底とする盆地で跳ねかえり、ふねんご淵の面で弾け、山々のひだに当たって渦巻いた。
すると、数日前の陰翳がよみがえった。……雲のまったくない空を短時間、山の端から端まで飛び去った、光り飛ぶ一つの機影。それは、海辺の村、父の里の寺の、南に植わっている曲がりくねった松と松のあいだから見える、はるか向こうの空を横切り、去ってゆく黒い翳だった。本堂で営まれている葬儀―照代おばの魂は空のどこへゆくのだろうと私は考えながら、いちょうの樹のわきで、光る機影を日で追った。旧「満洲」から引揚げ貨物船の重苦しい船底で、不安をえびのように抱えて眠る私の手を、決して放さなかった照代おばの、その分厚い手さえも小さな骨となって壷に入ってしまった。照代おばの陰翳、おばの表情、おばの声は、どこへ行くのだろう。
結核で横たわっていた照代おばの苦しげな表情が、胸奥からよみがえるのを抑えこんで私は、いま馬車の上で、山々の連なり、雲の群れに目を走らせる。だんだん弱まる響きは、三機が向かった山並みの上空で、なお長く尾を引いた。
三瓶山! そう、あの三機が飛んでゆく先は、山並みがつづく果て、いま雲の中にあつて姿は見せないが、他のどの山よりもずっと高い三瓶山の方角に違いなかった。
「おっつあん! あれ、三瓶にゆくんか。もっと飛ぶんか。おっつあん!」
}}}
Hはこのような場面に感情移入しすぎて、結果としては根気が続かず、尻切れトンボの作品にしてしまう。
これだけのなかに米軍戦闘機三機の出現と照代叔母の葬儀と照代叔母に手を引かれながら満州から帰国したこと、三機の戦闘機が三瓶山に飛んでいったことが詰め込んで書かれており、主に三機の出現にイメージのウェイトが占められており、他の二つとの関連が読者に伝わらず、混乱を与えているだけである。
書くのであればそれぞれのことをもっと丁寧に書かなければ、読者にこのシーンの意味が伝わらない。
それと三機の出現をこれほど重厚に描く意味合いもわからない。私なら「三機の米軍戦闘機が飛来し、不気味な爆音をあげ、三瓶山に消えていった。その先には朝鮮半島がある」程度にしたかも。