喜多圭介のブログ

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悲愁の文学――太宰治論

2007-01-30 00:08:28 | 文藝評論
9 死への安らぎ


美知子との結婚生活で情緒の安定した創作活動に入っていき、次々と佳作を発表していたので、そのままに推移すれば命を縮めることもなく、武者小路実篤、谷崎潤一郎、佐藤春夫、川端康成らと並んで戦後の文壇の大御所として活躍したことだろうが、そうはならず、女性関係の縺(もつ)れから山崎富栄と共に死出の旅路となった。

つくづく惜しいことだが、なんども自殺、心中を繰り返してきた太宰にしてみれば、やっと死ぬことが出来た、皆さん、グッド・バイの心境だったかもしれない。

このとき太宰の胸に去来していたことは、妻子のことだった。とくに自分亡き後の妻の美知子のことだが、美知子は理性のある妻だったので後事を託すに足る女性と太宰はみていた。『おさん』という作品に次のような箇所がある。

雨がやんで、夫は逃げるようにそそくさと出かけ、それから三日後に、あの諏訪湖心中の記事が新聞に小さく出ました。

それから、諏訪の宿から出した夫の手紙も私は、受取りました。
「自分がこの女の人と死ぬのは、恋のためではない。自分は、ジャーナリストである。ジャーナリストは、人に革命やら破壊やらをそそのかして置きながら、いつも自分はするりとそこから逃げて汗などを拭いている。実に奇怪な生き物である。現代の悪魔である。自分はその自己嫌悪に堪(た)えかねて、みずから、革命家の十字架にのぼる決心をしたのである。ジャーナリストの醜聞(しゅうぶん)。それはかつて例の無かった事ではあるまいか。自分の死が、現代の悪魔を少しでも赤面させ反省させる事に役立ったら、うれしい。」

などと、本当につまらない馬鹿げた事が、その手紙に書かれていました。男の人って、死ぬる際(きわ)まで、こんなにもったい振って意義だの何だのにこだわり、見栄(みえ)を張って嘘(うそ)をついていなければならないのかしら。

夫のお友達の方から伺(うかが)ったところに依(よ)ると、その女のひとは、夫の以前の勤め先の、神田の雑誌社の二十八歳の女記者で、私が青森に疎開していたあいだに、この家へ泊りに来たりしていたそうで、姙娠(にんしん)とか何とか、まあ、たったそれくらいの事で、革命だの何だのと大騒ぎして、そうして、死ぬなんて、私は夫をつくづく、だめな人だと思いました。

革命は、ひとが楽に生きるために行うものです。悲壮な顔の革命家を、私は信用いたしません。夫はどうしてその女のひとを、もっと公然とたのしく愛して、妻の私までたのしくなるように愛してやる事が出来なかったのでしょう。地獄の思いの恋などは、ご当人の苦しさも格別でしょうが、だいいち、はためいわくです。

気の持ち方を、軽くくるりと変えるのが真の革命で、それさえ出来たら、何のむずかしい問題もない筈です。自分の妻に対する気持一つ変える事が出来ず、革命の十字架もすさまじいと、三人の子供を連れて、夫の死骸を引取りに諏訪へ行く汽車の中で、悲しみとか怒りとかいう思いよりも、呆(あき)れかえった馬鹿々々しさに身悶(みもだ}えしました。

太宰は美知子を自分の自殺(心中)についてこのような分析のできる妻と思い、自分が亡くなったあとも、しっかりと子どもを育てて生きていくだろうと予想していた。

またこの箇所で、太宰は自分の今回の所業についても自己批判的分析をしているが、太田静子、山崎富栄、それに妻の美知子まで巻き込んだ女性問題に収拾不能となり、神経が疲弊、創作意欲すら喪失。事がややこしくなると発作的に自殺衝動に駆られてしまう太宰の症状からすれば、自殺するか山崎富栄との心中しか選択肢がなかった。

心中する一年ほど前の富栄の日記には次のことが書かれている。富栄は太宰との死を覚悟していた。こうした気持ちの富栄を太宰はそのままにしておくことができなかった。むしろ富栄のほうに死への積極性がある。もし富栄が、私はあなたと別れるから奥さん、子どもさんと生きて、と言ったなら、太宰は安堵してそうしただろうが、太宰は「死ぬ気で、死ぬ気で恋愛してみないか。」と富栄に囁いてしまった。太宰がこうした約束事に命がけになるのは、『走れメロス』でわかる。女を騙す世間の中で、裏切らない、誠実といえば誠実であるが、太宰は自ら足枷(あしかせ)を嵌めてしまった。富栄の七月十四日の日記には、

親より先にしぬということは、親不孝だとは知っています。でも、男の人の中で、もうこれ以上の人がないという人に出逢ってしまったんですもの。お父さんには理解できないかもわかりませんけど。太宰さんが生きている間は私も生きます。でもあの人は死ぬんですもの。あの人は、日本を愛しているから、芸術を愛しているから、人の子の父の身が、子を残して、しかも自殺しようとする悲しさを察してあげてください。私も父母の老後を思うと、切のうございます。

でも、子はいつかは両親から離れねばならないですもの。人はいつかは死なねばならないんですものね。

長い間、ほんとうに、ほんとうにご心配ばかりおかけしました。子縁の少ない父母様が可哀想でなりません。

お父さん、赦してね。富栄の生き方はこれ以外にはなかったのです。お父さんも、太宰さんが息子であったなら、好きで好きでたまらなくなるようなお方です。

老後を蔭ながら見守らせてくださいませ。

私の好きなのは人間津島修治です。


と書いて、一年後の覚悟を付けてしまっている。これでは太宰には心中以外の逃げ道はなかった。

悲愁の文学――太宰治論

2007-01-30 00:06:40 | 文藝評論
8 罪の意識


太宰文学論には、従来から評論家の奥野健男氏が指摘する問題が論議されてきた。

太宰の〈罪の意識〉、〈原罪〉の問題である。最初にこのことを指摘したのは亀井勝一郎の『太宰治の人と作品』ではなかったかと思うが、私が高校生の頃かに読んだので記憶は定かでない。以下は奥野健男氏の『太宰治』の一節である。

彼をして自己をマイナスの存在と強く意識させた直接の動機は、コミニズムの実践運働からの脱落です。富豪の生家に対する反逆と、「他の為」になりたい、弱い者の味方になりたいという倫理感から、つまり下降指向によつて彼は学生時代コミニストとして、その運動に自己のすべてを賭けました。(中略)非合法運動の、肉体的精神的疲労に達した時、彼は逃亡し、その裏切りの罪意識から、偶然知り合った女性と入水自殺を計りました。彼は自己をもつと患劣なかたちで途絶えさせようとしたのです。だが彼だけは死ねず、生き残りましたた。この卑劣な行為が、彼に烈しい倫理的な負い目を与えます。いや彼はこの罪の意識を持つたことにより、始めて生きて行く理由が見つかつたのです。

太宰の非合法活動、左翼との関わりについてはすでに見てきた通りであり、はたして〈烈しい倫理的な負い目〉を太宰はその後終生背負ったかとなると、私は疑問である。もちろんなんらかの〈後ろめたさ〉はずっと曳いており、晩年の作品では自分の脱落を自己弁護したような作品もみられる。

しかし〈倫理的〉、〈罪の意識〉となると、このことに太宰が真剣に囚われ、苦悩してきたかと作品を検証していくと、そのような深刻な意識下での作品は一つもないというのが、私の感想である。

太宰の作品には〈神〉、〈キリスト〉、〈聖書〉という語彙が出てくる――キリスト。私はそのひとの苦悩だけを思った。(『苦悩の年鑑』)――が、これは太宰が聖書に親しんでいたという事実を明らかにしているだけのことで、これを真摯な信仰、懺悔に結びつけていくような作品はみられない。

太宰は聖書を創作のヒントにしていただけにすぎない。と同時に肩肘張って懸命に生きている姿勢への慰安に読んでいたにすぎない、と言えば言い過ぎだろうか。『風の便り』に次のような箇所がある。

私のいまの仕事は、旧約聖書の「出エジプト記」の一部分を百枚くらいの小説に仕上げる事なのです。(中略)自分の醜態を意識してつらい時には、聖書の他には、どんな書物も読めなくなりますね。そうして聖書の小さい活字の一つ一つだけが、それこそ宝石のようにきらきら光って来るから不思議です。

どうも私は、立派そうな事を言うのが、てれくさくていけません。モーゼほどの鉄石の義心と、四十年の責任感とを持っているのならとにかく、私の心の高揚は、その日のお天気工合等に依って大いに支配されているような有様ですから、少しもあてになりません。

聖書や仏教書の一節から創作することは、太宰にかぎらず作家にはよくあることである。『誰』は次の書き出しから創作した作品である。

イエス其(そ}の弟子(でし)たちとピリポ・カイザリヤの村々に出(い)でゆき、途(みち)にて弟子たちに問ひて言ひたまふ「人々は我(われ}を誰と言ふか」答へて言ふ「バプテスマのヨハネ、或人(あるひと)はエリヤ、或人は預言者の一人」また問ひ給(たま}ふ「なんぢらは我を誰と言ふか」ペテロ答へて言ふ「なんぢはキリスト、神の子なり」(マルコ八章二七)

私は〈私の心の高揚は、その日のお天気工合等に依って大いに支配されているような有様ですから〉に注目する。左翼との関わりも聖書との関わりも、あるいは女との関わり、自らの人生そのものとの関わりすら、お天気具合によって左右されてきた。この場合の〈お天気〉とは、太宰の持病である躁鬱のことを指している。

躁鬱のあるひとは思春期の頃からこれに悩まされる。あるいは小学生後半から悩み始めるかもしれない。このときは自分が躁鬱という認識はないし、今日のように精神医学が進歩しておらず、一般にまでその知識が普及していない時代のことだけに、太宰本人にしても太宰の周辺にしても、太宰を躁鬱病と判断しうることがなかった。いや亀井勝一郎、奥野健男氏にしても、このような認識のもとでの太宰治論を記述してはいない

太宰が聖書に求めていたのは〈やすらぎ〉であって、聖書と面と向かって倫理的に〈罪の意識〉と格闘していたわけではない。太宰が必要としていたものは〈やすらぎ〉と〈やさしさ〉であり、これは鬱を刹那的に癒すには必要不可欠なことで、これが得られれないと自殺に走るか、自己放棄のオウム真理教のような新興宗教に走る。

太宰は〈やさしさ〉のほうは、そのときに巡り会った特定の女に求めた。このときの〈やさしさ〉とは、夫婦間の愛とか聖職者の愛とは別種の、刹那的恍惚といったものであり、事後に死への誘惑を曳航していることもある。

情死とはこのようなものである。

太宰が罪の意識で自殺したと考えるのは、見当違いなことである。