喜多圭介のブログ

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樋口季一郎と相沢中佐

2006-03-30 15:14:54 | 樋口季一郎

樋口季一郎が日本史に関わったもう一つのエピソードがある。


樋口季一郎著『樋口季一郎回想録』に以下の記述がある。
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相沢中佐との別れ


 昭和十年八月十日前後のある日、私は当時ハルピンに本拠をもった第三師団司令部に赴任すべく福山を出発した。部下将兵知人多数の見送りを受けた。その中に軍刀を携えた相沢中佐もいた。私は彼に対しいつ赴任するかと訊ねたところ、間もなく立つ積りだと答えた。私の任地は満州であるから、家族は当分福山に残すこととなっていた。相沢が去ることでもあるから、その後で家族を移す考えであった。
 それから三日後の夕刻 (後で調べたところ八月十二日であった)、私は長春(後の新京)名古屋館の客であった。一風呂浴びて夕食の膳を前にせんとする頃、慌ただしく一人の新聞記者が飛びこんで来た。そして相沢中佐が大変なことをしましたという。何をしたかと聞くと、新聞記者は相沢が永田軍務局長を殺害したというのである。何たる馬鹿な又何たる大それたことをしてくれたのか.私はただ茫然たるばかりあった。まさかこのような直接行動の第一歩が数日前まで私の部下であった彼によって今実行されるとは考えなかった。それにしても、少なくとも彼はある場合その身を火中に投ずることは間違いないと思い、彼を最も安全なる地帯(私の案では台湾など)に置かんとしたものである。彼は家族同伴赴任する心組みてあり、そのため着々出発準備が整えられ荷物も今直ちに発送しうる態勢にあった。私は彼の台湾赴任を絶対に疑わなかったのであった。
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相沢中佐とは相沢事件、昭和十年八月十二日午前、東京三宅坂台上の陸軍省内の執務室で、軍務局長永田鉄山少将は、現役の陸軍中佐によって斬殺された。この陸軍中佐こそ相沢三郎中佐、四十六歳である。そしてこの事件が翌年二月二十六日の2.26の導火線ともなり、日本を大陸侵略の軍国化に走らせたのである。


樋口季一郎は部下であった相沢中佐が決起にはやり、何か事を起こすことを予感していたので、台湾に赴任させるつもりであったが相沢の行動の方が早くて止めることができなかった。


相沢事件に対して樋口はどのように身を処したかを見てみよう。潔い態度であった。
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 しかし何れにしても矢は既に弦を離れていた。賽は既に投ぜられていた。私の責任は重大である。私が第三師団参謀長であることは事実であり、彼相沢が台湾歩兵第九連隊附である.ことも間違いない事実である。それはそれとしても、二年間相沢の直属上官として指導すべき立場にあった私の責任は、相沢に次ぐ大なるものである。私は陸軍大臣に対し進退伺を捉出した。
 私の責任問題につき、第三、第五師団、陸軍省の三角関係において交渉があったようだが、結局私は最大限の重謹慎に処せられ、引続き業務を執るペく申し渡されたのであった。
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当時樋口は血気にはやる相沢らの動きをどう分析していたのか、樋口も彼らに共鳴していたのか、回想録から見ておこう。
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 「叛乱」によると相沢事件は、この八月定期異動が主なる原因となるようである。八月異動において真崎大将が教育総監を免ぜられ、いわゆる皇道派と見らるる連中が或いは左遷され、或いは引退した。これを永田を中心とする統制派の陰謀であると断じての事件とされている。
 そして彼ら直接行動派は、「他」の使嗾を受けたことは事実であるにしても、使嗾さるべく精神的に、はたまた思想的に準備されていたことに問題がある。準備とは何か。それは「天皇絶対」の思想であり、「現人神の信仰」である。昔はそれをおぼろげに意識していたにしても、それは主として教育勅語、軍人勅諭に基づくものであり、やや形式的性格を持っていたかと考えられるのである。ところが昭和六年八月、突如として満州事変が発生し、世界の包囲攻勢のさなかに立つと直感させられた国民、特に青壮年軍人層は「自由思想」による教育、政治ではこの苦難と危接を突破し得ずと感ずるに至り、絶対強固な政治の運営、しかしてその前提としての日本思想の確立を必要と感ずるに至ったのである。それは「誰か」にあらずして日本全体の本能的「思潮」でもあった。
 かかる思潮に重大影響を与えた人物に徳冨蘇峰、平泉澄、今泉定助の三先生があると私は信ずるのである。権藤正郷、安岡正篤、大川周明などの影響は微々たるものであったと思う。
 徳富蘇峰先生は、何もこの一、二年の思想、行動によるのではない。明治三十年頃、「静思余録」を書かれた時分から国家主義的進歩思想にどれだけ偉大なる感化をもたらしたものであろうか。彼の「日本国民史」のごときは余りにも宏大なる著述であるから比較的感化力に乏しいとしても、「世界大戦後の世界及日本」(第一次大戦)のごときは日本青壮年に偉大なる自覚を与えたと共に、アンチ・アングロサクソニズムを鼓舞している。平泉博士は、その日本歴史学において天皇の神性を唱道し国体の尊厳に対する理論的解明を与えていた。この両先生の思想を一歩前進せしめたのが今泉定助先生であり、彼は「三大神勅」を日本歴史と日本精神の基礎なりとなし、それが実践として「祓(みそぎ)」の必要をも唱道したのであった。
 かくして「日本思想」なるものは、その好むと好まざるとに拘わらず非常な勢いをもって燃え上り、僅かの水ではとても沈静消火せしめ得ざる程度に達したのであり、そこに最後的焦点として「天皇機関説」に対する国体明徴要求の議会論議ともなり、岡田内閣の命とりの問題と化したのである。
【中略】
 徳富、平泉両先生までは「天皇人間説」を捨てなかったであろうが、今泉先生に至っては「天皇即神」でなければその説は筋が通らなかったであろうし、それが又燃えさかる国体明敏論者の意に叶うのであった。
 これを逆に考えてみると、今泉あって徳富、平泉あり、徳富、平泉ありて国体明徴論あり、彼らにより国家改造論が強大なる世論となり、それを巧妙に操る好雄、鼻雄の存在によって相沢事件とも又二・二六事件ともなつたものと私は見るのである。【攻略】
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「叛乱」は立野信之著。


この文章を見る限りにおいては樋口は、冷静な分析をしており、相沢らを皇道派と見、そして連中呼ばわりしているところを見れば、その動きに同調している節は見られない。また統制派に属していたとも考えられない。樋口はこの二派に対しては傍観的立場であった。

樋口は軍人としてはなかなかの教養人である。相沢の項で次のようなことも書いている。
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 レフ・トルストイはその「戦争と平和」において、英雄と時勢(世論) の関係を論じているが、彼は英雄としてのナポレオンを極めて小さく扱っており、時勢、世論が彼を一種の傀儡として祭り上げ、彼をして対露遠征を決行せしめたるかに述べている。要するに彼においては一個人の力は非常に微々たるものであり、時勢、世論即ち衆の力の絶大を主張するのてある。
 およそ歴史の発展過程を大観すると、
 1 ある第一の個人が種子を蒔く
 2 大衆これに追随し、一つの世論が生れる
 3 ある第二個人が大衆の傀儡に担ぎ上げられる
 4 この個人が英雄(善、悪いずれかの) となる
 という四段の過程を持っている。第一の個人と、第二の個人との関係は何ら直接的でないにも拘わらず、第一の個人は第二の個人に対し、善悪いずれかの道義的責任を持たぎるを得ない立場に立つであろう。もし第一の個人の種子が仮に極めて「善」であったとしても、その種子より生れ繁茂するもの、必ずしも「善」であるとは眠らないことは人間界に免れ得ぎる現象であり、そこに悲劇が発生するのてある。
 そこで、右原則の第二の個人が歴史的に善の英雄となった場合、第一の個人は善の英雄を生んだ、第一の功労者として賞揚さるべきである。吉田松陰先生がその好例である。第二の個人が悪の英雄となった場合、第一の個人の立場は誠に泣くに泣かれぬ立場に立たされるてあろう。それが私の絶対尊敬する徳富先生の悲劇的立場である。
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ぼくは二派に対する樋口の態度を傍観的と表現したが、実際彼はどのような態度の軍人であったかそこを見ておきたい。回想録に──直属の部下、相沢中佐──という小見出しがある。
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 私が福山に着任して見ると、連隊の青年将校連は、歩一、歩三の若い者ほど思想的に尖鋭化していたとは考えられなかった。それでも東京方面からいろいろの連緒的文書が発送されて来る関係でもあろうか、いささか時世を論じ憤慨するの風があった。大尉以上は平静で静岡時代と変ったことはない。四十期以後の若者が少々ガタガタしていたにすぎない。相沢が来たというので、広島の歩二の若い者たちと一緒にぼつぼつ気勢を上げようという風がほの見えた。それでもその根本は極めて持弱であり、ただ日本改造法案を見たこと、読んだことがある位で、この頃の青年が「世界」、「改造」、「文藝春秋」を読んて知識人、文化人を装う程度にすぎなかった。
 相沢は自己の本務は忠実に行なうが、彼自身の生命は本務よりは遠ぎかっていたかに見えた。私は相沢が時折若い少尉あたりに天下の大勢を論じ、日本改造の必要を講釈する片鱗と、若い者が相沢を中心に動く気配を感じた。私はまず相沢を招致して「僕は今までは君の友人であったにすぎない。しかし今は違う。今君は僕の部下であり、僕は君の直属上司だ。僕は陛下の統帥権の一部を拝受している連隊長として、部下たる君を遇する決心だ。それが天皇に対する忠節絶対の真姿である。君は東北の連隊で相当広範な自由を得ていたようだが、今後はそれは許されないであろう。僕もこの頃の日本の政治は必ずしも良い状態で運営されているとは思わないが、それを改善せしむるのは、自ら他に方法がなければならぬ。彼ら政治家といえども馬鹿ばかりではない。非国民ばかりでもない。必ずや彼らの内部に革新運動が起り、政治の浄化作用が始まるであろう。また始まらねばならぬ。我
我軍人は自己の任務を忠実に実行すべきであり、それができぬ限り我々は政治家の仕事を批判する資格がないではないか。僕は君に要求するが、君は自己の任務を完遂すると共に、若い者たちにもし不心得のものがある時はよろしく私の今述べた精神に基づいて善導してもらいたい」と申し渡したのであった。彼は判ったような判らな
いような顔をしていた。
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ここに軍人樋口の姿を見ることが出来る。戦前の軍人である限り、〈天皇に対する忠節絶対の真姿〉であった。このことをもって彼を国粋主義、極右と見るのは間違っている。回想録を読了しても天皇そのものへのあつい忠誠心への口吻は伝わってこない。軍律が天皇への忠誠心をうたってあるから、その軍律に忠実な軍人であったと認識したほうがよい。


極右思想の持ち主は故人である良識的保守の軍人をすら我田引水に利用するのである。



 


樋口季一郎の遺影

2006-03-30 12:11:24 | 樋口季一郎

樋口季一郎(1888-1970)


最前列左から安岡正臣留守第三師団長、岩松義雄中部防衛軍司令官、東条英機陸軍大臣、氷見俊徳留守第十一団師団長、樋口季一郎第九師団長、佐々木到一第十四団長、二列目氷見と樋口の間に石原完爾第十六師団長、全員陸軍上層部。


札幌神社参詣中の樋口季一郎北部方面軍司令官


樋口季一郎は南あわじ市阿万出身

2006-03-29 12:23:31 | 樋口季一郎

ぼくが樋口季一郎に興味を持ったのは以下の一文である。この一文は樋口の孫に当たる樋口隆一氏(明治学院大学芸術学科教授、のちに文学部長)が、――『樋口季一郎回想録』再刊に寄せて――として、本書の初めに書かれたものである。

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  晩年の祖父の日常は散歩に読書、祖母を相手の将棋、野球や相撲のテレビ観戦といったごく一般の老人のそれだった。多少風変わりなのは『アンナ・カレーニナ』を初めとするトルストイの小説をロシア語で読んでいたことだ。長い外国生活を通じてロシア人の友人も多く、個人としてのロシア人をこよなく愛していたが、国家としてのロシアの複雑さもまた誰よりも熟知していた。戦争の話は一切といってよいほどしなかったが、アッツ島の風景を描いた小さな水彩画を掲げ、日毎に慰霊の祈りを捧げていた後ろ姿は忘れられない。 ユダヤ難民救出についても祖父はほとんど語らなかったが、ただひとつ祖父が明言していたことがある。「当時のヨーロッパではユダヤ人に対してだけではなく、アジア人への偏見も存在した。だからドイツやポーランドに行った若い日本人を下宿させてくれたのははとんどがユダヤ人の家庭だった。つまり日本人はずいぶんユダヤ人の世話になっている。そのユダヤ人の難民が困っていたら、助けてあげるのが当然じゃないか。いろいろ言う人がいるけれど、真相はあんがい単純なことなんだ」というのである。後になって「イスラエル建国の恩人」とか「人類愛の将軍」とか、たいそうな称号を頂いて、祖父は実に面はゆい思いをしていたにちがいない。彼にとっては「小さな隣人愛」の自然な実践に過ぎなかったと思う。親友石原莞爾の影響で日蓮宗の熱心な信者であった祖父だが、仏典と並んで聖書もまた実に良く読んでいた。とはいえ国際政治の錯綜した状況の中で、緊迫した事態を自分の心中では隣人愛の次元まで単純化し、その上で満州国を動かし、満鉄総裁松岡洋右に十二両編成の救援列車十三本を手配させたという披の問題整理能力には、一人の人間として敬服せざるをえない。 難民救済に関する祖父の独走は、当然ながらナチス・ドイツを激怒させたのみならず、日本の外務省、陸軍省、関東軍をも憂慮せしめた。しかし披は、「日満両国は非人道的なドイツ国策に協力すべきでない」という理由で自分の行動の正当性を主張した。関東軍参謀長東条英機もそれを良しとして、披の意見をそのまま陸軍省に申し送ったという。祖父はそのことに関して、「あの頃は東条もまだそんなにバカではなかったよ」などと言って笑っていた。 外国生活が良く、また読書家であった祖父は話題豊富な座談の名手でもあった。「ヨーロッパでは旅行するたびに情報収集のために必ずオペラを見た。プッチーニの《トスカ》はすばらしい」などという話を何度聴かされたことだろう。私は長じてドイツに留学し、今も仕事と楽しみを兼ねてヨーロッパ各地でオペラを見ることが多いが、考えてみるとどこかに祖父の影響があるのかもしれない。ショパンのマズルカを母や妹に弾かせて悦に入っていた祖父は、おそらくワルシャワの社交界を回想していたのだろう。若い女性の来客があると、別れ際にうやうやしく宮廷風のハントクス(手への接吻)をして女性達を有頂天にさせる術も心得ていた。

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文学をやってきたぼくとしては、実に魅力的な人物である。そしてこの人物が明治22年八月に阿万上町の奥浜家で生まれる。季一郎は奥浜久八、まつ夫婦の五人(九人?)きょうだいの長男。明治33年父母は協議離婚し、母方阿萬家に引き取られた。明治34年三月に三原高等小学校(官立の高等小学校で1886年6月、三原郡市村の正新小学校の校舎の一部を利用して開校。翌年4月に新校地(のち、三原郡公会堂用地)に移転した(『三原郡史』三原郡町村会、1979)。この場所は現国道28号線市青木

http://www.mapion.co.jp/c/f?grp=all&uc=1&scl=70000&el=134%2F46%2F34.901&pnf=1&size=600%2C550&sfn=all_maps_00&nl=34%2F16%2F54.977&&

の交差点の北東角である。文部省が定めた必修科目のほかに英語を課していた。)第二学年を終了、その後篠山にあった兵庫県中学鳳鳴義塾に入学。

 

鳳鳴義塾は明和3年( 1766)篠山藩主青山忠高が藩校「振徳堂」を創建したのが源である。明治17年青山忠誠が基金を募り、私財をも投じて「私立鳳鳴義塾」と改称し中学教育を維持する。明治32年文部大臣の許可により、「私立尋常中学鳳鳴義塾」と改称。大正9年県立に移管、「兵庫県立鳳鳴中学校」。そして昭和23年、新制高等学校制度発足に伴い、「兵庫県立鳳鳴高等学校」と校名を変更する。

 

樋口は14歳の明治35(1902)年、大阪陸軍地方幼年学校に中途入学した。よほどの秀才でなかったか。このことが彼を陸軍のエリートコースの歩み始めとなった。

 

幼年学校とは明治20年(1887)陸軍士官学校官制、陸軍幼年学校官制が制定され、設立された。その後、軍備増強政策による人材育成を図るために明治30年(1897)陸軍幼年学校官制が廃止され、代わって陸軍中央幼年学校条例及び陸軍地方幼年学校条例が制定された。東京に陸軍中央幼年学校、仙台、名古屋、大阪、広島、熊本に陸軍地方幼年学校が設立された。主な生徒数は各校約50名ずつで、中央学校は14歳から2年間、地方学校は13歳から3年間である。学費は陸海軍の士官子息は半額であり、戦死者遺児は免除とされていた。軍事学及び普通学を学び、出身者による陸軍将校に占める割合も三分の一になった。

 

2006年四月二日、阿万にて樋口季一郎の遠縁のかたにお会いすることが出来た。奥浜家は廻船問屋の仕事をしていたとのこと。しかし樋口が子供の頃に家業は傾きだした。回想録年譜は奥沢と記載されているが、これは出版元の編集ミスであろう。

 

その後18歳で岐阜県大垣市歩行町樋口家の養子になったが、この辺の事情は回想録にも出てこない。樋口家は氏族の家柄でなかったかと想像している。奥浜久八の弟勇次が樋口家に入り、季一郎は勇次夫婦の子になったようである。

ここに出てくる石原完爾については、「平成太郎の館」

http://fss.hp.infoseek.co.jp/meisaku.htm

にある。東条英機と並ぶ大物軍人である。


樋口季一郎とアッツ島玉砕とキスカ撤退

2006-03-01 02:33:40 | 樋口季一郎

虎の尾を踏む男たち 太平洋奇跡の作戦 キスカ


樋口季一郎にとって、痛恨の戦記、アッツ島玉砕、キスカ撤退について概観を書くことにする。



アッツ島玉砕については以下に概要が書かれてある。
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/gyoku-attu.htm


キスカ撤退については以下に概要が書かれてある。
http://ww31.tiki.ne.jp/~isao-o/battleplane-16kisuka.htm


『陸軍中将 樋口季一郎の回想録』の前身は1971年10月に芙蓉書房から出版された『アッツ、キスカ軍司令官の回想録』であるが、不思議なことに本文中にアッツ島玉砕、キスカ撤退についての記載はない。その理由について『陸軍中将 樋口季一郎の回想録』の編者(おそらく孫の樋口隆一氏と思われる)が述べている。


『陸軍中将 樋口季一郎の回想録』は第八部 アッツ、キスカ作戦を指導、となっているが、第九師団長に親補、で本文を終わっている。つまり肝心な作戦指導のところが執筆されていない。このことについて編集註として二つの理由を記している。一つは高齢の故の執筆能力の衰え、二つは難戰の指揮を執ったことが筆を鈍らせた。このために樋口はいったん休養を必要としてペンを置いたが、そのまま八十二才の生涯を閉じてしまったということである。


ならば芙蓉書房編集部は『アッツ、キスカ軍司令官の回想録』としたのか、疑問の残るところである。


アッツ島玉砕、キスカ撤退の本文記載がないものをあえて『アッツ、キスカ軍司令官の回想録』としたか、芙蓉書房の体質を窺(うかが)わせしうるものがある。


したがって『陸軍中将 樋口季一郎の回想録』に依るかぎり、樋口がどのように指揮を執ったかは本文から読み取ることはできない。ただ「戦史室への書翰」がいくつか掲載されているので、断片的な事柄は知ることは出来る。まず次の写真を紹介する。


北千島巡視中に現地陸海軍首脳部と撮影したもの。前列中央が樋口、その右が久保九次海軍中将。
http://fss926sei.hp.infoseek.co.jp/higuti4.gif


アッツ島玉砕について樋口は、「戦史室への書翰」に次のように書いている。
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 二月二十三、四日であったか、参謀次長薬中将来礼。中央部の意思を私に伝達した。それは「軍の計画は至当とは存ずるが、此計画は海軍の協力なくしては絶対に不能である。中央としては海軍と協議、要求したが、目下の海軍には其余力がない。随って北方軍としては寔(まこと)に苦しいこととは信ずるが、此企図は捨てて貰いたい」と云うのである。彼は懐中に大命を携行していた。
 私はそこで一個の条件を出した。それは「キスカ撤収に海軍が無条件の協力を約束するならば」と云うにあった。
 次長は長距離電話で中央部と協議の末、私の条件を受理した。そこで私は山崎支隊を見殺しにすることを了承せぎるを得なかったのであった。
 此日であったか、或は又数日後であったか、私は電報的通話の方式を以て山崎と交話した。私は海軍及び陸軍中央部の実情延いては私の反攻企図の実行不能を述べ、山崎部隊が独力無援最後迄善戦し、日本武士道の精華を拭現せられたき旨要望したのであったが、山崎は「国家国軍の苦しき実情は了承した。我等は最後迄善戦奮闘、武士道の精華を発揮するであろう」と云う様な返電を送致し来ったのであった。
  二十九日の夕刻であった、山崎大佐より最後の電報が来た。「アッツ全戦線を通じ、戦闘し得る者僅々一五〇名となったから、本夜、夜暗に乗じ全員敵中に突入する考えてある。私共は国家民族の不滅を信じ散華するであろう。閣下(これは私を指す)の武運長久を祈る。各位によろしく伝達ありたし。天皇陛下万歳。これと共に通信機を破壊する」と云うのが彼の最後の通信であり、虎山(?)方面より敵に向い突撃し全員完全なる散華を遂げたのであった。
 一昨年であったか、日本アッツ遺骨受領員の報告が大体其真相を伝えて居た。重傷者六、七名が捕虜となって居たことが戦後知られた。
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樋口が大本営の戦略をどう見ていたかは、次の一文でわかる。
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 前述の如く、昭和十七年八月、私が札幌に到着する迄、大本営も北海支隊も共に極めて楽観的であったと信ぜらる。それは陸軍作戦の必要から該方面に陸軍兵力を派遣したものでなく、海軍的眼を其方面に置くと云う、謂うなれば「一種の海軍的展望」にすぎなかったからである。私が着任した当時、私の考えは部下の「半棄状態」を改めんとするにあった。処が真剣に我が方のアリューシャン防備強化が始まると敵も亦アラスカ方面よりの活動が活溌となり来ったのであった。そして山崎部隊がアッツを占拠する頃には、米勢力圏内に著しく部隊が増力されだし、飛行基地も西漸を見るに至った。キスカ東方の一、二の島々は我が方の飛行基地建設開始に後れること数カ月にして早くも飛行可能となる。それは整地が機械力、滑走路は網による舗装の方式を採用したからである。
 斯くて敵の飛行が開始される頃となりては、ポヤポヤすればアッツの飛行場完成前敵から攻撃されるかも知れないと私も実は戦々兢々、来攻判断と云うが、それは「我」自身の熱意の問題である。自ら責任感強ければ敵近く来攻すべしと考えられ、呑気なれば之に反する。北方軍として迅速にアッツ、キスカの防備完成を希望した。それは敵の反攻近からんと判断したからであった。峯木、山崎も同様であったと信ずる。
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 札幌護国神社に建立された碑。
http://fss926sei.hp.infoseek.co.jp/higuti5.gif


碑除幕式に出席した樋口(昭和43年)、亡くなる二年前。
http://fss926sei.hp.infoseek.co.jp/higuti6.gif


この写真を見ると、樋口は気息奄々(えんえん)、やっとの思いで除幕式に臨んだであろうことがわかる。そしてこの姿こそ、敗戦後の日本で表舞台に現れることなく、アッツ島玉砕の部下の慰霊にのみ思いをいたした、清廉潔白な一軍人の晩年であったということができるであろう。


キスカ島完全撤収について、樋口は「戦史室への書翰」に次のように記している。
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 本作戦は海軍の友軍愛及び犠牲的精神により達成された。(それは海軍の意思でアッツが占領されたことにもよる)
 本作戦の成功は、又海洋気象の作用にもよる。又特にアッツ部隊英霊の加護を無視すべきでない。
 終戦後、米軍CICの某中佐が私を調査する序を以て、談(質問)「キスカ撤収」に及び、「キスカ撤収後約一方月、米軍飛行部隊及び潜水艦は毎日の様にキスカ島を爆撃し、監視していたるが、遂に撤収企図及びそれが終了を察知し得なかった。如何にして斯かる巧妙なる作戦が可能であったか、其秘策を問う」と云う。
 私はそれに答えて秘策など何もなし。あるとするならば、濃霧を利用したと云うことに尽きる。それに海軍の友軍愛だ。なお神秘的の言辞を弄し得んとすれば、それはアッツ島の英霊の加護である。何となれば、アッツ部隊が余りに見事なる散華全滅を遂げたから、米軍はキスカ部隊も必ずやアッツの前例を追うならんと考え、撤収など考慮に入れざりしならん。若しキスカ部隊或は撤収すべしと考え、米軍がこの考えで査察したとせば、撤収半ばにして該企図をしたるなるべし。此意味に於て日本軍の企図を秘せしめたるは、アッツ島の英霊とも云い得る」と答えたのであった。私は今でもそれを詭弁と考えていないのである。
 私は自己弁解と考え、曾て他言せぎりしが、今回の質問中に兵器抛棄問題があるから附言するが。
 若しキスカを撤収し、千島防衛に貢献せることを可なりとすれば、キスカ撤収作戦の唯一の「キー・ポイント」は海軍の要求を容れ兵器等を同島に残置し、配備を外見上変更せぎりしことが相当与りて力があったと考えるのである。それは■に陸海兵力の撤退を容易にしたのみでない。さりとて私は、退却作戦(撤収作戦を含む)にはあらゆる軍需品を無条件放棄するのが文明的作戦であると云わぬであろう。勿論これは好ましきことではない。だが孤島作戦の特質として一歩を誤れば人も物も全部を失ったのであるから、時として物の損失は許すべきだと考えるのである。
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アリューシャン列島およびオホーツク海一帯での戦争は、阿川弘之著『私記キスカ撤退』にも詳細があるが、気象、濃霧、海霧を予想しての戦いであった。濃霧、海霧といっても一様ではない。場所、場所での特徴があって、発生を予測することははなはだ難しかった。キスカ撤収の折はこの濃霧が日本軍に味方したとしか言えないのである。