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喜多圭介のブログ

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所得倍増計画以後の精神構造

2008-04-07 18:12:06 | 世相と政治随想
高度経済成長が国民の眼に見える形で本格的稼働するようになったのは、1960年の池田勇人内閣からであった。55年頃から躍進への基盤が整いだしていたが、池田内閣以前の岸信介内閣は、米国との安全保障条約改定の阻止運動の高揚に足を取られ、経済成長に着手するに至らなかった。

所得倍増計画以後の精神構造とは、これ以前に幼年期から少年・少女期(中学校卒)を過ごした人間と所得倍増計画後にこれらの時期を過ごした人間とは、精神の耐久力に差異があると見ている。もちろんこれはマス的観測であってミクロ的観測では例外はある。

なぜこのようなことを考えるかといえば、こうしたことが私の創作テーマの一貫だからである。私の男と女の物語の底流にはこのことの探求があり、だから一度も恋愛小説を創作している気持ちになったことはない。

駅前8人殺傷事件、駅構内突き落とし事件、ママを讃えた作文を書いた我が子を殺してしまった美人ママ事件などを考えていると、所得倍増計画以前に先に述べた成長期を過ごした人間とは精神構造、具体的に書くと精神の耐久性が違う、ある日突然にぽろっと壁が剥離するような状況、粘りがなくて脆いことを痛感する。

アクシデントに対してパニック、鬱などの精神障害に陥る。ひどくなると幻聴、幻視、幻覚の離人症、強迫性障害、その他で無差別殺傷事件や自殺を誘引しやすい人間になる。

駅前8人殺傷事件の犯人は「だれでもよかった」という台詞を吐いたが、この台詞は母親の生首を持ち歩いて警察に自首した少年も「だれでもよかった」、たまたま母親が部屋を掃除に来たのでやってしまったと、冷静に述べている。

このことをテレビや新聞で知った子を持つ母親たちは、幼稚園や小学低学年の我が子に「お母さんの首を切らないで」としつけているようだ。かなり奇妙な風景であるが、精神構造に深みのない若い母親ほど本気になって実行しているかも。

私の年代ではちょっと考えにくいことが昨今日常化している。

たとえば60年以降とすれば、現在の55歳未満は危ない精神構造を保有しているひとが多いということになる。

東京小石川、印刷業の街で起きた製本業者による一家無理心中事件の犯人は、仕事に真面目、責任感のある42歳だったが、私は彼はなぜ家族を巻き添えにしたのか、死にたければ自分一人で死ねという気持ちが強い。一人で死なずに家族を巻き添えにするのは、死刑覚悟で無差別殺傷事件を起こした犯人らと、その精神構造にさほどの違いはないと思える。

しかしここまで拡げてしまうと私の小説のテーマとしては手に余るので、私の男と女の物語では、物語の底流に所得倍増計画以後の精神構造をセットしている。

女性の悲劇を救済しよう、という思いで執筆しているが、いかんせん、私には力がない、本も発刊していない、これではどうしようもない。

もしかしたら私のほうが悲劇かも。

JR福知山線脱線事故

2007-02-02 01:02:47 | 世相と政治随想
遺族の気持ちを逆なでするような、居直り的態度。ぼくはこの事故については、『祇園舞妓萌子の「JR福知山線大惨事を斬る」』で、少し長いものを書いています。被害者本人、家族にとって悲惨な事故であった。まだ無念は晴らされていないだろう。ゲラ体裁で載せておきます。お暇な時間にでもどうぞ。末尾にご案内。長い新聞引用だが、お許し頂いてまずこちらから。

 乗客ら107人が死亡した兵庫県尼崎市のJR福知山線脱線事故(05年4月)で、国土交通省の航空・鉄道事故調査委員会は1日、関係者や学識経験者から事故への見解を聞く意見聴取会を同省内で開いた。最初の公述人の丸尾和明・JR西日本副社長兼鉄道本部長は、無理なダイヤ設定などが運転士の焦りを招いた可能性があるとの事故調の見方に「ダイヤ設定は標準的で、定時運転は可能だった」と釈明するなど、焦点となっている企業体質と事故との直接的な因果関係を否定した。
 鉄道事故での聴取会は初めて。同日夕方まで行われ、JR西日本関係者や遺族、大学教授ら計13人が、事故調が昨年12月に公表した「事実調査報告書」への意見を述べる。事故調は聴取会で出された論点を参考にし、最終報告書をまとめる。
 午前10時から始まり、遺族や負傷者、一般の計164人が傍聴した。丸尾副社長はまず、犠牲者に対して「改めてご冥福をお祈りする」と哀悼の意を表した。無理なダイヤ設定との指摘には「独自調査しても、宝塚―尼崎間の運転時間は計画とほぼ同じ」と、適正ダイヤを強調した。

 また、事故現場を含めて新型ATS(自動列車停止装置)の設置が遅れた点には「当時は国による設置の定めはなく、カーブに必ず必要とは考えていなかった。運転士が大幅に制限速度を超えることはないと考えていた」と説明。さらにトラブルを起こした運転士に行っていた「日勤教育」にも言及し、「有益なことで、運転士には必要だった」と述べた。
 陳述後の質疑で、事故調の佐藤淳造委員長は「(事故調への)批判はかまわないが、原因や再発防止についての意見が非常にあいまい。今後どういうことが有効なのか具体的に話してほしい」と苦言を呈した。これに対し丸尾副社長は「事故原因は分かりかねるが、安全問題には全力で取り組んでいる」と釈明した。
 石井信邦・日本鉄道運転協会顧問の公述では、事故を起こした運転士が無線に気を取られてブレーキ操作を誤ったとする事故調の見方に対し「運転操作の記録を分析しても考えにくい」と疑問を呈した。遺族の山中秀夫さんは「JRは、息子と(趣味だった)鉄道旅行という私の大切な『二つ』を奪った」と陳述した。
 事故調は昨年12月にまとめた事実調査報告書で、死亡した高見隆二郎運転士(当時23歳)が運転ミスを気にしてブレーキ操作が遅れた人為ミス(ヒューマンエラー)が事故原因とする可能性を示した。さらに、運転士の焦りを招いた背景として、安全面を軽視していたJR西日本の企業体質を指摘していた。
 ■事故の「理由」知りたい…「安全」強調のJR西幹部に憤り
 国土交通省で1日午前始まった航空・鉄道事故調査委員会の意見聴取会。一般傍聴席150席と別に、JR福知山線脱線事故の遺族らのために25席が用意された。娘を奪われた怒りを胸に、鉄道関係の専門知識を独学してきた父がいる。亡き夫の写真を財布にしのばせて聴き入る妻の姿もあった。事故から1年9カ月。「亡くなった理由を知りたい」と東京まで傍聴に訪れた遺族らは、「安全」を強調するJR西日本幹部の公述に憤りもみせていた。
 兵庫県三田市の奥村恒夫さん(59)は、事故で京都女子大4年だった長女容子さん(当時21歳)を失った。土木技術者として建設会社に長く勤めた奥村さん。事故後、鉄道関係の専門書を何冊も読んだ。思い浮かぶ疑問の数々。争いごとが嫌いだった容子さんの意にはそぐわないかもしれないが、「JRへの敵討ち」の一念で、原因究明に向けて活動してきた。
 昨年5月、新型ATS(自動列車停止装置)の未設置など100項目の質問をJR西にぶつけた。だが、JR西は約2カ月後、「開示できない」との言葉が並ぶ回答書を送ってきただけだった。
 「なぜ106人もの乗客の命が奪われたのか。一つでも多くの『なぜ』に答えてほしい」。その思いで、足を運んだこの日の意見聴取会。だが、同社の丸尾和明副社長兼鉄道本部長が何度も「安全」を強調したことに、奥村さんは「これまで話したことの繰り返しで(事故調委員の質問への)回答も的外れ。何の進展もなかった」と話した。長女が犠牲になった大阪市の藤崎光子さん(67)も「JR西はミスや事故が相次いでいるのに安全なんて信じられない。事故を起こした反省を全く感じられなかった」と批判した。
   ◇   ◇
 同県伊丹市の岡由美さん(37)は、この日早朝の飛行機で上京した。夫和生さん(当時37歳)は、事故直前に購入したマンションから会社に向かったまま戻らなかった。1人で暮らすための新居になってしまった。
 昨春、負傷者ら乗客たちに呼びかけ、犠牲者の乗車位置をマップに書き込んでもらう取り組みをした。「夫が最期に見た景色を見てみたい」。そんな岡さんの思いに、協力の輪は広がった。午後の公述では、負傷者の小椋聡さん(37)がマップを披露する。互いにぎりぎりの精神状態の中で支え合ってきた。
 「自分の耳で事故の起きた理由を聞きたい。でも本当に知りたいのは、訳も分からないまま亡くなった和生さんたち乗客106人のはず。犠牲者に向けて公述してほしい」。和生さんの写真を入れた財布を手に、じっと公述人の話に聴き入った。【生野由佳、井上大作】
 ■ことば 意見聴取会
 事故調が、一般の関心の高い航空・鉄道事故の報告書をまとめる際、関係者や学識経験者を公述人に選び、事故原因にかかわる意見を聞くために開く。事故調設置法で定められている。これまでに航空事故だけで7回開かれた。会には、事故調の委員と公述人が出席。公述人は一人ずつ意見を述べ、委員から質問を受ける。公開制で一般も傍聴でき、今回は遺族も含めて493人が傍聴を申し込んでいた。
 ■JR福知山線脱線事故 05年4月25日午前9時18分ごろ、兵庫県尼崎市のJR福知山線塚口―尼崎間の右カーブで、宝塚発同志社前行き上り快速電車が脱線し、1、2両目が線路脇のマンションに衝突した。運転士と乗客106人の計107人が死亡、乗客555人が負傷した。兵庫県警が業務上過失致死傷容疑で捜査している。【2月1日 毎日新聞】

◆ご案内 
『祇園舞妓萌子の「JR福知山線大惨事を斬る」』

狂気について

2006-12-28 14:43:09 | 世相と政治随想

2001年9月11日のニューヨークテロ(同時多発テロ)以後、10月7日開始の米国のアフガニスタン空爆、2003年3月19日の米英によるイラク空爆に乗じた形で、日本でも憲法改定論議が小泉前政権より強まっている。それも太平洋戦争を知る世代や敗戦当時の貧困を知る世代(6、70代以降)よりも知らない世代の声が大きい。小泉首相の後を引き継いだ安部晋三首相は、あからさまに憲法改正(改悪)を目論んでいる。

 

こういう物騒な世相の中で故渡辺一夫氏の『狂気について』(岩波文庫渡辺一夫評論集『狂気について』大江健三郎・清水徹)の一篇「狂気について」を思い起こすのも無駄ではないだろう。渡辺一夫氏については以下参照。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E4%B8%80%E5%A4%AB

 たしかプレーズ・パスカルだったと思いますが、大体次のようなことを申しました。 ──病患は、キリスト教徒の自然の状態である、と。

 つまり、いつでも自分のどこかが工合が悪い、どこかが痛むこと、言いかえれば、中途半端で割り切れない存在である人間が、己の有限性をしみじみと感じ、「原罪」の意識に悩んで、常に心に痛みを感じているのが、キリスト教徒の自然の姿だと申すわけなのでしょう。まあ、そういう風に解釈させてもらいます。

 これは何もキリスト教徒に限らず、人間として自覚を持った人間、即ち、人間はとかく「天使になろうとして豚になる」存在であり、しかも、さぼてんでもなく亀の子でもない存在であり、更にまた、うっかりしていると、ライオンや蛇や狸や狐に似た行動をする存在であることを自覚した人間の、愕然とした、沈痛な述懐にもなるかもしれません。

 恐らく「狂気」とは、今述ぺたような自覚を持たない人間、あるいはこの自覚を忘れた人間の精神状態のことかもしれません。敢えてロンブローゾを待つまでもなく、ノーマルな人間とアブノーマルな人間との差別はむずかしいものです。気違いと気違いでない人間との境ははっきり判らぬものらしいのです。先ず、その間のことを忘れてはならず、心得ていたほうがよいかもしれないのです。我々には、皆、少々気違いめいたところがあり、うっかりしていると本物になるのだと、自分に言い聞かせていないと、えらい「狂気」にとりつかれます。また、そういうことを知らないでいると、いつのまにか「狂気」の愛人になっているものです。

 天才と狂人との差は紙一重だと、ロングローゾは申しているわけですが、天才とは、「狂気」が持続しない狂人かもしれませんし、狂人とは「狂気」が持続している天才かもしれませぬ

 

空腹なライオン、トラ、ワニが獲物を捕獲するときの凶暴性を我々は知っているが、こうした動物も満腹のときはおとなしい姿を見せている。人間も動物という範疇(はんちゅう)に属しているから、こうした凶暴性を保持しているのだが、普段は理性と知性の発達による倫理観で自らを制御している。この足枷が外れた状況になると凶暴性を発揮することは、古今東西、人間の歴史を振り返れば理解のいくことである。

 

性善説と性悪説がある。幼児でも性悪の強いのが目に着くことがある。おそらくは両方の親の家系からの遺伝と育つ環境という二つの要因が関係していると思うが、倫理観を育てることで社会秩序を乱すということにはならないが、渡辺一夫がとりあげている狂気は、集団、社会、つまり政治という大枠での狂気である。

 しかし、人間というものは、「狂気」なしにはいられぬものでもあるらしいのです。我々の心のなか、体のなかにある様々な傾向のものが、常にうようよ動いていて、我々が何か行動を起す場合には、そのうようよ動いているものが、あたかも磁気にかかった鉄粉のように一定の方向を向きます。そして、その方向へ進むのに一番適した傾向を持ったものが、むくむくと頭をもたげて、まとまった大きな力のものになるのです。そのまま進み続けますと、段々と人間は興奮してゆき、遂には、精神も肉体もある歪み方を示すようになります。その時「狂気」が現れてくるのです。幸いにも、普通の人間のエネルギーには限度はありますし、様々な制約もありますから、「狂気」もそう永続はしません。興奮から平静に戻り、まとまって、むくむく頭をもたげていたものが力を失い、「狂気」が弱まるにつれて、まとまっていたものは、ばらばらになり、またもとのような、うようよした様々な傾向を持つものの集合体に戻るのです。

 そして、人間は、このうようよした様々なものが静かにしている状態を、平和とか安静とか正気とか呼んで、一応好ましいものとしていますのに、この好ましいものが少し長く続きますと、これにあきて憂鬱になったり倦怠を催したりします。そして、再び次の「狂気」を求めるようになるものらしいのです。この勝手な営みが、恐らく人間の生活の実態かもしれません。

 

渡辺一夫がこれを書いた時期は1948年(昭和28)5月であることを思えば、終戦後3年で、もう危惧される事態が起こっていたのである。一億総懺悔のこころは新たな冷戦構造(米ソ対立)と〈喉元過ぎれば熱さを忘れる〉日本人気質で没却されていったのである。

 


パチンコ

2006-09-26 09:59:51 | 世相と政治随想

その頃ぼくは淡路という街に住んでいた。大阪に「島」をとった淡路という街が、阪急電車京都線の途中にある。そこに住んでいた頃、よくパチンコ店に通った。小学低学年の頃で、その頃は子供でもパチンコがやれた。貸玉料金1個一円か二円だったと思う。子供のお小遣いは日に十円か二十円どまり。十円持って遊びに行ったのであろう。玉が貯まれば景品を手にすることが出来た。商品はキャラメル、ガム、酢昆布。明治やグリコのキャラメルが十個入り十円であった。巧く遊べば貯まった玉はキャラメル一箱に変わった。ぼくはパチンコがわりと巧かった。


こういう遊びが好きで、学校から戻るとパチンコ屋に出掛け、夢中になって遊んだ。この頃のパチンコにはチューリップなどはなく、釘のあいだを下っていく玉が何処かの穴に入ると、玉受けに玉が増えるという単純な器械であった。


小学生であるから学校にも通っていた。校名を記憶していない。小学校だけで、四つ、五つ転校したから、入学した学校と卒業した学校しか記憶にない。地図で調べたら東淡路小学校があった。おそらくここであろう。なんとなく校門付近の姿はぼんやりと覚えているが、どんな教室でどんな仲間と過ごしたのか、さっぱりである。


調べてみるとパチンコの歴史は大正9年に米国から入ってきた。パチンコブームの第一期は昭和28年。日本中の「市」という街は、夜になると繁華街にはパチンコ店の派手な軍艦マーチの音楽とネオンと店の明かりが、その周辺にだけわびしい賑わいを見せていた。パチンコとスマートボールの併設した店もあった。


パチンコが子供の遊びでなくなったのは何年頃のことか。


その後パチンコ店に入ったのは、二十歳過ぎてからの二、三度。パチンコで儲けることが辛気(しんき)くさく思えて出入りすることはなかった。だから今日のパチンコがどんな風になっているのかは知らない。


どうもこの遊びは、自分を見失ったヒトには〈パチンコ依存症〉という神経症をもたらすようである。とくに最近の機種は金に羽が生えたように、瞬く間にすっからかんになるようなので、根治したほうがよいが治らないのが依存症の特徴でもある。